すみません。
ヴィルガスト界の最深部に鎮座する邪神の神殿。そこは、理(ことわり)が歪み、希望が絶望へと置換される漆黒の聖域であった。 中島三智子の身体は、既に首から下を装着された装備に拘束され、邪神の魔力によって人形のように操られていた。鎧から露出した震える腹部、冷たい金属に食い込む柔らかな肌。彼女の尊厳は既に剥ぎ取られ、残るは頭部に宿る「心」のみとなっていた。
だが、邪神はその最後の一欠片こそを、最も残酷な方法で蹂躙することを望んでいた。
「……あ、……あ、あ……」 三智子の両手が、自らの意思を裏切り、漆黒の金属に黄金の角が冠された**「忘却の兜」**を掴み上げている。彼女の瞳は恐怖に限界まで見開かれ、目の前に迫る兜の暗い内側に、自分という存在が消滅する終わりの予感を見ていた。
邪神の影が、三智子の耳元で這いずる蛇のように囁く。 「案ずるな、人の子よ。お前が抱えるその無価値な苦悩も、分不相応な愛情も、今この時を以てすべてから解放してやろう。お前が『お前』でなくなる悦びを、特と味わうがいい」
■ 忘却の牙:迫る破滅
邪神はあえて、三智子の腕を動かす魔力の糸を緩めた。 それは彼女に自由を与えるためではない。兜の冷たい縁が額に触れるその瞬間まで、彼女が自らの手で「自分を殺していく」恐怖を、一秒でも長く、一分でも深く堪能させるためだ。
「やめ……て、……瞬ちゃん、瞬ちゃん……! 助け……っ!」 三智子は必死に抵抗した。だが、彼女の指先はミリ単位の速度で、確実に、逃れようのない運命を自らの頭部へと押し付けていく。 兜の両側頭部から伸びる黄金のねじれた角が、紫色の魔力を帯びてジリジリと放電を始める。その輝きは、まるで死神の鎌が三智子の魂を刈り取る直前の残光のようであった。
「いい声だ。その悲鳴が止むとき、お前は至高の平穏を得るだろう」
カチリ――。 金属が噛み合う非情な音が響いた。 三智子の額に兜の縁が触れ、そこから氷のような冷気が脳髄へと直接突き刺さる。 彼女の叫びが神殿の天井に吸い込まれる中、邪神の手によって兜がゆっくりと、彼女の美しい黒髪を覆い隠し、その思考の聖域へと侵食を開始した。
■ 記憶の崩壊:漂白される魂
「忘却の兜」が完全に装着された瞬間、三智子の世界は変貌した。 視界が真っ白な閃光に包まれ、脳内で何かが物理的に引き裂かれるような、耐え難い激痛が走る。
「あ……ああああああああああああっ!!」
それは肉体の痛みではない。自分を自分たらしめていた「記憶」という名の回路が、強制的に焼き切られていく絶叫であった。
最初に消えたのは、日常の断片だった。 学校の廊下の匂い、放課後のチャイムの音、友人と交わした他愛のない冗談。昨日食べた夕食の味。それらが、水に溶けた絵画のように、輪郭を失い、漂白されていく。 三智子は必死にそれらを繋ぎ止めようと、脳内で記憶の糸をたぐり寄せる。だが、彼女が触れる端から、思い出は砂となって指の間から零れ落ちていった。
「嫌……消えちゃう、私が、消えちゃう……! 誰か、誰か助けて……!」
だが、侵食は止まらない。 次に失われたのは、より深い場所にある根源的な記憶。 自分の母親の温かな手の感触。父親の厳格な声。自分が生まれ育った家の景色。それらが「誰かの物語」のように遠ざかり、ついには最初から存在しなかったかのように消滅した。
そして、三智子にとって最も大切で、魂の核となっていた存在の記憶が、忘却の炎に包まれた。
(……瞬、ちゃん……?)
三池瞬。 その名前を思い浮かべようとするたびに、兜の魔力が彼女の神経を容赦なく蹂躙した。 共に遊んだ幼少期の公園。喧嘩をした日の夕暮れ。この世界に転移する直前の、あの絶望的な視線の交錯。 「三池瞬」という少年が、自分にとってどれほど特別であったかという「感情」が、黒い霧に飲み込まれていく。
「瞬……ちゃ、……しゅん……? ……だれ、なの……?」
彼女の唇から、幼なじみの呼称が崩れ落ちた。 名前は知っているはずなのに、それが何を意味するのかがわからない。自分に向けられていたあの笑顔が、どのような温度を持っていたのかを思い出せない。 最愛の人の輪郭が、真っ白な虚無の中に溶けて消えていく。それは、三智子にとって死よりも残酷な喪失であった。
「あ……ああ……あぁ……」
絶叫はやがて、力のない喘ぎへと変わっていった。 最後の一線が、決壊した。 自分が「中島三智子」という名前を持っていたこと。自分が人間界から来た高校生であったこと。自分が誰かを愛し、誰かに愛されていたこと。 それら全てのアイデンティティを支える柱が、忘却の兜の圧倒的な魔力の前に、塵となって消滅し、兜の宝玉が鈍く光るのみだった。
■ 虚無の果て:空虚な器の完成
神殿の激しい放電が収まり、静寂が戻る。 台座の上に立つ少女の姿は、以前と同じ三智子の肉体であったが、その内側は既に決定的に作り変えられていた。
「…………」
彼女の瞳から、光が完全に消え去った。 かつて宿っていた意志も、恐怖も、愛情も、すべては漂白され、そこには何も書かれていない真っ白な羊皮紙のような「虚無」だけが残された。 忘却の兜の宝玉が、主の勝利を祝福するように鈍く輝く。
三智子は、自分の名前すら思い出せない。 自分が今どこにいて、何をされていたのかもわからない。 ただ、自分が「空っぽ」であるという事実だけが、冷たい風のように彼女の精神を通り抜けていく。
その様子を、邪神は狂喜の笑みを浮かべて見つめていた。
「ククク……ハハハハハ! 実に見事だ。これほどまでに美しく、これほどまでに無惨に、魂が『漂白』されるとはな」
邪神の影が、呆然と立ち尽くす少女の顎を、冷酷な指先で持ち上げた。 視線の定まらない彼女の瞳は、目の前の邪悪な存在を拒絶することさえ忘れている。
「名も持たぬ、空っぽの人形よ。お前の過去は、今この時、永遠に葬られた。お前が誰であったかなど、もはや誰も分からない。いや、あの哀れな勇者だけかな?」
邪神の声は、記憶を失い、拠り所を失った少女の深層意識へと、毒水のように染み込んでいく。 彼女はただ、うつろな瞳で邪神の影を見つめるしかなかった。 自分が誰なのかもわからず、自分を救ってくれるはずだった者の名も失った。
「さあ、始めようか。お前という空虚な器に、真実の過去と、灼熱の憎悪を注ぎ込んでやる」
邪神の嘲笑が、音のない神殿に響き渡る。 中島三智子は、死んだ。 そこに残されたのは、ただ邪神の望む色に染め上げられるのを待つだけの、無垢で残酷な「素材」であった。