禪院家に強術式の男として生まれても詰むことあるんだ…… 作:ある日の残り香
過去編。
まずは前世から。
ただ過ぎ去っていった過去。
第五話【既往-前世-】
田中静華はどこにでもいる人間だった。どこにでもいて、どこにでも代えがいる人間だった。
家族構成は母と双子の姉の三人暮らしで、たまに母の恋人がやってきていた。父のことは覚えていない。わたしたちが幼い頃に亡くなったからだ。
正直、家は居心地が良くなかった。特に、母の恋人がいる時は。彼はわたしと姉に対して手ひどく暴力を振るった。母は綺麗な人だったが、流石に子供が二人もいるとなると、それが邪魔だと感じる人間の方が多かったのだ。それ故にそんな彼女を選ぶのは、おかしな人だけだったということになる。
だがある時から、彼から暴力を振るわれなくなった。それが何故かはわたしにはわかなかった。そしてその頃から、姉の目が死んでいったことにわたしは気づいていなかった。
そんな日々が続いて、わたしたち姉妹が気づけば17歳になった頃。近所に大学生が引っ越してきた。歳は20歳で、たしか油絵を専攻していたと記憶している。
「初めまして、隣に越してきました茂井です。」
彼が引っ越してきてから、わたしの日常は変わった。
「茂井さんって、なんで油絵に興味持ったの?」
「……なんでだろうね。でも、描かざるをえなかったんだ。描かないと、僕が僕じゃない気がして。」
わたしは、家にいるのが嫌で彼の部屋に通うようになった。
「なんかそれ、かっこいいね。ストリックランドみたい。」
「……褒めてるのか貶してるのか分からないけど、褒め言葉として受け取っておくよ。」
彼は優しい空気を纏った人間だった。染みついた絵の具の匂いと、お日様のような匂い。ヘアバンドで持ち上げられた黒い髪が、筆を走らせるたびに僅かに揺れ動く様。繊細な筆遣いをする角張った手。集中のせいか瞬きが少なく、真剣にキャンバスへと向けられた眼。それら全てが、この居心地の良さを作っていた。
「にしても、茂井さんって漫画とか読むんだね。」
「まあ、漫画は好きだからね。それと僕の本棚、あまり見ないで欲しいんだけど……」
「……ん?なんかここの裏に──」
「静華くん、止まるんだ。」
「……茂井さんもこういうの読むんだ。」
「仕舞いなさい。漫画は好きに読んでいいから。」
茂井さんの集めていた漫画は、かなりマニアックな作品が多かった。だけど、その中にジャンプの漫画も確かにあった。
「『呪術廻戦』……これ、クラスで聞いたことあるやつだ。」
「静華くんは読んでないのかい?呪術。」
「そもそもわたしは漫画をあまり読まないからなぁ……小説は読むよ?夏目漱石とか湊かなえとか村上春樹とかカミュとかヘッセとか。」
「漫画は読んだ方がいいよ、人生が豊かになるから。」
「……お母さんがさ、漫画なんか読んだらバカになるからって言って買わせてくれないんだよね。」
「じゃあここで読んでいけばいいさ。僕が絵を描いてるのを見るだけじゃ暇だろ?」
「暇じゃないよ、ずっと見てられる。」
漫画に集中しなくとも、わたしは彼を見ているだけで幸せな気持ちになるのだ。こんな状態で、漫画なんかに夢中になるわけがない。
「真希さんほんとカッコいい……お姉ちゃんに似てるなぁ……」
「いつの間にか漫画の方に集中してたね。」
「うん……面白かった。六巻出たら絶対買う。お母さんにバレないように。」
「そこまで気に入ってくれるとは……って、もうこんな時間か。そろそろ帰った方がいい。」
「えー、帰りたくなーい。」
「親御さんが心配するだろうし、そもそも未成年が成人男性の部屋に上がり込んでることも褒められたことじゃないんだよ。ほら、帰る支度して。」
「ちぇ。」
茂井さんは、気づけばわたしの日常の一部になっていた。それこそ、わたしにとって兄のような存在だった。
家に帰ると、その日はお母さんの恋人がいた。
「お、静華やないか。こんな暗くなってから帰ってきて……男でもできたんか?」
「セクハラですよ、やめてください。」
玄関で靴を揃えていると、背後から声がかかった。わたしはこの人のことが嫌いだ。母が夢中になるのも納得できるビジュアルではあるが、腹の底から人を見下しているかのような人で、目つきも厭らしくて嫌いだった。茂井さんのようなポカポカは空気ではなく、肌を刺すような冷たい空気を纏った人だった。
「へへ、ええやん別に。将来的には家族になるんやから。パパって呼んでくれてもええよ?」
「……」
「無視かいな。愛想の悪い奴やで。」
彼を無視してわたしは自室へ閉じこもる。やはりこの家は嫌いだ。どこにいても寒い。息苦しい。
「──静華。」
「お姉ちゃん?」
部屋がノックされ、声がかかる。ドアを開けると姉が立っていた。姉を部屋に入れ、再び部屋の鍵を閉めた。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
「またあの人のところに行ったのね。」
「うん……でも、茂井さんは悪い人じゃないよ?」
「男なんてどいつもこいつも、一枚皮を剥がせばケダモノだよ。静華。だから、あの人のところに行くのはやめなさい。」
まただ。姉は、わたしが茂井さんのところへ行くことをよく思っていない。いやまあ、側から見たらJKが20歳の大学生の部屋に遊びにいってま〜すなんて事案でしかないのだけど。
でも、少なくとも茂井さんは危ない人じゃない。だから誤解は解かないと。
「男なんて一括りにするから極論になるんだよ、お姉ちゃん。」
「……男はみんな同じよ。静華は知らなくていいけれど。」
「だーかーらー……極端すぎるって、その括り方は。」
「……いいや。静華は、わたしが守るから……知らなくていい。」
姉はわたしを強く抱きしめると、部屋から出ていった。姉は最近、以前にも増して言葉が通じなくなりつつあった。
そんな姉の変化に、もっとちゃんと気づけていれば何か変わったのだろうか。
「わたしはお金とかの問題もあって大学には行けないし、就活も大失敗したからアルバイトしながら司書補を目指すことにしたんだ〜」
「なんというか……大丈夫かい?」
「なんとかなるよ〜、早いところ家も出るつもりだし。」
高校卒業を控え、わたしは壊滅的な状況ながらも楽観的であった。
「茂井さんは?」
「僕は、絵の才能が自分が思っていた以上になさそうでね。一般企業の営業とかにもエントリーシートを出しているよ。」
「なんか夢がないね。」
「それが人生さ。」
「ふーん……。」
もはや通い慣れた茂井さんの部屋には、茂井さんや絵の具の匂いに混じって僅かにわたしの匂いも漂っていた。
「……そういえば、茂井さんって彼女とかいないの?」
「いないね。絵描きってウケが良くないんだよ。」
「わたしは好きだけどね。」
「それは少数派さ。だけどもし、君が好きになった相手が絵描きだったら、同じ言葉をかけてやってくれ。」
「……。」
この頃には、わたしは茂井さんに対して恋心と確信できるほど特別な感情を持っていた。でも、茂井さんはありえないほど鈍感で、わたしのそれに全くそれに気づくことはない。
「……これからも、ここには来ていい?」
「構わないけど、君はもっと同年代と遊ぶべきだと思うよ。僕みたいなオジさんじゃなくてね。」
「オジさんなんかじゃないよ。だってたったの三つ上じゃん。」
「僕は大人で、君は子供だ。」
「……。」
なんとかして、気づかせたかった。わたしを見て欲しかった。
「……わたしも、もう大人だよ。」
「なんのつもりかな。静華くん。」
わたしは彼に背後から抱きついた。胸を押し当てるように、吐息が彼の耳に触れるように。心臓が早鐘を打つ中、わたしは言葉を紡ぐ。
「わたしは、茂井さんのことが好き。だから……」
「静華くん。」
「──君のそれは、人間関係に乏しいが故の錯覚だ。」
それから、「今日はもう帰りなさい。」と言葉をかけられ、わたしは家に帰った。割れそうな頭の中、彼の言葉が何度も脳内でリフレインする。
「おん?静華やん。どうしたん?そんなしょぼくれた顔して。フラれたん?」
「……黙れ。」
こんな時ほど、会いたくない人に出会う。
「ほー、言うやん。」
「うるさい、喋らないで。」
「……。」
いつも通り素通りして、部屋に篭ろう。そう思って横を通り抜けようとすると、いつもとは違うことが起こった。
「……え?」
「まあ、ちょうどええわ。今日お姉ちゃんおらんねや。お前が相手してくれや。」
わたしの腕を掴んでいた。
「ぇ?どう、いう……?」
「察し悪い奴っちゃなぁ……」
本能的に危機を察知しわたしは「逃げなきゃ」と、そう思って必死に手を振り払おうとするも、振り解けない。
「……おか、お母さんっ!!助けて!!」
「ん?アイツは許可出しとるで?俺を繋ぎ止められるんなら、娘ぐらい貸したるって。」
「……は?ぇ?」
目線の先には、ソファに腰掛けてタバコを吸う母の姿があった。母は心底面倒くさそうにタバコの灰を落とすと、こちらに向かって次の言葉を吐き捨てた。
「やかましいからさっさとヤっちゃって。そうすれば静かになるでしょ、上の子みたいに。」
この時になって初めて、わたしは姉の身に降りかかったことを理解した。
「あんま暴れるなや、怪我させたくないねん。面倒になるやろ。」
彼はわたしの腕をぐいと持ち上げて体勢を崩すと、そのままわたしを担ぎあげて寝室へと運んで行った。わたしが一度も足を踏み入れたことのない寝室へと。
それからのことは、記憶が曖昧だ。次に覚えてる記憶は──
「お姉……ちゃん?」
「大丈夫、静華。お姉ちゃんが──」
「──全部、断ち切ってあげたから。」
視界を埋め尽くす赤と、姉の手に光る鈍色が光を反射していた。部屋の中は錆びた鉄の臭いと、栗の花のような少し不快な臭いが混ざり合っていた。
「ああ、可哀想な静華。ごめんね、守ってあげられなくて。お姉ちゃんが、もっとちゃんと守れていたならよかったよね。」
姉はそう言って、自分の首を──
その忌まわしい2021年の1月……田中家長女一家惨殺事件から約5年が経った今でも、夜眠るたびにその光景がフラッシュバックする。当時のことを思い出すものは、意識的に避けていた。
今やわたしにとって、仕事をする時間……図書館で本に囲まれている時間だけが心の休息になり得た。
あるいは、お酒を飲む時間か。お酒を飲むと、全てを忘れられたから気分が良かった。お酒を飲むと、友達も増えたし。
「……『呪術廻戦』も完結して、『呪術廻戦≡』も終盤の空気だね。」
仕事休憩時間、漫画を読みながらわたしは茂井さんのことを思い出していた。事件後、彼とは会っていない。だが、彼からは一通だけ手紙をもらっていた。手紙の内容は謝罪だった。彼が抱えなくてもいい罪悪への懺悔だった。
「隣の家なのに、気づいてあげられなくてごめん。」
「助けに行けなくてごめん。」
「あの日、家に帰してごめん。」
「君の放っていたいくつものSOSを無視してごめん。」
「大人ぶって、逃げてごめん。」
「何もできなくて、ごめん。」
もう、彼に会うことはできない。彼は引っ越してしまったから。わたしは彼の連絡先も、何も知らない。大学に問い合わせても、部外者に個人情報は教えられないとのことだった。
もはや、彼とわたしを繋ぐものは『呪術廻戦』だけとなった。それすらも、もうしばらくすれば途切れてしまう。
彼の後悔に、わたしはどんな声をかけてあげられるだろうか。彼が抱える必要のないその罪悪に、わたしはどうやって赦しを与えられるだろうか。
もう一度彼に会えたら、わたしは謝りたい。あの日彼を困らせてしまったこと、彼にいらない罪悪感を抱かせたこと。
そして、これまでその言葉を伝えられなかったこと。
帰路に着く中、わたしは人混みの中に見知った黒髪を見つけた。
「……待ってっ!」
夢中で追いかけた。人混みに押されながら、確実に一歩ずつ前に進み、彼の背を追った。
気づけば、駅のホームにまでやってきていた。彼はどこだと探せば、虚空を眺めるかのように遠くを見つめ、何かをぶつぶつと呟いていた。
「まもなく、一番線を列車が通過します。黄色い線の内側にお下がりください。」
フッと、彼の身体が前に飛んだ。
「ダメっ……!!」
わたしの身体はそれに気づくと、弾けたかのように飛び出し、彼をホームの内側へと引き戻した。
だが、慣性は殺せない。
反動から、わたしの身体が線路側へと飛び出した。
「……ちゃんと、生きてよ。」
「っ!?しず───」
次の瞬間わたしの身体は、意識は車体によって砕かれ、車輪によってズタズタに攪拌され……全てが意味をなさない肉塊となった。
田中静華はこうして、生を終えたのだ。ただ一つ、青年に呪いだけを残して。
視点:茂井さん
あの事件以降、僕は呪術廻戦を読むのが辛くなった。特に、禪院姉妹の話は特に。どうしても、重ねてしまうのだ。
毎晩、夢を見た。田中静華が、僕の背に抱きつき愛を囁く夢を。そして、その夢の最後は決まって、姉の遺体のそばから離れずに震えているあの日の彼女の姿が僕を責めるのだ。
「錯覚でもいいから、救って欲しかった。」
「人の心とかないの?」
「あの時なんで、「帰れ」って言ったの?」
彼女はきっと、そんなことは言わない。でも、彼女の姿をしたソレは、常に僕へと恨み節を述べる。
僕の新しい部屋には、気づくと彼女の絵が積み上がっていた。全ての視線が、僕への憎悪と軽蔑を向けている。
そんな空間に長くいたからか、はたまた初めから狂っていたのか。僕は限界を迎えた。もう、死んでしまいたかった。
「ごめんね、静華くん。本当にごめんね。僕が
「まもなく、一番線を列車が通過します。黄色い線の内側にお下がりください。」
「もしも生まれ変わったら、きっと……今度こそ君たちを救ってみせるから。」
斯くして、あの世界に
「次の世界でも、また会えますように。」
そして器は魂を待った。
「ダメっ……!!」
引き戻される強い感覚と共に尻餅をつく。顔を上げるとそこには、忘れたこともない少女の……少し大人になった顔があった。
時間が引き延ばされたかのように感じた。
「……ちゃんと、生きてよ。」
その儚げな笑顔はあの頃と何も変わらなくて。
「っ!?しず___」
手を伸ばそうとした。でも、届かなかった。
激しい炸裂音。
生ぬるい、彼女だったものが僕の顔に触れた。
彼女の身体も、何もかも……。
目の前で特急列車によって轢き潰され……全てが終わってしまった。
田中静華
禪院一樹の前世。轢死により、魂まで切り刻まれたため、自我が希薄なまま転生する。
お姉ちゃん
イケメン系女子。精神が壊れている。妹まで喰われたことで発狂し、全部壊す。母親も、母親の恋人も、妹を守れなかった自分も。
茂井さん
名前の由来はジョン・ウェイン・ゲイシー。
彼の中の負が、呪術廻戦の世界に禪院一樹という器を作り出した。
お母さん
カス一号。恋人の顔だけ愛してる。
お母さんの恋人
カス二号。下半身で物事を考えている。