第五十八話【心に残る詩】
視界のすべてが、深い緑の闇に沈んでいた。
空を覆い尽くすほどの巨木が幾重にも重なり、月光さえも届かぬその場所は、時間の概念さえも消失したかのような静寂に支配されている。立ち込める霧は湿った土と腐敗の匂いを孕み、一歩進むたびに足元の枯れ葉が、死者の指先が触れたかのような乾いた音を立てた。
ワンダ: (私は……。私は、誰?)
ワンダの思考は、ノイズにまみれ、断片的だった。
ここは、どこなのか。何故、自分は一人でこの暗闇を彷徨っているのか。
彼女はただ、本能に突き動かされるように、唯一の道と思われる頼りない獣道を歩き続けた。
どれほど歩いただろうか。景色は一向に変わらず、出口の見えぬ閉塞感が、徐々に彼女の精神を圧迫していく。
―――ヒュゥゥゥゥ……。
不意に、不気味な風が吹き抜けた。
それは木々を揺らし、葉を擦れ合わせる音だったはずだ。だが、その微かなざわめきが、彼女の耳を通じて、逃れようのない『言葉』へと姿を変え始めた。
『 ヴ ァ レ ン を 殺 し た 』
――ッ!!
ワンダの機体が、凍りついたように静止した。
『 親 友 を 殺 し た 。 ヴ ァ レ ン を 殺 し た 。 お 前 が 殺 し た 』
風の音が、囁きが、次第に大きくなり、森全体の咆哮となって彼女を包囲する。
闇が迫り、彼女の視界をノイズで塗り潰していく。
逃げ場はない。この森そのものが、彼女が背負った『罪』の化身なのだから。
ワンダ: 「違う……! あれはヴァレンが望んだことよ! ああしなければ、全メダロットが消滅していた……。世界を救うために、私は……!」
ワンダは叫んだ。自分を納得させるための、論理的な正当化。
だが、森の声はより一層意地悪く、彼女の深層心理の最も脆い部分を突き刺した。
『 違 う 。 全 メ ダ ロ ッ ト な ん て 、 お 前 に は 関 係 な い 。 ……お 前 は 、 自 分 が 消 え た く な か っ た か ら 、 ヴ ァ レ ン を 殺 し た ん だ 』
ワンダ: 「違う! ……違う! 違う!! あれは、仕方がなかったのよ!!」
『 お 前 は ヴ ァ レ ン を 殺 し た 。 殺 し た 。 殺 し た 』
ワンダは頭部を抱えてその場にうずくまった。
胸の中央が、高熱のハンダを流し込まれたかのように激しく痛む。
――イタイ。イタイ。イタイ。
――コロシタ。コロシタ。コロシタ。
ワンダ: 「ああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッ!!!!!!!!」
絶叫。
光を失った天使の叫びは、救いのない闇の迷宮へと虚しく吸い込まれていった。
―
――――現世、エデン本部・科学部
タイン: 「ナギサ!! さり気に……いや、速攻で持ってきたぜ!!」
息を切らせて飛び込んできたタインが、掌の上にある小箱を差し出した。
蓋が開かれると、そこには周囲の光をすべて吸い込み、不気味な黒光りを放つ一つの珠――『黒メダリア』が鎮座していた。
ナギサ: 「おや、随分と早かったね。ありがとう……感謝の言葉を贈るよ」
ナギサの顔には、この一ヶ月間消えていた、春風のような笑みが僅かに戻っていた。
彼は恭しく『黒メダリア』を受け取ると、それを自らの額に当て、そっと目を閉じた。
その黒い結晶からは、ヴァレンの、あまりにも強烈で孤独な意志が伝わってくる。
ナギサ: 「フフフ……。力を貸してくれるだろう……ヴァレン君?」
ナギサの囁きに応えるように、黒メダリアが内側から脈動し、微かな、けれど確かな光を放った。
ナギサは迷いのない手つきで、ワンダの機体背面――剥き出しになったメダルスロットへと手を回した。
かつては青い天使の一部であった場所に、今、漆黒の遺産を滑り込ませる。
―――カチリ、……。
接続(リンク)の音。
その瞬間、ワンダの機体全体が激しく震動し、排熱ダクトから青白い放電が迸った。
黒メダリアに封じ込められていたヴァレンの断片が、情報の濁流となってワンダの閉ざされた内面世界へと流れ込んでいく。
ナギサ: 「運命……デスティニーに委ねよう。……さあ、彼に会うといい。君を救えるのは、この世でただ一人の『死神』だけなのだから」
ナギサが静かにワンダの肩を叩く。
現実世界から放たれた『救い』の一手は、時空の壁を越え、暗い森を彷徨う天使の元へと届こうとしていた。
―
『 お 前 が 殺 し た 。 お 前 が 、 た っ た 一 機 の 友 を 地 獄 へ 送 っ た ん だ 』
降り注ぐ呪詛の声。ワンダは耳を塞ぎ、冷たい地面に顔を伏せた。
視界は完全に閉ざされ、思考回路は「自己破壊」を無意識に選び始めていた。
ワンダ: 「嫌……もう嫌だ……。死にたい……死んでしまいたい……。誰か、お願い……私を殺して……」
絶望が彼女の心を凍りつかせようとした、その時。
ヴァレン: 「――いいや。オレはお前に、何気に生きてほしいんだがな」
不意に、嵐のような森の声が止んだ。
代わりに届いたのは、聞き慣れた――どこか小生意気で軽薄な男の声。
ワンダが弾かれたように顔を上げると、そこには漆黒の翼を広げ、不敵な笑みを浮かべるヴァレンの姿があった。
死神の姿を纏いながらも、その瞳に宿る光は、かつてルクの家で軽口を叩き合っていたあの頃のままで。
ヴァレン: 「何気に困ってるらしいな……。死神の力を、何気にお貸し致しましょうか? 天使殿」
ワンダ: 「ヴァレン……!! ヴァレンなのね……!?」
ワンダは溢れ出す光の涙を拭うこともせず、ヴァレンの胸へと飛び込んだ。
冷たい金属の感触。けれど、そこからは確かに、彼の鼓動が感じられた。
ワンダは彼の腕の中で、子供のようにひたすら謝罪の言葉を零し続けた。
ワンダ: 「ヴァレン……ごめんなさい……。ごめん……ごめんね……!! 私は、アンタを……自らの手で……ッ!!」
「殺した」――。
最悪の言葉が口を突こうとした瞬間、ヴァレンの大きな掌が、彼女の頭を優しく包み込んだ。
ヴァレン: 「何気に……『生かした』」
ワンダ: 「え……?」
ヴァレン: 「ローラが何気に言ってたろ? 友は記憶の中で生き続けるってな。オレは今、何気にお前の記憶の中に『生きている』。そして、それは間違いなく、お前のおかげだ。お前はオレを、地獄から何気に救い出したのさ」
ヴァレンはワンダの身体を引き離すと、砕けかけた仮面の裏でニッと口端を吊り上げた。
ヴァレン: 「……だから、これ以上自分を責めるのは、何気にやめろ。 分かったか?」
ワンダの心に巣食っていた暗い靄が、彼の「何気ない」言葉によって、音を立てて解けていく。
自分の行った行為は、決して消えることのない罪かもしれない。
けれど、他でもない彼が「救われた」と言ってくれた。
その事実が、ワンダの死に体だった回路に再び確かな熱を送り込んだ。
ワンダ: 「…………うん。分かったわ……バカ英雄」
ワンダの口元に、一ヶ月ぶりの柔らかな笑みが戻った。それを見たヴァレンは満足げに頷くと、彼女の手を力強く取った。
ヴァレン: 「分かったなら、何気に行くぞ。……この暗い森を抜けるための、何気ない一本道だ」
死神と天使。
二機のメダロットは、内面世界の闇を払い除けるように、静かに歩み始めた。
先ほどまでの呪詛の森が嘘のように、その一本道は穏やかな静寂に包まれていた。
足元の小石を蹴る音さえ、どこか懐かしく、心地よいリズムとなって響く。
ワンダは隣を歩く死神の横顔を見つめ、あの日失われた『家族』の重みを噛み締めていた。
やがて、一本道は終わりを告げ、目の前で左右二股の道へと分かたれた。
右の道は、吸い込まれるような深い闇に覆われている。その先には何も見えず、ただ厳しい現実の風が吹き抜けてくる。
対して、左の道は神々しいまでの光に満ちていた。どこまでも続く草原と、柔らかな日差しが約束された、安らぎの出口。
ワンダ: 「ヴァレン……出口よ! ほら、あっちに行こう! 一緒に!」
ワンダが光の道へと駆け出そうとした、その時。ヴァレンの手が、強く、けれど優しく彼女の腕を止めた。
ヴァレン: 「ワンダ……。……ここでお別れだ」
ワンダ: 「え……? どうして? せっかく再会できたのに……またアンタ、独りで行っちゃうの!?」
焦燥に声を荒らげるワンダ。
その背後から、懐かしい、あまりに懐かしい女性の声が響いた。
『だって……ワンダは、まだ生きなきゃいけないでしょ?』
ワンダ: 「…………っ!?」
不意に、背中から温かな温もりに包まれた。
抱きしめられる感覚。
人間特有の柔らかな肌、命の脈動。そして、何十年もの間、記憶の奥底で大切に守り続けてきた、あの爽やかな石鹸と少しのオイルの香り。
ワンダ: 「ルクちゃん……? ルクちゃんなの……!?」
ワンダが振り返ると、そこにはあの日と変わらぬ、不敵で、けれど向日葵のような笑顔を浮かべた宝条ルクが立っていた。
彼女はワンダを力いっぱい抱きしめ直すと、その頬をワンダの冷たい金属の肩に預けた。
ルク: 「ワンダ……。あなたは右の道へ行きなさい。……あたしとヴァレンは、左の道に行くわ」
ルクの言葉は、主としての絶対の命令であり、同時に、一人の友人としての深い慈愛に満ちていた。
生者の道と、死者の道。
ワンダは悟った。この再会は、永遠を誓うためのものではなく、正しく『お別れ』を告げるための奇跡であったことを。
ヴァレン: 「おいおい、何気に辛気臭ぇ顔をしてんじゃねえよ」
ルク: 「そうそう♪ あたしたちはワンダの『記憶』の中に、ずーっと居座ってるんだからね?」
二人はワンダから数歩下がり、光に満ちた左の道の前に並んで立った。
これから歩むべき暗闇の道を恐れるワンダを、かつての主と、かつての英雄が、最高の笑顔で見守っている。
光の道の前で立ち止まる二人。ワンダの思考回路は、別れの予感に再び軋み始めていた。
だが、それを察したヴァレンが、わざとらしく芝居がかった動作で胸を張り、一本の指を天へと突き立てた。
ヴァレン: 「ワンダ……。最後にお前に、オレの魂の叫び……何気なる『詩』を贈らせてくれ」
ワンダ: 「詩……?」
ヴァレンは静かに目を閉じ、朗々と、けれどどこか気の抜けた声で詠み始めた。
ヴァレン: 「あぁ世界はなんて何気なんだろう……。何気だ、何気だ……。少年よ、何気であれ。っていうか少女も、何気であれ。……魔法の呪文、ナニゲナニゲパトローナム~」
ワンダ: 「………………」
ヴァレン: 「何気に、いい詩だろ?」
ワンダ: 「今のが詩ぃッッ!? あつかましいよッ!!」
ワンダの鋭いツッコミが、静まり返った精神世界に響き渡った。
あまりのあつかましさに、悲しみで曇っていた彼女の思考回路が、反射的に正常なツッコミ演算を再開していた。
それを見たルクが、「あたしも!」と元気よく手を挙げる。
ルク: 「じゃあ、あたしからも詩を贈ろうかな~♪」
ルクはコホンと可愛らしく咳払いをすると、かつてのマスターとしての威厳と、慈愛に満ちた表情で語り始めた。
ルク: 「貴方がいて幸せ……。世界があって幸せ……。生きていて幸せ……。幸せは、大切なモノ。だけれど、不幸も大切なモノ。不幸を知らない人は、幸せも知らない。幸せも不幸も大切なもの……掛け替えの無い、モノ」
ルクの声は、ワンダの心を優しく包み込むような温かさに満ちていた。
あの日々があったからこそ、今がある。その全肯定に、ワンダの瞳が潤んだ……その刹那だった。
ルク: 「……でも取り合えず今、私はバナナと納豆が食べれたら幸せです……2つあわせてバナ納豆ね」
ワンダ: 「最後の1行で台無しだぁーーーーーーーーッッッッ!!!!!」
本日一番の、そして人生最高密度のツッコミ。
ワンダの叫びに、ヴァレンとルクは顔を見合わせ、子供のようにケラケラと笑い出した。
ヴァレン: 「なんだ、何気に元気じゃねぇか」
ルク: 「ふふふ。もう……大丈夫ね?」
二人の瞳には、ワンダへの全幅の信頼と、一抹の寂しさを超えた誇らしさが宿っていた。
ワンダは肩で息をしながら、自分の中に「あの日々の熱」が完全に戻ってきたことを悟った。
悲しみは消えない。けれど、この二人を抱えて生きていくことが、今の自分にはできる。
ワンダ: 「……ヴァレン。ルクちゃん。……ありがとう。本当に……ありがとう」
ワンダは最高の笑顔を作り、二機の、そして一人の旅人に向けて、深く、深く頭を下げた。
ヴァレンとルクは、互いの手を繋いだまま、眩い光に満ちた左の道へと歩み始めた。
その背中は、九年間にわたる後悔や不実、そして「死神」という名の呪縛から完全に解き放たれ、幸福に包まれているように見えた。
ヴァレン: 「……じゃあな、ワンダ。あとは何気に、任せたぜ」
ルク: 「バイバイ、ワンダ。……ずっと、大好きだよ」
二人の姿が光の中に溶け、見えなくなる。
ワンダは、その温かな残光を瞳のセンサーに焼き付けると、独り、反対側の道へと向き直った。
右の道。
そこには、相変わらず吸い込まれるような暗闇が広がっている。
耳を澄ませば、現実の世界で待つ仲間たちの呼ぶ声や、復興へ向かう街の騒がしい足音が聞こえてくる。
それは決して楽な道ではないだろう。ヴァレンを失った悲しみも、介錯をした罪悪感も、消えることはない。
だが、今のワンダに、迷いは一分もなかった。
ワンダ: 「……行こう。私の、場所へ」
ワンダは一歩、暗闇の中へと踏み出した。
出口の見えぬ闇。けれど、彼女の胸の奥には、ヴァレンとルクが遺してくれた、消えることのない『灯火』が宿っていた。
暗闇を恐れる必要はない。その闇の中にこそ、彼女が守るべき『今』があるのだから。
遠ざかる意識の境界線で、ヴァレンの声が、世界そのものを祝福するように響いた。
ヴァレン: 「生きるとは長いかもしれない……短いかもしれない。楽しいかもしれない……辛いかもしれない。生きるとは、常に先の見えないモノだ。……誰もが、常に一か八かの勝負をし続けている」
その声は、かつて「不幸」に焼かれた死神が、最後に辿り着いた『賛歌』。
ヴァレン: 「そう……『生きる事』とは己の命をベットしたギャンブルである」
―――シ、ィィィィィィィィン……。
光が弾け、精神世界が崩壊する。
ワンダの意識は、冷たい鉄の匂いが漂う現実の実験室へと、ゆっくりと、けれど確かな重みを持って帰還していった。
第五十八話【心に残る詩】終わり