──懐かしい夢を見ていた気がする。
夕日に染まった海。繋いだ手の温かさ。若様と並んで走った、あの石畳の道。
若様の隣に並んで歩ける人になろう。そう決めた日の夢。
目を開けると、障子の隙間から薄い光が差し込んでいた。
夜明け前。いつもの時間。私は名残惜しい微睡を振り払い、手早く身支度を整えた。
大好きな若様。
あの日から、もう二年が経った。
あの頃の私は、ただの道具だった。大人たちの望む形に自分を押し込めて、作り物の笑顔を貼り付けているだけの子供。でも若様が変えてくれた。三歩後ろではなく隣を歩かせてくれた。
だから私自身も変わろうと思えたのだ。
あの日の誓いの通り、私は強くなった。若様の隣にいたい。足手まといにならず、並んで歩けるようになりたい。その一心で、二年間、必死に修行を積んできた。
今日は初めての任務。若様と二人きりで、本土の廃トンネルに向かう。
少しだけ怖いけれど──大丈夫。若様と一緒なんだから。あの日みたいに、隣で笑い合えるように、私だって強くなったのだから。
昨夜、お義母様からいただいた黒いお守りを、ぎゅっと握りしめた。絹のような手触り。でも、なぜだろう。少しだけ、嫌な感じがした。
◆
そうして、初任務のために船に乗って、本土へ。
潮の匂いが鼻をくすぐり、海風が私の髪を揺らす。隣に立つ若様は、水平線を睨むように、少し緊張した顔をしていた。
初任務だ。当然だと思う。でも、その横顔はとても凛々しくて、私は思わず見惚れてしまった。
若様は強い。私なんかより、ずっと。いつか二人で高専へ行く。そして、きっと最強の術師になる。
でも、若様はかっこいいから、他の女の人にもモテモテだろうなぁ。私なんか、きっとその中の一人にしか……なんて。そんな他愛もない未来を想像するだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
廃トンネルに着いた。
入口は錆びた鉄柵で封鎖されていて、隙間から湿った空気が漏れ出している。まとわりつくような不気味な気配。生温かく、腐葉土と、もっと別の何かが混じったような臭い。でも、報告書通りなら低級呪霊。若様と二人なら、きっと大丈夫。
若様が鉄柵の前で足を止め、こちらを確認するように言った。
「小依、自分の分の塩は持ってきてるな?」
「はい、大丈夫です」
私は自分の腰にある道具袋をたたいて見せる。
「よし。打ち合わせ通り、使い切っても補給できるよう、道中にも呪符で封じた分を置いてもらってある。それじゃあ、出発だ」
若様の声に、私は力強く頷いた。
暗いトンネルの中は懐中電灯の光だけが頼りだった。
コンクリートの壁は湿っていて、足音が不気味に反響する。
奥に進むと、すぐに最初の呪霊が現れた。小さな、犬のような形をした低級呪霊。報告書通りの4級だ。
「小依、右」
「はい!」
若様が左から塩の刃を投げつけると同時に、私は右から塩の槍を放つ。息はぴったりだった。呪霊は悲鳴を上げて、あっけなく霧散する。私はほっと、胸を撫で下ろす。横を見ると、若様の表情も、心なしか安堵したように緩んでいる。
さらに奥へ進む。
また呪霊が現れた。今度は二体。
でも、やはり4級程度。若様と私で、すぐに祓った。
「意外と簡単だな」
若様が、少し肩の力を抜いて笑った。
「はい! このくらいなら、問題ないですね! 若様と私ならよゆーです!」
私はおどけてシャドーボクシングの真似をしてみせる。その様子を見て、若様もクスクスと笑ってくれた。
……けれど。奥へ進むにつれ、
呪霊の数が、少ない。
報告書では、4級程度の呪霊が群れをなしているとあったけれど、今まで祓ったのはたったの3体だけ。
「若様……」
「ああ、俺も思ってた。……何か、おかしい」
若様の声に、少し警戒の色が混じった。
しかし、引き返す選択肢は、今の私たちにはなかった。この程度のことで、任務放棄していては、呪術師になることはできない。
それに、これは初任務だ。この程度の違和感は、私たちが初めての任務で知らないだけで普通なのかもしれない。
そんな希望的観測で、喉を焼くような鉄錆の臭いから目を逸らし、私たちは最奥へと足を踏み入れた。
そこは、行き止まり。
報告書にはトンネルとあったのに、行き止まり?
そして、ふと振り返った。
入口の光が、ない。
さっきまで見えていたはずの、あの小さな光の点。しかし、振り返った先には、前と同じ闇が続いているだけだった。
「あれ、若様?」
異常を感じて若様に尋ねようとして、そちらを見ると、行き止まりの壁にライトを当てた若様がガタガタと震えていた。
前を向く。懐中電灯を正面に向ける。
「ヒエッ」
喉から声が出た。
そこにいたのは。
巨大な、醜悪な、何か。
トンネルの天井いっぱいにまで膨れ上がった肉塊。腐り落ちかけた灰色の皮膚の隙間から、赤黒い筋繊維がびくびくと脈打っているのが見えた。
体表のあちこちに、大小さまざまな目玉が埋め込まれている。人間の目、獣の目、虫の複眼。
それらが一つ一つ、ばらばらの方向を向いて、ぐるぐると不規則に蠢いている。その目玉の隙間から、透明な粘液がぼたぼたと滴り落ちて、コンクリートの床を濡らしていた。
口だと思えるものも、いくつもあった。縦に裂けた口、横に裂けた口、頬のあたりに開いた穴。そのどれもが、ずらりと並んだ人間の歯をむき出しにして、ゆっくりと開閉を繰り返している。
まるで、何かを咀嚼しているかのように。ぐちゅり、ぐちゅりと、湿った音が反響する。
息が、詰まる。
少なくとも……これは、低級呪霊なんかじゃない。
「な、なんで……」
若様の声が、震えている。私も、足がすくんで動けない。
懐中電灯を握る手が、ガタガタと音を立てていた。怖い。恐ろしい。本能が警鐘を鳴らしている。逃げろ、と。今すぐここから逃げろ、と。
その時だった。
「小依、下がるな」
若様の声はまだ震えている。でも、その声には、怯えの中に一欠片の芯が残っていた。
若様が、一歩前に出る。
「逃げ道は塞がれてる。……なら、やるしかない」
若様が壁際に置かれた呪符のついた袋を解くと、白い塩の結晶がさらさらと空中へ舞い上がった。そして、両手を前に構える。
その背中を見て、私は思い出した。
そうだ。二年間、この日のために修行してきたんだ。
「っはい!」
私は若様の隣に並んだ。三歩後ろじゃない。隣に。
呪霊が咆哮を上げる。空気が震える。でも、もう足は竦まなかった。
「小依、左右から挟む!」
「はい!」
若様の右手から、巨大な塩の龍が形成された。
この前見せてくれた龍よりもずっと大きく、遊びで作ったあの龍には無かった、鋭い牙と爪が生えている。
同時に、私は左手から塩のうさぎを三体放った。修行で磨いた、同時操作の技術。
「行けぇっ!」
若様の龍が、呪霊の正面から突撃する。鋭い牙が呪霊の体表に食い込み、灰色の皮膚を引き裂いた。
だが、呪霊は微動だにしない。龍に抉られた傷口が、見ている前からじわりと塞がっていく。
その隙に、私のうさぎが呪霊の体に突っ込んだ。一体目が体表を抉り、二体目が触腕の根元に噛みつく。だが、呪霊はやはり気にした素振りもない。
三体目のうさぎが、飛び跳ねながら呪霊の顔面に向かった。そのまま、体表に埋め込まれた大きな目玉の一つに、頭から突っ込む。
ブチュッ。
目玉が弾けた。
その瞬間──呪霊が、これまでとは比べ物にならない絶叫を上げた。体全体がびくんと痙攣し、触腕が滅茶苦茶に暴れ回る。天井や壁に叩きつけられ、コンクリートの破片が降り注ぐ。まるで、本当に痛がっているように。
「若様! 今の!」
「ああ、見てた」
若様の目が、鋭く光った。
「目だ。目玉を潰した時だけ、明らかに反応が違った」
若様の言う通り、体表を裂いた時、触腕を攻撃した時とは、リアクションが段違いだった。あの絶叫。あの痙攣。急所を突かれた生き物の反応だ。
「弱点……!」
「多分な。あの目玉が本体に近い何か──核みたいなもんだ」
若様が息を整えながら、呪霊を睨む。呪霊は一つ目玉を潰されたダメージからか、動きが明らかに鈍っている。触腕の先端が小刻みに痙攣していた。
「小依、作戦変更だ。体を攻撃しても意味がない。目玉だけを狙え」
「はい!」
希望が見えた。こいつは確かに強い。でも、弱点があるなら、二年間磨いてきた私たちの力で、届くかもしれない。
「行くぞ!」
若様の龍が再び宙を舞った。今度は体表を裂くのではなく、呪霊の右側面に張り付いた目玉めがけて、爪を振り下ろす。
ブチュッ。
一つ目。龍の前足が目玉を抉り取った。続けざまに、もう片方の前足で隣の目玉を掻き潰す。
ブチュッ。ブチュッ。
さらに龍が首を伸ばし、牙で目玉に噛みついた。人間の目が、獣の目が、歯の間で砕ける。
ブチュッ。ブチュッ。
五つ。右側面の目玉が五つ、立て続けに潰れた。
「小依! 左だ!」
「はいっ!」
私のうさぎ二体が、左側面の目玉に飛びかかった。一体が獣の目を噛み砕き、もう一体が虫の複眼を踏み潰す。呪霊が身をよじり、触腕で私のうさぎを叩き落とそうとする。
でも、遅い。さっきまでの余裕のある動きと違って、目玉を狙われた途端に防御が必死になっている。
「やった! 若様、左も二つ潰しました!」
私は目を凝らして、体表に残っている目玉を数える。
最初は二十以上あった。今残っているのは──十二、三くらい。
若様の龍が体勢を立て直し、呪霊の腹部に回り込んだ。そこに散らばる目玉を、爪と牙で片っ端から潰していく。
ブチュッ。ブチュッ。ブチュッ。
呪霊が暴れ狂う。触腕が滅茶苦茶に振り回され、私たちに当たりそうになる。でも、当たりそうなだけだ。致命傷になるような攻撃は一発もない。目玉を守ろうと必死で、攻撃に意識を割けていない──そう見えた。
「残り八つ!」
若様が叫んだ。
私はうさぎの三体目を再生成して、呪霊の頭頂部に飛ばした。そこに密集している三つの目玉を、一気に潰す。
ブチュブチュブチュッ!
呪霊の動きが目に見えて鈍った。体の膨張が収まり、一回り小さくなったように見える。触腕の力も弱まり、だらりと垂れ下がり始めた。
「効いてる……! どんどん弱ってる!」
「あと五つだ!」
そして、若様の龍が二つ、私のうさぎが一つの目玉を潰す。残りは二つ。
呪霊はもはやまともに抵抗できていなかった。体が痙攣し、口からは苦悶の唸り声だけが漏れている。若様が龍を操り、私も、残った呪力を搾り出してうさぎを一体作り出す。
「同時に行くぞ!」
「はい!」
若様の龍が、呪霊の額に残った最後の目に牙を突き立てた。同時に、私のうさぎが、腹部に残った最後の獣の目に飛び込む。
ブチュッ──。ブチュッ──。
最後の二つの目玉が、同時に弾けた。呪霊の体から、力が抜けた。巨体がゆっくりと傾き、トンネルの壁にもたれかかるように崩れ落ちていく。触腕は完全に脱力し、体表からは体液がだらだらと流れ落ちている。
動かない。微動だにしない。
「……倒した、のか?」
若様が膝を突き、荒い息を吐きながら呟く。
「若様! やりましたね!」
思わず声が弾んだ。若様と二人で、この化け物を倒したんだ。二年間の修行は無駄じゃなかった。若様も、疲れた顔に安堵の笑みを浮かべて──
──プチッ。
小さな音がした。
呪霊の、肉塊と化した体表から、小さな芽のようなものが突き出す。
プチ、プチプチプチッ。
一つ。二つ。五つ。十。灰色の肉を割り、新しい目玉が次々と芽吹いていく。
最初は米粒ほどの小さな点。それが見る間に膨らみ、虹彩が浮かび、瞳孔が開き──完全な目玉へと成長していく。
十五。二十。二十五──数えるのを止めた。元の数より、遥かに多い。
潰したはずの傷口は泡立ち、盛り上がり、何事もなかったかのように滑らかな皮膚へと戻っていく。
「嘘……」
私の声は、掠れて消えた。
「嘘だろ……全部、戻って……」
若様の顔から血の気が引いていた。新しく生えた無数の目玉が一斉に、私たちを見た。
そして、
ケタケタケタケタケタケタケタケタ!!
呪霊が、笑った。
複数の口が、同時に吊り上がった。
歯をむき出しにして、喉の奥から溢れ出すような嘲笑。人間を真似た、しかし人間のものでは決してない笑い声が、トンネルの壁に反響して何重にも重なる。
それは、「痛がっていた」わけではなかったのだ。目玉を潰された時の絶叫も。身をよじる動きも。弱っていく素振りも。全部、全部演技。あの化け物は、最初から。私たちが必死になって弱点を見つけたと喜ぶのを。一つずつ目を潰して勝利に近づいていると信じるのを。最後の一つを潰して歓声を上げるのを。その全てを眺めて、楽しんでいたのだ。
ケタケタケタケタ。
笑い声が止まない。呪霊の体がゆっくりと起き上がる。さっきまでの傷だらけの弱々しさは跡形もなく、体表は滑らかに張り詰め、トンネルの天井を押し上げるように膨張していく。
その巨体の中心で、新しく生えた無数の目玉が、一斉にぐるりと裏返った。そして、まるで世界そのものを抱き込むかのように、呪霊が、両腕を、大きく広げた。
ドクンッ、と。
空間が、歪む。
第3話で「小依がなんで原作に出てこなかったのか分からない」みたいな話がありますが、普通にこの呪霊に殺されてたからです。