ハリーはロンドンのキングズ・クロス駅に来ていた。
手には古いが大きなトランクケースが一台。ハリーは一度しか電車に乗ったことがないが、チケットはすでに手に入れている。
それに、保護者がいないことで心細くなるような可愛い性格でもなく、ただ冷静に周囲を観察し、人の流れに乗りつつ、目的地である『9と4分の3番線』へと向かった。
本当にそんな乗り場があるのだろうか? 聞いたこともない。それでも、あの人は魔法界とマグルを分けるためであり、魔法使いならば辿り着くことができると言っていた。
会ったばかりのあの人を信じることはできないが、魔法がある、それは信じられる──実際に目の前で見たからだ。
でも、結局自分には魔力があるなんてわからなかった。不思議なことなんて……何もなかったけどな。そうハリーは思うが、あの人が「あなたは魔法使いです」と言うのだから、そうなのだろう。
杖を購入するときに、一応杖先から火花はでたし、杖は自分を選んだ──それが、ハリーにあるただ一つの魔法使いの証明である。これが普通なのか珍しいのかは、周りに魔法使いがいないハリーにはわからない。
九番線と十番線の間。
たしかここだと言っていた。
ハリーは煉瓦造りの柱に手を伸ばす──すると、指先は柱の向こう側へと飲み込まれていった。なるほど、ここから行くのか。
ハリーは深呼吸し、周りの人たちが──不思議と──こちらを意識していない事を確認して、そのまま突っ込んでいった。
その先に──紅色の汽車が停車するプラットホームが存在した。別れを惜しむ家族に、友人との再会を喜ぶ子供達。ハリーは一瞬呆気に取られたが「すげぇ」と一つ呟くと、そのまま汽車へ乗り込んだ。重いトランクを押し上げ、空いているコンパートメントに入る。
ハリーには、勿論別れを惜しむ家族はいない。──あえて言うならば、ジョンやホームレス達との別れは悲しい。が、寮のある学校へ行くことになったとすでに別れは済ませているし、彼らはマグルだ。見送りはできない。
窓枠に腕を乗せ頬杖をつく。
ハリーは窓の外の家族達を、ただぼんやりと見ていた。
その時、トントンと扉がノックされた。ハリーは顔を上げ扉を見る。開いた先には褐色の肌のアフリカ系と思われる少年が少し緊張した面持ちで立っていた。
「ここ、入ってもいいかな? 他はいっぱいで」
「ああ、いいぜ」
「ありがとう」
少年はほっと肩を落とすと、がたごととトランクを引きずりながら入った。荷物棚へトランクを上げようとしたが、あまりに重くて上がらない。顔を真っ赤にして必死になる様子に、ハリーは呆れたように声を出した。
「何やってんだよ」
「いや、すっごく重くて」
「……たっく。ほら、貸してみろよ」
「え。まじで重いけど……」
少年は額に滲んだ汗を拭きつつ、トランクから離れる。ハリーは持ち手をしっかりと掴み腰を落とす、力を込めぐっと持ち上げた。少年がぽかんと口を開け驚いている間に、トランクはガシャン! と大きな音を立てて荷物棚へ乗っかった。
「すっごい! ありがとう! これは魔法かい?」
「はあ? ただの筋力だ。魔法使いはみんな貧弱なのか?」
ハリーは腕捲りをし、見せつけるようにぐっと力こぶを作る。その見事な隆起に、少年は「うわー!」と驚きの声を上げた。
その声に、ハリーは少し得意げな顔をする。
「すごい筋肉だ! 僕は最近自分が魔法使いだって知ったんだ。なんだっけ? マグル生まれ? なのかな。母さんはマグルで、父さんは死んでるからわからないんだけどね」
「……へえ。俺もだ。ホグワーツの教師が来て初めて知った。……親は両方とも死んでる」
少年とハリーは視線を交わす。
そして同時に笑った。
ハリーは自分の肩にこもっていた力が抜けている事に気づく。二人とも、初めての魔法族との子と関わる──そう思って無意識のうちに身構えていたのだ。だが、実際には二人とも魔法界の事をほとんど知らないマグル生まれであり、やや、拍子抜けし、安堵した。
「僕はディーン・トーマス、よろしく!」
「俺はハリー・ポッター、よろしくな」
ディーンが差し出した手を、ハリーはしっかりと掴む。その手の分厚さと、硬さにディーンは再び驚いた。
「ハリーって呼んでもいいかい?──ありがとう。僕はディーンでいいからね──君、何かやってる? かなり鍛えてるみたいだけど」
「ああ、総合格闘技、かな」
「へえー! すごいな! 僕はサッカーやってたんだ」
「あ、俺サッカー好きだぜ。観る方だけど」
「まじで!?」
それから二人はサッカーの話題で盛り上がった。あの家でハリーにテレビのチャンネル決定権は勿論なかったが、叔母や叔父はサッカーが好きでよく流れていたのだ。
暫くサッカーの話題に熱中していた二人の元に、車両販売のカートを押した魔女が現れた。
「車内販売ですよ。何か欲しいものはありますか?」
「うーん。僕はいいや」
「俺も」
「あら、そう? ホグワーツまでまだ三時間はかかるわよ?」
魔女は親切心からそう言ったが、二人はただ首を振る。残念そうに扉を閉めようとしたその時、ハリーは通路が騒がしくなっている事に気づいた。
「なんだ?」
「ああ。ほら、今年はあの子──ハリー・ポッターが入学しているでしょう? みんな、彼を探しているのよ。このあたりにいるらしいけど」
魔女はそう言いながら扉を閉める。
通路の騒音が収まった後、ハリーとディーンは驚き顔を見合わしていた。
「ハリー、君って有名人なのか?」
「いや、そんなわけない。魔法界の奴なんてだーれも知らないし……ちょっと過剰正当防衛はあったかも、それが魔法使いだったりして」
ハリーが肩をすくめる。ディーンはジョークだと思ったのか、愉快そうにニヤニヤと笑った。
何かの聞き間違いか、同姓同名でもいるのだろう。と二人はさして気にせず再びサッカーの話題に戻った。
それから暫くして──再び扉がノックされ、開いた。現れたのは丸顔の少年であり、小さな目を涙で濡らし、すんすんと鼻を鳴らしている。
「ごめんね。僕のヒキガエルをみなかった?」
二人が首を振ると、少年は肩を落とし「すぐ逃げちゃうんだ。見つけたら教えてね」と落胆しながら出ていく。
「ヒキガエルって。……魔法界では本当に変なものをペットにするんだなあ」
ハリーは入学許可証に、ヒキガエルかフクロウ、猫ならばペットとして連れてきていいと書かれていた事を思い出し嫌そうな顔をした。
それに頷いていたディーンだったが、数分後に「あ」と声を上げ突然立ち上がる。
「僕、汽車乗る時にヒキガエル見てた。ちょっと伝えてくるよ」
「へえー? お前、いい奴だなあ」
よくも知らない相手のために、わざわざコンパートメントから出て伝える気になるな、とハリーは感心する。それに嫌味はないが、ディーンは「普通だよ」と笑ってすぐに扉から出ていった。
一人になったハリーは窓の外を見る。
サッカーの話に熱中していて気が付かなかったが、いつのまにか窓の外では田舎の風景が広がっていた。列車の揺れが一定で、眠気が戻ってきそうになる。
空に続く青を眺めていると、また扉が開いた。
ハリーはディーンが帰ってきたのだと思ったが、目の前にいるのは見たこともない、小柄で線が細く、顔の青白い少年だった。
「ほんとかい? このコンパートメントにハリー・ポッターがいるって?」
少年は気取った口調で、強く関心を示しながらハリーを見る。
突然現れた少年の横柄な態度に、ハリーの──珍しくよかった──機嫌は急降下し、「チッ」と粗暴な舌打ちをこぼし、少年を睨み上げた。少年は、小さく息を呑んだが──下がることはしなかった。
「お前は誰だ?」
「ぼ──僕はマルフォイだ。ドラコ・マルフォイ。君がハリー・ポッターなのか?」
「……」
ハリーは立ち上がった。マルフォイは初めて、目の前のハリーが自分よりも頭ひとつ分は高いと知り──無意識のうちに半歩ほど下がった。
上背だけじゃない。クラッブよりも体格はがっしりしていて、見るからに筋肉質だ。
ハリーはゆっくりと距離をつめ、マルフォイの後ろで開けたままになっている扉を強く閉めた。バンッと強い音が鳴り、マルフォイは反射的に身をすくめたが──すぐに胸を張り、下からハリーを睨み上げる。
自分はマルフォイ家だ。こんな事で逃げ出すわけにはいかない。
「ああ。俺がハリー・ポッターだ」
「ならばポッター君。君は魔法界を知らないのだろう。魔法界には家柄、というものがある。マルフォイ家はその最たる家系だ。くれぐれも歯向かわないように。ろくな目に遭わないぞ」
マルフォイは早口で忠告するように言った。
「しかし、もし僕の元に下るのであれば、この僕がいい家柄との付き合い方というものを──」
──ガンッ。
言葉は止まった。いや、続けることができなかった。
自分の頬のすぐそばに、ハリーは拳を突き立てている。その拳は、硬い扉を凹ませ採光窓にヒビを走らせていた。「ひっ」と小さく悲鳴が漏れる。
「マルフォイだかなんだか……家柄? ハッ! 俺は誰かに下るつもりなんてねぇよ」
低く嘲笑し、ハリーは拳をゆっくりと引いた。ぱらぱら、と木屑が落ちる。
マルフォイはただでさえ青い顔をさらに青くしていた。なんとか震えずにすんだのは、拳を強く握りしめていたからだろう。そうでなければ恐怖に慄いていた。
「──失せろ」
低く吐き捨てられる。
マルフォイはぐっと唇を噛むと、ポケットから杖を出しハリーの胸にぐっと押し付けた。マルフォイは直接的な恐怖も暴力も受けたことがない。そんなものとは無縁の世界だった。
初めて向けられる脅しは怖い──しかし、ここで尻尾を巻いて逃げることは、マルフォイ家のプライドが許さなかった。
「その言葉、覚えておくといい。後悔しても知らないからな」
「尻尾振って生きるくらいなら死んだほうがましだな」
ぐり、と杖先を突きつけられたままハリーは冷たい目で笑う。
マルフォイは暫く睨んでいたが、「フン」と鼻で一蹴するとローブの裾を強く翻し、コンパートメントから出ていった。
ハリーは「なんだったんだ」と思いながら座席に座り直す。せっかくディーンとの会話で、体の奥にいつもいるイライラとした感情がおさまっていたのに──。
「──チッ」
ハリーは舌打ちを一つこぼし、床に唾を吐いた。