After the surprised Rainy 作:くのみち
そんなこんなで雨が止んだのは午後五時近くのことだった。
映画が終わったのがざっくり三時過ぎ、それから二時間近く雨に降られ…と、三十分くらいという佐々木の天気予報は全くもって外れた形となり、極めてなんとも言えない時間帯となってしまった。
「どれ、そろそろ行こうか。流石にお尻も痛くなってきた頃合いだ」
「違いない」
気付けば温くなっていた残りの缶コーヒーをぐいと飲み干し、自販機傍のゴミ箱へとがらんごろん。そうして手元を明けた俺たちは、水溜まりに気を付けながら街中を進んでいった。
解散するには聊か早すぎるような気もするが、今から何処かに立ち寄って。それこそ改めてカラオケにでも、というのも、あんな話をした後では何か違うような気がする。
本屋に寄りたいと言っていたし、それに付き合うというのもアリかもしれない。幸か不幸か、その後ゲーセンなりに立ち寄るくらいの財布の余裕もある。そうして少し早い夕食を経て、いつかの再会を約束して解散……うん、雨に降られた時はどうなるかと思ったが、我ながら無難な着地点ではなかろうか。
「おや? キョン。アレを見給えよ」
「うん?」
佐々木の指差した方向を見ると、何件かのビルを経た先に巨大なジェットコースターらしきものが見て取れた。
いや、すっかり失念していたことだが、これは先程行った映画館の近くに併設されているちょっとした遊園地のような場所だった。入場こそ無料だが、各施設で遊ぶのに金が掛かるタイプの場所だった。
資金と天候を気にして候補からは外していたのだが、ひとしきりの降雨で聊か落ち着いた外気温と余った資金を加味すれば、多少遊んでいく位の余裕はあるかもしれない。
「あいにくとジェットコースターは苦手だが、ちょっと見ていく位はいいんじゃないかな」
「ん、そうだな」
特に反対する理由もない。目的地が定まらず何となく手持ち無沙汰にしていたところ、再び俺は佐々木の手を取ってその遊園地へと向かってみることとした。
雨が上がり、再び健やかな晴れ間が見え隠れし出したこともあってか中は賑わっている様子だった。メリーゴーランドに、ぶんぶんと飛び回るよく分からない乗り物に、外からも見えた巨大ジェットコースター。もう少しよく見ればゴーカートだとかティーカップだとかより小規模な第二のジェットコースターだとか、アトラクション自体も枚挙にいとまがない。そしてそのどれもが、翌日の筋肉痛を幻視しかねない程の行列を形成している。
どこかに腰を落ち着けるにもベンチはびしょ濡れで、暫くは散歩がメインコンテンツになることを予感させた。
「すごい人だね」
「何となしに来てみたが、こりゃあ楽しむどころじゃないかもな」
何か会話をしようにも、この喧噪ではどうにも続け難い。
いやはやこんな場所に来たのもいつぶりのことだろうか、飽きないねえ人類諸君は。と言いつつ俺たちもこの場所に来ている以上とやかくは言えない訳だが、なにゆえに人はこういうテーマパークのようなところにて炎天下ですらエンジョイを試みるのか。佐々木じゃないが、今の世の中は無数の娯楽で溢れかえっているのだ。こうして成り行きで来るくらいで程よくないか。
だが収穫もない訳じゃない。仮にSOS団の連中とここに来たとして、この混雑具合じゃあ我らが団長様はさぞやご立腹であられることだろう。朝比奈さんの卓越した給仕能力もこんな場所では十分の一も発揮できないだろうし、古泉の涼やかなスマイルでもどこまで奴を宥め切れたものか。長門だって持ち込む本の数に限度はある筈だ。
何か遊ぶ場所を勧めるとして、少なくともここを選ぶという愚行はせずに済む。そういう意味ではいい予行演習になったと言えるかもしれない。
そうしてぐるぐると無為に歩き回って、なんやかんやと十五分は経過したころだろうか。無益な労働に対してぼちぼち足が不満を申し出始めるかどうかの頃合いで、
「キョン。アレはどうだい? 他は一時間以上が当たり前の中、こっちは三十分待ちくらいで済むようだ」
佐々木が指差したのは、目を見張るほどに巨大な観覧車だった。
形成されている列は確かに長いが、そのうちの八割くらいは屋根付きの場所で待機している。その上で三十分待ちというのも表記違いではないらしい。
ふーむ、料金も然程ではないし、悪い選択肢ではない。歩いていなくとも、三十分もすれば丁度またゆっくりと腰を下ろしたくなる頃合いだろうし、
「決まりだね。それじゃあ先に並んでいてくれるかい。僕は少しだけ所用を済ませてくるとしよう」
「ん、何か気になる場所でもあったか? 言ってくれれば止まったのに」
「男女の身体の作りの違いは中学の時には習っただろう?
まあ、受験科目に関係あるもの以外キミが船を漕いでいたのは僕もよく知っているから深くは突っ込むまいが、
一つだけ言わせてもらえば、キミには余裕があることでも僕には余裕がないこともあるのさ。
それじゃ、十分後くらいに再会としよう」
俺の手を離した佐々木は、さっとどこかへと消えてしまった。ふーむ、と顎に手を当てて考えるも、どうもこの喧噪の中では心当たりの検索が効きがたい。
ともあれ不意に一人になった俺は、早々に列に陣取ることにした。人の出入りはまだ緩いが、いつここも混んでくるか分かったもんじゃない。
さてと。手持無沙汰になってしまった俺は、おもむろに携帯を開いてみた。
着信は特になし。電波もきっちり三本立っているので、アクセス障害のようなものが起きている訳でもなさそうだった。つまるところ、今日は単純に今まで平和だったということだ。
はてさて今頃ほかの団員の連中はどうしているのだろうか……と、まだ沈む気配のない夏の斜陽を遠目に耽ってみる。
朝比奈さんや長門はまあ想像に任せるほかないが、何の心配もないだろう。最も気がかりなのはまずハルヒだ。無論、今一報入れようものなら間違いなく藪蛇だしつついてやる気もないが、テスト明けの暇な時期にあいつがだんまりというのも本来ならば異常事態。これといった連絡もない辺りきっと古泉が何とかしてくれていると信じよう。
その点心配なのは古泉だ。一日ハルヒの行動を阻害しろ、だなんてのは今思えば結構な無茶ぶりを申し付けてしまったように思う。『機関』とやらのバックアップもあるであろうとはいえあの団長を相手に丸一日妨害なんてのは、ひょっとするとガメラやペロロジラの侵攻から一週間首都圏を守り切る方がよっぽど簡単ではなかろうか。
今のうちにねぎらいの一言でもよこしてやるべきかと携帯のテンキーをピポパピポ、早速耳に宛がってみたが、
『ただいま電話に出ることができません』
と電子コールが一本帰ってくるのみだった。
ふーむ、きっと今頃ハルヒの対応に追われているのだろうか。我ながらやはりとんだ無茶ぶりをしたものだ。
改めてコーヒーくらいは奢ってやろうと、明日には忘れていそうな誓いをメモしておいたところでぱたぱたと佐々木が歩いてくるのが見えた。
「お待たせ。列はどうかな」
「ん、ぱっと見だが丁度折り返しといったところだな。思ったよりは早く進んでいる気がする」
「それはそれは」
隣に一人分のスペースを空けると、佐々木はそこにすっぽりと収まった。ふわりと甘い匂いがしたような気もしたが、きっと俺の鼻腔が近くのフレッシュミックスジュース屋から漂う果汁の香りを勘違いしたのだろう。
だが不思議と妙な居心地の悪さを覚えた気もして、
「佐々木。喉、乾かないか」
「ん? さっきコーヒーを飲み干したばかりだし、特段渇いてはいないが。でもキミが何か馳走してくれるというなら喜んで」
「そうか。あそこにジュース屋があるのにさっき気づいてな。いま、一瞬甘ったるい匂いがして気になったんだ」
「甘ったるい匂い……ふーん。ま、折角なら戴こうかな」
「決まりだな。ちょっと行ってくるから待っとけ」
と、佐々木を置いて列を中抜け。冷静に考えてみたらここに並んでいる連中からは結構な顰蹙を買ってしまっていそうだが、知ったことか。
適当なジュースを二本見繕い、すぐに列に戻って「ほら、待たせたな」と汗をかいた紙コップを手渡した。「ありがとう」と一言佐々木が返したきり、俺たちはしばらくだんまりになった。ああ否、ジュースの感想くらいは語らったがそのくらいだ。
それ以外にも全く話すことがないという訳でもなかったが、周囲の喧騒とお互いに手元のジュースを言い訳にしていたような気がする。
尤も佐々木がどう思っていたかは知る由もないが、少なくとも俺にとってはこの二つを乗り越えてまで提供するほどの話題でもなかった。そう────佐々木はなぜ今日の相手に「俺」を選んだのかという、原点回帰となる話である。
確かにそれなりに長い付き合いではあるし、こいつがどういう訳か俺を面白がっている節があるのも流石に理解した。しかしやはり、佐々木だって俺の知らぬ存ぜぬ人脈というものが皆無でもあるまい。その中から敢えての俺というのは恐悦至極なものだが、今日一日を振り返るとやはりもっと落ち着いていろんな奴を見繕えばいいのにと思ったりもした。
結果としてだが、例えばやっぱり国木田の奴を俺が推薦してやった方がいくらか気の利いた体験を提供できたのではないか、などとね。
まあ佐々木的にはとっとと解決したかった話らしいし、一番手っ取り早そうなのが俺だった、というオチなのだろうが。要は質ではなく速さを重視したのであろう……というのが俺の見解だ。
とはいえなんとなく今聞くような話でもないかと思い、口には出さずにいた。解散する時か、次に会う時にでも聞いてみればいいだろう。
一方の佐々木にも特に変わった様子はなく、順番が回ってくるまでその表情はいつも通りの微笑をたたえていた。
俺といるときはこの顔で固定される、だなんてことを昔話していたが、俺にはよほど何か面白い要素があるのかね。確かに言われてみれば、俺の前でこれ以外の顔を見せたことは記憶の限り本当にほとんどないのではないか。
例えば実はこの数年間、一度も俺自身気づくことのなかった寝癖が実はあるとかだろうか。さり気なく頭をかく振りをして確かめたがそれらしき髪の跳ねは特に確認できなかった。チャックが開いてる? ズボンがずり落ちてパンツが見えてる? なんてありがちなことでもなさそうだ。
「どうかしたのかい? しきりに顔に触れていたりして。蚊でも止まったのかな」
「ああ、いや」
「そうか、何か気になるなら手鏡のひとつでも渡せればよかったが。そうだね……」
なんだ、急に顔を近づけてきて。やっぱり何かついているのだろうか。
「うん。僕の見たところ、鏡の中にキミを助ける答えはない。こういうのは気にしすぎると逆に何かが悪化したり顕在化したりするものだ、これは言ってて奇妙な言い回しだが、考えすぎるということも考え物だね」
という訳で俺の心配は全くの杞憂であり、不意に始まった身だしなみチェックはこれといった減点もなさそうだった。
となるとこの俺によほどの何かを見出しているのだろうが、そこまでくるともう聞くのが怖い領域に入ってくる。あちらさんから遠慮せずに教えてくれれば喜んで直させていただくのだがね。
そうして佐々木に笑われるような原因をそれとなく検討していると、気づけばいよいよ俺たちの前には誰もいなくなった。順番が来たということだ。
「はいそれでは二名様カップルのお客様ですねー。チケット確認させていただきました。まもなく到着しますので、急がず焦らずスタッフの指示に従ってご搭乗くださいませー」
と、受付スタッフが俺たちを観覧車に誘導する。
ああ、確かに俺たちはカップルに見えるんだな第三者からは。そういう想定で動いている一日とはいえ、俺たちはよほど擬態が上手くいっているらしい。
そこからはスムーズで、俺たちはぬるりとゴンドラに収容された。一周約二十分。中学校の昼休み未満の、ささやかな時間が動き出していく。
まずはカバンと空になったジュースのコップを置き、お互いに一息ついた。
「──」
外を眺めてみるが、まだまだ高度が足りないのか景色は大差ない。景色を楽しむには少なくとも五分ほどは必要と見える。
そこまで昇るまでまたしばし静寂の時かと思いきや、それを打ち破ったのは佐々木からだった。「──キョン、記念写真を撮らないか?」と。
「写真?」
「そうとも。ゲームセンターでプリクラを撮るなんてのもなんとなく柄じゃないしね。
今暫く後だが、じきに景色の見通しも良くなる。こうして遊びに来たんだ、何か一枚くらい記念に残しておくのも当然と思うんだよ。隣に来てくれないかい、安易だがツーショットってやつだ。一人ずつ撮るのでは味気ないだろう」
ま、御尤もだな。思えばこいつと一緒に写っている写真なんてのは卒業写真ぐらいのものじゃないか。あとで見比べてみるのも面白いかもしれん。
「僕が撮ろう。キミの携帯にも後でメールで送っておく。それじゃあ……ほら、もっと近づいて。あいにくとこの端末は高いモデルじゃないんだ、しっかり寄ってくれないと入りきらない」
「これ以上は物理的に無理だ。もう少し手は伸ばせないのか」
「悪いがこれが限界だ。さて、どうしたものか」
一応お互い既に肩をぴちっと寄せ合っていたのだが、それでもまだ微妙にどちらかの顔が四分の一ほど入りきらなかった。
俺の方はいいからと妥協しようとしたが、それはダメだと佐々木は妙に強情だった。しかし俺の機種も試したがやっぱり微妙に欠けてしまう。
「じゃあ、これでどうだい。キョン、もっと近付いて」
「だから無理だ……って、おい」
「これなら完璧だ。構図もそれらしい」
俺の腰に手を回したかと思うと、朝のようにこちらの腕に引っ付いてきた。互いの横顔が殆ど触れ合い、なんとも言えないくせっ毛じみた横髪が頬を撫でてむず痒い。本当にこいつの髪型はなんと形容すればいいのだろうか。
そして確かに距離は近付いたが、本気でこのポーズで撮る気なのかお前は。
「当たり前だろう。記念写真というのは、相応しい形で残すことに意味がある。そら十秒我慢してくれ」
「……やれやれ」
はあ、と心からのため息を付きつつも、佐々木の奇行に付き合ってやる。いくら何でもテンションを上げすぎな気がするぞ、明日枕に顔を埋めることになっても俺は知らんからな。
俺とて愛想笑いくらいはしてやったつもりだが、どう映ってるかは分かったもんじゃない。
やがてぱしゃりぱしゃりとカメラの電子音が響き、「うん」と納得した様子で佐々木は俺の腰から離れていった。
「陽光で見辛いが、ほら。割とよく撮れている。きっとこれも佳き思い出になるだろう」
隣で思い切り背もたれによりかかる俺を尻目に、佐々木は満足げに携帯の画面をチェックしていた。
そうだな、お前が満足してんならいいさ。今日は元々そういうつもりで来たんだし。
「うん……そうだね。改めてだがキョン。今日は来てくれて感謝するよ」
うん、急に改まってどうした。
「そりゃあ礼の一つくらいは言わないとだ。僕の個人的好奇心に丸一日付き合わせたのだから。本来ならばこの役割は、キミに押し付ける必要もなかったことなのだからね」
そうでもない。思い返せばお前とこうして遊んだのは初めてだった。
お前は理屈っぽいところばかりかと思っていたし、ぶっちゃけそれは今でも変わらんが、それと同時に。
普通にはしゃぐこともあるんだな、佐々木。お前のそういう姿を見れたのがなんだか新鮮でならなかった。
「はしゃぐ? 僕がかい? どこでそう見えたのかな……確かにそこそこにテンションを上げて行動したつもりではあったが。少々オーバーにやりすぎてしまったのかな」
そうだな、それが事実ならやりすぎてたのかもしれん。普段のお前なら到底言わんようなこと、しないようなことを結構していたように思うぜ。
けどまあ、別にいいんじゃないか、たまにははしゃいでも。俺もお前もまだ一介の高校生でしかないんだ。守られてる立場、ってやつさ。成り行きだったが、今日は実に面白い一日だった。
「そうかい。少々不本意な部分もあるが、キミにとって満足な一日であったなら光栄だ」
ああ。それよりもお前はどうだったんだ? 今日一日で、お前の好奇心を押さえつけるに足る成果はあったのか。ただ遊ぶのもいいが、主眼はあくまでそっちだろう。
遊ぶくらいなら幾らでも付き合ってやれるが、正直俺では力不足だったんじゃないかと思わんではない。
そういえばこういう文脈で『役不足』が誤用なのはついこの間の現国で知ったが佐々木はどうだろうか。
「いやはや、寧ろ本当の意味でキミは役不足だったのではないか。そう思わずにはいられないね。
キョン、キミはやはり僕にとって、代えがたい人間だ。何せ、今日のキミの一挙手一投足すべてが僕にとって一つのエンタメとして機能していたんだよ。
────ここでいいことを教えておくとね、キミが僕を愉しませるのは実に簡単なことらしいんだ。何せただこうして会話しているだけでも、僕はキミと話していてこの口角を上げずには居られない。この表情で固定されてしまうんだ。キミといると本当に顔が強ばって良くないことだよ。
でもまあ流石に僕だって、こうした現実があって目を逸らすことはしない。キミと居ると僕は、どうも実に──これは何とも形容しがたいが、楽しい気分になっているようなんだ。
そうしてそれに呼応するようにこの目も気を抜いていると細めてしまうし、キミの前でこの眉が吊り上がることもなかなか想像できない。
これは中学生のころからの僕の性癖のようなものでね──ああ、ちなみに性癖というのはそもそも本来『性的嗜好』などでなく、単純に『生来の悪癖』のような意味合いがまず正しい意味で、僕もその意味で使っていることを強調しておくが──キミはどうも、涼宮さんたちに一年間みっちり鍛えられただけのことはあるみたいだ。
この癖は、どうもキミの前では不治の病になってしまいそうだよ」
色々言いたいことがないでもないが、今日に限って言えばお前が楽しんでるなら何よりだ。あいつらと過ごした時がよもやこんなところで役立つなんて昨日までの俺は夢にも思っていなかった。
正直なところ今日は「なぜ俺が」という思いも拭えなかったが、急ごしらえの助っ人としては及第点を貰えたと受け取っておこう。
「キミの性癖はその謙虚さかもしれないな。善きものでもあるのだけどね。
……で、だ。今の今まで付き合ってくれたついでに、もう一仕事する気はないかな」
やれやれ。俺はお前にとって大層な笑い袋のようだが、流石に少しは草臥れも見える頃合いなんだがね。
ああ、何でも言ってみろ。どこまで応えきれるかは甚だ保証も出来ないが、ここまで来たら乗りかかった船だ、例えタイタニックだろうと今日限りは共に沈んでやらんではない。
「ありがとう。さて、それにあたって一つキミには問題を出そう。
今のロケーションとシチュエーション、時間帯から、我々がいまから為すべきことはなんだとキミは考える?」
為すべきこと、ね。場所と、状況と、時間帯。
となると今度は、あの地平線すら見えそうな景色をカメラに収めておくとか、そういうことじゃないか。
まあ外を見てみろ。観覧車はいつの間にやら最大高度の七十~八十パーセントといったところまで来ている。ビルに囲まれていた景色も今となってはほとんど障壁がなく、ゴンドラより高い建物の方が数えるほどになっているじゃないか。
まだ太陽が沈みきる気配はないが、それでも夏空の色はいつの間にやら徐々に夕焼け模様になりつつある。俺の回答は初手としては正解正解、大正解を引き当てたと言って過言ではないというのが俺の自己採点だ。さて、本採点はいかがかな。
「うん、それもそれで非常に魅力的な選択肢だ。
だがねキョン、記念写真はさっき撮ったし、景色が欲しいだけならその気になればまた後日改めてこれに乗ればいいんだ。
僕の言ったうち、ロケーションと時間帯は満たしているがシチュエーションは満たしきれてないという訳だね。キミは文章を読む力こそあるようだが、条件の抜け漏れに関しては特に理科系の科目で致命傷になる。気を付けてくれよ」
心配無用、このままいけば多分俺は文系だ。ハルヒの奴が変な悪だくみでもしない限りはな。
「特に重要なのが理科系というだけで、文科系でも重要でないとは言っていないけどね。
ま、それは後々のキミに苦労してもらうものとして、それがキミの最終回答ということで相違ないかな」
ああ。悪いが佐々木、やはり俺は誤用の方の役不足かもしれんぞ。生憎ととんと思いつかない。
このゴンドラにいる時間も無限じゃないのだ、何かあるなら早く答えを聞かせてくれ。
「仕方ない。この口から言うのは正直なところ実に面映ゆくてね、キミからまず申し出てくれることを期待していたが。
デートで、誰もいない場所で二人きり。キミがどうかは知らないが、少なくとも互いにある程度の接触までは赦しあえている。
となれば…………ああ、言ってくれるなら今がラストチャンスだ。どうぞ」
何を俺に期待しているのやらね、このつやつやとした口ときたら。
相も変わらず微笑みを湛えるその顔に対し、特に俺から言うことはなかった。
もう俺の脳はとうに思考を放棄しつつあり、問題演習の時間で早々に匙を投げて教師の板書を待つ怠惰な生徒と化していたからだ。
すると佐々木は意を決したかのようにこちらから僅かに距離を取ると、
再び俺の目をじっと見据えて、
「致し方ない、分かったよ。
……キョン。
────キス、してみないか?」
……あぁ?
ふむ……こいつは俺の記憶する限りでは、この間コンビニで会った時ぶりの衝撃だった。
脳内はRGBですべて二百五十五、これを疑いCMYKも確かめてみたがパラメータすべてがゼロを示している。
そうだな。鱚。
あくまで俺の脳内ペディアによるとだが、ダイオウギスと呼ばれる種類を除き基本的にはこの日本近海に生息していると聞く。基本的に毒はなく食用、大きさは四十センチ程度の────
「何度も言う気はないよ。
これを言って僕が恥じらう姿を見ることがやはりキミの性的嗜好だというのならば止めないが、従う気もない」
……ああ、ちょっと待て。待つんだ佐々木。ボケたのは謝る。
だがお前の表情もやっぱりいつもとまるで変わっちゃいない、どこまで本気と来ているんだ?
俺の耳は生憎ついこの間の健康診断でも満点を叩き出している。だからきっとこれは幻聴などではなかったと仮定してやろう。だとして自分を大事にしろ。な?
確かに今日一日この身は滅私奉公も同然の心づもりではいたが────
「僕は本気だよ。
今からキミに言うこと、すべてがね」
「────僕は、キョン。
キミのことを、実に好ましいと思っている」
────
「今日キミを選んだのも、ただ単にキミが気心知れた仲だからというだけじゃない。
『キミとなら、そこへ行ってもいい』と心から思える、ただ唯一の男子だったからだよ」
佐々木はぽつり、ぽつりと続ける。俺はその一言一言を、固唾を飲んで聞き入れるしかない。
じっとりとした観覧車の中、互いに一筋の汗が頬を垂れるのが分かる。
俺のは頬の感覚から、佐々木のは俺の視覚から。
「……やはり、キミは気付いていないみたいだね。
僕が一体なぜキミを呼んだのか。それは……諦められなかったからだ。
この気持ち──この、いまだに精神疾患としか形容しようのないモノに対する、捨てきれない想い」
────
そいつが俺の前で笑っていなかったのは、いつぶりのことだろうか。いや、果たしてそんな時があっただろうか。
いや、やっぱり笑ってはいるのだが、その目線は、俺の記憶の中のどのページにもないそれだった。
「僕はね、キョン。キミとなら、歩めるんじゃないかと思ったんだ。いや、言ってしまおう。
この先を見たいと欲している。僕の知らないこの先に。
まだ、理由が必要かな?」
……佐々木。本気、なのか。
俺は息を呑んだ。
不意打ち気味に決められた、完璧なストレートパンチ。これを超える衝撃は、きっとこの高校三年間でも精々ハルヒの例の自己紹介くらいしかないのではないか…そう思うほどの強烈なそれに俺の脳内は忽ちにノックアウトされ、レフェリーはカウントを取ることなく佐々木のKO勝ちを宣言していた。
つまるところ思考停止。解答不能。
いや、違った。不能だったのではない。
俺は本能的に、回答を、拒否していた。
誓って言うと、目の前のこの女に対して、不満がある訳ではなかった。
もし高校に入る前に同じシチュエーションに遭遇していたなら、俺は恐らく否やとは言わなかっただろう。
あくまで客観的に見ればだが──面も頭も要領もいい。それでいて、迂遠な事ばかりを言うのは玉に瑕だが、適度な気遣いと距離感を弁えた、きっと俺にとってこれまでもこれからも唯一無二の友人。それが佐々木だった。
それは俺の、俺自身が認める怠惰さがきっと証明してくれることだった。きっとその時の俺は断るのすらも面倒がって、ずるずると流されるがまま受けていたに違いない。
しかし今の俺の中にあるのは、ただ、「何故」だった。
何故俺を? 何故俺が? 何故俺に?
何故今? 何故ここで? 何故お前が?
無数のクエスチョンマーク。それを払拭しない限り、俺がこの先の言葉を紡ぐのは叶いそうになかった。
そうして暫く、一体どれほどの時間が経ったのか、はたまたほんの数秒程度のことなのか……
俯きがちにこちらを見つめていた佐々木の視線は、再び俺の視線に目を合わせてきた。
「………………
こほん。
まず──恐らくだが、キミには特筆すべき虫歯がない。中学校の頃からそういう類のことで苦しんでいる記憶がないからね」
…………あ、ん? ん???
「それから──恐らくその他の病気もない。これはたった今元気なままで僕の前にいるというのも根拠として大きいが、キミの近くには涼宮さんがいる。そもそもよほど大きな病気には「罹れない」のではないかな。加えて涼宮さんの力すら及ばぬような未知の病原体がいたとしても、よほどのことがない限りそちらの長門さんたちがなんとかする公算もある。
つまりキミは大それた病気をする余地はほぼなく……粘膜接触をしても僕が直ちに大きな病気に罹患することはない可能性が高い。
その上で僕とは健全な交友関係をしっかり結んでいて、ともすればこういう事態も一度くらいは見逃してくれるやもしれない。個人的な感情としても実に好ましいわけだね。
──どうだい? ここまでのプロフィールに合致する人間を、僕は他に知らなかった。これはぜひとも僕の興味の先に行くのに相応しいわけだが、キミが不服だというなら仕方ない」
やれやれ、と大げさに肩を落として見せる佐々木。
そうして唐突に普段の饒舌を取り戻した佐々木に俺は困惑を隠せなかった。
だがその言葉一つ一つや身の振り様を聞いているうちに、なんだか急速に得心が行った。
俺の心中は例えるならば、初手の不具合対応に失敗して大炎上したソーシャルゲームが、急遽自暴自棄になったかのような量の補填と共にお詫びのお知らせを出した時のSNSのような沈火ぶりであった。
ああ、そういうことか。正直、最初は理解が及ばなかった。だが────佐々木は、どこまでいってもやっぱり佐々木だったということなのだ。
佐々木はあくまで、デートの疑似体験としてそういうことを言っているだけ。そういうことを言っているのだと、どう聞いても俺はそうとしか解釈できなかった。
確かにな、その辺のテンプレート的な恋愛漫画とかではあっても不思議な展開じゃない。
はあ、全くもって佐々木よ。お前もなかなかどうしてエンターテインメント症候群とやらじゃないか。そんなベタッベタなシチュエーションどこで読んだんだ? 今のお前にゃラブコメ漫画を読む暇はあんまりないと見ていたのだがな。
さて、ようやく落ち着いた頭で検討すると、このキスという行為。
あいにく今のところ、佐々木とその行為に至る合理性は甚だ俺には理解できなかった。
だがまあ、単純に生理的な話とかでどうかというと……ぶっちゃけ同性ではないこともあって、不思議とそこまでの拒否感はなかった。今さっきはつい慌てて自分を大事にしろとなんだのと言ったが、まあ本人が納得済みならば練習台になってやるのも吝かではない。一瞬何かとんでもない思い違いをしかけた訳だが、それを直ちに猛省した。
すまない友よ、この思い違いはどうか墓まで持っていくから見逃してくれ。もしバレたらラーメン一杯フルトッピングで勘弁してほしい。
だが……ったく、こっちの度肝の抜かれっぷりも知らずにこいつはいつも通りに笑っていやがる。やっぱりトッピングはナシだ。バニラ状態で食いやがれ。
「はぁ……ま、いいだろう。そこまで言うならとっとと済ませるぞ。ここにずっと居られる訳じゃないしな。
お前がデートだなんて言い出す天変地異はきっと二度とないかもしれん、元より今日だけなら地の果てまで付き合うつもりだ」
「よかった。……それじゃあキョン、さっそくこっちを向いてくれ。ちょうどお誂え向きにあと一分もしないうちに頂上だよ」
「ああ」
「じゃあ、目をつむって。もし開けたら一週間はキミのことを恨むし、毎晩鬼電するから覚悟するように」
「やれやれ」
……とはいえ、行為が行為だ。流石に緊張を隠せるほど俺は器用じゃなかった。
かたや佐々木はどうなんだろうか。叶うならこいつの心臓を鷲掴みにして心拍数を直接計ってやりたい。
目をグッと閉じ、恐る恐る顔を前にやりながらいつ来るかもわからないその感触を待った。
忽ちふわり、と、鼻腔に甘い匂いが再び侵入してくる。
おお、拙いな、さっきのジュース、まだ残ってたか。適当に置いといてしまったから倒れたのかもしれない。
……だなんて、己を誤魔化し切るのも限界だった。このふわりとした花のような香りが、そこらの典型的可食果実を絞って作っているジュース由来でなどある筈がない。並んでいた時だってそうだ。
紛れもなく、徐々に佐々木は俺に近付いてきているのだ。この空調がイマイチなゴンドラではほんの僅かな汗の香りもブレンドされているはずなのだが、不思議とその匂いは不快でなかった。
そうして意識した途端、ただでさえ高まっていた緊張が一層に強まる。
そんな中で一瞬意外だったのが、先に来た感触だった。予想していたのは唇への接触感だったが、まずは俺の背中にゆっくりと手が回ってきたのだ。
ほうほうなかなか本格的にやろうとしているようだ。緊張感に反して俺の思考は今のところまだ冷静で、次はどこに何が飛んでくることやらとぼんやり予想していた。次は首……いや、もう手の感触を追うまでもなくなった。
まずは然るべき感触の直前、ほんのりと熱い吐息が俺の口元を撫でた。
「──キョン。始める前に一つ聞くが。キミ、これが初めてかい」
「ああ?」
そうしてどうにか生返事はしたが、何が初めてなのかというのは流石に察しも付いていた。
曖昧三センチどころの話ではない超絶至近距離で──というのは目を開けていないので俺の想像だが、俺の近くでそう囁く、仄かに熱い吐息が実にこそばゆい。佐々木の匂いと体温がより近くで伝わり、俺の認識は否が応でも塗り替えられていく。
ああ、こいつ。本当にやる気満々なんだな。声の聞こえ方からしても大変に近づいているのが分かる。今の佐々木は一体どんなご尊顔をしていることやら。
だが神に誓って目は開けぬとも。こんな距離でもしこの双眸を見られていたら、どうあがいても弁明の余地がない。
だが、真実を伝えるべきなのだろうか。そもそもあれは夢……いや、夢ではなかったのだが、夢ということになっている現象。
本当のことを言うのは、かくも明らかに誠実だった。けれど、嘘を言うこともまた誠実なのではないかという思いが俺の中をぐるぐると駆け巡っていた。
けれど、それこそ誠実さで言うならば──ここでいっそ、突き放してしまうべきなんじゃないかと、そんな気もする。俺の脳裏には、どういう訳か、いつの間にやら一年以上前に遡る、あいつとの閉鎖空間での出来事がリフレインされていて。
しかしそうして迷っている間にも、
「ふふ、そうか。
──嘘はいいよ、その様子は経験済みとみた。それなら話は早い。なら、僕がもし何か間違えても、正しておくれ。愛しのキョン」
「待て、そういうお前はまさか……」
「うん、けど、キミ相手なら吝かじゃない。何せ僕は本当に、────」
と、急に佐々木は声を潜めてくる。
ああ、きっとこれから、この唇は立ちどころに、もう一つの唇に支配されるのだ。
もはや俺に迷う余地はなかった。ならばせめて、互いに不愉快な思いだけはせんようにと俺は肩の力を抜いてた。そして息を吞む。
さて、先ほどこっそり測った感じ水中での息止めは一分少々できたのだが、陸上ではどのくらい出来たものかね。結構緊張はしているし、三十秒もできれば御の字かな。
「───から、ね」
「? 何か、言った……」
佐々木が何かを囁き、一瞬息を吸ったかのような呼吸音を立て。
本能的に俺は、そこからの感触に身を備えて────