沼から這い出た”それ”は誰?   作:オールドファッション

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名もない魔族に人間を与えてみた

 ”それ”がいつ生まれたのか、誰も知らない。深く暗い森の奥、湖沼の汚泥から這い出てきた事実しか、それは持ち合わせていなかった。

 

 纏わり付く汚泥を、湖沼の緑がかった水で洗い流す。水面に映るものを見て、初めて”それ”は、自分の姿が森の獣や虫でも、湖沼の魚や両生類でもないことを自覚した。

 

 毛も鱗も纒わぬ無防備で細い肢体と、たいして鋭利でもない20本の爪。丸みを帯びた顔には森の生物のような精強な面持ちはない。生えそろった歯は、牙と呼ぶにはあまりにも短く平らだ。

 

 唯一、額から伸びたツノだけは森の獣たちと遜色のないものだったが、それが元々、あれらのような武器ではないことは本能的なもので分かっていた。

 

 ヒュルルル。

 

 湖沼から、自分の体よりも二回りも大きな蛇が顔を出した。体表の赤と黒の幾何学的な模様から、それには毒性があることを察する。

 

 鎌首をもたげた大蛇は、二、三度舌をチロチロさせ、”それ”が瞬きをした瞬間に生白い喉元にかぶり付いた。

 

 ”それ”の喉元から毒液のような液体が流れ落ちる。だが、血は一滴たりとも流れることはなかった。

 

 ――どうやら自分は、森の此奴らよりは強いらしい。

 

 無防備になった大蛇の首を逆に食いちぎり、大蛇の腹わたを片手で引きずり出す。”それ”はおのれの存在の一端を自覚したのだ。

 

 ――ああ、これでは駄目だ。これでは渇きは癒えない。これでは満ち足りない。

 

 自我が芽生え、自分の足で歩けるようになったときから、”それ”は孤独よりも『飢え』を感じていた。大蛇の血肉を胃の腑に入り切るまで飲み干しても、判然とした『飢え』という感覚は治ることはない。

 

 木の実や昆虫、ときには兎や鹿を捕らえて喰らったが、その『飢え』が満たされない。森に住まうあらゆる原生生物を喰らい続けても、決して収まることのない『飢え』に悩まされ続けた。

 

 次第にその『飢え』は、食欲よりも根源的な欲望によって生じた欠乏感であると察し始める。だが、何を起源とするものなのかは未だに謎だった。

 

 

 自分と姿形とほぼ似通った幼い個体を食らうまでは。

 

 

 

 

 

 

 

「あなた、だれ?」

 

 いつものように獲物を狩りに行く道程で、自分と同程度の背丈の生物と対峙した。森の獣とは別種の鳴き声を発していたが、構わず喉元を爪で掻っ捌いた。

 

 ――?

 

 あまりの手応えのなさに”それ”は首を傾げる。沼地の蛇や森の昆虫の方がまだしぶとい獲物だ。あれらは頭を失ってもしばらくはのたうち回るというのに、目の前の生物は静かに息絶えている。

 

 降って湧いた疑問も次第に薄れ、妙な満足感が脳の神経に伝播する。あれほど頭の中を占めていた『飢え』もどこか消えてしまった。

 

 ――なるほど、お前だったのか。

 

 あれほど探し回った、おのれの根源に由来するそれを抱え、青白くなった顔に頬ずりをする。柔らかく、そしてまだいくらか温かい。

 

 ――どんな味がするのだろう?

 

 至福の時を迎えて、それはいつかの大蛇のように舌を出した。そして獣のように、短い犬歯を柔肉に当てがう。

 

 まるで果肉でもかぶりついたような音が鳴った。

 

 森の果実は味気がないので嫌な顔をしながら食らっていたが、これは程よい弾力と歯ごたえがあり、血肉からは獣特有の野趣をかすかに感じた。

 

 どうやら獣の仲間らしい。獣は総じて、幼体の方が癖がなく、身が柔らかく食べやすい。下手な成体よりも幼体の方が味が良いことが多かった。

 

 だが、やはり可食部が少ないのが難点だ。大きさはあっても、思いのほか肉が少ない。口内に転がる骨片や毛髪をペッと吐き出しながら、そう実感していた。

 

 たしかに美味い。だが、それ以上に本能的に満たされていくのを実感していた。この生物を殺す行為には、絶頂にも似た快楽物質が脳を満たしていく。

 

 どうやら『飢え』とは、この生物への賊害欲から起因するものらしい。なれば、喰い殺すことが最も理に適った方法だ。

 

 ”それ”は、おのれがこの生物を狩るために生まれたのだと確信する。

 

 核心に触れて初めて完全な満足感に満たされた。快楽物質で過剰に鋭敏となった脳細胞が、今まで閉じていた回路のようなものをこじ開ける。

 

 快楽物質がもたらす全能感に酔いしれ、明滅する視界で、”それ”はただ本能のままに備え持っていた力の名を唱えた。

 

 

人を模倣する魔法(ペルゾーニンリッヒカイト)

 

 

 まるで生まれた赤子が初めて産声を上げるように、”それ”はごく自然に魔法を使った。

 

 一瞬のうちに、”それ”は今喰らった子供と同じ姿に変わっていく。体から身につけていた物まで完全に模倣していた。

 

 気まぐれに”それ”は、左の人差し指を片手で握りしめると、一切の躊躇もなく反対の方向へとへし折った。細い枯れ木を折るような、小気味良い音が鳴る。

 

 どうやら模倣した体の造りにまで変化しているらしい。最初は興味深いと思ったが、考えてみるとかえって不便なことの方が多そうだ。幼体にしたって、この生物はあまりにも脆い。

 

 ”それ”は折れていない左手で、両頬を伝う『水滴』を拭った。

 

「なるほど、これが『いたみ』か。そして、このかんかくは……そうか――『こわい』というきもちなのか」

 

 拙い喋り方で”それ”は言葉という鳴き声を発する。

 

 この魔法は姿形の模倣ではなく、存在を模倣する魔法らしい。

 

 ”それ”が物心付いてから今日までの記憶と、この子供の記憶が脳内にあった。そしておそらく、感情や『心』という概念すらこの魔法は模倣する。

 

 折れ曲がった指全体から発せられる熱感と、ズキズキした激しい刺激がいわゆる痛みというやつだ。今まで生きてきて軽い傷程度は負った経験から、それが痛みだと断言できる。

 

 心臓の激しい鼓動と、目頭がカアッと熱くなる独特な衝動は恐怖というものらしい。”それ”はまだ感じたことのない感情であったが、子供の記憶と照らし合わせればそう結論付けられるだろう。だが、主人格の”それ”が感じたことのない感情ゆえに、共感や理解はできなかった。

 

 人間の記憶や感情を模倣したといっても、記憶という情報を見て、感情というある種の感覚刺激を受け取っているだけに過ぎない。受容する”それ”の性質とあまりにも乖離したものだからだ。

 

「そうかおまえは『ニンゲン』といういきものなのだな。……いや、それとはべつにメッチェンというなまえがあるのか。ぱぱとままにつけてもらったたいせつななまえなのか」

 

 メッチェンの記憶の中に、いつも仲睦まじく寄り添う夫婦と娘の姿がある。どうやら家族という、人間固有の群の概念のようだ。森の獣にも似たような生態を持つ生物はいくらかあった。だが、それらと比べると人間の生態はだいぶ複雑なものらしい。

 

「じゃあ、ぱぱとままにあいにいきましょう。そうすればじぶんも、かぞくというものがわかるかもしれないよね」

 

 メッチェンの記憶でも、家族はいつも一緒だと両親が言っていた。なら、両親の情報を模倣し、血肉も腹に収めてしまおう。メッチェンも両親に会いたいと喚いているから、きっと家族が揃えば泣き止むはずだ。

 

 ”それ”は脳内に鳴り響く嗚咽を聴きながら、住み慣れた我が家という場所へ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 家の戸を叩くと、開いたそばから一人の大人が”それ”を抱きしめた。

 

「無事だったのね!ああ、メッチェン!」

「ご、ごめん……おかあさん」

 

 模倣した姿、記憶の中にある喋り方、感情を利用して涙をこぼす。目の前の母体は容易く騙されているようだった。

 

 ――ああ、何だろう。この太陽のような温かさは……。

 

 母体に抱きしめられた瞬間、”それ”は今までに感じたことのない感覚を味わっていた。胸の奥辺りが温かく、涙が止まらなくなる。恐怖の感情でも涙は流したが、この涙はどうしてだか心地よい。

 

 メッチェンから流れ込む感情の刺激は、”それ”には言語化ができなかった。メッチェンの記憶を覗き見ても、該当する知識はない。

 

 だから、テーブルの上にあった銀製の食器で、目の前の母体の喉を裂いた。なにやらメッチェンが騒いでいたが、今は知識欲が優っていた。

 

 どうやら、この魔法は対象の血肉を喰らう必要があるらしい。血肉から得た何かしらの情報を元に、模倣しているように感じる。

 

 腹はそこそこに膨れていたので、指先についた血の一雫を舐めとった。変化した視界で、直感が核心に変わる。

 

「なるほど、あの感覚は安堵というものなのね。ああ、この方が喋りやすくていいわ。身体能力は……まあ、子供に比べたらマシな方かしら」

 

 成人した人間の体は、思いのほか操作性に優れていた。子供特有の衝動的な感情に振り回されることもない。ただ、脳内に鳴り響く姦しい叫び声はいくらか煩わしく感じた。

 

「そう、私は『魔族』というのね。やはり人間を害する種族か……魔法使い?戦士?へえ、人間にも魔族に匹敵する存在がいるのね。なら、今度は強い人間を探さなくちゃ」

 

 母親の記憶から読み取った情報から、自分の種族と自分を害する存在を知れたのは僥倖だ。幼体の魔族の死亡原因の大半は、人間の魔法使いや戦士との遭遇によるものらしい。

 

「夫は……まだ他の男衆と一緒に森で捜索中か。帰ってくるまで待つ?……いや、リスクの方が大きいわね」

 

 床に転がっている死体のこともある。処理しようにも、外に埋めるのは人目につく可能性が高い。部屋に充満する死臭や、床にべったりと染み込んでいる血を消すのも面倒だ。

 

 しかし、脳内ではメッチェンが家族に会いたいと喚いている。どうしたものかと、”それ”は思案したが、すぐに良案が浮かんだ。

 

「なら、隣の家の男を模倣しましょう。だって、あの人の子種からあの子は生まれたんだもの」

 

 自然界でも似たような生態を持った鳥がいた。いわゆる托卵というらしい。

 

 いつものように、夫が留守の隙に誘えば簡単に釣れるだろう。可能なら、生殖行為がもたらす快楽が、あの安堵に勝るのかも経験してみたいものだ。




観測者A「あちゃー、早速ヤっちゃいましたね」

観測者B「主人格が魔族だもんな。それ抜いたら、ただの人間だし。人間の知識と感覚を共有しても齟齬が生じるか」

観測者A「でも、母親とのコミュニケーションは好感触でしたね。共感できていないだけで、ちゃんと感覚を受容しているようで安心しました」

観測者B「結局殺したけどな。対象からしたら、子が向ける親への愛も精神的快楽と変わらんか」

観測者A「母親を模倣しても倫理観終わってましたね。知識としては吸収しているはずなんですが」

観測者B「個人主義の影響か。まあ、母親自体の倫理観が終わってる可能性もあるな。……急なNTRでダメージを食らってしまった」

観測者A「まあ、まだ始まったばかりです。気長に観測しましょう」

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