感想をください(切実)
幼稚園に入れられる、と聞いた時、最初に出た感想はひとつやった。
……今さらかいな。
もっと早う放り込むことも出来たやろうに、親いうんは肝心な判断ほど妙に鈍い。いや、正確には分かってて後回しにしてたんやろう。俺を同年代の群れに混ぜたら何が起きるか想像がつかんかったわけやない。ただ、想像がつくからこそ怖くて、けど家の中だけで抱え込むのも限界で、ようやく「社会性」だの「慣れ」だの、それっぽい言葉を自分らに言い聞かせて背中を押した。そういう顔を、あの二人はしていた。
母親は前の日から落ち着きがなかった。小さい鞄を何度も開けて、中身を確かめて、ハンカチの端を撫でて、名前の書かれた布を見ては縫い目を気にしている。要らんところだけ丁寧で、肝心なところでは震えてる。人間らしいといえば人間らしい。鬱陶しいといえば、それもそうや。
「直哉、明日から幼稚園だからな」
「知っとるわ」
「……お友達と、仲良くするのよ」
「馬鹿にしてるん?」
母親の顔が一瞬だけ固まった。すぐに笑おうとして、失敗する。口元だけが引きつって、目がついてきてへん。こういうところを見るたびに思う。この女は俺を子供として扱いたいのに、もう半分はそう見れなくなっとる。見れなくなっとるくせに、母親であろうとはしている。大変やな。他人事やけど。
父親は新聞を読んだふりをしていた。紙を持つ手の角度が不自然で、視線も一段落ちたまま。会話に入りたくないけど、聞こえてはいる。責任を完全には放り出せん人間の顔やった。
「……先生の言うことは、ちゃんと聞くんだぞ」
「聞く価値があればな」
しん、と食卓が静まった。
やってもうた、とは思わん。別に失言でもない。ただ、幼稚園前の子供が言う台詞やないだけや。俺は牛乳を一口飲んだ。ぬるかった。最後まで、気に食わん朝やった。
翌日、門をくぐった瞬間、甲高い声が耳に刺さった。
笑い声。泣き声。呼び声。靴音。小さい音のくせに、数が集まるとやたらとうるさい。園舎の壁は妙に明るく塗られていて、花や動物の絵がそこらじゅうに貼られている。色で誤魔化してる場所やな、と思った。楽しさを塗りたくったみたいな空気のくせにその下で大人が子供を管理しとる構図はむき出しや。薄い場所ほどよう飾る。
母親が俺の手を引く。柔らかい手のひらが、少し汗ばんでいた。
「大丈夫、大丈夫だから」
誰に言うてんねん、と思う。俺やなくて、自分にやろそれ。
玄関で出迎えた先生は、若い女やった。胸の前で手を揃えて、よう出来た笑顔を浮かべている。声は柔らかい。目線も低い。子供に威圧感を与えへんように、きっちり訓練されてる動きや。そういうのは分かる。
「はじめまして、直哉くん。今日から一緒に遊ぼうね」
遊ぼうね、やて。
初対面の相手にそこまで雑に言い切れる神経は、まあ悪うない。けど、信用はせえへん。
俺は黙って相手を見た。先生の笑顔が一瞬だけ揺れる。たぶん、子供の目やと思えへんかったんやろう。すぐ持ち直していたけど、その一拍で十分やった。こいつは空気を丸くするのが仕事で、そのために自分の違和感を飲み込める側の人間や。便利ではある。強くはない。
「……及第点ってとこやね」
ええ乳、まあまあな顔。感想はそれくらいや。俺の言葉を聞いた母親が露骨に安堵した気配を出した。ほんま、分かりやすい。
教室に入ると、子供らが一斉にこっちを見た。視線の質が軽い。好奇心だけで覗き込んでくる目。値踏みですらない。ただ「新しいもの」が来たから見てるだけや。そのくせ、集団の中で一番反応の大きいやつを無意識に探してる。群れの本能は、年齢に関係なくちゃんとあるらしい。
「きょうからあたらしいおともだちです」
先生がそう言った途端、何人かが近寄ってきた。距離感が雑や。まだ名前も知らんくせに、平気で間合いに入ってくる。脇腹にぶつかりかけたやつを半歩ずれて避ける。俺の顔を覗き込んでくるやつの額を、指一本で軽く押し返す。
「なまえ、なんていうの?」
「禪院直哉」
「なおやくん、どこからきたの?」
「家からや」
一瞬、間が空いた。聞いてきたガキがぽかんと口を開ける。周りのやつらがつられて笑った。別にウケを狙ったわけやない。雑な質問に雑に返しただけや。
「へんなの」
小さい声でそう言ったガキがいた。女の子やった。髪を二つに結んでいて、目だけが妙に鋭い。俺はそっちを見る。
「あ?」
返したら、その子は少し眉を寄せて、それからふんと鼻を鳴らした。泣きもせん。騒ぎもせん。へえ、と思った。この群れの中では、まだマシな方かもしれへん。
その時、横から別のガキが俺の袖を引いた。
「すごいきれいなふく」
知らん。褒めてるつもりなんやろうけど、他人の服を勝手に掴む時点で減点や。反射で手首を払う。払うだけのつもりやった。
けど相手は簡単に尻餅をついた。
「いたっ」
泣くほどではない。ただ驚いた顔で俺を見上げている。周囲の空気がぴたりと止まった。先生がすぐに間へ入る。早い。こういう時だけは仕事が早いらしい。
「大丈夫? びっくりしちゃったね」
先生はしゃがんでその子の背中をさする。俺には怒らん。まず被害側を安心させる。正しい判断や。
「直哉くんも、びっくりしたのかな?」
こっちへ向ける声は柔らかいままやった。責めへん。こういう大人は、使い道がある。せやけど、それと好感は別や。
俺は数秒だけ黙った。ここで「勝手に触る方が悪い」と言うのは簡単や。でも、それをやるんはまだ早い。この場所のルールは分かった。ここでは露骨な正論より、聞き分けの良さの方が価値を持つ。
「ごめん」
教室の空気が緩んだのが分かった。母親が後ろで息を呑んでいた気配まで伝わる。ほんま、そこまで驚くことかいな。子供が謝っただけやろ。いや、俺が謝ったから驚いてるんか。失礼な話や。
尻餅をついたガキは涙目のまま頷いていた。先生は笑った。安心した大人の笑顔や。信用してはいけない種類のやつやけど、使いやすくはある。
その様子を、少し離れた場所からじっと見てるやつがいた。
爆発したみたいに跳ねた頭。目つきが悪い。立ち方まで妙に突っ張っていて、同い年のガキのくせに、こっちを睨む時だけ変に“前”へ出てくる。周りに合わせて騒いでるようで、その実、群れの輪っかの一歩外から様子を窺ってる目やった。
……なんやあいつ。
怯えてるわけやない。面白がってるわけでもない。ただ、値踏みしている。こっちが何者か、自分にとって敵かどうか、それだけを見ようとしてる視線や。
へえ。
この群れにも、まだ多少マシな個体はおるらしい。
そいつは俺と目が合っても逸らさんかった。むしろ少し顎を上げて、睨み返してきた。ガキのやることにしては筋が通ってる。無駄に愛想を振りまかへんやつは嫌いやない。うるさくさえなければ、やけど。
先生が俺を席へ誘導し、母親が名残惜しそうに教室を出ていく。その間も、あの目つきの悪いガキは何度かこっちを見ていた。名前は知らん。知る気も、その時点ではまだ無かった。ただ、面倒そうな匂いだけは覚えた。
■
午前中は、予想どおり退屈やった。
歌。手遊び。絵本。粘土。何をするにも説明が長いし、待つ時間が多い。子供らはそれでも楽しそうに笑ってる。理解できへんわけやない。世界が単純な時期なら、それで満たされるんやろう。せやけど俺には、そのどれもが遅い。
ただ、遅いからこそ見えるものもある。
誰が中心で笑ってるか。誰がそれに合わせてるか。誰が輪に入りたくて落ち着かんのか。誰が先生の顔色ばかり見てるか。五歳児いうても、もう十分に小さい社会やった。強い声を持つやつ。泣けるやつ。媚びるやつ。押されるやつ。役割が出来始めてる。ほんま、群れは面白いくらい同じ形になる。
その中で、さっきの目つきの悪いガキだけは少し違った。
周りと一緒に騒いでるようで、負けたくない顔をしている。ブロックひとつ取るにも、椅子を引くにも、靴を揃えるにも、妙に力が入っとる。何をそんなに張り合っとるんか知らんけど、ああいうやつは分かりやすい。勝ち負けでしか自分の輪郭を保てへん人間の顔や。
で、その少し後ろには、もじゃもじゃの髪にそばかすのあるガキがいた。
目立たん。声も大きくない。けど、ずっと見ている。周りを。先生を。あの目つきの悪いやつを。ついでに俺のことも。視線がせわしなく動いてるわりに、ひとつひとつをちゃんと拾おうとしてる目やった。
臆病なくせに、他人に興味だけはある顔。
ああいうのは鬱陶しい。よう見とるくせに、自分から前へ出る度胸は無い。観察だけして、判断だけして、口を開いた頃には全部遅い。そういう手合いは大抵、肝心な時に使えへん。
昼前の自由時間、俺は教室の端の窓際にいた。日向はうるさいから嫌いじゃない。人の声よりましや。机に肘をついて外を見ていると、背後から駆けてくる足音がした。子供特有の、遠慮のない音や。
「おい」
振り向く。さっきの目つきの悪いガキやった。
近くで見ると、やっぱり妙に目が据わってる。五歳児の顔にしては、睨み慣れすぎてる。肩も顎も無駄に上がっていて、こっちを威圧したい気持ちが全身から漏れていた。まだ背も低いし腕も細いのに、態度だけ先に膨らんどる。
滑稽やな、と思う。けど嫌いやない。こういう手合いは、少なくとも自分が弱いことを知りたがらん。そこだけは筋がある。
「なんや」
俺がそう返すとそいつは一歩近づいた。
「おまえ、さっきのわざとやっただろ」
……それを訊きに来たんか。
言葉の選び方が妙にまっすぐやった。遠回しでもなく、告げ口でもなく、確認。しかも責めたいんやなくて、知りたい顔をしている。自分の目で見たもんの意味を、ちゃんと自分で確かめに来たやつの顔や。
へえ。
「やったら、なんや」
そう返すと、そいつの口元が少しだけ吊り上がった。嬉しいんやなくて、確信に近い顔やった。
「やっぱりな」
その声には、怖がりは混じってへん。むしろ、少しだけ熱がある。見つけた、みたいな熱や。
「おまえ、つえーのか?」
直球やな。
問い方が雑やけど、嫌いやない。群れのルールとか、先生の目とか、そういう薄い建前より先に、そこを訊くんやったら話は早い。
俺は椅子にもたれたまま、そいつを見上げた。
「おまえよりはな」
一拍置いて、そいつの眉がぴくりと動く。怒った。単純でええ性格してるわ。
「はァ?」
「聞こえへんかったんか。耳まで悪いんやったら救いようないわ」
次の瞬間、そいつの手が俺の胸ぐらを掴もうと伸びてきた。
遅い。
思うより先に身体が動いてた。半歩ずれる。手首を軽く払う。勢いの逃がし方を少し変える。それだけで、そいつの手は空を切って前のめりになる。転ばせるのは簡単やったけど、そこまではせえへん。まだ、やりすぎる理由がない。
「チッ」
そいつはすぐ体勢を戻した。尻餅もつかへん。踏ん張る足に無駄な力が入ってる。子供の身体で無理やり食らいついてくる感じが、少しだけ面白かった。
「避けんなや!」
「当たる方がアホやろ」
そう言うと、そいつは歯を剥いた。笑ってるんやなくて、噛みつく寸前の犬みたいな顔やった。
「オレァ負けねぇぞ!」
負け。なるほどな。そういう世界で生きてるんか、こいつは。
強いか弱いか。上か下か。それだけで世界を見てる目や。幼稚園児のくせに、えらい素直で助かる。下手に愛想笑いしてるやつより、よっぽど分かりやすい。
「まだ何も始まってへんやろ」
「うるせぇ! おまえ、ムカつくんだよ!」
まあ、せやろな。
こっちからしたら、おまえも大概やけど。
その時、後ろの方からおずおずと声がした。
「か、かっちゃん……」
もじゃもじゃのそばかすが立っていた。両手を胸の前で握って、止めたいのか巻き込まれたくないのか分からん顔をしている。けど視線だけは、こっちとあの目つきの悪いガキの動きを必死に追っていた。
……かっちゃん?
妙な呼び方やな、と思う。あだ名か。どうでもええけど。
「い、いきなりそんなことしたら……」
「うるせぇぞ!」
怒鳴られて、もじゃもじゃが肩を揺らした。やっぱり前へ出る度胸は無い。けど逃げへんだけ、まだマシかもしれへんな。少なくとも、目は逸らしてへん。
先生の足音が近づいてきた。廊下側から、ばたばたと慌ただしい音がする。誰かが呼びに行ったらしい。仕事の早いガキがおるもんや。
目つきの悪いガキは、それに気づいて舌打ちした。
「チッ……」
ほんまに舌打ちするんやな、おまえ。
ちょっとだけ感心していると、そいつは俺を指さした。
「おまえ、覚えとけよ!」
子供らしい捨て台詞やのに、目だけは妙に本気やった。次も来る。たぶん、何度でも。そういうしつこさを隠してへん。
俺は小さく鼻で笑った。
「おまえがな」
そこへ先生が飛び込んできて、二人の間に割って入る。いつもの笑顔は消えてへんけど、声の端にだけ緊張が混じっていた。
「どうしたの?」
もじゃもじゃのそばかすが、慌てて何か言おうとして口をぱくぱくさせる。あの目つきの悪いやつは黙ったまま、俺を睨んでいた。負けたくない顔。納得してへん顔。群れの輪から一歩だけ出て、勝手に噛みついてくる顔。
……面倒やな。
けど、嫌いやない。
少なくとも、あいつは薄くない。
その日初めて、俺は少しだけこの場所に居る意味を感じた。
群れの中にも、牙のあるやつは居るらしい。
まだ乳歯みたいなもんやけど、それでも、ただのクソガキよりはよっぽどマシや。