呪術廻戦の世界でMobが頑張る話   作:不知火りん

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第6話 初陣!(破)

 空間が、歪んだ。

 

 トンネルの壁が溶ける。天井が消える。床が崩れる。世界が、塗り変わる。

 

 気づけば、私たちは見知らぬ場所に立っていた。

 

 周囲を覆うのは、赤黒い肉壁。天井も床も壁も、全てが脈打つ巨大な臓腑のようだった。ぬるりとした粘液が壁を伝い、腐敗した鉄の臭いが充満している。鼓動のような低い振動が、足元から全身を伝って這い上がってくる。

 

「な……これ、は……」

 

 若様の顔が蒼白になった。

 

「領域……展開……ッ!?」

 

 蔵の古い本に書いてあった。術式を付与した生得領域を呪力で構築する、呪術の極致。

 こんな化け物が、それを使えるなんて。

 

 直後、異変が起きた。

 

 痛い。

 

 突然、全身に焼けるような痛みが走った。殴られたわけでも、切られたわけでもない。ただこの空間に立っているだけで、皮膚の下を針が這いずり回っているような、じりじりとした痛みが全身を襲ってくる。

 

「ぅ……っ!」

 

 私は思わず膝をついた。隣で若様も、脂汗を浮かべて顔を歪めている。

 

「なんだ、これ……体中が……」

 

 痛みが止まらない。呼吸をするたびに肺が軋み、心臓が脈打つたびに胸が割れそうになる。瞬きするだけで、眼球の裏側を爪で掻かれているような感覚がする。

 

「ぐっ……残っているのは、腰の袋の分だけか……!」

 

 若様が歯を食いしばり、震える手で塩を引き出した。右手で龍を形成しようとした、その時。

 

 触腕が動いた。若様の方ではない。若様を無視して、その後ろにいる私に向かって伸びてくる。

 

「小依!」

 

 若様が振り返り、私を突き飛ばした。代わりに、その重厚な一撃を腹で受ける。

 

「がぁぁぁっ!!」

 

 若様の悲鳴がトンネルに響いた。体がくの字に折れ、床を転がる。塩の龍は形を成す前に霧散し、白い塩の粒が空中に散った。

 

「若様!」

 

 そう言い、私が若様に近寄ろうとしたとき、今度は私の横腹を触腕が薙いだ。

 

「ああああああ!!」

 

 喉が裂けるほどの悲鳴をあげていた。ただ軽く薙がれただけのはずなのに、全身の骨が粉砕されたかのような激痛が走る。視界が真っ白に染まり、思考が焼き切れる。

 

 痛い。痛い痛い痛い。

 

 おかしい。この空間に入ってから、痛みが、何倍にも増幅されている。

 

 呪霊の動きが変わった。鈍重だった巨体が嘘のように、鞭のようにしなる触腕が空気を引き裂く。

 

 若様がよろめきながら、再び私の前に立った。

 

「来い……!」

 

 必死に塩の盾を展開しようとする若様。しかし、絶え間ない必中の痛みで集中が乱れ、形が歪む。

 不完全な盾が生成された直後、暴力的な一撃が叩きつけられた。

 

 盾が持ったのは一瞬だけ。すぐに砕け、その衝撃が若様の両腕を直撃する。

 

「ぐっ……あぁぁぁ!!」

 

 若様は床に崩れ落ちた。それでも、私の前から退かない。

 

 呪霊は嬉しそうだった。無数の目玉が、苦しむ私たちを舐めるように見回している。口が吊り上がり、ケタケタと小さく笑い声を漏らしている。

 

 こいつにとって、これが楽しいのだろう。

 

 若様が塩の刃を飛ばした。痛みで歪んだ、不格好な刃。それでも呪霊に向かって撃ち出す。刃は呪霊に突き刺さったが、呪霊はケタケタと笑うだけだった。体表の傷は一瞬で塞がる。

 

 一方的だった。

 

 呪霊は守る必要すらなく、ただ触腕を振るうだけ。私たちはそのたびにありえない激痛に悲鳴を上げ、術式の集中が途切れ、また殴られる。

 

 何度目かの触腕が若様の腕を直撃した。

 

 ──ベキッ。

 

 鈍い音。若様の腕が、不自然な角度に歪んだ。

 

「っ──────!!」

 

 若様は声にならない叫びをあげて膝をついた。それでも、折れた腕を庇いながら、盾になろうとする。

 

「わ、若様……!」

「下がって、ろ……絶対に……俺の後ろから離れるなよ……」

 

 震える声。限界を超えた肉体。それでも、私の前からは退こうとしない。

 

 しかし、触腕は容赦なくそんな若様を打った。

 

「がぁぁぁぁ!!」

 

 若様が肉壁に向かって叩きつけられる。そして、そのままずるずると床に崩れ落ちた。

 

「若様!!」

 

 私が駆け寄ろうとした瞬間──呪霊は、もう私の目の前にいた。

 若様には、もう見向きもしない。

 

 呪霊の触腕が、次々と私に襲いかかった。

 

「がはっ……!」

 

 一発。腹に。

 

「ぁ……っ!」

 

 もう一発。背中に。

 

 そのたびに、この空間がもたらす異常な痛みが体を貫く。普通なら打撲で済む一撃が、内臓を直接握り潰されたような激痛に変わる。

 

 視線の先で、若様が叫んでいた。

 

「小依!!」

 

 折れた腕を引きずりながら、這うようにして私の方に来ようとしている。

 

 その時、懐のお守りが、熱を帯びたように感じた。まるで、何かを引き寄せているような。

 

 ふと、お義母様の言葉が蘇る。

 

『これはお守りです』『必ず、肌身離さず持っているのですよ』

 

 果たして、なんのための?

 

 あぁ、そうか。

 

 これは私を守るためのお守りではなく、若様を、守るためのお守り。

 

 私が、若様の囮。私が、若様の身代わり。そのための──呪物。

 

 思い返せば、若様は一度も狙われなかった。若様が怪我を負っているのは、私を庇ったからだ。最初からこのお守りが、化け物を私に引き寄せていたのだ。

 

 遠くで、若様が必死に這っている。折れた右腕を引きずって。左手だけで、私の前に、戻ろうとして。

 

 その姿を見て覚悟が決まった。

 

 ありがとう若様。分家の、道具でしかない私をこんなにも大切に想ってくれて。本当に、嬉しかった。

 

 あぁ、でも、このままじゃ若様が追いついて、また私を庇って、巻き添えになる。

 

 なら、もっと離れないと。

 

 若様が追いつけないくらい、遠くへ。

 

「小依!! 待ってろ!! 今行く!!」

 

 若様が叫んでいる。

 でも、私は逆に、涙を振り切って肉壁のトンネルの奥へと走った。

 

 若様が来る方向とは、反対に。

 

 走るたびに、足の裏から全身に痛みが駆け上がる。この空間では、地面を踏むだけで痛い。走るなんて、拷問だ。

 

 でも、止まらない。

 

「小依!! 馬鹿!! 戻ってこい!!」

 

 ごめんなさい、若様。でも、これしか方法がない。大好きな若様を、守るためには。

 

 呪霊が、追ってくる。

 速い。

 逃げ切れない。

 

 でも、せめて。

 

 せめて、少しでも若様から離れた場所で。

 

 背後に迫る風圧。次の瞬間、呪霊の巨大な手が、私の体を鷲掴みにした。

 

 ミシミシと、骨がきしむ音がする。

 

 痛い。体が押しつぶされる痛みと、領域がもたらす激痛が重なり、気絶することすら許されないまま意識が覚醒し続ける。

 

「あ……が……若様……ごめんなさい……」

 

 高専に、一緒に行く約束。

 

 守れなくて。

 

 ごめんなさい。

 

 呪霊の腕に、さらに力が込められた。体が、砕かれる音。

 

 でも、若様は、無事。

 それだけで──。

 

 体が砕ける音を聞きながら、私の意識は暗転した。

 

 

 

 

 ◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 

「小依ぃぃぃぃぃぃぃっ!!!」

 

 俺の絶叫が、赤黒い肉壁に反響した。目の前で、小依が握り潰された。俺を助けるために。俺から呪霊を引き離すために。

 

 ドサッ、と小依の体が俺の方に放り出される。

 

 俺は転がるように駆け寄った。

 

「小依! 小依! しっかりしろ!」

 

 酷い惨状だった。全身の骨が砕けている。内臓もやられている。口からは大量の血が溢れ、俺の服を赤く染めていく。治せない。俺の今の実力じゃ、まだ反転術式なんて使えない。このままじゃ、死ぬ。小依が、死んでしまう。

 

「あ……ぅ……」

「喋るな! 今助けるから! 何とかするから!」

 

 その時、ふと、違和感に気づいた。

 呪霊の視線だ。さっきまで小依を執拗に狙っていた無数の目が、小依が倒れた今も、まだ小依の懐あたりを貪るように見つめている。

 

 なぜだ。なぜ、小依なんだ。呪力量は俺の方が多いはずだ。術師としての脅威度も高いはずだ。なのに、なぜこの化け物は、これほどまでに小依だけを狙う?

 

 小依の懐。そこにあるのは、母さんが渡したお守り。

 

 母さんの、いつも小依を見る、あの冷ややかな表情が脳裏をよぎった。

 

 ……まさか。

 

 一つの、あまりにも残酷な推測が、パズルのピースのようにカチリと嵌まった。

 

 相伝の術式。その価値は「唯一無二」であることだ。当主である父さんや、権威を重んじる母さんにとって、分家の娘ごときが本家の跡取りと同じ術式を持ち、しかも俺に匹敵する才能を持っていることは、決して喜ばしいことではない。

 

 だから、間引こうとしたのか。呪いを引き寄せる餌を持たせて。俺の初陣というカモフラージュを使って。俺を輝かせるために、紛い物を処分するために。

 

「ははっ」

 

 自嘲の笑いが漏れた。

 

 あぁ、なるほど、つまりこれは全部俺のせいだ。

 

 俺が存在しなければ。俺が存在するせいで、小依はこんな目に遭っている。

 

 俺のいない世界を想像する。恐らく、相伝の術式を発現した小依は本家に養子として迎え入れられたことだろう。今の俺の許嫁という立場よりも、ずっといい生活を送れていたかもしれない。

 

 少なくとも言えることは、小依はこんな目に遭わなかった。

 

 今の俺の生活は、本来小依が得るはずだったものを塗りつぶして、その上で営まれている偽りの幸福だ。

 

 俺は、血まみれの小依の手を握りしめた。

 

「俺の……せいだ……」

 

 俺が生まれてこなければ。俺が、小依を殺したんだ。

 

 呪霊が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。複数の口がケタケタと嘲笑うような不気味な笑みを浮かべて。

 

 瀕死の獲物を見て勝ちを確信しているのだろう。ずるり、ずるりと引きずるように近づいてくる。

 

 小依の手が、冷たくなっていく。

 

 脈が弱くなっていく。

 

 もう、時間がない。

 

 どうすればいい。何ができる。反転術式は使えない。医者もいない。誰も助けに来ない。

 

 でも、小依だけは。小依だけは死なせちゃいけない。

 

 俺が始めた物語だ。俺のせいで小依はここにいる。俺のせいで血まみれになっている。だったら、俺がどうにかしなくてどうする!!

 

 何を差し出してもいい。この先の人生でも、才能でも、魂でも、何だって差し出してやる。だから──

 

「小依を、助けろぉぉぉぉっ!!」

 

 ドクンッ!!

 

 その瞬間、体の奥底で何かが弾けた。

 

 呪力が、溢れ出してくる。今まで感じたことのない質の、温かくて、眩しくて、それでいて途方もない量の力が、全身を駆け巡った。

 

 肉体が内側から張り裂けそうになる。骨が軋み、血管が悲鳴を上げる。しかし、溢れ出す呪力が内側から正のエネルギーへと変換されていき、壊れかけた肉体を繋ぎ止める。折れた腕が、ゴキリと音を立てて元に戻った。

 

 ──反転術式。

 

 俺は小依の手を握ったまま、その力を流し込んだ。

 

 カァァァァッ!!

 

 俺の手から溢れた光が、小依を包み込んだ。砕けた骨が音を立てて繋がり、潰れた臓器が瞬く間に修復されていく。小依の顔に、赤みが戻る。

 

 呼吸が安定した。脈が強くなっていく。

 

「……はぁ……はぁ……」

 

 助かった。小依は、生きている。

 

 安堵で膝が折れそうになった。だが、まだやることがあるだろう。

 

 俺は小依の懐に手を入れた。指先が触れたのは、あの黒いお守り。母さんが小依に持たせた、呪いを引き寄せる餌。

 こいつがある限り、小依は狙われ続ける。

 

 俺は黒いお守りを抜き取り、代わりに自分の白いお守りを小依の懐に滑り込ませた。

 

 そうして、呪霊に対峙する。

 

 赤黒い肉壁が、まだ周りを覆っている。あの異常な痛みも、まだ全身を蝕んでいる。足の裏が焼けるように痛い。呼吸をするだけで肺が軋む。

 

 ──だから、何だ。

 

 呪霊の無数の目が、怪訝そうに揺れた。俺は、笑った。

 

「前世は、碌なものじゃなかった」

 

 呪霊には言葉は通じないだろう。でも、言わずにはいられなかった。

 

「毎日、誰もいない部屋に帰って、何のために生きてるのかもわからなかった」

 

 右手を持ち上げる。指先から、塩の結晶が湧き出した。さっきまでと、密度が違う。空気中の水分から塩を抽出する。そんな芸当が、今は呼吸をするように自然にできた。

 

「それが生まれ変わったら、可愛い許嫁がいて、毎日一緒に笑ってくれて」

 

 塩の龍が形成される。形成された龍は、さっきまでの比ではない。鱗の一枚一枚が白銀の刃となり、神々しいまでの威光を放っている。

 

「やっと見つけたんだよ。何のために生きてるのかって答えが」

 

 呪霊が、本能で危機を察したのか、咆哮を上げて突っ込んでくる。触腕が鞭のようにしなって、俺の頭を狙った。

 

「お前ごときに、壊させるかよ」

 

 龍が飛んだ。

 

 ズドォォォンッ!!

 

 呪霊の巨体が、龍の突撃に吹き飛ばされた。赤黒い肉壁に叩きつけられ、肉壁ごと大きく陥没する。

 

 追撃。右手を振るうだけで、塩の刃が数十本、同時に生成されて呪霊に殺到した。

 

 ブチュブチュブチュッ

 

 呪霊の体に次々と突き刺さり、体液が噴出する。

 

 呪霊が再生しようとする。目玉が生え始める。

 

「させるか」

 

 龍が旋回し、生えかけた目玉を片っ端から爪で抉り取った。再生の速度を上回る破壊。呪霊が甲高い悲鳴を上げた。

 

 さっきまで俺たちを弄んでいた化け物が、今度は俺に追い詰められている。

 

 背を向けて、肉壁の奥へと逃げようとする呪霊の退路を龍が塞いだ。正面には俺。背後には龍。

 

 呪霊の目玉が、初めて恐怖の色を浮かべた。さっきまでの嘲笑はどこにもない。何十という瞳孔が、怯えたように縮んでいる。

 

 俺は一歩、また一歩と呪霊に向かって歩いた。

 

 触腕が振り回される。俺の腕を打った。

 

 痛い。体が千切れるような激痛が走る。

 

 しかし、足は止めない。

 

 もう一本。胸を打った。肋骨が軋む痛み。

 

 それでも、足は止めない。

 

 これぐらいの痛みがなんだ。小依はもっと痛かったはずだ。

 

 作り出した塩の刃が目玉を潰す。龍の爪が肉を抉る。牙が触腕を噛みちぎる。

 

 一方的だった。

 

 呪霊が体液を撒き散らしながら、悲鳴を上げ続けている。

 

 肉壁が、揺れ始めた。

 

 赤黒い壁面にひび割れが走る。天井の肉が剥がれ落ち、その向こうにコンクリートの灰色が覗く。

 

 領域が、崩壊しかけていた。

 

 びきっ、びきっ、と亀裂が広がる。肉壁が溶けるように薄れていく。

 

 そして、赤黒い世界が、ガラスのように砕け散った。

 

 元の、冷たいコンクリートのトンネル。

 

 呪霊は俺の目の前にいた。領域の外に放り出された巨体は、もはや見る影もなかった。体表はボロボロに裂け、目玉は半分以上が潰れ、触腕は何本もちぎれて床に転がっている。

 

 ケタケタと笑っていた口は、今は苦悶に歪んで開閉を繰り返すだけだった。

 

 俺の体に残された全ての力を、最後の一撃に込める。これで終わらせる。小依が二度と、こんな目に遭わないように。

 

 右手に、ありったけの塩を収束させた。圧縮して、圧縮して、さらに圧縮する。

 

 口元から、一筋の血が流れた。

 指先の感覚が、薄れていく。

 気にしない。

 後退する呪霊を、俺は笑って見つめた。

 

「──終わりだ」

 

 そして、腕を振りかぶった──。

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