セミの声が耳障りなほどにうるさく感じる。じっとりと肌に張り付くような湿気と、線香の匂い。
本家の広間には、黒い服を着た大人たちがずらりと並んでいる。本家の人間、分家の人間、使用人──誰もが同じような沈痛な顔をして、その中心にあるものを見つめていた。小さな、あまりにも小さな白い棺。
若様の葬式。
あのトンネルから、私はどうやって帰ってきたのか覚えていない。気づいたら本家の大人たちに囲まれていて、何度も何度も同じことを聞かれた。何があったのか。なぜ若様が死んだのか。なぜお前だけが生きているのか。
私は、全てを話した。お義母様からもらったお守りのことも。呪霊が私だけを狙っていたことも。若様が私を治して、お守りを入れ替えて、自分が囮になったことも。
事実を告げるたび、大人たちの顔が、みるみる青ざめていくのがわかった。
あの日から、お義母様の姿を見ていない。お義父様──当主様も、私と目を合わせようとしなかった。
今、私の隣に立っているのは、分家の侍女だけ。分家の娘である私に、声をかける者は誰もいない。まるで、私がここにいないかのように。
棺の中身は、空だった。若様の体は、あの爆発で塩の結晶になって散ってしまった。骨すら残らなかった。だから、あの棺の中にはほとんど何も入っていない。若様の遺品が少しだけ。
それが、若様の全て。
涙は、もう枯れてしまった。あのトンネルで泣いて、泣いて、泣き続けて。今はただ、心の中にぽっかりと穴が空いたような感覚だけがある。
私の手の中には、小さな巾着袋がある。中に入っているのは、あの時舞い落ちてきた塩の結晶。若様だったもの。これだけは、誰にも渡さなかった。若様の形見として、私がずっと持っていたかった。
「……小依」
声をかけられた。顔を上げると、当主様が立っていた。その顔には、悲しみと、それ以上の何か──焦りのようなものが滲んでいる。
「辛いだろうが……瀬那の分まで、強く生きなさい」
小依。当主様が私の名前を呼んだ。初めてだった。いつも「分家の娘」とか「お前」とか、そういう呼び方だったのに。
「……はい」
私は小さく頭を下げた。それ以上、何も言えなかった。
◇◇◇◇◇◇◇
葬式が終わった後、私は侍女に呼び止められた。
「小依様。こちらを」
差し出されたのは、二つのもの。一通の封書と、一冊の古いノート。
「瀬那様が、任務の前にお預けになっていたものです。遺書と……日記、とのことでした」
遺書。
呪術師にとって、任務の前に遺書を書くのは珍しいことではない。いつ死んでもおかしくない世界だから。若様も、そうしていたのか。
「瀬那様は、ご家族や親しい方々に向けて、それぞれ遺書を残されていました。こちらは、小依様宛てのものです」
私は、震える手で封書を受け取った。
若様の字で「小依へ」と書かれている。それだけで、枯れたはずの涙がまた溢れそうになった。
「日記については、瀬那様から『小依以外には開けられないようにしてある』と伺っております。そういう呪具だ、と」
呪具。若様が、わざわざそこまで。
「ありがとう、ございます……」
「それと、小依様」
侍女が続けた。
「当主様の指示により、本日より瀬那様のお部屋をお使いいただくことになっております。お荷物は私共で運ばせていただきます」
「……え?」
若様の部屋を、私が?なんで?
分家の娘である私が、本家の跡取りの部屋を使う理由がわからなかった。でも、当主様の指示だと言われれば、逆らうこともできない。
「……わかりました」
困惑したまま、私は遺書と日記を胸に抱いて、若様の部屋へ向かった。
◇◇◇◇◇◇◇
若様の部屋は、出発した日のままだった。
机の上には読みかけの本。布団は綺麗に畳まれている。壁には、私と若様が一緒に写っている写真が貼ってあった。
若様の匂いがする。
障子から差し込む西日が、部屋を淡い橙色に染めていた。
若様がいつも座っていた座布団。若様がいつも使っていた筆。
でももう、ここには誰もいない。
私は机の前に座り、遺書を開いた。
小依へ
この手紙を読んでいるということは、俺は死んだんだろう。
ごめんな。一緒に高専に行くって約束、守れなかった。
でも、小依には生きていてほしい。
俺がいなくても。いや、俺がいないからこそ、自由に生きてほしい。
この家のしがらみとか、本家とか分家とか、そういうの全部無視して、小依が笑って暮らせる場所を見つけてくれ。
日記も一緒に渡してもらうようにしてある。
それを読めば、この世界のことが色々わかると思う。
小依が幸せに、長生きするために使ってくれると嬉しい。
最後に、小依に会えて、本当によかった。
俺の人生で一番の幸運は、間違いなく小依と出会えたことだ。
ありがとう。
大好きだ。
大好き。
若様がそんなことを。
私も、大好きでした。若様。
ずっと、ずっと、ずっと大好きでした。
伝えたかった。
伝えられなかった。
もう、二度と、伝えられない。
涙で、文字が滲んで読めなくなった。遺書を抱きしめて、私は声を殺して泣いた。
◆
どれくらい時間が経っただろう。
泣き疲れて、ようやく顔を上げた時、窓の外はもう暗くなっていた。
私は日記を手に取った。表紙に触れると、若様の呪力の残滓を感じる。確かに若様が触れていたもの。若様が生きていた証。
ゆっくりとページを開く。
最初の方には、信じられないことが書いてあった。
若様は「転生者」で、この世界が「呪術廻戦」というマンガの世界だということ。これから何が起こるか、全部知っているということ。五条悟という最強の術師のこと。両面宿儺という呪いの王のこと。夏油傑の離反。渋谷事変。死滅回游。そして──多くの人が死ぬ、悲惨な結末のこと。
不思議と疑う気持ちは起こらなかった。あぁ、そうかという思いだけ。
それよりも気になったのは──。
『今日、分家の娘に会った。小依というらしい』
『許嫁が超絶可愛い。隣の離れに住んでいる小依という同い年の女の子なんだが』
『小依の術式の精度がやばい。俺より才能あるんじゃないか?悔しいけど、すごい』
『今日も小依と一緒に修行した。小依は覚えるのが早すぎる。俺が三日かかった技を一日で習得してた。天才か?天才だな。うん』
思わず、ふっと笑ってしまった。
なんだこれ。
『今日は小依に会えなかった。修行の予定だったのに、分家の用事で来られないって。つまらん。明日は来てほしい』
『小依が来た。昨日の分まで頑張りますって言ってた。あぁ、可愛いなぁ』
ページをめくるたびに、私のことが書いてあった。
今日の小依はこうだった。小依がこう言った。小依とこんな話をした。小依の術式がどうだった。小依が笑った。小依が怒った。小依が、小依が、小依が──。
若様の日記は、ほとんど私の観察日記だった。
『小依が自由に生きられる世界を作りたい。本家とか分家とか、女だからって虐げられない、そんな世界を』
──私のために、世界を変えようとしてくれていた。
『今日、小依が夕焼けを見て「綺麗ですね」って言った。俺もそう思ったけど、小依の横顔の方が綺麗だった。言わなかったけど』
……若様。どうして言ってくれなかったんですか。
『小依と将来の話をした。高専に行ったらどんな生活になるんだろうって。寮生活だから毎日会えるなって言ったら、小依が嬉しそうに笑った。あの笑顔のためなら何でもできる気がする』
私も、楽しみにしてた。
若様と一緒に暮らせること。ずっとずっと楽しみにしてた。
『小依と高専に一緒に行くために、まずは明日の任務を絶対に成功させてみせる』
それが最後のページだった。
その続きは、永遠に書かれることがない。
ぽたり、と。涙が日記に落ちた。
若様の字が滲んでいく。
「……若様」
声が震えた。
「私のこと、こんなに見ててくれたんですね」
返事はない。当たり前だ。もう、いないんだから。
「私も、若様のこと、ずっと見てました」
日記を胸に抱きしめる。若様の想いが詰まった、最後の欠片。
「若様と一緒にいる時間が、私の全部でした。若様が笑ってくれるだけで、嬉しかった。若様が褒めてくれるだけで、頑張れた。若様がいてくれるだけで──生きていけた」
涙が止まらない。
「なのに、なんで」
声が、嗚咽で途切れる。
「なんで、私なんかを庇って死んじゃうんですか……っ」
若様は、私に幸せに生きてほしいと言っていた。
でも、若様がいない世界で、どうやって幸せになればいいんですか?
私が本当に幸せになれる世界は、若様がいる世界だけだったのに。
◆
どれくらい泣いただろう。
涙が枯れて、やっと顔を上げた時、私の中で明確に何かが変わっていた。
若様は、私に幸せに生きてほしいと言っていた。でも、若様がいない世界で、どうやって幸せになればいいのだろう?
私が幸せになれる世界は、若様がいる世界だけだった。
なら、せめて。
若様が望んだ世界を、私が作る。
若様が見たかった未来を、私が見届ける。
それが、私にできる唯一のこと。若様への、唯一の恩返し。
私は、懐から巾着袋をそっと取り出した。その中には塩の結晶、若様だったものが入っている。
「若様。私、決めました」
巾着袋を強く、痛みを感じるほどに握りしめる。
「若様の代わりに、最強になります。若様が作りたかった世界を、私が作ります」
乱暴に涙を拭い、私は泣きはらした目を上げた。
若様の言葉で埋め尽くされた日記帳をそっと閉じ、机の引き出しの奥深くに仕舞い込む。
全てを成し遂げた時。若様が見たかった景色をこの手で作り上げた時。やっと私は胸を張って若様のもとへ行ける。
◇◇◇◇◇◇◇
翌日、私は当主様に呼ばれた。
広間には、当主様と、本家の重鎮たちが並んでいる。皆、険しい顔をしていた。
「小依」
当主様の声は、低く、重かった。
「お前には、瀬那の代わりを務めてもらう」
「……代わり、ですか」
「そうだ。瀬那が死んだことは、対外的には伏せる。お前が瀬那として生きるのだ」
あぁ、そういうことか。
昨日、若様の部屋を使えと言われた理由がわかった。最初から、こうするつもりだったのだ。
当主は男でなければならない。それがこの家のしきたり。そして、分家の娘を殺そうとして本家の跡取りを死なせたなどという事態は、絶対に隠蔽しなければならない汚点だ。
だから、私が若様になる。
なんとも相手にとって都合がいい話だが、これは私にとっても、都合がいい。
若様として生きれば、高専に行ける。若様の意志を継いで、この世界を救える。
「……わかりました」
私は、静かに頭を下げた。
「ただし、条件があります」
「条件だと?」
当主様の眉が跳ね上がる。分家の娘風情が、と。そんな顔。
でも、私は引かなかった。
「私に、若様と同じ教育を受けさせてください。術式の修行も、座学も、全て。そして、高専への入学も」
「……それは、当然のことだ。跡取りとして扱う以上な」
「そしてもう一つ。私に嘘をつかないでください。あのトンネルに、なぜあれほど強い呪霊がいたのか。全て教えてください」
当主様の顔が、わずかに歪んだ。
「……それは、我々にもわからん」
「わからない?」
「あぁ。事前に家の者が下見に行った時には、確かに4級程度の呪霊しかいなかった。あれほどの呪霊が出現したのは、完全に想定外だ」
嘘ではないようだった。当主様の目に、困惑の色が見える。
「ただ一つ考えられるのは、8月15日という日付だ。終戦記念日だからな。あの場所は戦時中に使われていたトンネルだった。負の感情が集まりやすかったのかもしれん」
「それだけで、あれほどの呪霊が……?」
「わからん。だから、調査を続けている。だが、今のところ原因は不明だ」
私は、黙ってその言葉を聞いた。
原因不明。つまり、あの呪霊が出たことは、誰にとっても予想外だった。
しかし、お義母様が私を殺そうとしたのは事実だろう。あのお守りは、間違いなく呪いを引き寄せるものだった。
でも、あれほど強い呪霊が出るとは思っていなかった。4級程度の呪霊に襲われて、運が悪ければ死ぬ。その程度の算段だったのだろう。
結果として、若様が死んだ。
お義母様の思惑を超えた、最悪の結末。
……許せない。
許せないけれど、今はまだ動けない。
私は、若様の日記を思い出した。あそこに書かれていた物語。これから起こる出来事。五条悟。夏油傑。渋谷事変。死滅回游。
若様は、全てを知っていて、そして全てを変えようとしていた。
なら、私もそうする。
若様の知識を使って、若様の意志を継いで、この世界をハッピーエンドにする。
「……わかりました」
私は、もう一度頭を下げた。
「私は、瀬那として生きます。汐宮家の跡取りとして」
そして、心の中で付け加えた。
いつか、全てを清算する日まで、と。
◇◇◇◇◇◇◇
その夜、私は若様の部屋で一人、鏡の前に立っていた。
侍女が持ってきた、若様の服を着て。長かった髪もばっさりと切った。若様と同じくらいの長さに。
鏡に映る自分の姿は、どこか若様に似ていた。
同じ術式を持っているからか、はたまた単に同じ血が流れているからか。
でも、私は若様じゃない。
若様の代わりにはなれない。
「……若様」
私は、鏡の中の自分に向かって呟いた。
「私、頑張ります。若様の分まで。若様が救いたかった人たちを、私が救います」
若様が目指した最強──五条悟。日記に書いてあった、この世界で最も強い術師。
若様は、あの人のようになりたかったんだ。飄々として、何者にも縛られず、圧倒的な力で全てを守る存在。
なら、私もそうなる。
私は、鏡の中の自分に向かって笑った。若様が憧れた
「見ててね。僕、最強になるから」
五条悟に会う。夏油傑の離反を止める。渋谷事変を防ぐ。死滅回游を阻止する。
若様が夢見た、誰も死なない世界。女だからとか、分家だからとか、そんなくだらない理由で虐げられない世界。
絶対に、作ってみせる。
こうして、その日、分家の娘である汐宮小依は、この世から消えた。
改めまして、このお話は若様の意思を継ぎ、ハッピーエンドを作るために、呪術廻戦の世界で