創夜は、夢のことを誰にも話さなかった。
話さないと決めたわけではない。ただ、口を開こうとすると、言葉が先に崩れた。
あの夜は、順序がなかった。出来事ではなく、連なりでもなく、教訓でもない。
「見た」というより、「そこにいた」。
それを説明する言葉を、創夜はまだ持っていない。
だから、朝になっても何も言わず、父の問いにも、母の視線にも、いつも通り頷いただけだった。
父は、気づいていない母は、何かを感じ取っているが、踏み込まない。それでよかった。
夜が来る。
呪術師にとって、夜は特別だ。父がよく言っていた。
夜は呪術の時間だ闇は恐れるものではない制するものだ創夜は、その言葉を否定しない。
だが、夢の中で見た女は夜は、溶ける夜と、残る夜があると言っていた。
平安の狩衣にも見えた人影は、見ているだけでいいただ、在る。その感覚が、創夜の中に静かに残り続けていた。
そのとき、創夜は初めて思う。
(……もし)
(……どちらかを、選んだら)
触れる者の側に行けば、世界は変わるかもしれない。だが、人は壊れる。
溶ける者の側に行けば、世界は保たれるかもしれない。だが、人は救われない。
どちらも「間違い」と言える。
夜が、少しずつ薄れる。部屋は暗い。まだ、夜だ。
創夜は、静かに息をする。
怖くはない。
ただ、分かってしまった。
自分はもう、「何も知らない子ども」ではいられない。だが、同時に。まだ、何者にもなっていない。
創夜は、天井を見つめながら思う。
(……どちらも選ばない、という選択もある)
そしてそれは、誰にも教えられない。
誰にも共有できない。創夜自身が、抱え続けるしかないものだった。
夜は、語らない。
だが、創夜の中で、確かに“続いている”。
――静かな不協和音
最初の違和感は、とても小さなものだった。
父が創夜に課した稽古の時間は、以前と変わらない。呪力訓練を繰り返し、呪力の流し方を正し、術式に集中する。
父は、いつも通りだ。
声は厳しいが、理屈は通っている期待していないわけではない。むしろ、期待しているからこそ厳しい。
だが――創夜の反応が、少しだけ違った。
命令を理解しないわけではない。拒んでいるわけでもない。
ただ、“急がない”。
父が「今だ」と言う瞬間、創夜は、ほんの一呼吸だけ待つ。
それは遅れではない。失敗でもない。
だが、父には分かる。――こいつは、以前より「自分自身で決断をして術式の発動を急がなくなっている」。
父は、それを「成長」と解釈する。
焦らず、状況を見る。それ自体は、悪くない。
だから、何も言わない言わないまま、違和感は蓄積する。
母のほうが、気づくのは早かった。
夜、創夜が眠る前。灯りを落とす前の、ほんの短い時間。
以前の創夜は、一日の出来事を、断片的に話した。
何があったか。何ができなかったか。
だが、今は違う。聞けば答える。笑うこともある。
だが何かが、すっぽり抜け落ちている。
母は、問いかけない。
創夜が話さないのではない。話す必要を感じていないことが、分かるからだ。
それが、母には少しだけ怖い。
ある夜、父と母が言葉を交わす。
「最近、あいつは落ち着いてきたな」
父は、そう言う。母は、少し考えてから頷く。
「……ええ。落ち着いていますね」
だが、母の中の言葉は違う。
(落ち着いている、というより……距離を取っている)
父は、そこまで考えない才能がある者は、孤独になる。
父にとっては、想定内の変化だ。
だが、噛み合わなさは、少しずつ表に出るある夜、父が言う。
「夜は制するものだ」
いつも通りの言葉で教えであり、戒めだ。
そのとき、創夜は即座に頷かない。否定もしない。
ただ、こう言う。
「……制しなくても、壊れない時もある」
父の動きが、一瞬だけ止まる。ほんの一瞬だが、確かに。
「それは、どういう意味だ」
声は、低い怒ってはいない。創夜は、言葉を選ぶ夢の話はしない。
「……全部を掴まなくても、流れているものがある、って」
父は、納得しない。
「流れに任せれば、呪いは増える」
「祓わなければ、被害が出る」
正論だ。間違っていない。
創夜も、それは分かっているだから、こう答える。
「……それでも、全部は止められない」
父の眉が、わずかに寄る。これは、思想の違いだ。だが、父はそれを未熟さと判断する。
「いずれ分かる」
そう言って、話を切る。
母は、そのやり取りを見ていた何も言わない。
(この子は……もう、別の場所を見ている)
見ている“何か”が違う。それは、反抗ではない自立とも、少し違う。
決定的なのは、ある出来事のあとだ。
小さな呪霊案件。創夜が同行する。
父は、迅速な殲滅を指示する。だが、創夜は一切、動かない。
呪霊を見て、そして人も見ている。結果として、父が呪霊を祓った。
「なぜ、何もせず動かなかった」
創夜は、正直に答える。
「……別に呪霊と人が気になっていたから」
父は、それ以上追及しないだが、父は静かにこう語った。
創夜お前の名の意味だ
「創。新しい呪術界、新しい秩序、新しい安倍家を創る存在。夜は呪術の時間だ。闇は恐れるものではなく、制するもの。夜を恐れず、夜を支配する者――それがお前だ、創夜お前は安倍家を創り直す夜になる。闇の中でこそ、真の呪術師は輝く」
父は、創夜を鍛え続ける。
母は、創夜を信じ続ける。
創夜は、何も語らない三人とも、間違っていない。
それでも。
家の中には、目に見えない“ずれ”が生まれているそれは、喧嘩にもならず、事件にもならず、誰のせいにもならない。
だが、確実に積み重なっていく。
その日は、特別な理由があったわけではなかった。
晴れていた。
雲が薄く、風も穏やかで、夜の気配が遠い昼だった。
母は、朝食のあとで創夜に言った。
「今日は、少し外を歩きましょう」
そう言って、創夜の手を取った強くもなく、引くでもなく、ただ確かめるように。
稽古ではない用事でもない。
父は仕事で不在だった。
創夜は、理由を聞かなかった母も、説明しなかった。
母の手の温度を感じながら、黙って歩き出した。
最初に訪れたのは、非呪術師の学校だった。門の前を通るだけ中に入ることはない。
チャイムの音が響き、子どもたちが一斉に動く。
笑い声少しの不満、教師の呼びかけ。
呪力はない結界もない。それでも、確かに「秩序」がある。
母は、足を止める。
「ここにいる子たちはね、呪いが見ない」
創夜は、黙って頷く。
「呪霊が生まれていることも、知らない子が多いわ」
校庭で、ボールを追いかける子どもたち転んで泣く子。手を引いてもらう子。
「それでも、生きている」
母は、創夜を見る。
「勉強して、喧嘩して、仲直りして」
「好きなことを見つけて、嫌いなものに出会って」
「それだけで、一日はいっぱいになる」
創夜は、校舎を見上げる夜とは、まったく違う場所。
ここでは、夜は“時間”でしかない。
次に母が連れて行ったのは、ビジネス街だった。
昼休みの時間帯。
スーツ姿の人々が歩くスマートフォンを見ながら、急ぎ足で進む者。同僚と笑いながら店に入る者。
「ここにいる人たちも、呪いを知らない」
母の声は、淡々としている。
「仕事がうまくいかなくて、落ち込む人もいる」
「理不尽に怒られて、眠れなくなる人もいるでも、それを“呪い”とは呼ばない」
創夜は、人の流れを感じる。
呪力は、確かにあるだが、誰もそれを扱わない。
「彼らは、自分の人生を生きている」
母は、ビルの窓に映る人影を見つめる。
「失敗しても、やり直せる逃げても、恥ではない」
「立ち止まっても、世界は終わらない」
その言葉が、創夜の胸に静かに沈む。
最後に向かったのは、住宅街だった。
夕方。
日が傾き、家々の影が長く伸びている。
公園で遊ぶ子ども洗濯物を取り込む人。買い物袋を提げて帰る誰か。
その中に――父と母と、子どもが手を繋いで歩く姿があった。
創夜は、無意識に自分と母の繋がった手を見る。
特別な家族ではないどこにでもいる。
母は、足を止める。手は、まだ離れない。
「ね、創夜」
創夜も、立ち止まる。
「この子たちは、将来、呪術師にはならない」
「でも、幸せにならないわけじゃない」
父が、子どもを肩車するその様子を見て母が、笑う。
「学校に行って」
「誰かを好きになって」
「働いて」
「結婚して」
「子どもに恵まれるかもしれないし、そうでないかもしれない」
母は、ゆっくりと言葉を重ねる。
「それでも、生きていく」
創夜の胸が、少しだけ苦しくなる。
なぜかは分からない。
母は、創夜の隣に立ったまま言う距離は、手一つ分しかない。
「創夜」
名前を呼ぶ声は、強くない。
「あなたの人生は、呪術師になるだけじゃない」
否定ではない断定でもない。
「安倍家を背負うこともできる」
「呪術師として生きることもできる」
「でも――」
母は空を見上げるその間も、創夜の手を離さない。
「普通の人として生きる道も、ある」
創夜は、問い返さない。母は、続ける。
「学校に行って誰かと恋をして」
「仕事をして疲れて、笑って」
「好きな人と、同じ家に帰る」
母の声が、少しだけ揺れる。
「それは、逃げじゃない弱さでもない」
「“選ぶ”ということよ」
創夜は、しばらく黙っていた。
夜の夢のことは、言わないあの二人の存在も、語らない。
ただ、目の前の光景を見る。
(……こんな生き方も、あるのか)
夜ではないだが、“生きている時間”。創夜は、ようやく口を開く。
「……それでも、母様は……」
母は、すぐに答えない少し考えてから、言う。
「私は、あなたがどの道を選んでも、あなたの母様よ」
それだけ重くも、軽くもない言葉。
帰り道。
創夜は、母と手を繋いだまま歩く。。胸の奥で、何かが揺れている。
呪術師としての未来。
普通の人としての未来。
どちらも、現実だ。
創夜は思う。
(……こんな風に、誰かと手を繋いで生きる道も……あるのか)
夜の中で見たものが、ここにはない。
だが、ここには――確かに、続いていく人生がある創夜は、初めて思う。
それは、夜の恐怖ではない。
生きることそのものの重さだった。
母は、それを分かっているだから、答えを押し付けない。
ただ、手を離さず、世界を見せただけだ。
母は、それを分かっている。
だから、答えを押し付けない。ただ、世界を見せただけだ。
この日を境に、創夜の中に「逃げ道」ではない、もう一つの“道が生まれた。
それは、まだ選ばれていない。
だが、確かに――存在している。
母と外を歩いた日から、創夜の時間の感触は微妙に変わった。
何かが増えたわけではない奪われたわけでもない。
ただ、重なった。
呪術の稽古をしているとき、創夜は以前よりも細かいところに目が行くようになった。
呪力の流れ、術式の組み立て、相手の癖それ自体は悪いことではない。むしろ、才能の現れだと父なら言うだろう。
だが、集中の“奥”に、別の映像が差し込む。
黒板の前に立つ教師。
机に伏せる生徒。
昼休みに笑い合う声。
(……あの時間に、俺はここにいる)
それは後悔ではなかった羨望でもない。
ただの事実確認だった。
だが、呪術において「余分な確認」は、往々にして判断を遅らせる。以前の創夜は、命じられれば即座に動いた考える前に体が反応した。
今は違う。
一瞬だけ、別の可能性が頭をよぎる。
――もし、これを選ばなかったら。
――もし、あの道に戻ったら。
その一瞬はすぐに消える。術式である結界も、問題なく成立する。
だから誰も気づかない。
だが、創夜自身だけは分かっていた。
(……迷ってる)
怖いわけではない逃げたいわけでもない。
ただ、選べることを知ってしまった。
それは祝福だったはずなのに、同時に、覚悟の純度を薄めるものでもあった。
夜、布団に入ると、夢は見ないあの女も、あの夜も現れない。
それでも、目を閉じると「二つの夜」が思い出される。
溶ける夜。
残る夜。
(……どっちでも、いいって言われた)
それが、今になって効いてくる。
選ばなくていい、と言われたことがいつかは選ばなければならないという事実を、より鮮明にしてしまった。
母は、創夜が何も話していないことに気づいていた。
夕食の席で、創夜はきちんと箸を持ち、返事もする。だが、母の目には分かる。
――この子は、考えている。
――だが、それを言葉にしていない。
ある日、母は創夜の隣に座り、何気なく手を伸ばした。指先が触れた瞬間、創夜はぴくりと肩を揺らした。
驚いたのではない。拒んだのでもない。
“気づいていなかった”のだ。
母は、そのまま手を握った。
小さい頃と同じ。だが、少しだけ骨ばってきた手。
創夜は何も言わない。ただ、握り返してくる。
「……最近ね」
母は、視線を前に向けたまま言う。
「あなた、昔より静か」
創夜は否定しなかった。
「悪い意味じゃないのよ」
母は続ける。
「ただ……世界を、一歩引いて見てる感じがする」
創夜の指が、わずかに強くなる。
母は確信した。
――この子は、何かを見た。
――だが、それは“恐怖”ではない。
だから母は、問い詰めない。
夢を見た?
何かあった?
そう聞けば、創夜は答えるだろう。だが、それは“閉じさせる質問”だ。
母が選んだのは、寄り添うこと。
創夜の歩幅に合わせ、言葉ではなく、時間を共有すること。
父は気づかない。それもそのはず彼は創夜を道具としか見ていない。
だが、母には分かる。
これは鍛えれば消える類のものではない。これは――世界を知ってしまった者の静けさだ。
母と手を繋いで出かけた、その日の記憶は、創夜の中で不思議な位置にあった。
救いでも、決断でもないただ、静かに置かれている。
学校の風景。
働く人々。
家族で手を繋ぐ子供。
母の言葉。
「あなたは、呪術師になるだけじゃない」
「普通に生きる道も、ここにある」
そのとき、創夜は頷いただけだった。
だが後になって、その意味が変わる。
選択肢を“知っている”ということは、選ばなかった理由を、いつか自分で引き受けなければならないということだ。
もし、創夜が将来――普通の人生を捨てることがあったとしても。
それは、知らなかったからではない奪われたからでもない。
見て、触れて、理解した上で、それでも選ばなかったという事実になる。
母は、その覚悟を教えたつもりはない。
だが結果として、創夜の選択は、誰にも否定できないものになる。
逃げたのではない。
縛られたのでもない。
――選んだ。
その日、母が手を繋いだのは、創夜を守るためではない。
未来の創夜が、自分の選択に耐えられるようにするためだった。
創夜はまだ、それに気づかない。
だがあの女の声が、重なる。
「溶ける夜と、残る夜あなたは、そのどちらにもなれる」
それは自由の宣言であり、同時に、最も重い責任の始まりだった。
夜は、語らない。だが、確かに――この瞬間を、覚えている。