今日は祝日で、スクールはない。
午前中に叔母の手伝いを終わらせたハリーは家を飛び出し、真夏の街をぷらぷらと歩いていた。
ハリーに遊び相手はいない。
粗暴で、いつも不満そうに苛立っているハリー、服もぼろぼろで汚れて見窄らしいハリーに、友達はいない。
だが、ハリーは気にしていなかった。
友達はいない。
それでも、ハリーにはたった一人だけ信用している人と、張り詰めた気を緩める居場所があった。
メインストリートを抜け、裏路地に入る。
そこには自分よりもさらに見窄らしく汚れたホームレスがダンボールやゴミのような毛布に包まりながら物乞いをするか、寝ていた。
表通りはパンやお菓子の匂いがする。ただ、この場所は尿と汗、そしてアルコールにタバコ、といった掃き溜めのような臭いが漂っていた。
そこにいる者はみな暗くどんよりとした目を向けていたが、ハリーは全く気にせず、その歩みに戸惑いはない。
「おっ、ハリー。今日はなんか持ってるか?」
「今日もないな」
「いい服着てンじゃねぇか、俺のと交換しようぜぇ」
「はあ? 対して変わらねーよ」
寝転んでいたホームレスに向かって、ハリーは靴を脱ぐ。穴が空き親指が飛び出している靴下を見てホームレスは楽しげにげらげらと笑った。
ハリーはこのホームレス達と顔見知りだった。
幼少期、まだ叔父叔母に反抗できなかったとき。食事は一日に一回で、それも小さなパン一つ。あまりの空腹でゴミを漁っていた時──ハリーを不憫に思ったホームレス達が『穴場』を教えてやったのが付き合いの始まりだった。
穴場、というのはファーストフード店やホテルの裏のゴミ箱のことである。そこは新しくそれでいて美味しい
ここのホームレス達は、比較的“マシで人道的”な人たちであった。ドラッグも、せいぜい手を出しても合法ドラッグ程度だろう。ホームレスといえ、身なりはまあ、ハリーと同じくらいの汚れ方で、底辺ではない。
だからこそ、ハリーはホームレスに助けられた。彼らが悪人であり、底辺や犯罪者であればハリーはすぐに売り飛ばされていただろう。
裏路地のホームレス達がいるところ。──ここが、ハリーにとっての居場所だった。
さらに、その奥。
廃ビルの非常階段付近には毛布や服、ちょっとした雑貨が並び、つっかえ棒を支えとしてビニールの屋根まで付けられていた。不法占拠であるが、わざわざ一般人は路地裏の奥まで見にこない。
「ジョン! まだ寝てるのか?」
ハリーが入口らしきビニールの隙間から声をかける。ごそ、と音がして、浅黒い肌を持つ大柄の男が顔を出した。
「んん? ハリー、学校は?」
「今日は祝日」
「へえ、そうかい」
ぽん、とジョンがハリーの頭を叩く。
ハリーはこの日、初めて笑顔を見せた。
ジョンはここに長く住むホームレスであり、昔からハリーを知っていた。あまりに不憫でなんだかんだ目をかけていると懐かれてしまい。今もこうしてほとんど毎日ハリーは会いに来ている。
「ジョン! また戦い方教えてくれよ。結構パンチ、速くなってきたんだぜ?」
「いいけどよ。拳を振るっていいのは正当防衛の時だけだ、鍛えられた拳は人を殺すこともあるからな」
「わかってるって!」
ハリーはシャドウボクシングをしつつ、大きく頷く。
ハリーは体格に恵まれていた。余計な脂肪はなく、体は筋肉質に引き締まっている。
戦うことにも慣れ、一般人の喧嘩では負ける気はしない。
それも、こうしてジョンから教わっているからだ。
強くなりたい、誰にも馬鹿にされたくない──そう泣いて懇願する幼いハリーが可哀想で、戯れに教えた総合格闘技の技術。
ゴミ捨て場で栄養のあるものを食べ、筋トレをし、戦う。それによってハリーの折れることの無い体と心は作られていた。
身体能力が高い事、動体視力が優れている事、それは間違いなくハリーの才能だった。
「ピッグも、総合格闘技かボクシング習いたいってさ」
「ああん? あいつは……まず脂肪を落とさないとな」
「俺もそう言ったよ。まあいい壁にはなるけどね」
ハリーはそう言って楽しそうに笑う。
ピッグ、とは叔母の息子──つまり、ハリーの従兄弟である少年の事だ。豚のようにまるまると肥えている事から、ハリーはピッグ──もしくはピッグちゃん──と呼んでいる。
ハリーが常に栄養失調だった幼少期は、ピッグの方が力も強く、ハリーは毎日虐められていた。だが歳を重ねるごとにハリーの力も技術も強くなり、ピッグはついにハリーに手を出さないようになったのだ。
ハリーはそのこともあり、時には暴力が必要だ、という事を知っている。そして、力こそ全てである、とも。
とはいえ、他人を力で屈服させようとは思わないが。──正当防衛は、ありだとしてもだ。
「じゃあ今日は締め技を教えるか」
「やった!」
ジョンの言葉を聞いたハリーは飛び上がって喜ぶ。
本当の名前は知らない。ただ、彼がハリーにとって唯一の信用できる人間だった。
ジョンは短く笑いながら毛布を畳み、非常階段の下、コンクリートが比較的平らな場所へ移動した。
そこは雨の日でも少し乾いていて、踏み込んでも滑りにくい。
ジョンとハリーがまたいつものように組み手をすると知ると、暇していたホームレス達がわらわらと集まり囃し立てる。
「構えろ」
それは短い一言だった。
ジョンは片足を下げ、半身になりハリーに向き合う。しっかりと、拳を握り右手を前に出す。
ハリーは自然と距離を取り、拳を上げ、膝を軽く曲げ、重心を落とした。ジョンに教わった通りの構えだ。
「……本気でいくから」
「いいから来い」
言われた瞬間、ハリーは踏み込んだ。
右のジャブ──避けられ、続けざまに左。
速さには自信があるが当たらない。
ジョンはほんの僅かに身体を傾けただけで、ハリーの拳は空を切り、風の音だけが残る。
「っ……!」
ハリーはすぐに蹴りへ切り替えた。
足払い。次いで、低い回し蹴り。
だが、ジョンは一歩も下がらなかった。足を引くでも、跳ねるでもなく、ただ、ハリーの膝の角度が変わる一瞬を見逃さず、体重をずらしただけだった。
次の瞬間。
ハリーの世界が、ひっくり返った。
「っ、ぐ……!」
気づいた時には、背中が冷たいコンクリートに叩きつけられていた。息がつまり、体に苦い衝撃が走る。チカチカと目の端に星が散った。
首元に、太い前腕が絡み、地面に縫い付けられていた。
「止めだ」
ジョンの声は、すぐ耳元にあった。
すぐに体にかかる圧がふっと軽くなる。ハリーは喉を押さえて咳き込み、座り込んだ。
「げほっ! ……今のが締め技?」
「ああ。あのまま続けてたら、そのまま落ちてた」
ジョンは何事もなかったように立ち上がる。
ハリーは地面に座ったまま、拳を握った。
悔しさより先に、ぞくりとした感覚が背中を走る。
「……なあ、ジョン」
「なんだ」
「昔、どこまで行ったんだ?」
ジョンは一瞬だけ黙った。そして、ふっと小さく笑う。
「行けるところまではな」
「……ふうん」
それ以上、ハリーは聞かなかった。彼が話す気がないのなら、しつこく詮索する気はなかった。今、ジョンがここにいて技を教えてくれる。そのことが重要だった。
ハリーは立ち上がり、もう一度構える。
さっきより、拳の位置を少し下げた。重心も、ほんの僅かに変える。
「もう一回だ」
「今度は捕まるなよ?」
「絶対一発喰らわす」
ジョンは、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「いい目だ」
その一言で、ハリーの胸の奥が、熱くなる。
これは、生き残るための技術で、自分に必要なものだ。
ハリーは体に沢山の傷を増やしながら、一つずつ自分のものにしていった。