【???side】
”それ”が瞳を開くと、そこは黒い湖沼のような場所が広がっていた。空も大地も、地平線までもが暗黒に染まっている。
現実にはこんな場所は存在しない。だが、”それ”は何度もここに来たことがあった。
体と意識を別の個体情報に明け渡している間、”それ”の意識はいつもこの水底へと沈む。言うなれば、ここは精神の最深部。深層意識の底なのだ。
『体!体をよこせ!体を返してくぇ!!』
「黙れ、ドラーシェ」
水底から這い上がった残留思念が、足に縋りついてくる。人の形を模してはいるが、ただの意識の残穢だ。これに大した力はない。
蹴り上げただけで、それは土塊のように砕け散る。水面には他にも無数の破片が散らばっていた。
『いたい…いたいよぉ……』
「幻肢痛だトラウム。体も持たないお前が痛みを感じるわけがない」
砕けて飛び散った首が、言葉を発している。”それ”はその首を念入りに踏み砕いた。
「ドラーシェ。トラウム。アイゼルナー。ヴィレ。クリーガー。ファウスト。アベンテア。エリネルング……念入りに消化したと思ったが、案外食い残しがあるものだな」
自己認識を取り戻すため、それは何日もの間、精神世界の中で残留思念を消去している。今まで模倣して来た数が膨大なため、休まずに消去しても終わりは見えない。
『ここはどこだ……?』
『パパー!ママー!』
『殺さないでください……どうか命だけはっ』
『魔族め!この報い、必ず晴らしてやる!!』
「……はあ、また湧いて来た」
水面に無数の人の顔が浮かび上がった。その誰もが、苦痛に染まった表情を湛えている。伝播する痛みに耐えながら、”それ”は足を何度も踏み下ろし、浮き上がる亡者を踏み殺す。
『哀れですのう。まるでのっぺらぼうじゃ』
「……ハイヤム」
声の方に振り返ると、数世紀ぶりにあの破戒僧と顔を合わせた。知識や悟りの感覚は時々利用していたが、精神世界でこの残留思念とあったのは久しぶりだ。
”それ”は、まるで凹凸のない自分の顔に触れる。精神のほとんどが摩耗した”それ”に、もはや形というものはない。原型すら失っていた。
『個人主義という完全な精神の形を損なってまで、御仁の求めたものに価値はありましたか?』
「言葉を紡ぐな虚像め。お前らは血液から模倣された遺伝子の影法師だ。生者のように語るな」
『カッカッカ。左様、我らは虚像でございます。そして御仁は、今や虚像の奴隷に身をやつしておられ――』
”それ”の蹴りがハイヤムの思念体を蹴り上げる。粉々に飛散したカケラの一つ一つを執拗に踏み潰し、無言のまま踏みにじる。
『恐怖ですかな?嫌悪ですかな?どうしてそこまで我らを拒まれる?』
唇の破片が言葉を発している。この残骸の山で溢れたどこかに埋もれているはずだが、声だけを頼りに探すのは心許ない。
「ただ知りたかった。ただ人間を理解したかった」
他者に害されない力。何者にも縛られない完璧な存在。初めはそれらが目的だったが、いつしか知ることこそが動機に成り代わっていた。
何も、人類との共存などという埒外な妄執に囚われたわけではない。知ることは知性を獲得した者に許された特権だ。当たり前の権利を行使しただけに過ぎない。
「その結末が、その知識によって食い殺されるだと?ふざけるな、それだけは容認できない」
『他者に意識を明け渡し、肉体すらも他者のもの。今更、自己を喪失したとして何も変わりませぬわ』
「何のための理解だ?何のための共感だ?自己を失っては元も子もない」
『たしかに、知識とは己の方向性を示すための力。だが、御仁はただ知識を求められた……そこが謬見でありましたな』
水面が大きく盛り上がる。
波のように揺れ動く水面には、さらに無数の顔が浮かんでいた。”それ”を睨めつけ、痛みをさらに苛ませる。
『お前は誰だ?』
「俺は俺だ」
体が欠ける。
『あなたは誰ですか?』
「私は私です」
思考に穴が開く。
『貴様は何者じゃ』
「儂は儂じゃ」
過去が薄れゆく。
『きみはだぁれぇ?』
「ぼくはぼくだよ」
全てが摩耗していく。
水面から這い上がる無数の思念たちが、地平線すらも覆い尽くすほどの膨大な量の亡者の大津波が、それを飲み込んだ。
壊れかけた”それ”に、模倣してきた全ての個体情報が群がる。アリやカラスのように”それ”の死肉を啄んだ。
”それ”が周囲の思念を蹴散らし、粉々にしようと次から次へと覆いかぶさってくる。自ら収集してきた情報に、終わりは見えない。
『愚僧の言葉をお忘れか?』
飛散したハイヤムの瞳のカケラと視線が重なった。瞳の奥には、ただ無常の念が込められている。
『ここは化け物のはらわたの中ぞ』
ぐずぐずに引き裂かれた”それ”は、沼の水底へと沈んでいく。
【フリーレンside】
北側諸国の北部高原。とある旅宿に勇者一行は泊まっていた。
「おはよう」
朝食の匂いに誘われて、フリーレンは宿の階下へと降りて来た。階下は酒場になっており、ここで寝食を済ますことができる。
「フリーレンが早起きしている!?」
「今日は雪ですかね?」
「北側諸国だし雪は珍しくないぞ」
降りて来たフリーレンを見て、パーティーの仲間全員が驚愕の表情を浮かべていた。魔王討伐のために共に旅へ出てからというもの、このエルフが早起きしたことなど一度もない。
控えめに言っても、ちょっとした奇跡が起こっていた。
「えらいぞフリーレン」
「……頭撫でるな」
「いいえ。こういう時はしっかりと褒めないと子供は成長しませんよ」
「私、この中で一番大人なんだけど?」
フリーレンはリーダーである勇者ヒンメルの手を弾こうとしたが、諦めたのかされるがままになる。一番早くに異変に気がついたのは、撫でていたヒンメルだった。
「気分でも悪いのかい?」
ヒンメルの言葉で僧侶のハイターとドワーフの戦士アイゼンがフリーレンの顔を覗く。些細な変化だが、たしかにいつもに比べて少し顔色が悪く見える。
「嫌な夢を見てね……ふぁっ。私の故郷が滅ぶ少し前の出来事を見た」
勇者一行は注文した料理が運ばれるまで、フリーレンの話を聞くことにした。
語り始めたのは平穏な里の様子や変わり者のエルフたち……ハイターのように酒を好むエルフもいたらしい。思い出を語るフリーレンは、どこか柔らかい表情をしていた。
だが、とあるエルフの名が出てから、表情に影が掛かる。
「フロイライン。私の隣の家に住んでいたエルフだ。彼女は里を裏切って、結界を壊し魔族を里に引き入れた」
「なぜ、そんなことを?」
「さあ。当時の私も信じられなかった。でもね、死んだエルフたちを埋葬している時に、里の外れでフロイラインの死体を発見して……さらに驚いたよ」
フリーレンは、近くの席で食事をしている冒険者たちの卓上に目を向ける。
彼らはたんまりと儲けたのか、七面鳥の丸焼きを豪快に貪っている。悪く言えば、品がないともいえるだろう。あれではまるで死骸を貪り食う野犬だ。
「フロイラインの死体はぼろぼろでね……死後一週間以上はあそこに放置されていたんだと思う」
「……彼女は、村を裏切るずっと前から死亡していたと?」
「魔族を招き入れたのは偽物ということか?」
「どうだろう。私が見た限りでは、仕草も言動も魔力も本物のように感じられた。変装や変身魔法ではない」
フリーレンは以前、人間に変身する魔族の対処法を仲間に話したことがある。魔族の魔力と人類の魔力は根本から異なった性質を持っており、魔力によって見極められると。
確かに有用な情報ではあったが、結局は魔力感知に優れた魔法使いにしかできない芸当だった。その魔法使いの中でも特出しているフリーレンが、見間違うことはないはずだ。だが、それではやはり辻褄が合わなくなる。
「もしあれが魔法による偽物だったというのなら、もはや存在の模倣だ。その魔法の使い手が、魔族だとしたら恐ろしいことだよ」
ごくりと誰かが喉を鳴らす。賑わっている酒場の中で、その音はひどく目立って聴こえた。
そんな擬態能力に優れた存在がいたとすれば、誰もその存在に気づけない。誰かに取って代わり、今も人類の中に潜んでいるのかもしれない。
薄ら寒い感覚が背筋を震わせる。
「その後、裏切った方のフロイラインは?」
「それ以来、一度も見掛けたことはないかな。存在を模倣する魔法や魔族について調べたこともあったけど、目ぼしい情報はなかった……そもそも、それが存在するのか。今も生きているのかすら分からない」
フリーレンは深くため息を吐く。
「確認のしようがないんだ。考えるだけ無駄だ……おかげで調べ物で数百年も無駄にした」
「……そうか」
ヒンメルは悲しそうに眉を下げた。重く沈んだ空気のなか、ヒンメルは静かな声で続けた。
「そのフロイラインとは仲が良かったのかい?」
フリーレンは首を傾げ、答えにあぐねる。いつもきっぱりと意見を言うフリーレンにしては、その反応は珍しかった。
「多分?」
「……なぜ疑問形?」
「たしかに隣同士だから何かと顔を合わす機会はあったけど、あの子って夜型生活で昼はほとんど寝てるんだよね。だから、日中はフロイラインの寝顔くらいしか見たことないんだ」
聞けば寝ることが趣味のエルフらしい。だが、それで夜に起きるのは本末転倒だろう。ヒンメルたちも呆れ返した。
「でも、夢に見るような相手なんだろう?きっと君にとって大切な人だったんだよ」
その言葉に、フリーレンはしばらく間を置いて答える。
「……そうかもね」
ヒンメルたちは微笑んだ。自分たち以外にも、大切な友人がフリーレンにいたことが嬉しく、そして亡くなったことが悲しくもあった。
ようやく運ばれてきた料理を前に、フリーレンはナイフとフォークを取った。だが、ヒンメルたちはハイターを真似て食前の祈りをしている。
いつもは参加しないフリーレンも、今日は気まぐれに手を合わす。4人は大昔に亡くなった人物を悼んだ。
「もしかして……勇者様ですか?」
祈りを終えたところに、料理を運んで来た給仕に声を掛けられた。フリーレンは面倒くさそうに睨んだが、ヒンメルは快く微笑み返す。
「ああ、そうだよ」
「やはりそうでしたか。噂を聞きつけてこの村に来られたのですね……ああ、やっと来てくださった!」
「噂?」
「ご存知ではないのですか?」
ヒンメルの反応に給仕は首を傾げた。
「村はずれにある丘に、幽霊が出るのです」
給仕のその言葉に、賑わっていた酒場は静まり返る。まるで、墓場のような静かさが辺りに漂っていた。
「幽霊?アインザームじゃなくて?」
アインザームは人の記憶を盗み見て、その人の一番大事な人物に変身する魔物だ。世間一般で流布する幽霊にまつわる怪談は、大体この魔物の仕業だと言われている。
特別珍しい魔物ではなく、特に北部高原ではアインザームのような狡猾な魔物は多い。北部高原の冒険者なら討伐できる程度の相手だ。
「以前、魔法使いの方に見てもらったのですが、魔物や魔族の魔力は感じられなかったそうで……」
「じゃあ、野盗の仕業とか?」
「いいえ。それは絶対にありえません。あれはこの世のものとは思えません……何というか、霞掛かった見た目をしているのです」
青褪めた表情を浮かべる給仕は、ことのあらましを一行に訊かせた。
数年前に、突如として"それ"は現れた。人間の姿をしてはいるが、全身が霞掛かったように朧げな見た目で、瞬きをする間に色々な人間の姿に変わる。そして、近づいた相手を襲うのだ。
当初はアインザームだと思われていたので、村の冒険者たち数人が退治しに向かったのだが、全員殺されてしまった。
旅の高名な魔法使いや騎士団に討伐依頼を出したこともあったが、結局誰1人として生きて帰った者はいない。
アインザームとは思えないほどの強さに、もしや魔族ではないかと噂が立ち、とある国の宮廷魔法使いが調査に来る事態にまで発展したそうだが……。
『ば、馬鹿な……人間の魔力だ』
調査に来た魔法使いは、そう言い残して国に引き返してしまった。以来、誰も"それ"と闘う者は現れてはいない。
近づかなければ襲ってくるようなことはなく、丘から移動することもないので、長年放置していたらしい。
「……」
話を訊き終えた一行は、先ほどのフリーレンの話が頭をよぎった。ヒンメルはフリーレンに視線を投げ掛ける。フリーレンは静かに考え込んでいるようだった。
「しかし、本当に幽霊だったらどうするハイター?」
「僧侶だからって私に矛先を向けないでください。流石に、女神様の魔法の中に幽霊を退治するものはありませんよ」
ヒンメルは場を和ませるために軽い冗談を言ったが、場は依然として静かなままだ。この場にいる冒険者たち全員から、恐怖の感情が見て取れる。北部高原を根城にする屈強な彼らが、本気で"それ"を恐れているのだ。
「ちなみにその……幽霊は何て呼ばれているんだい?」
「まあ、昔は色々な呼び名がありましたよ。幽霊とか、百貌とか、千変万化とか」
朧げな見た目や、姿を様々に変化させる能力から、それを表した二つ名が付けられてきたらしい。しかし、今は一つの名が定着しているそうだ。
"それ"は相手を襲う前に決まって一つの問いを投げ掛ける。
『自分は誰だ?』
その問いから、"それ"は村人からこう呼ばれた。
――無名と。
観測者A「あー、もう限界ですかね。対象の自我が消失するというよりは、他の意識情報と自我の境界が合間になって自己崩壊に向かってます」
観測者B「創作の世界でもこういう能力の奴って驚異的な精神力を求められるんだよな。アー○ードとかホー○ンハイムとか。確固たる自我ないとキツイよな」
観測者A「知識とは己の方向性を示す力……耳の痛い言葉です。人間を理解することだけに知識を吸収し始めた時点で、対象がこうなることは決まっていたわけですか」
観測者B「企画のコンセプト全否定するみたいな意見だな。まあ、こういう生物観察も考察や意見出すこと結構重要だしなぁ」
観測者A「さて、これからは終末期観察です。何かしら動きがないと生物観察って面倒なんですけどね」
観測者B「散り際ぐらい派手にして欲しいもんだな」