それでは第25話です。
「開門」
彼は、私の知った声のまま、ひどく冷酷な響きでそう告げた。
ピシッ……ズルルルッ……!
彼の手元にあった小さな立方体が、硬質な外殻を割り、おぞましい肉の裂ける音を立てて四方へと展開していく。
生々しい赤黒い筋肉の繊維が、粘着質な音を立てて引きちぎられる。まるで悪趣味な肉食花のように開いた肉塊の中心──そこに埋め込まれていたのは、血走った巨大な一つの眼球だった。
「ッ!?」
その巨大な単眼がギョロリと動き、私を真っ直ぐに見据える。
視界を埋め尽くすほどのその異様な眼光は、あの日──薄暗いトンネルの中で若様を奪った、あの忌まわしい多眼の呪霊のおぞましい姿と重なった。
フラッシュバックする恐怖に、全身の血が凍りつく。
獄門疆。
一目でわかった。
封印条件は、開門後、有効範囲内に『一分間』対象を留まらせること。ただし、それは現実の時間ではなく、対象の『脳内時間』で一分。
弾かれたように後ろへ跳ぼうと、足に呪力を込めた瞬間──。
「っ、くそっ!」
足首に鋭い痛みが走り、地面に縫い付けられた。
視線を落とすと、私の両足首には真っ白な塩の鎖が、蛇のように堅く絡みついていた。
「なんで逃げようとするんだ? 久しぶりに会ったのに」
鎖を操る彼が、ひどく寂しそうな顔で小首を傾げる。
その姿形は。声は。仕草は。
そして私を縛るその呪力すらも、私の愛した『若様』そのものだった。
見ちゃダメだ。考えちゃダメだ。あれは偽物だ!!!
頭では理解している。極限の状況下、必死に思考を切り離そうと抗う。
しかし、網膜に焼き付くその姿が、トンネルでのトラウマと共に、私の脳髄から強引に過去を引っ張り出していく。
夕日に染まった海。繋いだ手の温かさ。木漏れ日が揺れる石畳の道で、私に笑いかけてくれたあの日のこと。私を庇って、真っ白な塩の結晶になって散っていったあの背中。
私の胸の奥底にずっと仕舞い込んでいた、狂おしいほどの愛着と喪失の記憶。
現実の時間にして、ほんの一瞬。
しかし、走馬灯のように駆け巡る若様との思い出が、奔流となって思考を埋め尽くすのに、脳内時間の一分など、あまりにも短すぎた。
ドキュッドキュッドキュッ!!!
突如、巨大な眼球の周囲から、骨と肉で構成された不気味な無数の腕が爆発的な速度で飛び出した。
それらは幾つもの立方体の外殻と連なりながら、私の身体へとおぞましい勢いで群がり、絡みつく。
体内の呪力がピタリと止まった。指一本、動かせない。
完全に、詰みだ。
「お前は、誰だっ!」
身動き一つ取れない状態になりながらも、私は眼前の男を睨みつけ、喉を裂くような声で叫んだ。
男は私の剣幕に、おかしそうに肩を揺らす。
「何言ってるんだ、小依? 俺だよ。俺。君の愛しい、汐宮瀬那さ」
ケタケタ、ケタケタケタケタケタ!
男の顔には、若様が絶対に浮かべるはずのない、醜悪で底意地の悪い笑みが張り付いていた。
違う。絶対に違う。
若様は、あんな下品で悍ましい笑い方は絶対にしない。
姿形が、呪力がどれだけ同じでも、こいつは若様じゃない。私の大切な人を冒涜する、得体の知れない何かだ。
「その名前を……その体で、呼ぶなッ!!」
私が憎悪を込めて睨みつけると、狂ったように笑っていた男の動きが、ピタリと止まった。
「……ふぅん。やっぱり、中身が違うと誤魔化しきれないか」
男の声から、若様の面影がスッと消え失せた。酷く冷たく、傲慢な響き。
そして男の手が、自身の額へと伸びる。
すると、皮膚にぐるりと横一文字の亀裂が走り、男はまるでただの容器の蓋でも外すかのように、無造作に頭頂部を持ち上げてみせた。
現れたのは、悍ましい歯を剥き出しにした脳味噌。
『初めましてと言うべきかな、汐宮小依。私のことは、そうだね、
若様の顔をした怪物は、むき出しの脳を揺らしながら、心底愉快そうに私を見ていた。
◆
『それじゃあ、最後かもしれないし少し話をしようか』
怪物はカポッ、と気の抜けるような音を立てて自らの頭蓋を閉じた。
先ほど開いた額の横一文字の亀裂が、呪力によって滑らかに縫い合わされ、再び見慣れた「若様」の顔へと戻っていく。
「いやぁ、この十年間、本当に楽しませてもらったよ。実のところ、私は君のような人間は嫌いじゃないんだ」
彼は──羂索は出来のいい教え子を褒める教師のように、穏やかな口調で語り出す。
「自分のために、まずは一歩行動する。そういう人間は好きさ。ただ現状に満足し、それがそのまま続くようにと殻に閉じこもって願っている、
「……黙れ」
「ただ、最近の君はつまらないよ。ひどく残念だ。仲間たちとの青春ごっこは楽しかったかい? そうやって現状に満足しているものに、進化はない。驚きはない。面白さはない」
全身を締め付ける獄門疆の重圧と、目の前の男から放たれる気持ち悪さに、私の呼吸は浅く、乱れていた。
「……ふざけるな……。お前、いつから……どこからどこまでが、お前の引いた筋書きだッ!?」
「ん?」
私の問いかけに、 羂索はわざとらしく小首を傾げた。
「どこからどこまでが、だって?」
若様の顔で、若様が決して見せないほど邪悪に唇を歪める。
「全部だよ、全部」
「……な、に?」
「そもそも、あんなド田舎の廃トンネルに、あれほどの呪霊が自然発生するわけないだろう? あの日に合わせて私が呪霊を放ち、君たちを誘導したんだ。ただ単に、私の計画の目障りになる人間を減らすだけのつもりだったんだがね。……この体と、彼の中にあった『知識』は、とんだ拾い物だったよ」
「ッ! じゃあ、あの日……若様が死んだのは……!」
足元の地面が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくような感覚だった。
あの日、あの事件が起こったのは、全てこの怪物が仕組んだことだったというのか。
「『未来視』……いや、彼の記憶の表現を借りるなら『原作知識』と呼んだ方がいいか。あれには驚かされたよ。ただね、私の術式にも少し制限があってね。その肉体や記憶をすべて完璧に引き出すには、持ち主の『同意』がいるんだ」
羂索が、若様の手のひらを愛おしそうに眺める。
「だからこそ、私は死にかけの彼と『縛り』を結んだ。いやぁ、本当に君のおかげだよ。なぜかって? 『君を私が全力で守る代わりに、肉体と記憶の全てを明け渡す』。それが、彼が最期に私と結んだ縛りの条件だからさ」
頭を重い鈍器で殴られたような衝撃だった。
若様は……死んだんじゃなかった……。
私を守るために、あの化け物と契約して……自分の肉体と記憶のすべてを、魂ごと明け渡したのだ。
「不思議に思わなかったかい? なぜ君が当主になれたのか。いくら家の汚点を隠すためとはいえ、分家の小娘を当主の替え玉にするなんて無理がありすぎる。君もろとも殺して終わらせた方が合理的だ。それに、八歳の小娘が当主だなんて、いくら力で縛り付けたところで、自家はともかく他家が納得するはずないだろう?」
言葉が、私の急所を的確に抉っていく。
本家での凄惨な日々。大人たちを力でねじ伏せ、必死に家を掌握しようと足掻いたあの日々。それがすべて無意味だった。この怪物の掌の上だった。
言葉を失う私を他所に、羂索は愉快そうに両手を広げた。
「そうだよ。全部、私のおかげさ。君が自分の力で大人たちを屈服させたと思っていたかい? 異論を唱える者たちを私が陰から処理して回っていたからに決まっているだろう。だから最初に言ったはずだ。楽しませてもらったって。何の意味もないのに必死に足掻く君の姿は、滑稽で、とても面白かったよ」
嘲笑。
私が血を吐くような思いで積み上げてきた十年が、たった一つの悪意によって根底から瓦解していく。意味なんてなかった。私はずっと、この怪物の手のひらで踊らされていた道化だったのだ。
「さて、話を戻そうか」
絶望で声も出ない私を置いてけぼりにするように、羂索は淡々と話を先に進める。
「私が彼と結んだ縛りは『君を全力で守ること』だ。汐宮小依、この世で一番安全な場所はどこだと思う? ……獄門疆の中だよ。物理的にも、呪術的にも、干渉不可能な絶対的な檻。だから君は、一生そこにいてくれ」
「……待て。だとしても……おかしいだろ」
私は乾ききった喉から、掠れた声を絞り出した。
「わざわざ今、私を封印する意味がない。今までと同じように陰ながら助けて縛りを維持しつつ、お前は自分の計画を進めればいい……。若様の日記にある知識を持っていれば、お前の元来の目的とやらは、容易く達成できるはずだ」
「うん、当然の疑問だね。答えは単純さ」
羂索は、無邪気な子供が玩具を壊す時のような、残酷な笑みを浮かべた。
「飽きたんだよ」
「……は?」
「君たちの青春ごっこは、もう見飽きた。最近の君はつまらないんだよ。それに、私は彼から未来の知識を得た。この力があれば、天元との同化阻止だろうが人類の進化だろうが、容易だろう。……だけどね、それじゃあ面白くないんだよ。ゲームと一緒さ。最強の装備や攻略本は、手に入れるまでが楽しいのであって、手に入ってしまったら途端に退屈してしまう」
羂索は、その狂気を孕んだ目を細めた。
「君は『シミュレーション仮説』を知っているかい?」
「……何を、言って」
「私はね、彼の持っていた未来の知識は単純な予知などではなく、本当に『原作の知識』なんじゃないかと疑っているのさ。つまるところ、この世界は原作から分岐したスピンオフ……いや、出来の悪い『二次創作』といったところかな」
「二次、創作……?」
「そう。そして、その『主人公』は君ではないかと推測している。そもそも、彼がいなければ君はとうに死んでいた。原作には一切登場しないイレギュラーな人物。二次創作の主人公にピッタリじゃないか」
羂索が私の顔を間近で覗き込み、ねっとりとした声で囁いた。
「さて、それと君を封印することに何の関係があるのか。……物語において、主人公が何の見せ場もなく封印されて退場したら、どうなると思う?」
「……」
「そう、『打ち切り』さ」
心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打つ。
こいつの言っていることは狂っている。意味不明だ。けれど、その瞳の奥にある、純粋すぎる知的好奇心の光が、底知れない恐怖となって私を侵食していく。
「そう怖い顔をするなよ。……あぁ、気づいたかい? そうだよ。私がこうやってわざわざ君にペラペラと種明かしをしているのも、この世界を打ち切りに持っていくためさ。君が封印されるだけで謎が残されたままだと、外から見ている読者の興味を惹き続けてしまうかもしれないからね。こうして黒幕がすべてを明かしてしまえば、彼らもこの世界に興味をなくすだろう? そうなれば、見事打ち切りだ」
「……ふざける、な……そんなことのために……!」
ケタケタ、と。再びあの悍ましい笑い声が高専の石段に響く。
「私は試してみたいだけなんだよ。この世界がもし本当に誰かの創った物語だったとして、打ち切りになればどうなるのか。世界は唐突に消滅するのか、それとも別の
純粋な知的好奇心。
こいつは、ただそれだけのために、私たちの人生を、みんなが生きるこの世界そのものを、実験台として壊そうとしている。
怒りで視界が赤く染まるが、獄門疆に縛られた体は指一本動かせない。
「おっと、少々喋りすぎたかな」
羂索は心底満足そうに吐息をこぼすと、これ以上ないほど愉快そうに笑った。
「君との答え合わせはここまでだ。さぁ、永遠の暗闇の中で、この世界がどう壊れていくか……ゆっくり想像してくれたまえ」
羂索が、酷薄な笑みを深めて唇を動かした。
「『
その二文字目が紡がれる寸前──まさに、その時だった。
ドゴォォォォォォンッ!!!!
予兆など、一切なかった。
鼓膜を破るような轟音と共に、幾重にも連なる参道の石段が、理不尽な暴力によって真正面から一直線に消し飛ばされた。
「……は?」
羂索の素っ頓狂な声が漏れた。
千年の時を生きるこの狡猾な呪詛師が、気配はおろか、凄まじい呪力の膨張すら、世界が吹き飛ぶコンマ一秒前まで完全に知覚できていなかったのだ。
土煙と瓦礫の雨が降り注ぐ中。えぐれ飛んだ大地の先端に、彼は唐突に現れた。
ズタズタに引き裂かれた黒い制服。
首筋から頭部にかけて、べっとりとこびりついたドス黒い血。
にもかかわらず、重力から完全に解放されたかのようにふわりと宙に浮くその姿は、異様なほどの神々しさを帯びていた。
血まみれの白髪の隙間から覗く、あの蒼い瞳が、獄門疆に縛り付けられた私と、私の傍らで呆然と立ち尽くす羂索を正確に捉える。
「あり得ない……ッ」
さっきまで教鞭をとる教師のように余裕ぶっていた羂索が、一歩、後ずさる。
その顔には、先ほどまでの純粋な知的好奇心など欠片もない。はっきりとした驚愕と混乱が貼り付いていた。
「伏黒甚爾との交戦地点からここまでは、どんなに最速で動こうと、まだ数十秒はかかるはずだ。それに
ブツブツと早口で自らの思考を否定し、必死に計算を合わせようとする羂索。
しかし現実として、彼は目の前にいる。
私の親友は、呪術の理屈も、羂索の緻密な計算も、原作のシナリオも、距離という概念すらも。そのすべてを力業でねじ伏せて、間に合わせたのだ。
ハイになった悟が、私を縛る若様の姿の化け物を見て、ゾッとするほど冷たく、そして酷く楽しげに、ニィッと笑う。
「言ったろう? 助けに来てやるってなぁっ!!」
それを聞いた羂索は、若様の端正な顔をこれ以上ないほど引きつらせた。
そしてこれまでの黒幕然とした態度を完全に崩し、忌々しげに毒づいた。
「……マジで、どうなってんだよ君は」