After the surprised Rainy   作:くのみち

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幕間:雨天

映画館を出て、俺たちは歩きながら早くも感想会に耽っていた。

 

「だがやはり、あのシーンに大きな意味があったのかと言われると首を傾げざるを得ないよ。地下鉄における爆弾の配置法こそ同一犯であることは示唆していたが、犯人とその手口迄もを示唆しきれていたのかどうかは疑問だ」

「やっぱ単純にアクションをしたかっただけってことなのかね」

「僕とて一回視聴しただけだから、完璧に内容を把握しきれたわけでないしそれだけで批評する気もないが。もっと詳細に目を凝らして色々観れば感想は変わるかもしれないけどね。もしやすればどこかに犯人が映っているのかも」

「面白いが、そいつは来年以降の楽しみになりそうだな。もう顛末は知ってしまったし、せめてBDで手に入れて早送り機能くらいは使わせてもらいたい」

「そうだね、あるいはそこらのインターネットサービスでこうした作品が配信されるのが当たり前な世界になればいいのだが。

レンタルビデオとかじゃなくて月額千円とかで、自分の端末からどこへでもアクセスできるサービスなら気軽かつ安価に映画を楽しめる……一応一部でサービスは展開されているが、配信番組の種類も少なくて現状まだ本格的な潮流ではないんだ」

「そんなものが出たらテレビ局やらはいよいよ店仕舞いかもしれんな」

「どうだろうね。あくまでも最初の制作媒体は巨大資本になるだろうから、当面はまだまだテレビも安泰だろう。十年後、二十年後となれば僕にもまるで予想は付かないが」

 

などと脱線しつつも、穏やかに次の目的地へと歩みを進める……はずだったのだが。

 

映画館を出て、概ね数分したかどうかの頃合いだった。

佐々木も気付いていたかは知らないが、映画館を出てすぐのうちは遠くに視認できていただけの暗雲が、急速に辺り一面を覆ってきていた。こうも早く店を見つけねばと思っていた時に限り、無駄にデカい大通りを見てもまるで目的地たりえそうな場所は見つからない。

今からでも適当なゲーセンか何かに駆け込むか、今一度カフェでも見つけて一杯やるべきなのかなどと思案を巡らせている間にも早速、鼻先に冷たいものが垂れてきたような感触がする。気のせいであることを願ったがそうでもないらしく、忽ち頬、腕、髪と雨だれの感触が鮮明なものになっていく。

ああ、まあ降水確率はやばかったしなと納得はしつつも、身体の動きは速かった。佐々木も雨粒を感じ取ったようで、お互い自然に学生鞄に手を伸ばしていた。

 

「キョン、これはダメだ。今日の予報を見ているなら折り畳み傘くらいは持っているだろう?」

「ああ、お前も早く……どうした」

「いや、実に困った…………この通りだ」

 

俺が無事に手持ちの傘を広げてから佐々木の方を見て取ると、その羽を広げ主を守らんとするも、骨が折れてしまいその機能を十全としなくなった無残な元・折り畳み傘の姿があった。

だが、それは直ちに重要事項ではなくなった。同時に見上げたその傘の主の姿が、あと十秒もそこにそうしていれば更に雨で無残なことになる未来がたちまち見えたからだ。

そうして雨の中で苦笑いを浮かべて立ち尽くしているそいつを見るや否や、

 

「おま、バカ、早く入れ!」

 

俺は何を考えるでもなく佐々木の手を引き、そのまま一時的に抱き寄せて傘下に収容した。佐々木は面食らったような顔をしていたように見えたが、特に反抗したりはすることなく俺に従った。

そうして俺はあたりを見渡すと、これ幸いにしてよく知らん巨大なビルのうちいくつかに広い軒下があるのを見つけられた。どうするにしても一度落ち着ける場所は必要だろう。佐々木の身体がしっかりと傘に収まっていることを確認し、改めて佐々木の手を引いてそちらに向かうことにした。

 

「よし、一旦屋根あるとこ行くぞ。いいな」

「……」

「佐々木? なんだぼーっとして」

「ん……ああ。そうだね。とりあえずはこの身をどうにか安置できるところに行かねば。

それよりもキョン、それではキミが濡れてしまうよ。ほとんど身体が出ているじゃないか」

「この距離だ、どうってこたない」

「そうもいかない、これはキミの傘だからね。所有権も使用権も本来はキミのものだ。僕に構ったばかりに風邪を引かれては困る」

 

何か言いたげにしつつも傘の中で肩をすくめて苦笑して見せる佐々木を「ドアホが」と一蹴し、そのまま駆け足気味に俺たちはビルへと向かった。

勿論身体が濡れるだなんてことはお構いなしである。何せこの俺が多少風邪を引いたところで世界は明日も回るだろうが、こいつの頭脳が止まるのはひょっとすると将来の世界の発展に関わることすらあるかもしれん。お前を家に帰した翌日に朝比奈さんが跡形もなくなってましたとか冗談にもならん。

まあ未来どうこうは俺の杞憂にしても、こんなことで風邪でも引かれたら単純に目覚めが悪すぎる。お前の俺を評する親友という言葉にどれほどの真意があるのかはお前しか知らんだろうが、俺としちゃお前をそれなりの友人として見てはいるんだ。親友と呼ぶのもまあ吝かじゃない位にはな。

 

と、心中で軽く悪態を付いたところで俺たちは軒下へと到着。唐突な雨ということで、ビルの中へと駆け込んでいく人々も散見された。

たまたまそのビルの軒下にはベンチが立ち並んでいた為、有難く幾つかの座面を間借りさせて戴くことにした。背もたれがないことだけが心残りだが、名も知らぬこのビルの持ち主の福利厚生に今は感謝しておこう。

 

「おう、大丈夫か」

「うん、すまないね。おかげさまであまり濡れずにここまでたどり着いた。それよりもキミこそ結構な濡れ具合じゃないか。いや、自分の準備不足が忌々しく恥ずかしい限りだ。壊れていることにも気付かずいたとはね」

「つい最近まで傘を酷使する季節が続いてたからな。大往生だったことだろうよ。──ほれ使え」

 

今日のプールで使わなかったもう一枚のタオルの存在を思い出し、俺はそいつを佐々木に手渡した。

大雨の予報であることを一応警戒して……なんてことではなく、たまたま目当てのタオルを取り出すときに巻き込んで余計に一枚持ってきてしまったというだけの、本来荷物が嵩張るだけの代物だったが、敢えて仕舞おうとはしなかった当時の俺の横着に今は感謝したい。

 

「いいや、これはキミが使ってくれたまえ。見ての通り僕は大して……んぷっ」

「ならお前の頭からだ。大して濡れてないってなら後でも先でも変わりゃしないだろ」

 

少々強引に佐々木の濡れた頭に無理やりにタオルを押し付け、一通り水滴が落ちたことを確認し……それから、俺も濡れた顔にタオルを押し付ける。

タオルが視界を埋めたり点けたりする最中、佐々木がじっとこちらを見ているのが何となく分かった。そんなにぐしょ濡れに見えるのかね、今の俺は。

 

「全く、強引だなキミは。僕はね、真似事と言えどやるべきことはやってきているんだ。やはりキミはどうも、僕の性別を忘れるきらいがある。

……これでも少しはメイクというものをしてきている、とか考えなかったのか? こと幸いに髪には大したものを施してきてないが、今後は相手のことももっと見るようにするべきだ」

「ああ、気が利かなくて悪かったな」

「……ふふ。いや、いい。ある意味ではキミらしい。

おっと勘違いはいけないよ? 気を付けなくていいという意味じゃない、今日は許すという意味だからね」

 

そう。メイク、ね。とてもそんなふうには見えなかったのは、こいつの見てくれが元々良いせいか。

 

最初は単なるゲリラ豪雨の一環かと思ったが、ざあざあとその雨足は強まっていくばかり。少し距離を置いたところにある排水溝はボコボコと音を立てており、周囲には何とも言えない、薄っすらと雨の日特有のペトリコールとも称される匂いが漂っている。

さて、まさか夜までここで待ちぼうけだなんてことはなかろうな、と、少し憂鬱な気分にもなってくる。

正直大層なデートプランを組んできたわけでもないし最低限「二人で遊ぶ」という目標は達した以上、最悪このままお開きとなってしまっても構わないかと思っていたところ……その様子を見かねてか「──やれやれ」と佐々木が静寂を破った。

 

「キョン、先程からやたらと僕から目を逸らしているようだが」

 

うん?と佐々木の方を見てみると、そこには特に代わり映えのない佐々木がいた。

僅かに濡れていた肩口なども概ね乾き切った様子で、普段通り浮かべている微笑も今は少しばかり苦笑寄りになっていると見える。

 

「ん……俺、そんなに変な方を向いてたか?」

「ああ。晴れていた時と比べて五度程度、弧度法に直して三十六分のΠ程度はね」

「直さんでいい、三角関数の復習は間に合っている。大体そんな差よく分かるな」

「角度に関しちゃ正直適当さ。でもあからさまに僕と視線が合わなくなっていたことは確かだね。何か僕に後ろめたいものでも見たのかな」

 

はて、全くもって意識していなかったが。前にあるベンチに座った上で向かい直し、佐々木の方に膝を突き合わせて座ってみることにする。ベンチに背もたれがないことを先ほどは少しだけ残念がったが、今となってはありがたいことこの上ない。

それを見た佐々木が少しばかり安堵したかのように見えたのは、きっと気のせいではなかろう。どうやら本当に俺の体はそこそこ傾いていたと見える。

 

「うん。もしアテが無いのなら、そのようにして少しはこちらも見てくれると助かる。

あからさまに視線を外されると、知らぬ間にこちらで余程の失態を遂げたのではないかと少し不安になってしまうじゃないか。

……あるいはもしや、このシャツのどこかが濡れ果てて透けてしまってでもいるのかな。それを見つけて咄嗟に目を離したと」

「どうだかな、ぱっと見は乾いているように見えたし、遠慮しているつもりもなかったんだが」

「そうかい? まあキミのその配慮は認めよう。ついでに言いたいことも一つあったがそれも今はいい。

とどのつまり、僕は安心してこのままキミと胸襟を開いて話していいということだね」

 

ああ、安心しておけ。何かを責める謂れがあるとしたらそれは俺の無計画さだろう。

あのまますぐに引き返してもう一本映画を観る、くらいの機転は利いてもよかったと今でも思う。今思えば映画館なんてものがあるんだ、カフェだってあるだろうしひょっとしたらカラオケなんぞも見つけられたかもしれん。

 

「それはキミにスケジュールを一任してしまった僕も充分咎められるべきことさ。

仮にキミを恨むとすればその相変わらずの雨男ぶりだね。まあ、午前中はきっちり晴れさせていただけマシにはなったか」

 

元が降水確率九十パーセントであることを忘れてやいないか。どんな晴れ男でもこれを一日中晴れさせたら奇跡ってもんだ。これを晴れさせられるならノアの箱舟だって無用の長物と化したかもしれない。

 

「あの話は雨ではなく洪水そのものを押し寄せさせたというものだからどうだろうね。まあ此度はキミがノアの代わりになったことにしよう。

しかし……予報はもう滅茶苦茶だ。この端末を信じるならばあと三十分ほどで止むようだが。どうする?」

 

どうする、という言葉の真意は。もちろんここから飛び出て然るべき施設を探すとかではないのは自明だ。今後の予定だろう。はてさてどうしたものかな。

正直なところ、もはや予定もへったくれもないだろう。なるようになれ、だ。

今は諦めて、そこの自販機のコーヒーでも手元に置いておくしかないんじゃないかねとしか俺には言えない。ああ、アイスで構わないか。

 

「同感だ。頼むよ」

 

実のところこれといった話題も思いつかなくなっていたところだ。同じ軒先にたまたま収容されていた自販機は実に丁度いい逃げ先だった。

ただ、所詮はその距離もたかが知れている。二人分の缶コーヒーを手にして席に戻り「ほらよ」「ありがとう」と言葉を交わしきるまで三分と潰すことは叶わなかった。

 

こういう静寂を破ってくれるのは大概佐々木の方からという印象だったが、ざあざあと降り注ぐ雨を物憂げに見つめる双眸にはその意思はあまり感じられなかった。

向かい合っているからか、普段よりも佐々木の意思が読みやすい気がした。

そういう訳で酸欠の魚がごとくパクパクと口を動かせば何か話題が出てくるかな、と思っていたところ、不意にこんな疑問が俺の口をついて出た。

 

「そういえば佐々木。いつだったか。雨が好きと言ってたな。どうしてだ?」

 

別になんてことのない、他愛ない疑問。記憶のかなたにいる佐々木がたまたま昔一度言っていただけの話だが、

それでも今の俺にとっては砂漠の中のオアシスくらいの救いになっていた。

 

「ほう? よもやキョンの方からそんなことを聞かれるとは。確かにキミにはそれを言った記憶があるが……そうだね、深い理由はないよ。

ただ晴れよりは好きっていう、相対的なものに過ぎない。それも、こうして今日のように唐突に降られた時に限ればいよいよ逆転する程度の評価に過ぎないよ。

──こうして雨を見ていると、なんだか少し安心するんだ」

 

安心、ね。遠くでゴボゴボ言ってるマンホールなんぞは、いつぞや爆発するんじゃないかと思うことがある。

足元も滑るようになるし、少なくとも安全とは程遠そうだが。

 

「それらは雨が生み出す副産物に過ぎない。危険かもしれないが、雨そのものに対する感想とはまた別で然るべきだよ。

ああ、しかしこれは改めて問われると、どうにも答え難いものだ。こうした理由の言語化は好みだがね、時として自分のことを知る鍵になりえる。考えてみようじゃないか。

雨そのものに関しては──まず、雨音の存在。純粋なものではないが、雨音というのはある種のホワイトノイズに近しい。雨足の強さによってボリュームは変わるが、聞こえてくる音の高低だとか、そういうものにはまるで不快感がない。

それから、この視界の悪さもあると思う。そうだね、雨特有の視界妨害というものは本来決して褒められたものじゃない。

だけど、この見通しの悪さは僕以外にも、キミにとっても平等だ。だからかなんだか、普段よりも近付いていたいものと距離が近づいているような、そんな錯覚を覚えるんだ。僕と差をつけている人、僕と距離が離れている人も、今だけは少し近付いているかのような錯覚をね。

これはひとえに僕の仮説だが、人間という分類の前に、僕らはどうしても生物だ。水の存在に対し本能的な安心感を抱くよう出来ているのかもしれない。マズローの診断で言う部分の根底、生理的欲求に当たる部分の満足に繋がるピースのひとつだからね。

さて、キミはどうだい? 雨は好みかな」

 

これでもかと雨の魅力を語らった目の前の佐々木には大変申し訳ないが、正直なところ好きとは言い難いかもしれない。

農作物の育成やら畜産業の形成、水脈の健全な循環にはさぞや必須だろうが、それでも自分の周りはなるべく晴天であって欲しい。もちろん、現実問題としてそううまくは行かんものなのだろうが。

とはいえ俺も自転車通学なものだから、それを塞がれかねない雨という気象現象が俺にとって好ましくないこともまた、抗いようのない現実なのである。

 

「くっくっ。そうか、きっとそれは正常だよ。僕とて、晴れていて欲しい時には当然の如く晴れていて欲しいからね。

だけど少し残念だ。キミも雨が好きならば、僕が雨を好きな理由をもう少し深掘りできると思ったのだが。

ただ──そうだね、これはたった今、キミと話していて分かったことだけど」

「なんだ?」

 

こほん、と佐々木はわざとらしく咳払いをして、少し押し黙った後に口を開いた。

その顔には、この雨天に似つかわしくない晴れやかさを伴った微笑が浮かんでいる。

 

「この雨がなければ、キミとこうして、こんな場所で語らうことはなかったであろうということ。それだけは確かだ。

あのまま晴れていたらきっとどこぞのカラオケに入り、無難な時を過ごしたのだろう。騒然とした空気の中ではあるだろうが、お替り自由のドリンクバーをお供に、やや硬いソファーに不満を垂れながらも、涼しい部屋の中で退室時間までキミと個人的な会話をする位は差し支えない筈だ。

それはそれで魅力的な時間ではあっただろうね」

 

概ね同意は出来る。

 

「けどねキョン。やっぱり僕は……この時間、選択の方が、正しかったのではないかとと思わずにはいられないんだ。そしてこの状況を生み出したこの天候に、実のところ感謝すらしているんだよ。

確かにね、きっとこのベンチはカラオケのソファよりも硬くて冷たいし、このコーヒーだっておかわりに余計なお金は掛かるし、環境としてもそれなりに蒸し暑いままだ。

だけど同時に、再現性はかなり乏しいイベントでもある。ついでに、コーヒーのお金を言うならカラオケだってお金もかかるし。

考えてもみてくれ。キミと僕、お互い高校二年生という立場でカラオケに行くだけならば、あと半年の間のどこかで互いに申し合せればまた出来ることだ。

それに対して今はどうだろう? 急な雨に降られたまたまキミと駆け込んだ、偶発的なビルの軒下。最低限座れて濡れないだけの、蒸し暑く不便な場所で静かに語らう。

客観的に見れば決して合理的とは言えないプランだが、ある意味ではきっと今この瞬間にしか出来ない貴重な経験なんだ。キミにとってどうかは案ずる他ないが、少なくとも僕は今この瞬間をとても尊き日々として記憶したいと思っている。

──うん、これもまたデートだというのなら、興味を持つに値する時間を過ごせたと僕は胸を張って言える。予防接種としては満点だね」

 

そうか、そうか。

お前にそこまで言わせるとは、この雨は今の台詞の前借りだったってことか?

 

「どうだろうね。それでも結局僕にとって恋愛感情というものはきっと精神疾患の域を出ることはないだろう。

今のこの光景は、キミという変数が介在したことで生じた完全なオリジナルだ。いかなる多項式で補完を試みたとて、今この瞬間を完全に再現するには至らないだろう。精々各々を部分的に再現するにとどまるだろうね。

はてさて一体僕の人生はどうなるのだろうかは誰にも予想はできないし、誰かと結ばれるのか、独りのまま終えるのか……ゴッド・オンリー・ノーズ。あるいはニード・ナットゥ・ノーと言える事象かもしれないが、いずれにせよ少なくとも最期の走馬灯の時にはきっとこの光景が思い出される。そんな気すらしてきているよ。

何も知らず、盲目的に今後僕の人生で出会う十人の男と付き合ったとして、きっとこの光景は得られていない。少なくとも藤原君では百パーセント無理だっただろう。

うん、ある意味でキミは、少なくとも僕にとって十一人分以上の働きをしたと言えるのさ」

 

佐々木は目を細めてほほ笑んだ。ずいぶんと過大評価されているような気がするが、悪い気はしないのでまあいいだろう。

 

「……しかし、相も変わらぬ雨足だ。本当に三十分やそこらで止むのかどうか。時に聞くがキョン、もしこのままここで待ちぼうけだったらどうするつもりかな」

 

そうだな、口惜しい所だがカラオケなんぞに回す時間はなさそうだ。

 

「僕はごめんだが、キミの歌う姿は少し見てみたかったのだけどね。キミは一体どんな音楽を好むんだったかな」

 

別にお前が期待しているような答えは持ち合わせていないよ。多分な。

例えばだが今から十人でカラオケに行ったとして、俺が歌うのは九番目くらいで充分だ。その間は適当に合いの手に徹しておく。

概ね後回しでいいが、完全な大トリは流石にご勘弁願いたいといった位置でな。

 

「こういう時キミのような人間が意外と歌いなれている、という展開を期待してしまうのは、僕も大概小説の読み過ぎなのかなあ。ここに往来がなければアカペラの一つでも所望したんだけど」

 

ああきっとな。現代文やら英語やら、文章読解の類に疲れたら雑談相手くらいは付き合ってやる。そうして精々、大学に行くまでに少しは一般人類の能力もよく知っておくがいい。

ただし悪いが夜、それも最低九時以降だ。お察しの通りそれ以前となると、九分九厘第三者のせいで俺のプライベートが保証できない時間帯でな。

 

「それはそれは実に楽しみだ。ああそうだ、折角だしその時に何かレパートリーを聞かせてくれよ。弾けるなら楽器を併せてくれてもいい」

 

それこそ専門外だ、生憎な。お前に歌う気がなかったなら、俺とてまあ適当な雑談で乗り切るつもりだった。

 

「雑談といえば、カラオケに行ったら映画の感想会の続きをしようとも言っていたね。それはそれで実に有意義な時間になることだろうが、あの映画について一体どこまで僕らは話したんだったか」

 

さあなあ。それどころじゃなくて、割と大部分が記憶の彼方だ。

 

「僕もだ。そうだな、面白かったという記憶は残っているけれど、正直なところ印象深い幾つかのシーンと幾つかの台詞くらいしか話せそうにない。

とはいえこれは、あの映画が悪かったのではない。こうも立て続けにイベントが起きては、どんな映画だろうと変わらなかっただろう。後から思い出せることもあるかもしれないが。

そういう訳でキミともう一回あの映画を後日観に行きたいのは山々なのだが、上映期間、僕とキミの予定などなど考えると、これ以降の感想戦の実現も苦しそうだね」

 

全くだ。俺のことはまだいいが、頭の巡りがいいお前はともすればこの国の未来を牽引するやもしれん。そうなると、この時期にお前の脚を引っ張るのはよもや国益を損じかねん。

 

「それは買いかぶり過ぎだ、キョン。僕の親族にそんな人物のアテはないし、第一そんなもの僕自身が望んじゃいない。僕にだって本当のところ、今は制限されているというだけでやってみたいこと自体は人並に色々ある。キミもそうであろうことを踏まえれば、国の未来なんてものにかまけている暇は僕にもキミにもないよ。強いて言えば、この身の在り様で経済活動を回していくことと、幾らかの信念で票を投じる位しかあるまい。

そういうのは選ばれるべくして選ばれた人間の特権なんだ。涼宮さんが神であるのと同じくらい、どうしようもなく覆せない現実だ。

そしてそれは、こんな学生生活の何日かでは到底変数になり得ない。あるいはなっても不思議ではないが、それは結局のところこの世界は万物流転と思考を放棄しているのと同義だと僕は思う。

誰しも昨日と違う自分になっているのは確定的だが、その差異は果たして個人をひとかどの政治家や、億万長者にでも押し上げうるものだろうか? 無論百パーセントないと断定はしないが、よりによってこの僕にそんな事象が直撃すると期待する方が厳しい話だよ」

 

言いたいことは分かるが、お前なら俺よりは分があると思うぜ。

 

「分がある、か。それに関しては、色々言葉を尽くして話してもいいんだが……少しまた禅問答をやろうじゃないか。キョン、二分の一同士を掛けるとどんな数字を得るかな」

「ん? 二分の一掛ける二分の一と来たら、そりゃあ四分の一だろう」

「その通り。では、更に二分の一を掛けると?」

「八分の一」

「よろしい。では、ここからは答えなくていいから考えて。こうしてずっと二分の一を永遠に掛け続けた先に、この数字はやがて、どんな数字に行きつくと考えられるだろうね」

「そりゃあ……」

 

俺は頭の中を巡らせてみる。ふむ、殆ど考えたことのない話だったが、佐々木の求めている答えは何となく直感で分かる気がした。

 

「ゼロ、か?」

「……うん、ここでは正解としておこう。本当はやや厳密ではないのだが、ここでは一度その議論は置いておこう。では、同じことを今度は三分の一で考えて。三分の一を掛け続けた先の数字はどうかな」

 

うん、佐々木の言う厳密さというものが俺にはとんとなじみがないが、概ね同じ理屈で物を言えばいいのだろう。

すると佐々木はその通りだ、と微笑んでみせる。大したことはやっていない筈なのだが、なんだかこっちも少しばかり嬉しい気分にはなってくる。

 

「そういうことだね。僕が言いたいのはねキョン。僕は二分の一、キミは三分の一ってことだ。ああいや、キミを卑下したい訳ではない。あくまで例えとして聞いておくれ。

元の数字は僕の方が大きいかもしれないが、どちらも同じような試行をすればやがてゼロに飛んで行ってしまう。だけど、この二つは果たして同じものと言えるだろうか? もちろんそれはノーだ。けど、結果としてどちらもゼロにはなるんだよ。

分かるだろ、キミの言った分の良さってのはそういうことだ。もしかしたらキミより優れた部分も僕にはあるのだろうが、その差は高々知れているということなんだ。そして選ばれた人間というのは、僕らが二分の一か三分の一かで争っているところの変数に対し最初から百とか千を与えられている。悲観しすぎと思うかい? けれど、世の中の無常さを見てるとそうであるものと確信する他ない」

 

そいつはひょっとすると同感できるかもしれない。政治家には詳しくないからノーコメントだが、なんでこんな奴が、って輩が教員とかの聖職者になってたりするもんな。

 

「だから僕は、かつての橘さんのように僕のことを『神様』だと呼ぶ人たちに対し、常々こう思ったものだよ。『よせよ、佐々木さんでいい』ってね。そもそも僕は神というものの実在を信じないし、何より僕よりかは神と言える能力を持つ人間がすぐ傍におわすという中で敢えて僕を信奉する理由も無かろう」

 

ああ、その通りだな。信仰の自由がこの国では保証されているというだけで、俺もお前も、そして誰もが結局は一人の人間であることに異存はない。

 

「けれど同時に、僕はこれを悲観しない。それと同じくらい、僕やキミが一以上の値を取れる分野もきっとどこかにある筈だからね。そしてそれを探すのもまた僕らのアイデンティティを護る方法の一つであり、レゾンデートルのひとつでもある。

例えば少なくとも僕の相手という点で、キミはきっと万を超えるパラメータを取っても不思議じゃない。何せ退屈しないからね、キミは」

 

佐々木はくくっ、と何かを思い出したかのように無邪気に笑った。

そいつは文脈的には喜ぶべきなのかどうなのか。きっと佐々木は純粋に褒めているんだろうが、その分他の部分がマイナスに触れてるだとか、そういう話もありそうな気がしてちょっと恐怖を覚えんでもない。

 

「そういう自分にとってのマイナス領域を探すのもまた生きる上での課題だよ、キョン。やらなくていいことをやらずにいるというのは、ある意味でやるべきことをやる以上の価値を伴うことすらも往々にしてある。

機械のユーザーインターフェースと同じさ、不要な追加調整を行ってユーザーを困らせたと思えば、肝心の必要な機能を使い辛くしたりなんて茶飯事にもほどがある。やらないことを評価する、ということがどうしても難しいというのは理解するがね。

そうだね。どうもこの雨足ではまだ当面の余暇がありそうだ。僕らにとってのマイナスも少し検討してみようじゃないか。僕はさっき、カラオケよりもここがいいとは言ったけど。果たしてカラオケには行かざるべきだったと思うかい?」

 

そうだな、別に行くべきじゃなかった、とまでは言わんよ。なんだかんだでここより快適ではあったろうしな。

 

「即物的な目線で行けばそうだね。もう少し踏み込んでみよう。僕らが予定通りカラオケに行けていたら、何をしただろうか。どんなことを語らっただろうか」

 

ま、お前が歌わんなら俺もそう張り切って歌うこともないし、雑談か、まあ精々ドリンクバーの飲み比べが関の山だろう。

予定調和ならば映画の話はしてたんじゃないか。あとはなんだろうな、こんな話をしてなかったであろうことは確かだろうが。

 

「うん、そうだね。あとは例えばだが……ここでは話せないこと。周りには誰も居ないとは言え、一応は往来の場となれば、話すのが聊か憚られることはある。

例えば、キミの興味がありそうなところで言えば……少々破廉恥な話題であるとかね?」

 

ああ、これは非常に分かりやすい。この佐々木の笑みは一見普段と変わらない微笑みであったが、間違いなく「にこり」ではなく「ニヤニヤ」という擬音が相応しかった。いつも「くつくつ」だとか「くくっく」だとかなんとも言えない堪えるような笑い声をする佐々木だが、今は「くすくす」が一番よく当てはまりそうな気がする。

ったく、あまりに佐々木と話しやすい環境も考え物かもしれん。なまじ舌の回る奴なだけに、いつどんな話題に着地することやら。

 

「どうだかな。そっちに行ったとしてもお前とのことだ、気付けばまた哲学的な話に飛んでってる気しかせんよ」

「そうかなあ。先ほどの水着の問答を見るに、存外話せるクチと見たけどね。

普段よく会う涼宮さん達には話せないようなことでも、普段そう会うことのない僕相手ならば聊か無遠慮になっても揶揄われる機会は少なく済むよ。どうだい? これといって出来ることもない今、所謂性的嗜好に関してだとか、そうでなくとも好きなことだとか、キミが熱く語らってくれるならば喜んで傾聴させて戴くとも。もちろん、お互いの名誉の為にこの場で話せる範囲に留めておいて欲しいが」

「言っとけ。どうしてもってならまずはお前の方から話すんだな」

 

確かに笑われる機会は少ないかもしれないが、その機会がまさに今目の前にあるんじゃ何も変わらん。それこそさっきの佐々木の言ってた分数だのの議論と同じことだ。

そもそもメアドとケー番は交換済みだろうが、対面で言われるか間接的に言われるかの差でしかなかろう。結果の見えている愚行はしないのが俺の美学だ。

 

「ん-……僕かい? まあ、僕とてどうしようもなくその手の知識にもありついてしまっている、ということだけはこの際告白しておくが、あまり面白味はないしやめておくよ。

敢えてそんな話題を振らずとも、キミと話しているだけでも充分だからね、僕は」

「そうかよ」

「ああ。だけどそうして考えてみれば、カラオケもマイナスではなかったやもしれない。

ただ、この場所の方がやはりパラメータは大きかった。少なくとも僕にとってはそう感じているよ。キミにとってもそうならば今後の雑談も引き続き気楽でいられそうだ」

 

この時一つ言えたのは、俺からしたらまあどっちでも気楽ではあっただろうということだ。佐々木には悪いが概ね等価かもしれない。

普段の破天荒な毎日に対しても正直なところ愉快さを覚えつつあるところだが、こうして静かに佐々木と語らう時間というのも、大きな波はなくとも決して退屈とは思えない。頑丈なかまくらの中にいる時のような静かな安心感と充足感があることも確かだった。

 

「うん、それならばよしとしよう。少なくとも、この時間に価値を抱けているのならばそれで」

 

佐々木は俺の回答に、満足そうにして微笑んでいた。こいつにとっての正解の閾値が気になるところだ。

 

 

その後も俺たちは、雨が止むまで他愛もない雑談をしては黙り、再び喋り出しては黙り、を続けていく。

 

「ああ、だが夏で良かったよ」

 

ん?

 

「まだ日が沈むには、猶予がありそうだからさ」

 

と、佐々木は微笑みながら、再び目を細めた。

特に返す言葉もなく「そうだな」と適当に相槌を打つ。

 

所詮は唐突なゲリラ豪雨の筈なのだが、どうにもまだまだ雨足は収まることを知らない。とはいえ佐々木にああも言われると、俺も何だか暫くこのままでいいか、という気分になってくる。

ずっとこうしているのは流石に尻も痛みそうだが、それもまたこいつの言う思い出の一つくらいにはなるやもしれん。

 

実のところ、そんな今日の思い出はどれだけ俺の脳に残るのだろうか。

この時間、この光景、この雰囲気。大部分はきっと数年もしないうちに消えてしまうのだろうと、これまでの経験則から俺は悟っていた。嫌だなものだね、大人に近づくというものは。

 

けれど、

 

「……やれやれ」

 

と、どこか物憂げに前髪をかき上げる佐々木の姿だけは、きっと忘れないのではないか──、と、

 

そんな予感もまた、少しばかりはあった。

 

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