匠によるビフォーアフターが始まる───!


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テノチのビフォーアフター

 引っ越し業者のトラックが去り、手元には数個の段ボールと、少し建付けの悪いドアの鍵だけが残された。

 新生活の拠点として俺が選んだのは、都心から少し外れた場所にある築30年のアパートだ。お世辞にも綺麗とは言えないが、家賃の安さは魅力だった。

 しかし、その妥協を、隣に立つ都市の神が許すはずもなかった。

「……トラマカスキ。まずは一つ、確認させていただきたいのです、ね。これは何かの冗談か、あるいは敵対魔術師による精神汚染の類いなのです、ね?」

 テノチティトランは、埃の舞う部屋の真ん中で、まるで汚物を見るかのような視線を壁の染みに向けていた。

「ただの学生向けの普通のアパートだよ。これから荷解きして住みやすくしていくんだ」

「住みやすく、ですか、ね。この壁の強度は、私の指先一つで粉々に砕け散るほどに脆弱です、ね。防音性も皆無、霊的な防護に至っては、結界どころか紙切れ一枚の守りすら存在しないのです、ね。……ここを『家』と呼ぶのは、私の神殿に対する冒涜だと言わざるを得ません、ね」

 彼女の背後に、ゆらりと巨大な都市の幻影が浮かび上がる。それは不機嫌な神の意思そのものだった。

「この古臭い感じも、案外落ち着くというか、味があるよね」

 俺が何気なく口にした言葉。それが彼女の逆鱗に触れたッ! 

 テノチティトランは、黄ばんだ壁紙を親指の爪で忌々しそうになぞりながら、凍てつくような笑みを浮かべた。

「……『味』、ですか、ね。トラマカスキ、その言葉はあまりに無節操ではないでしょうか、ね? この、あちこちが軋んでガタのきている『三十路の年増』のどこに、私の知らない魅力があるというのです、ね?」

「いや、年増って。ただの築年数なのでは?」

「同じことなのです、ね。建築学的に言えば、築三十年などというものは、既に多くの住人に『開発』され尽くし、その構造の隅々まで他人の生活臭が染み付いた、薄汚れた肉体も同然なのです、ね。……それなのに、アナタは私という純潔かつ最新鋭の都市がありながら、誰のものとも知れない使い古された『空洞』に安らぎを感じているのです、ね?」

 彼女の周囲に、どろりとした負の魔力が渦巻き始める。それはまさしく、恋敵を呪う女の執念そのものだった。

 

 彼女は部屋の隅にある、古びた配管のジョイント部分を指先で弾いた。

「見てください、ね。この継ぎ目の緩み具合を。長年の使用で拡張され、今や軽い刺激でさえ不快な振動を撒き散らしています、ね。私なら、トラマカスキのいかなる激しい『入居』に対しても、寸分の隙間もなく密着し、最高級の防振性能で受け止めて差し上げますのに、ね」

「建物の話をしているんですよね……?」

「当然です、ね。ですが、トラマカスキの甘い言葉に浮かれているこのアパートの節操のなさが、私は我慢ならないのです、ね。アナタがこの床を踏みしめるたびに、この建物が嬉しそうに『ギィ……』と鳴くのが聞こえませんか、ね? まるで、もっと強く踏んで、愛してほしいと強請っているようで、反吐が出ます、ね」

 彼女の嫉妬は、もはや無機物であるはずのアパートを、一人の「淫らなライバル」として認識しているようだった。

 

「決めました、ね。トラマカスキ。この厚顔無恥な『中古物件』の記憶を、今すぐ私の魔力で徹底的に浄化(クリーニング)して差し上げます、ね」

 

 テノチティトランは俺の胸元に手を置き、ぐいと自分の方へと引き寄せた。至近距離で見つめる彼女の瞳は、独占欲に濡れて妖しく光っている。

 

「いいですか、トラマカスキ。私は都市。アナタを包み、守り、育むための最高のシェルターなのです、ね。その私が、このような雨露を凌ぐだけの箱に、アナタを押し込めておけるはずがないのです、ね」

「テノチティトラン! それはマジでやばい!」

 俺の制止など聞こえていないかのように、彼女は優雅に、かつ断固とした動作で床に手を触れた。

「建築開始です、ね。まずはこの卑小な空間を、私の神殿の回廊として再定義いたします、ね。ついでに隣の部屋との壁を取り払い、トラマカスキの寝室として統合して差し上げます、ね」

「隣の人に許可取ってないからそれはやめて!」

 バリバリと空間が軋む音が響き、安っぽいビニールクロスが剥がれ落ちていく。その後ろから現れたのは、現代建築ではあり得ない、白銀に輝く幾何学模様の石材だった。

 彼女の指先が動くたびに、ワンルームの空間が物理法則を無視して横に、そして縦に広がっていく。

「ふむ、キッチンの火力が貧弱すぎます、ね。地下の霊脈から直接エネルギーを引き込み、太陽の火を灯しておきました、ね。これでどんな料理も、神への供物レベルに美味しく仕上がるはずです、ね」

「蛇口から黄金の液体が流れてるんだけど! これ、水じゃなくてお酒!?」

 

 ───数分後。そこには「築30年のアパート」の面影は微塵も残っていなかった。

 外観こそ周囲への擬態でどうにか保たれているものの、一歩室内に入れば、そこは迷宮のような回廊と、壮麗な石柱が立ち並ぶアステカ神殿の最深部と化していた。

「……ふぅ。これでようやく、人間が最低限の生活を送れるレベルになったのです、ね」

 満足げに頷くテノチティトランの足元には、拡張された空間に飲み込まれ、元の位置から数メートル移動した俺の荷物が転がっている。

 

「これって、退去する時には原状回復できる?」

「げ、原状回復……!? トラマカスキ、アナタは今、なんて……なんて破廉恥な要求を口にされたのです、ね!?」

 

 テノチティトランは、まるで予期せぬ場所を執拗に愛撫されたかのように、その肩を大きく震わせた。彼女の頬は、夕焼けよりも赤く、熱く、今にも沸騰しそうに染まっている。

「いいですか、よく考えてください、ね! 私がこの三十年ものの『中古物件』の隅々を調べ尽くし、私の水と魔力で隅々まで潤し、奥の奥まで私の構造で開発して、ようやく私の一部として『馴染ませた』……その、事後の余韻に浸っているこのタイミングで、なのです、ね!?」

 彼女は自身の胸元を、自重するように強く抱きしめた。

「それを、無理やり引き剥がして元に戻せ、だなんて……。それはつまり、私の愛によって拡張され、蕩けきったこの『建築物』に対して、『何もなかったことにして初心なフリをしろ』と命じているのと同じなのです、ね! そんな……そんな、辱めに耐えられるほど、私は安い都市ではありません、ね!」

「単なる敷金返還のための手続きの話なんだけどなぁ!」

「いいえ、屈辱です、ね! 一度私の色に染まった空間を、再びあの狭苦しい、乾いた1Kに無理やり窄めさせるなんて……。そんなの、強制的な処女化に等しい冒涜なのです、ね! 想像しただけで、私の配管が、恥ずかしさで破裂してしまいそうです、ね!」

 彼女は潤んだ瞳で俺を睨みつけながら、消え入りそうな声で、けれど執念深く囁いた。

「……トラマカスキが、そこまで酷い方だとは思いませんでした、ね。私を、こんなにもめちゃくちゃに開発しておきながら……最後は綺麗さっぱり『元通り』にして捨てようというのです、ね?」

 彼女は羞恥に震える手で、俺のシャツの裾をぎゅっと掴み、離そうとはしなかった。

「……原状回復など些細な問題です、ね。もし異議を唱える者がいるならば、このアパートごと私の『水』で飲み込んで、新しい都市の一部にして差し上げます、ね」

「残念ながら日本は法治国家なので、それは通らないんだなぁ……」

「さあ、トラマカスキ。新しい都市の誕生を祝して、まずはこの石造りの玉座で休んでください、ね。あ、お風呂は地下三階まで階段を下りる必要がありますが、私の加護があれば一瞬です、ね」

 彼女は誇らしげに胸を張り、困り果てた俺の手を引いて、あまりに豪華すぎる「新居」の奥へと案内し始めるのだった。

 魔法的なリフォームによって、1Kアパートは瞬く間にアステカの神殿を彷彿とさせる壮麗な空間へと変貌を遂げた。壁は滑らかな石造りになり、部屋の隅々からは、どこからともなく心地よい水のせせらぎが聞こえてくる。

 テノチティトランは満足げに、新しくなったリビング——というか、神殿の広間を眺めていた。

「どうですか、トラマカスキ。この空間の『締まり』具合は。都市も建物も、ただ頑丈なだけでは三流なのです、ね。住まう人の体温を感じて、最適に反応する……いわば、絶頂を共有できるほどの『感度』が必要だとは思いませんか、ね?」

「……家に対して『締まり』とか『感度』とか、あんまり使わない言葉だと思うんだけど」

「あら、意外に保守的なのです、ね。いいですか、優れた建築というのは、トラマカスキの愛撫——いえ、足音一つで、その基盤を微かに震わせるものなのです、ね。私のこの『床』が、アナタの重みを感じてどれほど喜んでいるか、想像してみてください、ね」

 彼女はそう言って、自らの足元を愛おしそうに、そしてどこか妖艶に踏みしめた。

 

 次に彼女が案内したのは、もはや「風呂場」という概念を通り越した、広大な屋内浴場だった。大理石の縁からは、乳白色の湯が絶え間なく溢れ出している。

「特にこだわったのは、この『流体管理』なのです、ね。都市の健康は、その内側に隠された配管の……そう、湿り気と通り具合で決まるのです、ね」

 彼女は湯気に濡れた指先を唇に当て、意味深な微笑を浮かべた。

「トラマカスキ、建築において最も淫らな失敗が何かご存知ですか、ね? それは『排泄の滞り』……つまり、溜め込みすぎて溢れさせてしまうことなのです、ね。私の配管は、アナタのいかなる『流入』も受け入れ、最高に気持ちの良い速度で循環させるよう、丹念に……それこそ、指先がふやけるほどに調整してあります、ね」

「設備が高機能なのは分かったけど言い方がね?」

「都市を愛でるということは、その内臓まで愛するということなのです、ね。アナタも、私の奥深くまで流れる水の音を聴けば、きっと理解できるはずです、ね」

 

 最後に、彼女は一段と高くなった場所に設えられた、羽毛のように柔らかな寝台を指し示した。

「最後は、都市計画における最重要課題……『プライベート・ゾーンの開放』なのです、ね。本来、私の心臓部(ベッド)は、許可なき者の侵入を一切拒む鉄壁の要塞なのです、ね」

 彼女はゆっくりと俺に歩み寄り、耳元で熱い吐息を漏らした。

「ですが……もしアナタが、私の『都市計画』を無視して、強引に境界線を越えてくるというのであれば……私は、その不法侵入を全力で歓迎いたします、ね。むしろ、私の強固な『外壁』を、アナタの情熱でドロドロに溶かしてほしい……なんて、都市神としては少し破廉恥すぎるお願いでしょうか、ね?」

「……大家さんに怒られる前に、俺の心臓が止まりそうだよ」

「ふふっ、アナタの鼓動が早まるのも、この部屋の耐震構造の一部として組み込んでおきます、ね。さあ、今夜はこの新しい『都市』を、アナタの好きなように開発してみてください、ね」

 


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