気がつけば、あれほど眩しかった太陽は水平線の向こうへ沈みかけ、空と海を燃えるような茜色に染め上げていた。
悟と傑は、少し離れた砂浜でくだらない言い争いをしている。黒井さんと理子ちゃんの友人の花さんは、いつの間に仲良くなったのか、二人で理子ちゃんトークで盛り上がっていた。
寄せては返す波打ち際。ザザァ、と静かな水音が響く。
私は、一人で膝を抱えて海を見つめている理子ちゃんの隣に、静かに腰を下ろした。
「……もう、夕方じゃな」
理子ちゃんが、ぽつりと呟いた。その声には、昼間の威勢の良さはなく、年相応の少女のひどく心細い響きが混じっていた。
「うん。あっという間だったね」
「……明日には、東京へ戻る」
「そうだね」
「そして、高専の地下へ行き……天元様と、同化する」
理子ちゃんは、自分に言い聞かせるように言う。
「怖くもないし、悲しくもないのじゃ。同化すれば、妾は天元様となり、天元様は妾となって、妾の意思も、心も、魂も、消えてなくなるわけではないのじゃから……」
波の音にかき消されてしまいそうな、細く震える声。
私は、その横顔にかつての自分を重ねていた。
分家の道具として、感情を殺して生きるのが当たり前だと思っていた、四歳のあの頃の自分を。
そして、そんな私の手を強引に引いてくれた人の温もりを。
「理子ちゃん」
私は、波の音に攫われないよう、けれど彼女を驚かせない穏やかな声で呼びかけた。
「……ん?」
「僕もね、昔は誰かのための道具として生きるのが、自分の運命だと思ってた時期があったんだ」
理子ちゃんが、驚いたようにこちらを見た。
私は彼女へ視線を向けず、茜色に燃える水平線を見つめたまま続ける。
「家のための駒。ただそれだけの存在。自分の感情なんて必要ないって、ずっと心に蓋をしてた」
「瀬那が……?」
「うん。……でもね、ある人が僕に教えてくれたんだ。それは間違ってるって。君は君のために笑っていいんだって」
子供は笑ってた方がいい。そう言って小さな手を引いてくれた、若様の温もりが手のひらに蘇る。
私は一度言葉を区切り、砂浜についた自分の手を見つめた。
「……それなのに、その人がいなくなってから、僕はまた自分に蓋をしてた。その人の夢を叶えることだけを考えて、自分の心なんてどうでもいいって。本当は寂しくて、苦しかったのに……昨日、悟と傑に言われるまで、自分がまた心を殺していたことにも気づかなかったくらい、ね」
理子ちゃんが、私をじっと見つめている。
いつも飄々としていて、迷いなく強い術師として振る舞っている私の情けない本音に、彼女は少しだけ戸惑ったように目を瞬かせた。
「……お主のように強い奴でも、そんなことがあるんじゃな」
「ううん、僕なんて全然強くないよ。ただ、強がってるだけで。……今の、理子ちゃんと同じだね」
私がそう微笑みかけると、理子ちゃんは図星を突かれたように小さく肩を震わせた。
「誰かのために生きるのも、役割を全うしようとするのも、とても立派なことだ。でも、それで自分自身を殺してしまったら、いつか絶対に限界が来る。……僕は昨日、あいつらに怒られて、ようやくそれに気づけたんだ」
私は水平線から視線を外し、隣で膝を抱える理子ちゃんの目を、正面からじっと見つめた。
「理子ちゃん。星漿体としての使命も、周りからの期待も、今は全部横に置いていい。……理子ちゃん自身は、本当はどうしたい?」
「妾は……っ」
理子ちゃんが、ギュッと自分の膝を強く抱きしめた。制服のスカートが少しだけ皺になる。
「妾は……ずっと、
震える声。目尻には、夕日を反射してキラキラと光る雫が浮かんでいた。
私はそっと手を伸ばし、彼女の頭を撫でた。
「黒井さんは、星漿体だから君を大切にしてるんじゃない。君が大切な家族だから、あんなに大切にしてるんだよ。それに、花さんに至っては、君が星漿体だなんて事情、そもそも知らないしね。ただ一緒にいて楽しい親友だから、君のそばにいるんだ」
「……っ」
「まぁ、まだ同化までは1日以上時間がある。急いで答えを出さなくていいよ。明日の期限までに、ゆっくり考えて」
私は、少し離れた場所で笑い合っている二人の背中を見つめた。
「もし、それまでに、君が『やっぱり帰りたい』『もっと皆と一緒にいたい』って思ったら……僕も、悟も、傑も、絶対に君の選択を肯定する。君がどんな道を選んでも……僕たちが絶対に君を守るから」
不安げに見上げる彼女の視線を受け止め、私はふっと、いつもの飄々とした、けれど絶対的な自信に満ちた笑みを浮かべた。
「大丈夫、僕たちは最強だからね」
一切の揺らぎもないその響きに、彼女は小さく息を呑み、張り詰めていた肩からふっと力を抜いた。
その直後。
「おーい! お前ら、いつまで海見て黄昏れてんだよ!」
不意に、エモーショナルな空気をぶち壊すような大声が響いた。
砂浜をざくざくと無遠慮に踏み鳴らしながら、悟と傑がこちらへ歩いてくる。その後ろには、黒井さんと花さんも続いていた。
「そろそろ夕飯何食うか会議すんぞ!」
「……悟、君は本当に空気が読めないな。理子ちゃんにも一息つく時間は必要だろう」
呆れたようにため息をつく傑だが、その顔はどこか優しく、穏やかに笑っていた。
二人の姿を見て、理子ちゃんはハッとしたように慌てて目元の涙を袖で乱暴に拭い、パンッと両頬を力強く叩いた。
「……っ、誰が黄昏れておるか! 妾ももう腹ペコじゃ! 早く夕食に行くぞ!」
「おっ、言うねぇ! じゃあ何食べるか、話し合いだな。ステーキか? それともソーキそばか?」
「タコライスに決まっておろうが、阿呆!」
そこへ、黒井さんと一緒に歩いてきた花さんが、口を挟んだ。
「ねぇ、理子ちゃん。ずっと気になってたんだけど……」
「ん? なんじゃ、花」
「その『
「はっ!?」
理子ちゃんが、文字通り石のように固まった。
無理もない。学校の親友である花さんの前では、彼女は普通の女子中学生として振る舞っていたのだ。当然、この古風で尊大な口調など、学校では一度も見せたことがないはずだった。
「ち、違うんじゃ花! これはその、昨日テレビで見た時代劇の真似をしておって……いや、真似をしてて……!?」
「えっ、理子ちゃんって時代劇なんて見るの!?」
「ぶっ……あははははっ! 無理あるだろそれ!」
慌てふためく理子ちゃんと、純粋に驚く花さんを見て、悟が腹を抱えて爆笑し始めた。
「悟、笑いすぎだ。……とはいえ理子ちゃん、その言い訳はいささか苦しいんじゃないかな」
窘めるように言った傑も、口元を隠しながら肩を揺らして笑いを堪えている。
「もう、お嬢様ったら……ふふっ」
そんな賑やかなやり取りを、黒井さんは口元に手を当てて、保護者のように温かい眼差しで微笑ましく見守っていた。
「笑うな阿呆共ーっ!」
理子ちゃんが涙目になりながら悟の背中にポカポカとパンチを浴びせている。
いつもの、威勢の良い、賑やかな空気が戻ってくる。
わあわあと言い合いながら、ホテルの方へと歩き出す五人。
私はその温かい背中を、少しだけ後ろから見つめた。
若様の日記に書かれていた、本来の歴史。
明日の午後、高専の結界内で伏黒甚爾が強襲し、
……でも、そんなもの知ったことか。
私自身が、この子を生かしたい。この温かい日常を、明日も明後日も見ていたい。
たとえ相手が伏黒甚爾でも、それ以外だったとしても。
私は私の意思で、待ち受ける最悪の運命を力ずくで叩き壊してみせる。
茜色の空に溶けていく彼らの笑い声を聞きながら、私は心の中で静かにそう誓った。