私が初めて若様に会ったのは、四歳の時だった。
お父様とお母様に連れられて、本家の屋敷に向かう船の上。私は緊張で手が震えていたのをよく覚えている。
「小依、よく聞きなさい」
お母様は私の肩に手を置いて、真剣な顔で言った。
「あなたは本家の若様の許嫁になるの。これは私たち分家にとって、どれほど名誉なことか分かるわね」
「はい」
「お前は賢い子だ。若様に失礼のないよう、常に気を配りなさい。従順に、控えめに。本家の方々を決して不快にさせてはいけないよ」
お母様の声は、いつもより低く、重かった。
私は小さく頷く。
お父様とお母様が何を望んでいるのかは、説明されなくても分かっていた。
これは取引だ。分家の娘である私を本家に差し出すことで、家は本家との繋がりを強める。そして私は、若様の傍で道具として、この先ずっと一人で生きていく。
それでいい、と私は思った。
私は一人でいることには、とうに慣れていた。
本当は、走り回ったり、くだらないことで笑い合ったり、そういうことがしたくないわけじゃなかった。
でも、大人たちはそれを望まない。大人たちが望むのは、従順で、控えめで、手のかからない子供。それを演じれば、彼らは満足そうに頷く。
だから、そうした。
感情に蓋をして、ただ求められる形に自分を押し込める。それは四歳の私にとって、息をするのと同じくらい当たり前の処世術だった。
◇◇◇◇◇◇◇
若様のことは、会う前から知っていた。知らない方が難しいくらい、分家では若様の話題で持ちきりだったから。
曰く──一歳で完全な文章を話し始め、二歳で大人向けの書物を読み、三歳の時には家庭教師がさじを投げた。
曰く──御三家と比較してもここまでの者はいない、と当主様自らが仰るほどの、とてつもない呪力量を持っている。
百年に一度の天才。それが、若様に付けられた名だった。
すごい人なんだろうな、とは思った。でも、それ以上の感情は湧かなかった。私にとって若様は、これから仕えるべき相手。噂がどうであろうと、私がやることは変わらない。従順に、控えめに、完璧な許嫁を演じる。それだけだ。
◆
まるで大人みたいな子供。
それが若様の第一印象だった。
同い年なのに、どこか落ち着いた雰囲気を纏った男の子。黒い髪に、澄んだ瞳。整った顔立ち。けれどその目は少しだけ──どこか遠くを見ているような、不思議な色をしていた。この場にいながら、別の何かを見つめているような。
「初めまして。
私は完璧に、大人が教えてくれた通りの挨拶をした。畳に額を擦りつけてから背筋を伸ばし、作り物の笑顔を浮かべる。
貴方のために尽くします──その従順さを、全身で演じてみせた。
若様は、少し驚いたような顔をした。
それから、困ったように眉を下げて、ふわりと笑う。
「そんなに堅苦しくなくていいよ。俺は瀬那。よろしくね、小依さん」
小依さん。
そう呼ばれて、私は少しだけ驚いた。若様のような立場の方が、分家の、しかも年端もいかない娘に「さん」付けをするなんて聞いたことがない。
隣にいたお義母様が、微かに眉を寄せたのが見えた。格式を重んじる本家において、若様のその態度は明らかに異質だった。
◇◇◇◇◇◇◇
それから、私は本家の離れに住むようになった。
あてがわれたのは、母屋から渡り廊下を伝って一番奥にある六畳の間。窓を開ければすぐ下に海が見える、波の音が昼も夜も絶えず聞こえてくるような、小さな部屋だった。
毎日、若様の後ろをついて歩く。「若様」と呼び、常に控えめに、従順に。
朝は夜が明ける前に起き、身支度を整え、若様を起こしに行く。若様が歩くときは、黙ってその三歩後ろをついていく。若様が本を読んでいれば、少し離れた場所で静かに座って待つ。
そうして若様の後ろをついて回るうちに、その天才性──いや、異質さを、肌で感じるようになった。
若様は、先生が何を教えても驚かなかった。初めて聞くはずのことでも、「ああ、その話か」と、静かに頷く。先生の方がよほど居心地が悪そうだった。子供を相手にしているはずなのに、まるで子供を相手にしている気がしないのだろう。
私だって少しは勉強に自信があったけれど、若様の前では、その程度のことは何の意味も持たなかった。
けれど、天才であること以上に私を戸惑わせたのは、その優しさだった。
この家には、はっきりとした序列がある。本家が上、分家が下。当主様を頂点に、血筋と実力で居場所が決まる。お義母様は私を見る目が時々冷たかったし、家人たちも本家の人間と分家の人間とでは、明らかに態度が違った。
当たり前のことだ。この世界とは、そういうものだ。
なのに若様は、まるでそんなものが見えていないかのように振る舞った。
私が三歩下がって歩いていると、振り返っては手を引いてくる。私が家事をしていると、自らもやろうと名乗り出る。
意味がわからなかった。
最初は、ただの世間知らずのお坊ちゃまなのだろうと思った。大切に育てられて、身分の差というものを実感したことがないのだろう、と。
でも、こんなに賢い若様が、そんなことを知らないはずがない。
ならばなぜ……。
前を歩く若様の背中を見ながら、そんなことをつらつらと考えていたからだろうか。
木漏れ日が揺れる石畳の道は長く、苔むしていて足場が悪い。
普段なら細心の注意を払うはずの場所だったが、私の意識は別のことに囚われていた。
「あっ」
気づいたときにはもう遅い。踏み出した足が、苔に滑る。
視界が傾ぐ。浮遊感。そして、硬い石畳に叩きつけられる──
──ガッ、と強い力で腕を引かれたのは、その直後だった。
「小依!」
若様の声。
私の身体は、落ちるよりも早く、前方へと強引に引き寄せられていた。
勢い余って、若様の胸に飛び込む形になる。
ドサッ、と鈍い音。
二人もつれ合うようにして、石畳の上に倒れ込んでいた。
「……っ、つ……」
耳元で、若様が短く呻く。
私はハッとして顔を上げた。
私を抱きとめた若様の肘が、地面に強く打ちつけられていた。白い着物の袖が、土と擦り傷で汚れている。
「わ、若様……!?」
血の気が引いた。
あってはならないことだ。道具である私が、主である若様に怪我をさせるなんて。
慌てて若様の身体から離れ、青ざめた顔でその腕に手を伸ばす。
「申し訳、ございません……! 私なんかのために、お怪我を……!」
「平気だよ。少し擦り剥いただけ」
若様は痛むはずの腕を隠すように後ろへ回し、逆に私の顔を覗き込んできた。
「それより小依、どこか怪我はない?」
「私のことなど、どうでもいいのです! 若様のお体に傷がついたら、私は……」
取り返しのつかないことをしてしまった。恐怖と申し訳なさで、視界が滲む。
けれど若様は、怯える私のことなどおかまいなしに、あくまで穏やかに笑った。
「どうでもよくないよ」
「え……」
「小依が怪我するより、俺が擦り剥く方がずっといい。可愛い女の子が怪我する方が大変だ」
まるで今日の天気を話すような、気軽な声だった。
ただ当たり前のことを言っているだけ、というような。
それに──今、若様は。
「あの……若様」
「ん?」
「今、私のこと……呼び捨てに、されていませんでしたか」
「あ」
若様は一瞬きょとんとして、それから気まずそうに頬を掻いた。
「ごめんごめん。つい咄嗟だったから。嫌だった?」
「いえ」
私は食い気味に即答する。
嫌ではなかった。
嫌では、なかったのだ。
むしろ、名前をそのまま呼ばれた瞬間、胸の奥がほんの少しだけ温かくなった気がした。
「……そのままで、構いません」
「え?」
「呼び捨てで、構いません。若様のお好きなように呼んでいただければ」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が口をついて出ていた。
「そう? じゃあ、小依って呼ぶよ」
若様はあっさりとそう言った後、少しだけ間を置いて、こちらの目を覗き込んできた。
「なあ、小依もさ。若様じゃなくて、瀬那って呼んでくれない?」
その声は冗談めかしてはいたけれど、目は笑っていなかった。本心なのだと、すぐに分かった。
けれど。
「……それは、できません」
私は、静かに首を振った。
「若様は若様です。私が名前でお呼びするなど……」
「そっかぁ」
若様は少しだけ残念そうに眉を下げたが、すぐにいつもの柔らかい笑顔に戻る。
「まぁ、いいや。気が変わったらいつでも言って」
そう言って若様は「よいしょ」と立ち上がり、ぱんぱんと着物の土を払った。
そして、ふと、若様が小さく笑う。
「うん。やっぱ、そっちの方がいいな」
「……え?」
何のことか分からず目を瞬くと、若様はこちらを見て、何でもないように言う。
「小依、さっきからずっといい顔してる。最初に会った時と全然違う」
言われて、私は自分の頬に手を当てた。
いい顔? 私は今、どんな顔をしていたのだろう。
「子供はさ、そうやって笑ってた方がいいよ」
若様は私から目を逸らし、ぽつりと呟いた。
「この家は……ちょっと窮屈すぎるよな。四歳の子に作り笑いさせて、道具だなんだって。おかしいだろ、そんなの」
独り言のような声だった。私に何かを求めているのではなく、ただ思ったことが口からこぼれた、というような。
その言葉の意味を、
「さ、行こうか」
若様はこちらに手を差し出した。
「……若様、私は後ろで」
「駄目だ」
穏やかだけれど、有無を言わさない声だった。
「また転んだら危ないだろ」
そう言って、若様は私の返事を待たずに、ひょいと手を取った。
小さな子供の手を引く。若様にとっては、きっとそれだけのこと。
なのに。
繋がれた手の温かさが、胸の奥まで染み込んでくるようだった。
嬉しい。嬉しいのに、ほんの少しだけ悔しい。
この方は私のことを「可愛い女の子」と言って、「子供はそうやって笑ってた方がいい」と言って、当たり前のように手を引いてくれる。
まるで小さな子供をあやしているみたいに。
私は、もっと。
もっと、何だろう。その先の言葉が、自分でも見つからない。
ただ、胸の中でぐるぐると渦巻く何かを持て余して、気がつけば、私は若様の手を引いて、駆け出していた。
「おい小依、そんなに引っ張るなって。また転ぶぞ」
「知りません!」
口をついて出た言葉に、自分で驚いた。
こんな口のきき方、今までしたことがない。道具は主人に逆らわない。従順に、控えめに。そう教え込まれてきたのに。
若様が呆れたように、楽しそうに、笑う声が、後ろから聞こえる。
その声を聞いた瞬間、私は笑っていた。
作り物じゃない、本物の。お腹の底から湧き上がってくるような、どうしようもない笑い。
分家にいた頃、こんな風に笑ったことがあっただろうか。
多分、ない。こんな風に、誰かと手を繋いで走ったことも。こんな風に、わがままを言ったことも。
「あっはは、小依、お前意外とやんちゃだな」
若様の声が、風に乗って届く。
「……若様こそ、意外と足、遅いです」
「お、言ったな」
たった、それだけのやり取り。
なのに、嬉しくて、楽しくて、胸がいっぱいで。
ずっと、こうしたかったのかもしれない。誰かと手を繋いで、くだらないことで笑い合って。従順な道具じゃなくて、ただの子供として。
その道を抜けた先に、夕日に染まった海が広がっていた。
息を切らして立ち止まった私の隣で、若様も同じ景色を見ている。繋いだ手は、まだ離れていなかった。
「……若様」
「ん?」
「私、若様のお傍にいてもいいですか」
「何言ってんだ。当たり前だろ」
若様は、きょとんとした顔で言った。本当に、何を当たり前のことを聞いているんだ、という顔。
三歩後ろじゃなくて、隣で。
今日みたいに、若様と一緒に笑って、一緒に走って、一緒に同じ景色を見る。
そのためには、私も、強くならないといけない。足手まといのままじゃ、隣には立てないから。
若様の隣に、並んで歩ける人になる。
それが、道具ではない、私自身の、初めての望みだった。
小依が四歳だということには一旦目を瞑っていただいて……。ものすごーく精神年齢が高くて、賢い子なのです。
あと、小依はちょろインです。でも、生まれてからずっと道具として扱われてきた女の子の目の前に、優しくて、イケメンで、天才な同い年の男の子が現れたら仕方ないよね。