After the surprised Rainy 作:くのみち
なあ、佐々木よ。
「なんだい?」
本当にこの格好でよかったのか?
「ああ。この方がこの年相応らしいだろ?」
夏休みに入る少し前の、試験休みとも呼ばれる実質夏休みの今日。
俺たちはこの日、お互いの学校の夏服で駅前で待ち合わせた。要はあのコンビニで出会った時と全く同じ格好だ。どんなもんだったか復習しておくと、俺は白のYシャツに黒のスラックス。佐々木のやつも、白い半袖のブラウスに、冬服の時も着けていた赤いネクタイ、そして赤を基調としたスカート。そして荷物入れにはお互いの学校のスクールバッグを採用した。
いやはやお互いにデートと言うには簡素極まりないことだが、幸か不幸かこの天気には実に相応しいかもしれない。
そう、降水確率九十パーセントの予報だった天気は嘘のようなピーカンで、俺たちの今日一日を言祝ぐかのようだった。母親や古泉だけでは飽き足らず、どうやらお天道様すらも俺たちの在り様を誤解しているらしい。
いつか我が団の誇るド級の天照大御神にして我らが団長殿におかれましても、再び誤解されぬことを祈るばかりだ。実際それを懸念せんでもなかった俺は、普段の街とは少し離れたところで待ち合わせを決めていた。その上で一応古泉に頼みハルヒが近づかぬようそれとなく便宜も図ってもらうことにしてもいた。その時の古泉の苦笑ぶりは忘れられない。ああ分かってるよ、この日の予定は、あの分裂事件の経緯を思えばリスクの塊でしかないことくらい。
だがね古泉、俺はメロスのような全力疾走はまあ出来る気がしない。だがせめて、旧知の友人のお悩み解決に微力を尽くすくらいのことは出来る自分でありたいのだ。
仮に古泉よ、お前がこうした佐々木と同じような悩みを持っていたとして……うむ、性の多様化に寛容な現代、百パーセントありえぬと断ずることは出来まい。
俺とて実に断腸の思いであることが前提となるが、ウィンドウショッピングとゲーセン巡り、ファストフード店でのランチやディナーくらいなら付き合ってくれてやらんこともない。大っぴらには言わないが、流石にお前とて真っ当な友人であることくらいは認めているからな俺は。
そしてそれは、俺の目の前で変わらぬ微笑を湛える佐々木にも言えることなのだ。これが間違いだと言うならば、代わりに俺が刺し違えてでもあの忌々しい≪神人≫と拳を交えてやろうじゃないか。
そう、生憎と親友の頼みを無下にして平気な顔をしていられるほど俺は器用な人間じゃなかった。
朝っぱらからギラギラと照り付け、やかましい蝉共がフルコーラスでがなりたてるようなこんな日には家で寝て過ごすのが理想だが、SOS団での騒然たる活動の合間にてこの暑さを織り込み済みの予定も立ててある。
「よし。それじゃあ早速だけどエスコートしてくれたまえ。悪いね、概ねキミにスケジュールを任せてしまったが」
気にすんな、雑事を押し付けられるのもこの一年そこらで手馴れたもんさ。
「ふふ、その涼宮さんたちは元気にしてるのかな。この間は聞きそびれてしまったので少し気になった。
涼宮さんとまた話してみたいのもあるけど……長門さんとは一度談義を深めたい書籍が色々あるし、朝比奈さんのお茶の味に対する興味も尽きないものでね」
ああ、お陰様でな。今からでもこの夏の過労が約束されていることだけは確かだよ。
前にお前は文化祭に来ると言っていたが、秋までにそれに応対するだけの体力を戻しておけるか不安なくらいにはな。
「それは上々……と、おっと。
僕から振っておいてなんだが、ほかの女の子の話をするのはなるべくやめておこう。キミから振るのもナシだ」
ほう? その心は。
「少しは調べたが、こういう場面でほかの女の子に関する話をしたりする行為はどうもあまりよく思わない女性が多いらしい。
逆に僕からも積極的に男の話はしないように……といっても、比較的話す機会のある男性だった藤原君はもう居ないし、国木田君とも最近はまたご無沙汰だからこれといって話すこともないのだが。
ともあれせっかく丸一日使うんだ。話の流れで名前が出るくらいはよしとして、お互いできる範囲で気を揉んでいこう」
うむ。
デートなんて言葉がこの佐々木の口から出た時には、よもや想像を絶する天変地異、雷地震火事親父……
どころか我らが文明の利器の数々を無慈悲に破壊してゆく太陽嵐でも起きるものと、内心戦々恐々としていたところだったが。
結局のところこの日も俺はいつもの俺だし、佐々木はいつもの佐々木だ。かくも正しくあろうと合理的に動き、本当に正しくものを言う。
今の言葉も、それを想えば納得するしかなかった。佐々木なりに今日これから起こることに対しても、正しくあろうとしているのだろう。
紛うことなき純度百パーセントの佐々木だ。悪戯っぽく笑ういつもの横顔を見て、俺は強く確信を抱いた。
とまあ、安堵しつつ振り返ってみると。思えばこうして佐々木と遊びに行くなんてこと、いつぶりのことだろうか──どころの話ではない。
中三の頃なんてのはお互い勉強に明け暮れ、ただ塾の行き帰りを自転車で共にしただけの仲だ。
まあその間にそれなりに、友人と呼べる程度に親睦を深められたという勝手な自負はあるが、こうして街中を遊びに行くなんてことは……ハルヒか誰かが俺の知らん間に世界を再構成でもしていない限り無かったはずだ。今度長門にそれとなく聞いてみるべきか。
ともかくそれから北高に入って一年余り、俺の身にはそれはもう魔法以上の愉快が限りなく降り注ぎ──こんな風に佐々木と再び相見えること自体、想像の余地すらなかったわけで。
だが普通じゃない日々が当然となってから落ち着いて考えてみれぱ、人生数十年を歩むにあたりこの間の分裂事件のように再び互いの道筋が交わることくらいはあるだろうと納得は行く。あの時はたまたま、中学卒業以来の比較的早い出会いとなったというだけだ。
しかしそれもすぐに別々の指向性を堅持し、互いに固有のスカラー量と共に離散していくものと踏んでいた。本当に人生とは分からないものだ。今そこら中でじぃわじぃわと鳴いて暑苦しさを増幅させてくる蝉の一匹が果たしてその使命を全うし番を手に入れられるのかどうか、という問いくらいには分からない。
にしても改めてだが佐々木よ。
その……身一つで俺に絡めている腕はなんなんだ?
「なんなんだ、とは? 恋人同士というのはこうして抱きつきながら歩くものと認識していたのだが」
お前は頭の血こそよく巡るようだが、こっちの知識はそれこそ小説か何かの読み過ぎと見える。 それとも昨今の現代文の小説部分はお前がそこまで対策せねばならんほどに難化しているのか?
生憎とうちの司書様の貸し出す本は実に優秀でな。おかげさまでこの一年でフィクションとそれ以外の区別をする能力も少しは付いた。こういうのがお巫山戯なのくらいは俺とて分かる。
それに何より。暑いだろうよ。
「くっくっ、違いない。さ、冗談はここまでだ。手を引いてくれよ、今日限りの愛しの親友改め彼氏キョンよ」
「……やれやれ。早く行くぞ」
ぱっと離れ、今度は普通に手を差し出した佐々木を見て、改めて手を繋ぎ直す。夏らしく、少し汗ばんだ佐々木の手をやはり汗ばんだ俺の手が迎え入れた。
……と、偉そうに語らったはいいが、実のところこういうのは俺も慣れてはいない。
たしか男が車道側に立つ、と、ネットで読んだだけの知識をそれとなく実行してみせている訳だが。生憎こっち方面は俺もまだまだ褌担ぎもいいところだ。この一年を振り返ってみると、特に朝比奈さんと一緒の時に心がけられていただろうかが不安になる。この機会を大切な予習・復習としよう。
長門は基本的に後ろをついてくるか先導するかだったのでやはり機会はないし、ハルヒはまあ……あいつのことだ。あいつの方が車道側に居る時によしんば暴走トラックが道中突っ込んできたとて、俺の浅はかな思慮なんぞ歯牙にもかけぬ間に車の方からあさっての方向にぶっ飛んでいっちまうことだろう。
それから他愛もない話をしながらも、佐々木の右手をぶっきらぼうにぎこちなく引きつつえっちらおっちら十五分そこら歩き続け。
俺は元より、佐々木の奴も流石に少しは首筋を濡らしてきた頃合いだった。
「ふう……キョン、キミは少し歩くのが早すぎる。僕とキミではコンパスに差があるし、生憎と僕は陸上部などではないので付いていく体力にも限度はある」
「悪かったな、生憎こんな風に誰かの手を引いた経験は指で数えられる位でさ」
「この際だ、キミも予行演習くらいには思っておくといい。幸か不幸か、ボクの体格は一般的な女性のそれをさほど逸してはいないから、こういう時の細やかなケアを試しておくことだ。
ああ──尤もキミからしたらボクの身体は物足りないのではないかと思うがね。プールでも他の女の子に目移りするんじゃないかと今から心配でならない」
「言っとけ。ほら、見えたぞ」
目的地の市内プールに到着した。今日は雨だと聞いていたので、屋内スペースだけでも充分に広い施設を選んでみた。
元々雨の予報だったせいか、人の入りは夏の休日にしてはやや疎らに見える。どうにか俺と佐々木を収容する位の余裕はありそうだ。
「いやはや、ほんの少し駅の外を歩いていただけなのにすっかり汗ばんでしまったね。水着持参ということだったが、ここが午前中の目的地ということで合ってるかな?」
ああ、お互い大した元手もないだろう。安く長くってのは正解なんじゃないか、高校生のデート体験としちゃ。少なくとも俺はそう愚考させて貰った。
このご時世、これと飲み物代を含めても五百円そこそこで昼飯迄持つのは控えめに言ってもコストパフォーマンスの鬼と評価する他ない。
ちなみにここに関しては完全に俺持ちで、それ以降も低く見積もって八割は俺が持つ予定でいる。完全に割り勘でもよかったのだが、何となく意地を張りたくなる気分だったからだ。
ぶっちゃけ十割でもよかったがこいつのことだ、流石に全て持つとなれば却って要らん気を回させかねない。
「うん、一応それなりの出費は覚悟してたのでね、有難く享受させて戴こう。
どれ──キミに眼鏡属性がないのは寡聞にして存じ上げているところだが、スク水属性はどうかな」
何がどうかな、なのかと問い詰めたい。まさか中坊の時のを持ってきたとでも言うのか?
早々に建物に入り受付を済ませるや否や、水を得た魚よろしく冷房を得た佐々木は急に妄言を垂れてきた。
そもそもこいつの口からスク水なんて言葉が出るなんて驚天動地もいい所だ。まさか熱中症を疑ってやるべきだろうか。
「ふふっ、心配には及ばない。生憎と今授業で使ってる平凡なやつさ。……おや? どうもあまり芳しくない反応をするじゃないか。
──そうかそうかキョン、つまりキミはそんなやつなんだな」
誰がどういう奴だって。生憎と俺は素手で人様の蛾の標本を持つような真似はしない、蛾の鱗粉ってのは手が被れるらしいからな。
一方の佐々木はというといつものようにくつくつと笑いながら、どこか得意げに俺の方を見て人差し指をぴんと伸ばして見せ、
「──アレだろう? 高校生になった僕が、今更になって中学生時代の名札付きスクール水着を、流石に当時よりかは肉体的成長を見たその身にまとい市井のプールを泳いでいる──という痛々しく倒錯的な姿をご所望だったとはね。
それともまさかまさかとは思うがね、僕の成長の乏しさを見込んで中学どころか……いや、これ以上は言うまい。キョン、人の性癖にとやかく言う気はないが流石に初デートでそれは攻め過ぎとは思わないか。初回からこれでは回を追うのが末恐ろしくなるよ」
悪戯っ子、いやもはや悪魔のような笑みを浮かべる佐々木に俺は一瞬言葉を呑んだが、忽ちに反論のあれやこれやが浮かんできた。
全面的にとんでもない思い過ごしに耽るんじゃない。これが仮に夢だとしてもフロイト先生にすら扱えまい、占う術なぞまるで思い浮かばない。
それに生憎俺は普通のサーフパンツしか持ってきていないし徒に回を追う気もないし、ましてやお前になにか特定の水着を着るよう頼んだ覚えもない。
「なるほど……僕に羞恥を強いた挙句自分はごく普通の水着姿で悦に浸る、と?
キミの中の僕は、僕の想像を絶する格好で……もはや裸の方がまだマシな恰好でさぞや羞恥に打ち震え、産まれたての小鹿のようになっていると見た。きっとキミの同行無しには身動きひとつ取れず──
いや、それどころの話じゃないな。裸、裸か。キミは今水着を着るよう頼んでないと言ったが、それは裏を返せばプール内という、公衆の面前で僕に生まれたままの姿で──」
おい。
「───くく、くくくっ。冗談、冗談だよ。そもそも生憎こっちの学校は水泳の授業はないんだ。普通の水着を持ち込ませて戴いたよ。キミの反応が面白くてついつい興が乗ってしまった、悪く思わないでくれ。
如何だったかな、巷の彼女というのはこうした冗談のひとつも飛ばすものかと思い演じた訳だが、まあ本当にキミにそっちの興味があったらどうしようかと思索していたもので、そこは安心したとも」
そうだな俺も安心したよ。色々な意味でな。
妙な性癖野郎と勘違いされたままではいよいよ谷口を笑えない事態に発展しかねん。
「──さて、このままここで立ち尽くしていても無駄に時を過ごすだけだ。お互い着替えてこようじゃないか。十分後に売店の前で会おう」
そう言って、佐々木はひらひらと手を振って足早に更衣室へと消えていった。
ああ、やれやれ。佐々木ときたら、明らかに柄になくはしゃいでいるのはなんなんだろうな。演じていただと? 国木田曰く佐々木は自分を枠にはめて演じているのではないか、という分析をしていたが、それが正しいのならば今は少し枠を広げた状態だとかそういう話か。
ともすると、あいつの脳内ではこうした悪ふざけをするのが一般的な女子高生の一例ということなのだろうか。
仮に全女子高生がこんな感じか、あるいは方向性は異なれど絶対値として近しい異常性を持つのがデフォルトなのだとすれば、きっとあのハルヒですら没個性になりかねん勢いだ。
まあ……そうは言ってもこの佐々木ともなんやかんや長い付き合いではあるし、谷口みたいな野郎連中と二人で来たのとはわけが違う。
ハイテンションなのだかなんだか知らないが、今日一日くらいは最後まで真面目に付き合ってやってもいいだろう、とも思ってはいた。明日の筋肉痛だけが気がかりではある。
ということで、これといったイベントもなく持参した水着に着替え、ついでにタオルと、携帯なんぞを入れた防水ケースを身につける。やたら荷物が嵩張ると思ったが、そういや余分なタオルも持ってきていた。そいつは改めて鞄に戻し、ロッカーのカギを締め更衣室を出た。
それから小坊時代に幾度となくはしゃいだ地獄のシャワー、ということもなく温水を浴びた先にを潜り抜けた先では、既に佐々木の奴が待ち構えていた。
それなりに急いで着替えたつもりだったのだが。
「待たせたな」
「ううん、僕も今来たところだ。事前に下に水着を着こんでいたのだが、それでも女子の制服は男物よりも複雑なようでね」
「そうか。じゃあ、早速行くとするか」
現れた佐々木は、確かにシャワー由来であろう水滴を未だに垂らしながら俺の横についてきた。
生憎とこの時の俺の知識ではこの白を基調とした水着の表現は難しかった。後で調べるところによるとタンキニだとか、そういう呼称があるらしい。
一方の俺はというと、なんてことのない黒のサーフパンツ姿ときた。飾り気も語ることも何一つない。
と、いう訳で一度端のパラソルのスペースを陣取り、荷物を置いた俺たちだったが…………
うん? 佐々木、さっきからなぜ黙っている。
「……なあキョン。これは僕個人の欲求というより、あくまで知識を参照した上での要請であることを前提とするのだが」
「あん?」
「何を気の抜けた声を出しているんだ。
……あのねえ、こういう時、彼氏という存在は彼女の水着姿の感想を述べるものではないのかい? それとも、やはりキミは名札付きのスク水でないとダメなのか?
悪いがもうとっくに中学時代のは処分済みなんだ。どうしてもならもう何日かは待ってくれよ」
「あー、分かった分かった。似合っとる。これ以上にないくらいにな」
「随分と投げやりじゃないか、何が似合ってるんだい? ちゃんと根拠を示したまえよ」
やたらと食いついてくる佐々木に、仕方が無いのでつらつらと思ったことだけ概ね無編集で言ってやることにする。
表情は相変わらずにこやかだがどこか呆れ顔だ。笑顔なのにどことなくむくれてすら見えるのは俺の気のせいだと思いたいが、こいつの頭の良さならそうした器用なことをやる方法を見つけていないとも限らない。
「知るか。率直な感想、パッと見そう思っただけだ。
──過度に驕らず、不当な卑屈さもなく、実にお前を体現したかのようでな。具体的には、その胸のあたりについてる小さなリボンは可愛らしいんじゃないか」
とまで言うと、この佐々木と来たらこともあろうに何か奇妙なものを見たかのような目で見てきやがる。
なんだ黙りこくって。まだ何か講釈が欲しいのか? 生憎これ以上はないぞ。こんな所でずーっとつっ立ってても時間を食うだけだ。
「────ん、そうだね。
ああ、まあ。キミに気の利いた感想を求めた僕も悪かった。ここからは気兼ねなく遊び倒そうではないか」
ったく、こちとらどうにかこうにか苦労して言葉を紡いでやったのに曖昧な反応をしやがって。
少しは喜びもするのかと思いきや全くいつも通りにニコニコとしているだけだ。悪いな気が利かないで。
……と言いつつ佐々木にはそこまで不満もなさそうだったので、これ以降の話は聞き流しておくことにした。
そして──、
それからのプールでのひと時は、結論を言えば──なんというかまあ普通の時間だった。
まずは、流れるプールを何となく漂ってみる。
俺が流れる勢いでよく知らんおっさんにぶつかってしまったこと以外、これといったアクシデントもなし。
「初めてか、流れるプールは」
「小学校時代に何度か。キミと二人で、というのは初めてだがね」
「だろうな、俺も初めてだよ」
「ただ流水に身を任せるのみ……と文字に起こしてみると退屈なものだが、キミとであれば話は別だね」
髪先から水を滴らせる佐々木の横顔は、水面の反射光なども合間り複雑に煌いている。中学の頃のプールの授業を思い出し、なんだか懐かしい気分にもなってきた。
そうしてただ流れに任せて漂う佐々木というものは、なんだかものすごくレアな光景である気がした。
と言っても、
「──知っているかいキョン。こうして僕らが流れる水のような事象全般を扱う学問に、流体力学という分野がある」
どれほどぷかぷかとのどかに俺の持ってきた浮き輪で漂っていても、
中身はどうしようもなく普段通りの佐々木な訳だが。
「僕らがいま習っている物理よりも遥かに難解なものでね、古典力学的に言えば、物体に働く力という概念は質量に対して速度の微分…加速度と呼ばれるものを掛け算すれば凡その近似値が求まるが、こうして僕らの流れる力はとてもそんな単純な式で表すことは出来ない。ナビエ・ストークス方程式と呼ばれるものは一応あるのだが、それもまだ一般的・汎用的な解は導出されていないんだ。
しかし──うん、そうだね。現実にはこんな風に単純に、僕とキミがこうして流れるままという事象のみがこうして身を以て観測される。この現象は、そんな迂遠な方程式を用いずとも自明に予測されるものだ。
不思議なものだ。この流体の動きの予測には複雑な記述が求められつつ、現実で目に見える現象は単純だ。一方でこうしてキミとただ流されるだけの事象は、文章だけで表すと実に退屈なものだが──それに反して、僕はいまなんとも言えない愉快さをいたく感じていて、この矛盾を解決するにはさぞや不可解な公式に基づくしかないと思わずにはいられない。
はてさてキョン、僕のこの流れるままの感情というのはどのように記述されるのだろうね」
さてな。そんな力学など俺は門外漢な訳だが、お前にもできないというならそのサー・ストークスとやらにでも任せるしかなさそうだな。
あとは、隣接する五十メートルプールで軽く競争してみたり。
「なるほど。中学最後のプールの時、やたら眠そうにしていたのも単なる寝不足のせいばかりではなかったと見える」
「何の話だ」
「人並みには泳げるようだが、それだけということさ。それでは、次の休憩時間のお菓子を楽しみにしておこうかな」
「へいへい」
どちらが敗者なのかはご想像に任せよう。
だがひとつ一般的な経験談を踏まえた感想戦だけしておくと──小中学校の時、どのクラスにおいても泳ぐのが早い女子が一人か二人いたものだ。よもやこいつもそちら側だったのだろうか。
その後はウォータースライダーで年甲斐も無くはしゃいでみたり。
「はぁ、実はこの滑り台は初めてだった。どうだい? 僕の初めてを奪った感想は」
「いつぞや誤解を恐れていたような人間が何をのたまっているんだ。それに奪ったのは俺じゃなくてこのスライダーだろうが」
俺はこの手の奴は妹と何度も経験済みで劇的な感動もない。まずはお前の感想を聞きたいね。
「うん、なかなかに興味深い体験だった。確かに出来事としてはほんの一瞬だが……多くの人々がこれを経験していて僕がこれを経験していないのは、どこかで何らかの致命的齟齬を生みかねないと思う程度には。
有り体に言えばね、まず所々錆の目立つ金属製の階段を登っていく時の、徐々に断頭台へと昇っていくかのような感覚。これはかの王妃・マリー=アントワネットの追体験といって過言ではなかろうか。彼女と異なるであろうことは、嬉々としてこれを味わおうとする人々に紛れて並ばなければならないことだ。強い不合理さを覚えたものだが、やがて自分の出番が回ってきた時にそれは更なる衝撃で瞬く間にアップデートされた。
漸く滑降の権利を得た先にあったのは、そう、青の塗料で塗りたくられつつも所々剥げたところのある合成樹脂と、薄ら錆びた金属を組み合わせてできた……高度の割にどこか頼りないトンネル。酔狂さすらも感じるその円柱に身を投じるとやがて数瞬の末視界は晴れ、陽光が煌びやかに水面を反射し、幻想的な光源を称えた景色を楽しむ─だなんてゆとりもなく、些かの浮遊感を得た後にこの身を無慈悲に叩きつけていく激流──嗚呼、とても楽しかったとも」
奇妙な例えも混ざったが、楽しめたたようで何よりだ。昼前で少し人も減ってるし最後にもうひと滑り行くか?
「それは遠慮しておこう。ああ、誤解はいけないよキョン?
僕としては楽しんでいたが一度の滑走で十二分に満足できた。それ以上のことはないとも。……ああ、それにだ。僕たちもそろそろ捌ける頃合いとみているが」
「ん? お、そういえばそうだな。ぼちぼち退散するかね」
何か煙に巻かれた気もするが、確かに佐々木のご指摘通り。
気づけば遠方に設置されている時計は午前十一時半を回ろうとしていた。
昼食に何か予約を取ったりしているわけではないが、これ以上の長居は不本意な行列に巻き込まれかねん。
「それでここからはどうするのかな。午後は別の場所だと聞いていたけれど」
予報はほぼ雨だったことだし適当な屋内施設にでも駆け込もうかと考えていたが、見ての通りの洗濯日和だ。ある意味では予定外だな。
何か外でやってみたいことがあるならそっちに行くのもいい。遊園地だとか。クソ暑い中だがどうしてもなら散歩も吝かじゃない。
「いや、それならば当初の予定で問題ない。今はお互いずぶ濡れだが、こんな天気ではこの水滴共の主成分が塩素から塩分に代わるだけだ。熱中症にでもなったら最悪だしね。
で、どんな場所を考えていたのかな。スクール水着のお次はメイド服が鉄板かな。それともバニーガールか、はたまた……」
自分で着るわけでもない癖になぜそうもおかしそうに笑うのだこいつは。いや佐々木が着ていても……似合わんとは言わんが敢えて望んだりはせん。
確かにメイドは嫌いじゃないが、俺にとってのメイドは朝比奈さんという最強のマイナスイオン生成器で十二分に満たされている。そしてバニーは……いややめておこう。みなまで言うまい。
お前にはやはり普通が一番似合っている。そこにポニーテールを付けてくれるとでも言うなら褒めるのも吝かじゃない。
「普通に映画とかカラオケとかしか考えとらん。お前の中の俺の人物像はどうなってるんだ」
「ああ、うん。正直に告白すると……今日ばかりは少しだけ色眼鏡で見ていることを否定できないよ。キミに限っては有り得ないと思いつつ、僕の思う男子高校生像を少し配合してみている。
そして僕自身に関してもほんの少しだけ、意図的にテンションを上げた人間に擬態してみたつもりだ。お味はいかがかな」
ここに来た時といいやたらはしゃいでいたのはそれか。
それこそエンターテインメント症候群に他ならんと俺は言いたいね。今だけはいいが、本当に誰かと付き合った時もこんなテンションでいる気か?
「ああ、そう苛めてくれるなよ。キミは涼宮さんたちの中の誰かとデート済みやもしれないが、僕からしたら初めての経験なんだ。あまり追い詰められたら年頃の少女らしく唐突に泣き出してしまうかもしれない」
ああ、こいつの浮ついた様子を見ているとなんだか調子が狂う。演技といいつつ、実はそっくりさんが化けて出ているなんてことはないだろうな。いつぞやの朝比奈みちるさんよろしく今の佐々木は代々木とでも呼称すべきだろうか。
そうと言いつつ、矢継ぎ早の冗句の中どうしようもなく崩れない柔和な微笑を見て、俺は目の前のこの女が佐々木であることを嫌でも再確認させられ続けているのだが。
「さて、移動するなら早い方がいい。
お昼時で人がはけているということは、裏を返せば外はごった返しているということ。一応ランチも決めているんだろ?店が混まないうちにここを退散しよう」
「そうだな。それじゃあ十分後にロビーで」
なんだか名残惜しい気もしてくるが、時間というものはまあどうしようもなく不可逆なもので。俺たちは荷物をまとめ、出口へと歩き出した。
そうして出口も眼前に迫ったころにふと佐々木は俺の前に立ち、前かがみになってぱっちりとした瞳で俺を見つめてくる。その濡れた身体は艶めいていて、水着姿と生暖かい周囲の空気も相まって夏らしい清涼感を感じられた。
「……ああそうだ、最後にもう少し僕の水着姿を焼き付けておくかい?
ほら、今ならキミの望みのポーズ位は取ってやらないこともないし、肩紐をずらすくらいなら吝かじゃない」
言っとけ。