最終話(この話含めて残り3話)まで3日かけての連続投稿です。
それでは、第26話です。
「……マジで、どうなってんだよ君は」
しかし、羂索が若様の顔を歪めたのはほんの一瞬のことだ。
千年の時を生きる怪物の毒づきが終わるか終わらないかのうちに、五条悟の姿が視界からかき消えた。
「──退けよ」
知覚の限界を超えた速度。
空間を跳躍したかのような踏み込みで、悟は羂索の眼前へと迫り、その無慈悲な拳を顔面へと叩き込んだ。
「ぐぅッ」
だが、その一撃は間一髪のところで止められていた。
羂索は若様の肉体を呪力で強化し、両腕を交差させて悟の拳を真正面から受け止めていたのだ。
「……ッ、化物め!」
痺れた両腕の隙間から、羂索が吐き捨てる。
しかし、悟は答えない。地面へ食い込んだ足を引き抜く暇さえ与えず、二撃目を放った。
側頭部を刈り取るような回し蹴りを、羂索は首を沈めて紙一重で躱す。直後、懐へ踏み込み、顎を砕く軌道で掌底を突き上げる、が、その手は悟の皮膚へ触れる寸前で止まった。
拳。蹴り。掌底。肘。人間の目では残像すら捉えられない速度で、暴力の応酬が繰り返される。圧倒的な暴力の応酬。そのたびに空気が爆ぜ、参道を覆う砂塵が幾重もの渦を巻いた。傍目には互角に見えたかもしれない。だが、羂索は冷静に理解していた。
五条悟の攻撃を受けるたび、自身の肉体が軋んでいる。呪力で強化した腕には既に痛みが蓄積し、内側では骨が悲鳴を上げていた。
このまま正面から殴り合えば、先に壊れるのは間違いなく自分だ。
だからこそ、羂索は悟の回し蹴りを腕で受け流したその一瞬の隙を利用した。
体勢を崩したふりをしながら後方へと大きく跳躍し、獄門疆に囚われている私の傍へと滑り込む。
そして、追撃に出ようとする悟へ向けて、冷酷な笑みを浮かべた。
「私を相手にしている暇があるのかな? 五条悟」
「……あぁん?」
「伏黒甚爾が君を止め損ねた場合の保険さ。天内理子と夏油傑の元にも、子飼いの呪詛師を向かわせてある」
「……ハッタリ抜かしてんじゃねぇよ」
悟の周囲の空間が、彼から溢れ出す規格外の呪力によって、ギリギリと悲鳴を上げるように歪み始める。
「それにさぁ、そんなのハナから関係ねぇんだわ。今すぐここでてめえを瞬殺して、その足で傑たちのところへ向かう。そんだけの話だろ」
悟がそう吐き捨て、地を蹴ろうとした──直後だった
突如、腹の底を殴りつけるような重く鈍い轟音が、びりびりと大気を震わせた。足元の石段が僅かに揺れる。
遥か彼方──傑や理子ちゃんたちが向かった薨星宮の地下深くから、くぐもった重い爆発音が響き渡ったのだ。
「クスクス……どうやら、ハッタリではないようだよ?」
羂索は心底愉快そうに、喉を鳴らして笑った。
「今の音を聞いただろう。連戦でボロボロの君に、私を瞬殺するほどの余裕などないはずだ。私はこれでも、生き残ることに関しては千年の経験があってね。君がどれだけバケモノだろうと、私が全力で時間稼ぎに徹すれば、君が私を殺すのにかかるその時間で、君の愛しい親友と星漿体は、確実に肉塊に変わるよ」
「ッ……この、クソ野郎が……!!」
悟の動きが止まった。
その肩が、激しく上下に揺れている。
ゼェ、ゼェ、と、血の混じった荒い呼吸。伏黒甚爾との死闘による極度の疲労と失血が、確実に彼の動きから余裕を奪っていた。
羂索の言葉が万が一事実だったなら。
羂索を仕留めるための遅れが、取り返しのつかない最悪の事態を招くかもしれない。
悟がギリッと歯を食いしばり、顔を歪めながら、まっすぐに私の方を見た。
獄門疆の肉に縛り付けられた私の視界に、血まみれになった悟の顔が映る。
その顔を見て、私ははっきりと悟った。
悟は、私を助けようとしている。
自分の体が壊れるリスクも、傑たちに間に合わないかもしれない最悪の可能性も、全てを捨てて。目の前の私を何が何でも救い出そうとしてくれているのだと。
あぁ、そうか。
だから、私が言わなくてはならない。悟には選べない言葉を。彼にとって、いちばん残酷な選択を。
「ダメだ、悟」
私の静かな声は、喧騒に包まれた参道をすり抜けて、まっすぐに悟へと届いた。
「傑と理子ちゃんを、助けに行ってあげて」
「……ふざけんな。お前を置いて、行けるわけねぇだろ……ッ」
悟が血を吐くように、ひどく掠れた声で絞り出す。その蒼い瞳には、今まで見たこともないような、縋るような悲痛と焦燥の色が浮かんでいた。
それでも、私は小さく首を横に振る。
もともと、私は今この世界には存在しないはずの人間だ。若様の命を奪って生き延びた、ただの異物。
若様が望んだ、誰も理不尽に死なないハッピーエンド──そこに、私という異物が含まれていなくたって、構わない。傑が、理子ちゃんが生きられるなら、私の役割はそれで十分だ。
それに──
「僕は大丈夫。何も死ぬわけじゃない。だから…………あとは、任せた」
そうだ。私は何も残せずに死ぬわけじゃない。目の前には親友がいる。安心して託して逝ける親友が。
彼にこの先の未来を任せられるなら、残りの人生なんて、喜んで差し出せる。
その言葉を聞いた瞬間。
悟は、血まみれの顔を無様なほどに歪めた。
私の姿をその蒼い瞳へ焼きつけようとするかのように、まっすぐに見つめ返してくる。すべてを見通すはずの六眼は、今だけは、ただ私一人だけを捉えて離さない。
永遠にも思える数秒が流れる。
ギリッ、と。
悟は血が滲むほど強く唇を噛み締めた。
そして、何かを断ち切るように一度だけ固く目を閉じると、勢いよく地を蹴った。
踏み砕かれた石段が爆ぜる。
悟の背中は瞬く間に上空へと舞い上がり、そのまま傑たちのいる方角へ向かって、一直線に消えていった。
その背中を見送って。
私は、ふと、夜蛾先生の言葉を思い出していた。
──呪術師に、悔いのない死はない。
たとえこれが命の終わりではなく、封印という形であったとしても、私の役割はここで終わる。
未練がないと言えば、確実に嘘になる。
もっと、悟や傑とくだらないことで笑い合いたかった。理子ちゃんの明日を見たかった。若様が望んだハッピーエンドのその先を、私も一緒に歩いてみたかった。
数え切れないほどの未練が、手放したくない思いが、泥のように心の底に沈んでいる。
けれど。
空の彼方へ消えていくあの頼もしい背中を見送っていると、そんな未練すらも不思議と温かなものに思えた。
呪術師としての最期に、後悔は必ず残る。
でも、その呪いのような後悔ごと、すべてを安心して託せる親友がいる。私が命を懸けて繋いだ未来を、絶対に守り抜いてくれると魂から信じられる親友がいる。
だから私は、胸の奥から湧き上がる親友への絶対的な信頼と共に、ほんの少しの愛おしい未練を抱きしめて、静かに目を閉じた。
「『閉門』」
羂索の無慈悲な声と共に、私の意識は、音すらない絶対的な暗闇の底へと深く沈んでいった。
◇◇◇◇◇◇◇
「『閉門』」
羂索の声により、獄門疆は完全にその形を閉じ、掌に収まるほどの小さな立方体へと戻った。
「はぁ、五条悟の覚醒は完全に計算外だった……。これからどうしたものか」
地面に転がったそれを拾い上げ、羂索は、五条悟が飛び去っていった遥か上空を見上げて、忌々しそうに息を吐き出した。
そもそも、本来五条悟を封印するために用意した獄門疆を彼女に使ってしまった今、覚醒した彼を止める手段はもう羂索の手札に残されていない。
だからこそ、彼が覚醒直後で、なおかつ伏黒甚爾との連戦で限界を迎えており、さらに『獄門疆に囚われて人質となりうる少女』がいる「今」が、唯一の好機だった。もしあそこで怒りに任せて彼が挑んできていたなら、ここで確実に殺し切る勝算があったのだ。
実際のところ、薨星宮の地下で起きた爆発は羂索自身が事前に下していた指示だったが、今となっては完全に裏目に出たミスだったと言わざるを得ない。今の羂索にとって夏油たちの生死など些末な問題だ。
彼が最も恐れたのは、あの爆発音に気を取られ、五条悟が「この場から離脱してしまう」ことだった。もしここで逃げられ、万全な状態にまで回復されてしまえば、いよいよ羂索に勝ち目はなくなる。さらに言えば、地の利も問題だった。この参道には羂索が有利に戦えるよう罠を張り巡らせていたが、夏油たちがいる高専結界の最奥では、さすがの彼も細工を施せない。
だからこそ、羂索は逆心理を突いた。今さら爆発の指示は取り消せないため、あえて挑発してみせたのだ。
あたかも「早くここから退散してほしい」と焦っているかのように振る舞うことで、五条の反発心を煽り、なんとしても彼をこの場に引き留めようとしたのである。
狙い通り、五条は激昂し、羂索に挑んできた。
限界を迎えている彼が無理に挑んでくるなら、人質の存在と相まって、ここで確実に五条悟を返り討ちにできる──図らずも、最大障害を排除する千載一遇の好機が完成した瞬間だった。
だが、五条悟は情を捨て、極めて合理的な選択をした。
激昂していた彼を冷静に退かせ、羂索が作り上げたその千載一遇の好機を見事に潰したのは、他でもない──この獄門疆の中にいる少女。
彼女のせいで、羂索は今後の計画において最もされて嫌なことを甘受せざるを得なくなったのだ。
今後、万全となった彼をどうにかするとなれば、もう原作のように指を全て取り込んだ完全体の宿儺をぶつけるしかないだろう。
しかし、それは原作通りで面白くないし、なにより致命的な問題がある。宿儺の指のうちいくつかは、現在獄門疆に閉じ込められている彼女が収集し、羂索すら把握できない場所へ隠してしまっているのだ。
彼女には「この話を終わらせる」などと御託を並べたが、彼女をここで早々に封印した目的の半分は、そういった彼女の盤外戦術が目に余るようになったからに他ならない。
彼女は「全て羂索の掌の上だった」と絶望したかもしれないが、彼女のイレギュラーな行動のせいで、羂索の方もかなりの被害を被っていたわけである。
その事実を噛み砕いた瞬間、羂索の脳裏に、汐宮瀬那との最後の記憶がフラッシュバックした。
『最後に一つだけ』
『なんだい?』
消えゆく間際に少年が浮かべた、どこか勝ち誇ったような不敵な笑み。
『──小依をなめるなよ』
「……なるほど。こういうことか、汐宮瀬那」
羂索はくつくつと、喉の奥で笑い声を漏らした。
盤外戦術を施し、裏梅をたった一人で討ち取り、死地においてなお五条悟の行動を律してみせた少女。
「確かに君の言う通りだ。私は少々彼女を見くびっていたようだ」
羂索は踵を返し、えぐり取られた参道の脇へ歩み寄った。
そこには、心臓を正確に穿たれ、完全に絶命した裏梅の死体が転がっている。
「君にここで完全に消えられては困る。私の計画にはまだ君が必要だからね」
羂索が若様の細い腕をかざすと、足元の影がドロリと広がり、底なしの闇となって裏梅の遺体を跡形もなく呑み込んでいく。
「さて……私も帰るか」
流石に夏油傑もいるとなれば、自分とて分が悪い。
何、まだ時間はある。計画はじっくり進めていけばいいのだ。
懐に獄門疆を深くしまい込み、羂索は誰もいなくなった血生臭い高専の参道から、影のように姿を消した。
これにてMOB(小依)の物語は終わりです。