「主よ、この身を委ねます――」
その祈りの言葉は、戦場においては合図(シグナル)に等しい。
僕は高く掲げた白亜の聖旗を、渾身の力で振り抜いた。
「我が旗よ、我が同胞を、そして無辜なる魂を守りたまえ!!――『
切っ先から迸ったのは、物理的な破壊力を持った衝撃波ではない。
それは、あらゆる不浄を拒絶し、穢れを焼き払い、在るべき正しさへと還す、純度一〇〇%の「聖なる光」の奔流だった。
「ギ、ギギギギギィィィィッ!?」
アルトリアの清廉な肢体を締め上げていた海魔の触手が、光に触れた瞬間に沸騰した。
断末魔をあげる間もなく、内側から白熱し、灰へと変わり、最後には塵一つ残さず浄化の光に溶けて消滅する。
ただの魔力放出ではない。これは概念的な「否定」だ。
神を呪うために生み出された冒涜的な生命にとって、救国の聖女が放つ祈りの輝きは、存在そのものを許さない猛毒に他ならない。
「ぁ……、ジャンヌ……?」
拘束を解かれ、膝をついたアルトリアが呆然とこちらを見上げる。
だが、その視線以上に僕の姿に釘付けになっていたのは、キャスター――ジル・ド・レェだった。
彼は、自分の可愛い眷属たちが一瞬で消滅させられたことなど目に入っていないようだった。
彼の巨大な瞳には、ただ一点、聖旗の下に佇む聖女の姿だけが映っていた。
「ああ……あああ……!! なんと、なんと神々しい……! これぞ、これぞ私が求め続けた、あの日失われた輝き……!!」
ジルは震える手で虚空を掴もうとし、そして、気づいてしまった。
その聖女の瞳が、自分に向けていっさいの慈悲もなく、ただ冷徹な軽蔑だけを湛えていることに。
かつて自分を導き、共に戦場を駆けた少女。
その彼女が、今の自分の所業――幼子を惨殺し、それを「愛」と呼ぶ狂気――を、完全に否定している。
神への冒涜? 違う。
これは、彼が神よりも崇拝した、ジャンヌ・ダルクその人への「裏切り」だ。
「ち……違う……」
ジルの顔が青ざめ、脂汗が吹き出す。
「違うのです、ジャンヌ! 私は、私は貴女のために! 貴女を奪った神を弾劾するために、このような……!」
僕は聖女の仮面を被ったまま、静かに首を横に振った。言葉はいらない。その沈黙こそが、彼にとって最も残酷な断罪だった。
『貴方のそれは愛ではない。ただの汚辱です』と、その瞳が語っていた。
「う、うあああああッ!! なぜだ、なぜ私を見ない! なぜ私を讃えない!! 私は、私はぁぁぁッ!!」
ジルは両手で頭を抱え、狂ったように絶叫した。
理想と現実の乖離。聖女からの拒絶。その精神的な負荷は、いかなる対魔術よりも深く彼の霊核を刻んだ。
「おのれ……おのれぇぇぇッ!!」
空間が歪む。ジルは錯乱したまま、逃げるように自身の魔術を行使した。
黒い霧が彼を包み込み、転移魔術が発動する。それは戦略的な撤退ではない。聖女の「否定」という耐え難い現実から目を背けるための、無様な敗走だった。
気配が完全に消滅したのを確認した、その瞬間。
「――が、っ、はぁ……ッ!!」
僕の身体を維持していた聖女の霊基が、ガラス細工のように砕け散った。
眩い光が霧散し、元の魔導師の姿に戻ると同時に、僕は膝から崩れ落ちた。
「はぁ、っ、ぐ、ぅぅ……ッ!」
内臓が焼けるような熱さと、全身を万力で締め上げられるような激痛が同時に襲う。
口端からツー、と赤い血が伝った。
(……馬鹿な真似を、したな)
僕は脂汗を流しながら、自身の胸元を強く鷲掴みにした。
僕の心臓は、ブリテンを飲み込もうとした卑王ヴォーティガーン――すなわち「竜」の属性を持つ邪悪な炉心だ。
対して、今僕が無理やりその身に降ろしていたのは、聖人たるジャンヌ・ダルクの聖なる加護。
水と油どころではない。それは、吸血鬼の血管に聖水を流し込むような自殺行為だった。
意趣返しとして、あの狂人を精神的に追い詰めるには「聖女」の姿以上の適役はいなかった。だが、その代償として、僕の竜の因子は聖なる光による自己浄化(自爆)を起こしかけていた。
「し、織姫!? 大丈夫ですか、織姫ッ!」
駆け寄ってきたアルトリアが、僕の身体を支えようとして、その高熱に息を呑む。僕の肌からは、チリチリと白い蒸気が上がり、まるで火傷のような痕が浮かび上がっていた。
「はぁ、はぁ……。大、事ない……。少し、相性が悪すぎただけだ……」
僕は荒い呼吸を繰り返しながら、火照る身体をさすった。
邪竜の身で聖女を騙る。その報いは確かに受けた。
「……二度と、やるものか」
僕は激痛に歪む口元で、自嘲気味に笑った。
代償は高くついた。だが、あの外道に絶望を叩きつけた快感と天秤にかければ……まあ、今回だけは許容範囲内、ということにしておこう。
◇◇◇
盛大な自爆芸で、守るべき我が君を逆に煩わせるとは……まったくもって、騎士失格もいいところだ。
僕は苦笑を漏らすと、選定の杖を地面に突き、乱れた魔力回路を強引に再編した。
「……術式置換。概念固定・卑王ヴォーティガーン」
詠唱と共に、僕の輪郭が再び変質する。
清らかな聖女の残滓を塗り潰すように、ドス黒く、重厚な「影」が僕の身体を覆っていく。光を呑み込む漆黒の甲冑、冷たい鉄の匂い。セイバー・オルタ――常闇の邪竜の似姿へと転じることで、僕は己の本質である「闇」を呼び戻した。
「ぐ、ぅ……ッ!」
体内で衝突していた聖と邪の均衡が崩れ、異物となっていた「聖なる加護」が黒い魔力によって外へと弾き出される。
肌を焦がしていた白い蒸気が消え、代わりに馴染み深い冷ややかな魔力の奔流が血管を巡り始めた。
焼き尽くされそうだった竜の心臓が、ようやく本来の不気味な鼓動を取り戻す。
「ふぅ……」
肺の奥まで満たしていた焦燥感が消え、ようやくまともな呼吸ができるようになった。
僕は甲冑の籠手越しに自身の胸を確かめ、ゆっくりと立ち上がる。
「すまない、アルトリア。少し無茶をしたけれど、もう大事ない。魔力回路の焼き切れも、邪竜の再生力ですぐに塞がるさ」
僕はいつものように軽口を叩いて、彼女の不安を払拭しようとした。
だが。
「……織姫」
アルトリアの声は、いつになく硬く、そして低かった。
恐る恐る視線を上げると、そこには怒りと、それ以上に深い悲しみを湛えた翡翠の瞳があった。
彼女は僕の胸板――つい先程まで火傷のような熱を帯びていた場所にそっと手を押し当て、静かに、けれど強い口調で告げた。
「貴殿は、私を『我が君』と呼び、騎士として振る舞いますが……貴殿自身は、誰が守るのですか?」
「え……?」
「敵を欺くため、あの外道を誅するために、自らの身を内側から焼くような真似をする……。それが騎士の献身だと言うのなら、私はそのような忠義など認めません」
彼女の手が、ギュッと僕の装束を掴む。
「お願いですから……もう少し、ご自身の身を自愛してください。貴殿が傷つく姿を見るのが、私にとってどれほどの痛みか……貴殿は、まるで分かっていない」
その言葉は、どんな敵の刃よりも鋭く、僕の胸を刺した。
僕は邪竜の力を誇示する漆黒の騎士王の姿のまま、返す言葉もなく立ち尽くすしかなかった。
ただ、胸元を握る彼女の小さな手の震えだけが、冷たい甲冑越しに、痛いほどの熱となって伝わってきていた。
「貴方に何かあれば、私は……」
語尾は、夜の静寂に溶けるように消えた。
けれど、言葉にならなかったその先――彼女が飲み込んだ「喪失への恐怖」は、どんな叱責よりも深く、鋭く、僕の胸を打った。
彼女は僕を咎めるような、それでいて縋るような、迷子の子供のような複雑な眼差しで見つめてくる。
僕は己の浅慮を恥じた。敵を挫くことに夢中になり、一番守るべき人の心を置き去りにしていたのだ。僕の命は、もう僕一人のものではない。彼女が預けてくれた信頼と、彼女自身の心を支える柱でもあるのだから。
「……肝に銘じます。我が君を悲しませるような傷は、二度と負わないと」
僕が殊勝に頭を下げると、アルトリアはふっと強張っていた肩の力を抜いた。
握りしめられていた手が解かれ、代わりにその温もりが、僕の肩へと預けられる。それは重荷ではなく、彼女が僕を「寄りかかるに足る存在」として認めてくれている証だった。
「……帰りましょう、織姫」
「はい。アルトリア」
戦いの余韻と、湿った血の匂いが残る森の中。
僕たちは互いの体温と鼓動を確かめ合うように寄り添い、静かに霧深い古城への帰路を歩き出した。