青い空、青い海。そして、隣には美少女。俺はこの世の春を謳歌していた。
「わ、若様、こう? ですか?」
ここは俺の生家である神社の境内、その一角にある海を見下ろせる広場だ。潮風が心地よく吹き抜け、六月の柔らかな日差しが小依の長い黒髪をキラキラと照らしている。
「うーん、動きません……」
「はは、最初から動かせたら天才だよ。焦らなくていい」
俺は小依の隣にしゃがみこみ、彼女の小さな頭を撫でた。小依は「むぅ」と可愛らしい声を漏らしながらも、嬉しそうに目を細める。
我が家の相伝術式である
自身の呪力で塩を自在に操るという、シンプルながら応用力の高い術式だ。俺はこの術式を生まれつきのセンスで把握したが、小依は分家の人間でまだ5歳。今はこうして、俺の真似事をして遊んでいる段階だ。
俺は手本を見せるために、小依の目の前にある盛塩へ手をかざした。意識するのは、負の感情のコントロール。そして自分の中にある術式の回路へのパス。
スゥッ、と指先を動かすと、サラサラと音を立てて塩が独りでに動き出した。真っ白な粒子が重力に逆らって空中に舞い上がり、瞬く間に一羽の兎の形を成す。
「わあぁ……! すごいです、若様! 塩の兎さんです!」
「へへん、これくらいお茶の子さいさいよ」
小依が目を輝かせて拍手をしてくれるので、俺はわざとらしく鼻を擦って見せる。
「私も、兎さん作りたいです!」
「よし、じゃあ特別指導だ」
俺は小依の隣で膝をつくと、彼女の顔を覗き込むようにして言った。
「いいか小依。呪力っていうのは電気と同じなんだ」
「でんき……?」
「そう。そして俺たちが使う術式……この塩を操る力は家電だと思ってくれ」
小依がきょとんとして首を傾げる。
俺は少し背伸びをしたような気持ちで、前世で見た「最強の呪術師」の受け売りを口にした。
「電気そのものだけじゃ、ビリっとするだけで使い道がないだろ? でも、その電気をテレビや冷蔵庫……つまり家電に流せば、映像が映ったり物が冷えたりして役に立つ。俺たちの体には、生まれつきそういう家電みたいな機械が備わっていると思っていい」
俺は目の前の塩の山を指差す。
「今、小依がやろうとしているのは、電気そのものを塩にぶつけようとしている状態だ。それじゃ塩は動かない」
「むぅ……難しいです」
「大丈夫、イメージの問題だから。お腹の下にある電気を、頭の中にある家電……そうだな、ドライヤーが分かりやすいかもしれない。それに繋ぐんだ。そして、そこから吹き出す風で、この塩を吹き飛ばすつもりでやってごらん」
なるほど、というように小依がこくりと頷く。
彼女は再び塩の山に向き直ると、今度はじっくりと目を閉じた。小さな眉が寄せられ、真剣な表情で何かを探るように集中している。
数秒の静寂。
そして──。
「あっ」
小依の驚きの声と同時に、塩の粒がほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ震えた。
「動きました! 若様、動きました!」
「おお、やるじゃないか小依!」
俺は思わず声を上げた。初めて術式に呪力を通せたのだ。前世の記憶がある俺はまだしも、5歳でここまでできるとは、小依には本当に才能があるのかもしれない。
「もう一回、もう一回やってみます!」
小依は興奮気味に何度も何度も塩に手をかざす。だが、さすがに5歳児の集中力には限界があるのか、二回目以降はまったく動かなかった。
「ううぅ……もう動きません……」
「十分だよ。一日でここまでできれば上出来だ」
俺が頭を撫でると、小依は「えへへ」と照れたように笑った。その笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなる。
この世界は呪術廻戦の世界。これから先、地獄のような戦いが待っているかもしれない。だが、少なくとも今は、こうして平和な日々がある。小依の笑顔がある。
──絶対に、守り抜いてみせる。
俺は改めて決意を固めた。原作知識という最強の武器と、この才能を使って。愛しい許嫁が、悲劇とは無縁のまま生きられるように。
「若様? どうされました? 怖い顔をして」
「ん? いや、なんでもないよ」
俺はニカっと笑って、宙に浮かせていた塩の兎を操り、小依の方へと動かした。
「ほら、手を出して」
「こう……ですか?」
小依がお椀を作るように両手を差し出す。俺はそこに、塩の兎をちょこんと着地させた。
「わぁ……! すごいです、手乗りうさぎさん!」
小依は宝物でも扱うように、手のひらの上の兎をうっとりと見つめている。その横顔があまりに無防備で可愛らしくて、俺はつい口元が緩んでしまった。
「……ずっと、守ってやるからな」
「え?」
「俺が強くなって、小依のこと、ずっと守ってやるって言ったんだ」
俺が少し照れながら言うと、小依はきょとんとした後、花が咲いたような笑顔になった。
「はい! 約束ですよ、若様!」
小依が嬉しそうに、その白くて儚い兎を胸元に抱き寄せようとした──その時だった。サラサラと乾いた音を立てて兎が崩れ、元のただの塩の山に戻ってしまった。
「ああっ! うさぎさんが……」
「術式で作ったものは、呪力の供給を止めれば元に戻るんだ。またいつでも作ってあげるよ」
残念そうに自分の手のひらに残った塩を見つめる小依。そんな彼女の頭を、俺はポンポンと撫でてやる。
「よし、そろそろお昼にしようか」
見上げれば、太陽はすっかり高い位置にある。
「お昼ごはんですか!」
途端に小依の表情がぱあっと明るくなる。さっきまでの真剣な顔はどこへやら、5歳児らしい無邪気な笑顔が戻ってきた。
「さっき母さんが言ってたぞ。今日は穴子めしにするって」
「わぁい! あなご飯、大好きです!」
小依が嬉しそうに飛び跳ねる。その弾む黒髪を見ながら、俺は境内に散らばった塩を片付け始めた。
「若様ー! 早く行きましょうー!」
先に母屋へと走っていった小依が、こちらを振り返って手を振っている。黒髪が風に揺れて、その小さな後ろ姿が陽光を浴びて輝く。
「ああ、今行く!」
俺は小依の後を追った。
あと十数年もすれば、俺は高専に入学し、運命の歯車が回り始める。そこで待ち受ける数々の悲劇。
だが、俺には原作知識がある。そして、御三家に匹敵するほどの呪力と才能がある。
夏油の闇落ちを防ぎ、渋谷事変を阻止し、数え切れない命を救う。そして何より──この島の平和と、小依の笑顔を守り抜く。
そのために俺は、強くなる。
そう誓い、強く拳を握りしめた。
◇◇◇◇◇◇◇
本殿の奥、冷ややかな静寂に包まれた奥座敷。先ほどまで報告に訪れていた家人が、音もなく襖を閉めて下がっていく。その気配が完全に消えるのを待ってから、母があさぎ色の着物の袖を正した。
「……聞きましたか、今の報告」
手にした扇子で口元を覆う母の瞳には、息子の成長を喜ぶような色は微塵もない。あるのはただ、資産を値踏みするような冷徹な光だけだった。
「ああ。あの子……
父は深く頷き、満足げに目を細める。
「……それで、小依の件ですが」
「…………」
母の声色が一段低くなると同時に、父の表情からすっと温度が消えた。
「まさか分家の女子にもかかわらず、相伝の術式をあの精度で発現するとは。あの子の才は、少々目に余ります」
パチリ、と母が扇子を閉じる音が座敷に響いた。
「術式の希少性が損なわれれば、他家に対する本家の立場も、何より瀬那の特別さが揺らぎます。……このまま放置しておくわけには参りません」
穏やかな声音の裏に、明確な殺意が滲む。
父は肯定も否定もせず、ただ静かに庭へ視線を向けた。分家の娘一人の命など、次期当主の輝かしい未来の前では塵芥に等しいと言わんばかりの横顔だった。
「……あと二年。七歳になれば、実戦へ投入することになるだろう」
沈黙の後、父が口を開いた。
「いくら天才とはいえ、五歳では肉体が未熟すぎる。万が一、瀬那に傷が残れば元も子もない。だが、あの調子で二年も経てばもう実戦に投入しても十分だろう。その任務に小依も同行させることになる」
父の言葉に、母は納得したように淑やかに頷いた。
「それでは、それまでに私の方でも少し、準備をしておきましょう」
父は立ち上がり、襖に手をかけた。そこで一度だけ足を止め、振り返りもせずに言う。
「……呪力の根源は負の感情だ。恐怖、怒り、悲しみ──そういったものを知らぬ術師は、いつまで経っても本物にはなれん」
その背中が暗に告げていた。どうせ潰す命なら、せめて息子の覚醒の薪にしろ、と。
母は畳に手をつき、深く頭を下げた。
「──心得ております」
襖が閉まる。残された母は、ただ静かに微笑んでいた。
主人公の名前→
許嫁の名前→
これだけ覚えてもらえれば!
ちなみに瀬那は同じ家の人だから、同じ術式が発現するのが普通だろ〜ぐらいに考えています。