【ハイヤムside】
――自分が生まれ出でて、世界になんの益があっただろう。また行けばとて格別変化があった?いったい何のためにこうして来たり去るのか、この耳に説きあかしてくれた人があったか?
ハイヤムは自分が歩んで来た遠い道のりを振り返って、懐かしき砂漠の産土を思い返す。北の大地は冷たくしめやかだ。
人は未だ魔族と争いを続けているというのに、人はどうして同族同士争うのか。内紛で血に染まった故郷を出てみれば、程度の差はあれどこの地も人の血の汚れで満ちている。
ほとほと人というものが嫌になり、解脱するために信仰の道を選んだが、齢九十を超えても未だにハイヤムには大悟は得られなかった。苦心して学徳を積み重ねた師でさえも、天上の真理には至らず、大海の水底へと返ってしまった。
――あの万象の海でさえ、未だ人類は知り尽くしてはいない。それでどうして手の届かぬ天上のことを知れようか。
求道の末の自らの体を見た。肌は浅黒く焼けただれ、ありがたき法衣は朽ちかけている。
――この乞食のごとき姿の男に、誰が教えを乞うだろうか?誰が言葉を訊くだろうか?
求道の末に誰もがこの姿に成り果てるというのなら、人が真理に届く道理はない。
ハイヤムは盃を傾け、ぶどう酒を呷る。
もはや煩わしい学問は捨ててしまった。白髪の身の慰めに酒を呑む日々を送っている。積み重ねた齢の
「おお魂よ、謎を解くことはお前には出来ない。さかしい知者の立場になることは出来ない。せめては酒と盃でこの世に楽土をひらこう。あの世でお前が楽土に行けると決まってはいないのだから……いかん、酒が切れてしもうたな」
人の世とは泡沫の夢。その刹那の一時に、ハイヤムはあまりにも過ぎた悲しみを背負いすぎた。
悲しみとは心の毒だ。それを癒すのは酒だと、古の賢人たちも説いていた。
人の世は悲しみに満ち溢れている。呑んで酔わねば、この世はただの生き地獄だ。
「ああ、誰か。この哀れな乞食めに、薬を恵んでくだされ」
辺りから返事はない。仕方がなく、杖を頼りに歩き続ける。
落ち窪んだ眼窩には、白くぼやけた眼があるだけだ。景色を見ることは叶わないが、光のあるなしは白そこひでも分かる。光を辿ってただ歩き続けた。
「あなや、不思議かな……月明かりにしては、眩しすぎる」
光を頼りにして来てみれば、そこは何とも眩い場所であった。空だけではなく、そこら中が黄金色に輝きを放っている。
触れてみると、木や建物の形をしているというのに、なぜか鉄のように固く冷たい。目が見えていた時でさえ、このような不思議な体験をしたことはなかった。
「そこな御仁の仕業かな?」
ハイヤムは後ろに立つ存在に声を掛けた。
「……盲人かと思ったが、俺が見えているのか?」
「いや何、目が見えなくなってからは気配というものを敏感に感じ取ってしまう。『同族』の禍々しい魔力は特にのう」
”それ”は自身の魔力を解き放つ。その気配から分かりやすい驚愕の様相が感じ取れた。
「驚いた……同族とは思わなかった」
「カッカッカ、これが生業じゃ。そう簡単に見破られてたまるか」
意識の水底から這い出て、自動的に動かしていた思考を”それ”が奪い去る。乗り心地の悪さに口を歪めた。体の節々が悲鳴を上げている。
稀に見る知識量と感覚を持った個体であったが、操縦性は見た目以上に悪い。心体あってこそ、人の本質は露わになる。こういう個体に関しては、主導権を一時的に明け渡した方が楽であった。
――ああ、酒を!誰か盃に酒を注いでくれ!ここは既に怪物のはらわたであったぞ!
未だ楽土は見えず、かつての聖者は亡者となって”それ”の体内で消化され続けている。
ああ、酒を飲み干し忘却しよう。まさに、ここは地獄の釜なのだから。
”それ”は体を元の魔族のものに切り替え、ハイヤムの記憶と思考パターンのみを模倣する。この個体の知識量を全て閲覧するため、最近はこの個体を模倣していることが多い。貧弱ではあるが、見るからに貧しい老人を襲う輩はいなかった。
あれから何百年という年月が経ち、体も平均的な成体の大きさに成長した。黒い長髪を靡かせながら、全身を黒い法衣に身を包んでいる。
中性的な顔立ちのため、傍からみれば雌雄は判別できない。男も女も経験した”それ”にとっても、自分の性別などどうでもよかった。気が向けば、その時々で色んな性別の服を着ることもある。魔族の衣服は魔力で形成されているため、着替えは楽だ。
「ほれ、一献試されよ。ここの酒蔵で一番上等な酒じゃ」
年季の入ったナラの樽を開け、酒器で中のぶどう酒を酌み取る。試しに一口試飲したが、この土地ではそれなりの一品だ。他のハイヤムや他の個体の記憶と照合しても、これは美味い酒に類する。
「黄金の酒器とは雅じゃな……しかし、辺り一面も黄金ではいささか風情に欠ける」
村の中央から黄金と化した村の風景を一瞥する。月明かりを反射し、夜だというのに煌煌と光り輝いていた。
この酒杯も、元はただの素焼きの土器だ。呪いによって黄金になってるだけに過ぎない。酒樽は地下に保管されていたためか、難を逃れたらしい。
相席する黄金の髪をした魔族は、にべもなく”それ”を見つめている。酒杯には一度も口をつけず、未だ並々と酒を湛えていた。
「以前、港町で出会った同族から訊いたことがある。人間に化けて生きながらえている魔族がいると……お前のことか?」
不意に出た知己の存在に、”それ”は酒杯を止めた。人間を研究する中で出会った同好の士。しばらくあれと行動を共にした時代もあった。
「ふむ、いかにも。そうか、そうか、彼奴もまだ生きておるのか。儂と同じで広く知れた名を持たんからのう。ここ何年かは杳として知れなかった……して、御仁は?」
「マハト。此度、『黄金郷』を魔王様より賜った」
「おお、七崩賢最強の黄金郷のマハト殿。この人の世にもその名は轟いておるわ。なるほど、噂に違わぬ魔法――ゆえに、『飽いた』と見える」
マハトの酒杯に湛えられた水面が揺れる。
その言葉が琴線に触れたのか、マハトの精強な魔力が圧を放った。しかし、”それ”は平伏するわけでもなく、ただ静観している。あまつさえ、酒を再び酒杯に注いでいた。
「お前は自分の魔法を気に入っているようだな」
「然り。以前は肉体ばかりに囚われていたが、内側に目を向けてからは日々に実りを得ている。学問書何ぞよりも面白い」
「そんなことをして何になる」
「そんなことか。そんなことを訊きたくて儂と共に席に着き、顔を合わせておるのだろう?この首がいま繋がっている事実こそ証明よ」
虚を突かれたマハトの前に、”それ”は酒杯をかざす。
「呑まれよ。駆けつけ一杯じゃ」
「……」
マハトは目の前の酒杯を受け取ると、それを飲み干した。気前のいい飲みっぷりに”それ”は破顔し、すぐに代わりを酌んだ。
「お前の魔法は人の存在を模倣するのだろう。なら、人の感情や心も模倣するというのか?」
「この胸のうちにあるものが心というのなら、儂は人の心を知っていると言えるだろうな。しかして、沼から這い出た汚泥が分子レベルで人間と同一に変化したとして、それが人間と同一かという問題もある……まあ、その手の問答を訊きたいわけではなかろう」
そもそも魔法によって生じた現象を、”それ”個人が模倣と認識して呼称しているだけに過ぎない。しかし、否定もできない悪魔の証明だ。
マハトは事のあらましを、酒を酌み交わしながら”それ”と語った。
魔王様の命令により多くの村落を滅ぼし続けた中で、1人の神父と出会い、こう言われたそうだ。
『わからないのか……何ということだ。可哀想に…』
初めて人間から向けられた憐憫が、マハトに変化をもたらした。以来、マハトはそれを知るために、人を殺し続けているという。
「恐怖、怒り、悲しみ、殺意……これらは俺たち魔族でも理解できる感情だ。だがある時、ふと思ったのだ。人間にあって、我々に欠けている感情を」
「それは何ぞ?」
「悪意。そして罪悪感だ」
「して、それを知り如何にする?」
「共存だ。人類の感情が理解できれば共存ができるかもしれない」
マハトの言葉に、”それ”は破顔していた表情を冷ましていく。温度のない表情を浮かべ、酒を呷る。
「愚僧にそれを問われるか。因果なものよ……その
空になった酒杯を置き、”それ”は問答に入った。
盲人の如く、深く瞼を閉じて瞑目し、ただ結論だけを端的に述べる。
「結論から言えば、悪意と罪悪感なるものは、人間も持ち合わせておらん」
「何?」
突拍子もない言葉にマハトは再び虚を突かれた。探求してきたものの存在を否定されたのだから、当然の反応だ。
”それ”は衣服を瞬時に変える。黒い法衣とは真逆の、清潔そうな純白の白衣に袖を通していた。
「統一帝国時代の人間の記憶じゃ。人類は様々な実験を行い、色んなことを研究していた」
かの大魔法使いフランメの働きかけにより、初めて国をあげて魔法の研究を取り組んだのが統一帝国であった。しかし、それ以前からあの国は魔力に頼らない力を使って様々な実験をしてきた。
ネズミを用いた人為的な楽園の創造。閉じた空間に作った人工的な地球環境の再現。シロシビンによる神秘体験を記録した心理実験。
中でも、犬の条件反射を記録した実験と、後述するこの研究が本質にあたる。
「三歳から六歳の子どもを集め、大人が人形を攻撃する姿を観察させた。するとな、子供達は同じように人形に対して攻撃性を顕著に示した。まあ、よくある動物の刷り込みではあるが、問題は子供が嬉々として暴力を振るうことにある」
「……」
「分からんか?子供というのは残虐。楽しんで虫や小動物の命を奪い、その遺骸を弄ぶ。そこに悪意はなく、また痛みを伴わない。道理を弁えておらんからな」
子供が虫を捻り潰しても、花を踏み折っても仕方がなきことだ。
無邪気だ、無垢だと大人はそれを理由付けする。大概の残虐行為は、子供ならば肯定されるのだ。
「人間の本質は獣。法という轡と、道理という条件を与えて条件反射を起こしているだけ……つまるところ、人間は悪意と罪悪感という虚像の概念を長年刷り込んだ種族じゃ」
「偽りなのに、どうして感じる?どうして痛む?」
「本当は感じてはおらん。また痛まん。餌を与えられる時刻に鳴らされる鈴の音を聴いて、空腹を錯覚する家畜と同じこと」
南側諸国では略奪と暴力は当たり前の日常。むしろ、時にそれが生存権によって肯定される。
物心つく前から親から切り離された孤児が、どれだけ残虐だったか。制約を失った人間が、どれだけ暴力の獣になれるか。
記憶の中の南側諸国は地獄だ。ここが楽園に思えるほどに。
そもそも善悪という二元論的概念は古くからあったが、悪意と罪悪感という言葉は比較的近代に成立した言葉だ。古代の哲学者や学士の言葉を、後の世で分類し、再解釈した概念に過ぎない。
「現代の人間は生き物という本質を忘れ、虚像に魂を束縛されている。この言葉も、思想も、信頼も、金銭も……全てがまやかし。もはや虚像の奴隷よ」
理想、道徳、平和を掲げ、誰もが届かぬ天上を眺めている。魂は大海に沈み、荒波で磨耗していることに気づいていない。
誰もが虚像の中で生き、現実の中で死んでいる。心と体が解離するから苦しみ、病むのだ。
生の本質。ただ生きることに回帰すれば人は苦しみから救われるだろう。
木を育てるよりも、実を捥いで食らえばいい。土地を育てるよりも、土地を移ればいい。
豊かさを求めて文明の中で苦しむのなら、野山での苦楽も同じこと。
過ぎたる叡智の幸福は、無自覚の不幸だ。執着することは愚かなり。
「施した虚像の檻の重さに、いずれ人間は自ら滅びを選ぶ。儂ら魔族が人間を滅ぼすのが先か、人間が自滅するが先か……ゆえに、マハト殿の求める答えに意味などないのだ」
酒を注がぬ酒杯ほど無価値なものはない。人の世もまた、この空の酒杯と同じだ。
「ささ、呑まれよ……これだけが無聊の慰めじゃ」
マハトは共に酒を吞み干す。
”それ”の答えに何を思ったかは定かではない。
カランッ。
しばらくの沈黙を経て、マハトは空になった酒杯を捨て、席を立った。
「どこへ行かれるか?」
「変わらん。俺はただ探し続ける」
”それ”は笑う。嘲笑や皮肉ではなく、ただ純粋に喜びを感じていた。
「左様。疑うことこそ求道の本質。この愚僧よりも、よほど真摯に向き合われている。人間よりもよほど宗教者に向かれている」
「馬鹿なことを言う奴だ。俺は魔族だぞ」
「魔性によって人を害する我らと、棄教や聖戦を掲げて同宗を害する奴儕ども。奴儕どもは虚像の為に害するが、我らは個のため」
”それ”は嗤う。弧を描いた口から滴る赤い液体を舐めとり、血を啜る化生のように嗤う。
「『悔しかった』のであろう?人間にあって、自分にないものが『羨ましかった』のであろう?」
”それ”の首筋に、黄金の剣が突きつけられる。
剣からは殺意は感じられないが、次の言葉次第では切り落とされるだろう。だが、”それ”は絶えず笑みを表情に浮かべる。
「共存なんぞというつまらん大義名分を掲げずともよい。自分のために探し、自分のために疑い続けられよ」
「その果てに何がある。たどり着いた先で、共存以外の何を成せと言うのだ」
「何も。この呑めば空となる酒杯と同じよ。口寂しいなら酒を足せばよい。飽いたなら酒杯を置かれるがよい」
”それ”は酒杯に口を付けて酒を呑み続ける。酒が喉を通る度に喉が動き、剣を押し当てられた箇所から血が滴り落ちた。
「我らは個だ。個人主義という他者も虚像も必要としない完全なる精神の形だ。ゆえに、人間に滅ぼされようとも、自滅はしない。喜べマハト殿、我らは永遠ぞ」
ケラケラケラ!
「……」
目の前の狂人の様子に、マハトは剣を下ろす。興味を完全に失ったのか、踵を返していた。
酒盛り相手を失って、”それ”はつまらなそうに肩肘をつき、去ろうとする後ろ姿を眺める。
だが、ふとマハトは振り返った。
「一ついいか?」
「なんぞ?酒でも土産に持っていかれるか?」
気の抜けた酔人に向けて、マハトは口を開く。
「俺たち魔族が真に他者を必要としないなら、お前すらも俺にとっては――『虚像』だ」
呆気に取られた”それ”は、ぽかんと口を開ける。予想だにしなかった問答の返しに、”それ”は驚愕し、そしてハイヤムの思考が増幅した。
次第に暗い目に光を宿し、震える両手を合わせて深く礼を取った。
「見事な領解。拙僧、ここに大悟致しました」
真理を深く悟り、大いなる境地に至る。それを大悟と呼ぶ。
”それ”はこの瞬間、マハトの中に真の神性を感じたのだ。
魔性の中に神性を感じ得る”それ”の姿を見て、マハトはただ呆れ返す。
「どうやら酔っているようだ」
マハトはそう言い捨て、振り返ることなくその場を立ち去った。
足音が遠ざかり、完全な静寂が支配する。
ゆっくりと面を上げると、マハトが投げ捨てた空の酒杯があった。酒の残り香すらもなく、ただ鏡面のように月を映し出している。
虚像という言葉だけが、ひどく耳に残っていた。
観測者A「宗教者を与えてみたけど、見事な生臭坊主になりましたね。元の素体のせいかすごい厭世的……」
観測者B「知識は知識として楽しんで吸収してはいるが、『人間はこんなことを一々考えているのか』ってドン引きしてるみたいだな。そりゃ、酔わなきゃやってられんか」
観測者A「魔族には宗教も哲学も知識としての価値しかないわけか。禅問答で似たような話を聞いたことがあるな」
観測者B「価値観は個体差あるだろうな。しかし、個人主義が完全な精神の形か。意外と面白い意見だ。他者を必要としない方が精神というのは安定するのか」
観測者A「でも、生物としてそれダメでは?弱い個体は淘汰されるし、そもそも繁殖もしないんじゃ……」
観測者B「それにしては魔族ってそこそこ個体数いるんだよな……案外、哺乳類とは違う繁殖方法で増えてるのかも。キノコとか」
観測者A「魔族が子実体なら、魔族全体が同一個体になりません?」
観測者B「もしもの話だってば」
観測者A「でも、思考を通して宗教的悟りを共有しましたね。これは大きな一歩かもしれません」
観測者B「悟りって、思考がクリアになって、迷いから解放される状態なんだよ」
観測者A「へぇ……つまり?」
観測者B「ストレージに溜まった余計な情報を削除して、動作が楽になるみたいな状態。まあ、最近ストレージに余計な思考情報が溜まってたから良かったかもな」