それでは、第18話です。
視界の彼方へ消え去った伏黒甚爾の背中を、私は塀の上からただ見送るしかなかった。
呪力という足跡を一切残さないあの男を、この広大な市街地で追跡するのは不可能に近い。
私は小さく息を吐き、地面に降り立った。
張り詰めていた意識を解き、術式反転を解除する。周囲のコンクリートすらドロドロに溶かしていた毒沼は、術式が解けたことでただのぬかるんだ泥沼へと変わっていった。
それと同時に、黒井さんを覆っていた塩のドームも、さらさらと乾いた音を立てて崩れ落ちる。
「黒井さん、怪我はありませんか?」
「ええ、汐宮様のおかげで……。申し訳ありません、私のせいで……」
へたり込む黒井さんに手を貸し、ゆっくりと立ち上がらせる。震える彼女の手からは、先ほどまでの恐怖がまだ伝わってきた。
そこへ、校舎の奥から二人の影が近づいてくる。
「あーあ、逃げられちゃったわけ? 瀬那にしてはどんくさーい」
ヘラヘラと笑う悟。その後ろから、やれやれといった顔で傑が続く。
「悟、からかうのはやめろ。……瀬那、血が出ているじゃないか。やられたのかい?」
傑の指摘に、自分の体を見下ろすと、白いセーラー服が血で汚れていた。すでに反転術式でダメージは治癒しているが、血痕は残っていたらしい。
「まぁ、軽く一撃もらっちゃってね。とはいえ、もう反転で治したから大丈夫」
「軽く一撃、ね。君にそこまでの傷を負わせる相手とは、一体何者なんだい? こちらからは、呪詛師特有の気配は全く感じなかったが」
傑が怪訝そうに眉を寄せる。私は少しだけ視線を落とし、あの男のことをどう伝えるべきか、言葉を選んだ。
「……名前は
「伏黒……聞いたことがないな」
「裏の世界の殺し屋だからね。名前を聞いたことが無いのも無理はない。『術師殺し』という異名なら聞いたことあるんじゃない?」
「あぁ、その異名なら……総監部から死罪認定されてるという殺し屋か」
「そうそう。流石、傑。よく知ってるね」
感心した風に言う私に、傑は少しだけ顔を曇らせた。
「んで」
それまで黙って話を聞いていた悟が、ふと口を開く。
「汐宮家の当主サマは、その術師殺しとどういう関係なワケ?」
薄く笑いながら問い掛けてくる目は、しかし笑っていなかった。心臓が嫌な音を立てるのを無視して、私は平静を装う。
「関係? 裏の世界の殺し屋と、僕が、何か関係あるわけないだろ?」
「ごまかすなよ」
悟の声から、いつもの軽薄さが消えた。
「俺も傑もとっくに気付いてるけど、あえて言わずにいてあげてたんだぞ。瀬那、お前、何を隠してる」
逃げ場を塞ぐような追及に、喉の奥が張り付く。私は視線を逸らさないようにしながら、慎重に言葉を選ぶ。
「……悟、何を言ってるのか分からないが、僕は何も」
「はぁ? お前さ、俺らのこと馬鹿にしてる?」
悟の語気が一段、低くなる。
緊張に、嫌な汗が背中を伝っていく。
「馬鹿にしてないよ。ただ、君が思い込みで人を疑うのはどうかと思うけど」
「思い込み。へぇ」
短く繰り返して、悟はゆっくりと目を細めた。普段あれほど飄々と笑っているくせに、今その口元には笑みの欠片もない。
「そうだよ。何の根拠があって──」
「根拠ならたっぷりあるけど? 今回の件もそうだし、前々からそうだ。お前が旧██村を壊滅させた話、五条家の俺が知らないとでも思ってんの?」
「っ……!」
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
あそこは、美々子と菜々子を助け出した村。汐宮の当主権限を使って、呪霊の仕業として完璧に隠蔽したはずだったが、確かに御三家にバレないはずがない。
「……何の話をしているのか分からないな。あの村は、呪霊の被害で」
「まだしらばっくれる気かよ!」
ガンッと、悟が一歩踏み出した。
「あの村のことだけじゃねぇ。お前は、いつもそうだろ。俺たちと一緒にバカやって笑ってる時も、一人だけ気味の悪い笑顔を張り付けて。一人で勝手に何か背負い込んで、肝心なことは何一つ俺たちに言わねぇ」
そこで一度、言葉が切れた。
悟が、ゆっくりと私を見る。
「俺らのこと、なんだと思ってんだよ」
「……君たちには関係ない」
声が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて殺す。
「これは、僕個人の問題だ。君たちが首を突っ込むことじゃない」
「関係ねぇ? ふざけんな、俺たちは最強──」
「強さだけで何でも解決できるとでも思っているの!?」
私の張り裂けるような声が、悟の言葉を遮った。
自分でも驚くほど、感情が剥き出しになっていた。悟がわずかに目を見張る。
最強。
確かに文字通り、絶対的な『最強』であるならば全てを救えるかもしれない。だが、私たちはまだ発展途上の学生だ。決して最強なんかじゃない。
若様だって、強かった。五条悟に匹敵するほどの才能を持っていた。
それでも、もっと巨大で理不尽な力の前で、私を守って、命を散らしてしまったのだ。
「……強ければ、何でも思い通りになるわけじゃない。上には上がいて、どれだけ足掻いても、あっけなく叩き潰されて終わることもある。それに……僕には、僕にしか果たせない目的があるんだ。だから……これ以上、踏み込まないでくれ」
言い終えた後、沈黙だけが残った。
「二人とも、そこまでだ」
傑の静かな声が、間に入る。
悟は一度だけ鋭く舌打ちして、ぷいと横を向いた。
傑はそれを確かめてから、私の方へ向き直る。その表情は柔らかかったが、目の奥には射抜くような真剣な光が宿っていた。
「……瀬那。私が言いたいことも、おおむね悟と同じだよ。ただ、一つだけ」
一拍の重い間を置いてから、傑は静かに続ける。
「私たちは、友達だろう? そんなに信用ならないかい?」
「っ……それは……」
言葉が喉の奥で詰まる。
彼らとの関係は打算だ。この高校生活も、全部、若様が望んだハッピーエンドのためでしかない。
そのはずだ。若様を殺した私が友達を作る権利なんて──。
「黒井!」
張り詰めた糸を断ち切るように、高い声が、その場の空気を切り裂いた。
校舎の方から、制服姿の理子ちゃんが息を切らして駆けてくる。制服のスカートの裾を両手でまくり上げ、泥沼をバシャバシャと大きく蹴立てながら、猛然と走ってくる。ローファーも白い靴下も泥だらけだが、そんなことは一切気にしていない。普段の高飛車な態度はどこへやら、その顔には血の気がなく、焦燥に駆られていた。
「黒井! 無事か!?」
「お嬢様……っ」
黒井さんの瞳に、うっすら涙が滲む。理子ちゃんは泥だらけの足で歩み寄ると、そのまま勢いよく黒井さんの胸に飛び込んだ。
「……心配したわ、馬鹿者。わたし、黒井に、もし何かあったらどうしようって……」
黒井さんの胸元に顔を埋めたまま、掠れた小さな声が漏れた。
黒井さんは「はい……申し訳ありません、お嬢様」と泣き笑いに目元を歪めながら、理子ちゃんの小さな背中を両腕で力強く抱きしめ返す。
傑が私に向けていた言葉は、その再会の安堵の中へ有耶無耶に溶けていった。
言いかけた言葉の続きは、まだ喉の奥に引っかかったままだ。
……ちょうどよかった、と思う自分と、そうじゃないと思う自分が、胸の中でごちゃ混ぜになる。
──ブブブ、ブブブ。
その時、理子ちゃんの制服のポケットがくぐもった音を立てて震えた。
「……ん?」
理子ちゃんが怪訝な顔で黒井さんの腕の中から顔を上げ、携帯を取り出す。パタンと画面を開き、それを見た瞬間、彼女の表情が凍りついたように固まった。
「……お嬢様?」
黒井さんが、そっと声をかける。
理子ちゃんの指が、かすかに震えていた。彼女はゆっくりと、まるで信じられない悪夢を見せるように、画面をこちらに向けた。
そこには、脅迫のメッセージも、要求の文字も一切ない。ただ、一枚の写真だけが映し出されていた。
薄暗いコンクリートの部屋で、パイプ椅子に縛り付けられ、恐怖に顔を歪ませて涙を流す女生徒の姿。
先ほど礼拝堂で、理子ちゃんと楽しそうに賛美歌を歌っていた彼女の親友だった。