ランサーと別れ、僕たちは夜の帳が下りた冬木の街を背に、アインツベルンの森へと続く道を歩いていた。
街灯の光も届かぬ深い森の入り口。冷やりとした静寂の中で、隣を歩くアルトリアが不意に口を開いた。
「……織姫。貴殿の振る舞いについて、一つ問いたい事があります」
その声には、非難というよりは純粋な困惑の色が混じっていた。
彼女は真っ直ぐに僕を見つめ、躊躇いながらも言葉を続ける。
「あのランサー、ディルムッド・オディナへの加担……あれは些か、過ぎるのではないでしょうか」
彼女の指摘はもっともだった。
敵であるサーヴァントに魔力を供給し、呪いを封じる策まで授ける。それは聖杯戦争という殺し合いのルールにおいて、「敵に塩を送る」という生温い範疇を遥かに超えている。
戦術的に見れば、それは自陣営の優位性を自ら放棄する愚行であり、見方によっては主君である彼女への背信行為と取られてもおかしくはない。
「一見して、我が君への裏切りにも見える。……そう言いたいんだね?」
僕が先回りして言葉にすると、アルトリアは僅かに視線を伏せ、否定しなかった。
「……貴殿が私を裏切るとは思いません。ですが、あのランサーは敵です。彼の槍が鋭くなれば、それだけ私の、そして貴殿の命も危うくなる。何故、そこまでするのですか?」
僕は足を止め、森の木々の隙間から覗く月を見上げた。
「……彼が、あまりにも不遇だからだよ」
「不遇、ですか?」
「ああ。あの高潔なる騎士道。彼がそれを捧げる主は、残念ながら騎士道を解さない。彼のマスターにとって、サーヴァントは魔術的な使い魔――聖杯戦争を勝ち抜くための『道具』でしかないんだ」
僕はディルムッドの瞳を思い出す。
主君に認められたいと願う、切実なまでの忠義の光。けれどその光は、ケイネスという魔術師の合理性の前では決して報われることはない。
「サーヴァントは使い魔の枠に押し込められているけれど、その本質は英雄の霊魂だ。彼らには心があり、感情があり、生前に数々の偉業を成し遂げた誇りがある。僕は同じ道を歩む者として、あるいは後世を生きる者として……その先達に対する敬意を捨てたくないんだ」
僕はアルトリアに向き直り、静かに、しかし熱を込めて語った。
「彼が主君との不和や、望まぬ呪いによってその輝きを曇らせたまま消えゆくのは忍びない。彼という英霊を尊重し、騎士として万全の状態で在ってほしいと願うのは……僕の我が儘であり、彼への『助成』だよ」
アルトリアは僕の言葉を噛み締めるように沈黙した。
彼女もまた騎士王だ。僕が語った敬意と尊重の意味を、誰よりも深く理解できるはずだ。
だが、僕が伝えたいことはそれだけではなかった。
僕は一歩踏み出し、彼女の手を取った。
冷たい夜風に晒されていたその手は、僕の手のひらの中で少しだけ温かさを取り戻す。
「けれど、我が君。勘違いしないで欲しい」
「……え?」
「僕がディルムッドに情けをかけるのは、あくまで騎士としての敬意だ。でも、こうして君の隣に立ち、君の剣となり、君と共に歩んでいるこの時間は……そんな『助成』や、騎士としての『忠義』だけのものじゃない」
僕は彼女の翡翠の瞳を、逃がさないように見つめ返した。
「これは、アルトリア・ペンドラゴンという一人の女の子に捧げる、僕からの『愛情』として受け取って欲しい」
「――っ」
アルトリアの頬が、夜の闇の中でも分かるほど朱に染まる。
王としての仮面、騎士としての鎧。それらを透かして、ただの少女としての彼女に触れる言葉。
「僕は君に奉仕するためにここにいるんじゃない。君を愛しているから、君と共に在ることを選んだんだ。だから、僕が誰に情けをかけようと、僕の全ては君のものだ。それだけは疑わないでくれ」
アルトリアは口元を震わせ、何かを言おうとして言葉を詰まらせた。
やがて、彼女は握られた僕の手を、ぎゅっと握り返してきた。その力強さが、言葉以上の返答だった。
「……貴殿はずるい。そのような言葉を、こうも真っ直ぐに……」
彼女は恥ずかしそうに顔を背けたが、その唇には隠しきれない微笑みが浮かんでいた。
「帰りましょう、織姫。アイリスフィールが待っています」
「ああ、帰ろう。……僕らの城へ」
繋いだ手は離さないまま、僕たちは再び歩き出した。
森の冷気さえも、今の二人には心地よい祝福のように感じられた。
◇◇◇
繋いだ手の温もりが、夜風の冷たさを忘れさせてくれていた。
だが、アインツベルンの森へ続く静寂な闇は、突如として鼻を突く腐臭によって塗り潰された。
「――おやおや。まさかこのような場所で、奇跡と遭遇するとは」
闇の奥から滲み出るように現れたのは、豪奢で、しかしどこか汚辱に塗れたローブを纏った怪人。
キャスター、ジル・ド・レェ。
「……ッ!」
アルトリアが瞬時に反応する。黒いスーツ姿は一瞬で魔力の光に包まれ、銀の甲冑と蒼銀のドレスを纏った騎士王の姿へと変貌した。
僕もまた、即座に思考を切り替える。今の僕は彼女の守護者。姿をアルトリア・アヴァロン――選定の杖を携えた聖剣の概念礼装へと転じ、その隣に並び立つ。
すると、ジルの魚類を思わせる巨大な瞳が、限界まで見開かれた。
「おお……! おお、おおお!! なんということだ! 神よ、貴方はどこまで残酷で、どこまで粋な計らいをするのですか!」
彼は両手を広げ、恍惚のあまり涙を流して天を仰いだ。
「ジャンヌ! 我が聖女よ! まさか二人になって私の前に現れるとは! 復活の奇跡が二重に……いや、これこそが神の与えし試練か、あるいは褒美か!」
僕たちの姿を、彼は完全にジャンヌ・ダルクと混同していた。それも、二人に増えているという異常事態になんの疑問も抱かず、ただ己の狂気の中で完結させている。
「戯言を! 貴様、ここで引導を渡してやる!」
アルトリアが不可視の剣を構え、一歩踏み出そうとした時だ。ジルの背後から、ぞろぞろと小さな影が現れた。
それは、数人の子供たちだった。虚ろな目で、ふらふらとキャスターに従っている。
「……動くな、アルトリア」
僕は低く制した。
人質のつもりはないのだろう。だが、今の状況で僕たちが踏み込めば、巻き添えになるのは彼らだ。
「さあ、始めましょうジャンヌ。かつて我らがフランスで興じたように……いや、もっと退廃的に!」
ジルが指を鳴らすと、子供たちの瞳に生気が戻った。途端、彼らは自分たちが置かれた異様な状況と、目の前の怪物の姿に気づき、悲鳴を上げようとした。
グシャリ。
湿った音が、森に響いた。
ジルが一番近くにいた少年の頭を、その大きな手で何でもないように握り潰した音だった。
「――ぁ」
「さあ、逃げなさい! 鬼ごっこの始まりですよぉ!」
鮮血が飛び散る中、ジルは狂喜の声を上げた。
残された子供たちは、死の恐怖に理性を焼き切られ、蜘蛛の子を散らすように森へと走り出す。
「貴様ぁぁぁッ!!」
アルトリアの激昂が爆発した。彼女は風王結界を解放し、逃げ惑う子供たちを保護すべく、疾風の如く駆け出した。
だが、僕の眼には見えてしまった。
ジルが子供たちの背中に向けて送った、歪んだ魔力の糸と、その体内で脈動する「異物」の正体が。
「駄目だッ! 近寄るなアルトリア!!」
僕の叫びは、一瞬遅かった。
「助けて、おねえちゃん!」
一人の少年が、救いを求めてアルトリアに手を伸ばした、その瞬間。
少年の顔に浮かんだ希望の表情が、風船のように内側から膨れ上がった。
パンッ、と。
肉が弾ける乾いた音が連続して響く。
「な――」
アルトリアの目の前で、子供たちの身体が内側から食い破られた。
飛び散ったのは内臓ではない。彼らの肉を苗床にして孵化した、無数の触手を持つ海魔の群れだった。
子供たちは悲鳴を上げる暇もなく、自らの体積を無視して膨れ上がった異界の怪物へと成り果てたのだ。
「くっ、うぅッ!?」
無防備に手を差し伸べていたアルトリアの四肢に、爆散した血肉と共に海魔の触手が絡みつく。
彼女は剣を振るうこともできず、数体の海魔によってその身体を締め上げられ、拘束された。
「素晴らしい! 絶望と希望が入り混じった鮮血の花火! これぞ至高のアート!」
ジルの高笑いが木霊する。
触手が銀の甲冑を軋ませ、アルトリアの肢体を容赦なく締め付ける。だが、彼女の口から漏れたのは、痛みへの悲鳴ではなかった。
「……許さん。許さんぞ、外道……ッ!」
彼女の翡翠の瞳は、自身の窮地など意に介していなかった。
そこにあるのは、無辜の、罪なき子供たちを苗床にし、希望を見せた瞬間に絶望へと叩き落として命を弄んだ、この悪魔に対する、焼き尽くさんばかりの憤怒のみ。
「織姫……ッ! この男を……この悪を、私は絶対に許さない!!」
縛められた騎士王の叫びが、アインツベルンの森を震わせた。
◇◇◇
僕は、自分という存在が本質的にろくでなしであるという自覚がある。
いくら外側を『
僕の心臓は、人を愛するために脈打つものではなく、本来は人を、国を、時代を喰らい尽くすために炉心を燃やす、卑王の呪いそのものなのだから。
清廉潔白な騎士道など、僕の血管には一滴たりとも流れていない。
必要とあらば騙し討ちも辞さないし、敵対者をすり潰すことに躊躇いも覚えない。
だからこそ、僕は聖人君子のような顔をして「殺生はいけない」などと説くつもりは毛頭なかった。
――けれども。
「あはぁ、あはははは! 見てくださいジャンヌ! この鮮やかな赤! 幼子の希望が絶望に裏返り、物理的に破裂するこの瞬間のカタルシス! これこそが神への冒涜、これこそが我らの愛の証!」
目の前で喚き散らす、この腐りきった道化師の歓喜に。
その悍ましい美学に。
「悪党同士、分かり合えるだろう」などという共感は、一ミリたりとも湧いてこなかった。
湧き上がったのは、ただただ、胃の腑が裏返るような強烈な**嘔吐感**だけだった。
「……反吐が出る」
僕は、杖を握る手にギリギリと力が篭もるのを感じた。
僕の裡に棲む邪竜が、目の前の光景を「不快だ」と咆哮している。
それは倫理的な義憤ではない。もっと生理的で、根源的な嫌悪だ。
生命を喰らうことと、生命を弄んで汚泥に変えることは違う。
僕という怪物は、破壊こそすれ、このような陰湿で粘着質な「腐敗」を何よりも嫌う。
ましてや。
「くっ、うぅ……っ! 貴様……貴様ぁッ!!」
海魔の触手に四肢を締め上げられ、穢れにまみれながらも、その碧き瞳だけは決して屈することなく、涙を流しながら憤怒を燃やすアルトリア。
僕の「推し」であり、僕の「王」であり、僕の「愛する人」。
彼女の誇り高い魂を、あのような下劣な触手で辱め、あまつさえ彼女が守ろうとした無垢な命を爆弾として利用した。
その事実は、僕の中にある「竜の逆鱗」を、これ以上ないほど深々と逆撫でした。
「ジル・ド・レェ」
僕は一歩、踏み出す。
選定の杖の石突きが、硬質な音を立てて地面を叩いた。
その瞬間、周囲の空気が凍りついたように変質する。
聖なる輝きを放っていたはずのアヴァロンの魔力が、瞬く間にどす黒く、重苦しい重圧へと反転していく。
「今更、聖道を説くような殊勝な身の上ではないが……これだけは言っておく」
僕は、かつてないほどの冷徹な殺意を込めて、狂える元帥を見下ろした。
「君のそれは、芸術でも信仰でもない。ただの汚物だ。……僕の視界に映るのもおこがましい」
僕の背後から、幻視としての黒い竜の影が鎌首をもたげる。
聖女と見間違えたはずの存在から放たれる、底知れぬ深淵の殺気。
それに気づいたジルの笑い声が、引きつったように喉の奥で止まった。
◇◇◇
「――そんなに逢いたいのならば、会わせてやろう」
僕の唇から零れ落ちた言葉は、冷徹な死刑宣告であり、同時に狂人への慈悲なき手向けだった。
胃の腑からせり上がる反吐を、鉄の意志で飲み込む。
この外道に下すべき罰は、単なる「死」ではない。聖剣の守護者として、あるいは魔術師として彼を断罪し、塵に還すだけでは、彼が子供たちに強いた絶望の対価としてあまりに軽すぎる。
彼が求めたもの。彼が神を呪ってまで焦がれたもの。
その「救い」を目の前に突きつけ、その輝きで彼自身の醜悪さを焼き尽くすことこそが、僕にできる最大の報復だ。
「術式置換。擬似霊基構築――開始」
僕は強く地を踏みしめ、手にした選定の杖を空へと掲げた。
僕の内側にある「竜の炉心」が、どす黒い回転を止め、代わりに白熱するほどの輝きを帯びて逆回転を始める。
アクセスするのは、僕の記憶、僕の宝物庫に眠る至高の宝石。
フランスの特異点で、このジル・ド・レェ自身が聖杯に願って生み出した「竜の魔女」。
復讐の炎に身を焼かれた、ジャンヌ・ダルク・オルタ。
彼女は、本来ならばこの世界には存在し得ない英霊だ。
だが、僕の中には彼女の概念がある。彼女と契約し、共に歩む記憶がある。
その「憎悪の聖女」の霊基を自身の肉体に降ろすなど、今の僕にとっては造作もないことだ。
「だが、黒き復讐者のままでは芸がない」
僕は脳内で組み上がった漆黒の霊基を、指先一つで反転させる。
憎悪を慈愛に。黒き炎を浄化の光に。
竜の魔女としての性質を、メビウスの輪を裏返すように強引に「聖女」の側へと反転させる。
光が、溢れ出した。
それはアヴァロンの星の光ではない。もっと土着的で、血の匂いと祈りの歌が混じった、戦場の聖女の輝き。
「主よ、この身を委ねます――」
僕の姿が光の中で溶解し、再構築される。
魔術礼装であったローブは、白銀の甲冑と紺碧のドレスへ。
手にしていた杖は、戦場に翻る希望の象徴、白き聖旗「
そして、亜麻色の髪は長く伸び、太い三つ編みとなって背で揺れた。
光が収束し、冬木の森に完全な静寂が訪れる。
そこに立っていたのは、一人の乙女だった。
かつてフランスを救い、奇跡を行い、そして火刑台の露と消えた、救国の聖女。
「……あ」
ジル・ド・レェの動きが止まる。
笑い声が喉の奥で凍りつき、巨大な魚眼から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
それは彼が夢に見続け、幻覚の中に探し求め、決して届かないと絶望していた「本物」の輝き。
狂気によって歪められた認識を通すまでもなく、そこに在るのは紛れもない、彼の愛したジャンヌ・ダルクそのものだった。
「ジャン……ヌ……?」
震える声で、怪人が問いかける。
僕は――いや、聖女の皮を被った僕は、慈愛に満ちた、しかし氷のように冷ややかな瞳で彼を見下ろした。
その手には、神への祈りではなく、断罪の旗を握りしめて。
「お久しぶりですね、ジル」
その声色は、春の日差しのように柔らかく、彼の鼓膜を震わせた。
だが、その言葉の裏には、彼が子供たちに与えた苦痛の分だけ、鋭利な刃が隠されていた。
「貴方が神を呪い、冒涜の限りを尽くしてまで私を求めたというのなら……私は、ここに応えましょう。さあ、顔をお上げなさいジル。その薄汚れた瞳に、貴方が焼き捨てたはずの『信仰』の姿を、最期に焼き付けてあげますから」