死んだ女に呪いをかけられるお話。

1 / 1
第1話

 世界は残酷に、あの日から停滞せずに進み続けている。

 

 視界に入るリビングの風景は、僕の絶望を嘲笑うかのように整然としている。窓から差し込む冬の陽光は、彼女がいない事実を際立たせるためだけに、埃のひとつひとつを丁寧に照らし出している。

 

 彼女が数週間もカタログを比較して、

 

「これが一番喉に優しいんだよ」

 

 と笑って選んだ加湿器。今もその白い霧は、彼女の願い通りに部屋を潤し、規則正しい駆動音を響かせている。けれど、その霧が守るべき主はもうどこにもいない。

 

 客観的に見れば、この部屋は十分に温かいはずだった。

 壁の温度計は二十二度。僕は厚手のセーターを着込み、暖房も入れている。

 

 それなのに僕の右手だけが、死そのものを移植されたかのように凍てついている。

 

「……っ」

 

 不意に、血管の奥を直接氷の破片で削られるような激痛が走る。

 指先から手首、肘を越えて肩のあたりまで。皮膚は血の気を失い、触れれば自分の体温にさえ拒絶反応を示すほど、右半身だけが死者の体温に塗りつぶされている。

 

 病院では、ありふれた病名をいくつか提示された。PTSDによる解離性感覚障害。あるいは、強い喪失体験からくる身体化障害。

 けれど、どれも僕の真実とは程遠い。

 

 この右手は、彼女がこの世に存在した最後の「熱」を奪い取り、代わりに彼女の「死」を定着させた呪いそのものだ。

 

 僕は左手で右の掌を強く握りしめるが、そこには生きた肉の弾力すら感じられない。ただ、彼女が去っていった瞬間の、あの絶望的な「凍りつき」だけが、僕の身体の半分を支配している。

 

 僕は、右手を隠すようにポケットの奥深くへ押し込んだ。

 温もりを求めているのではない。ただ、これ以上、この冷気が僕という人間を食い尽くさないように、必死に蓋をしていた。

 

 

__________

 

 

 

「ねえ、今日のカレー、隠し味はリンゴをすり下ろして入れること。それが一番の秘訣なんだから」

 

 それが、僕たちが交わした最後の一言だった。

 

 日常という名の、あまりにも無防備な時間。

 スーパーのビニール袋を下げた彼女は、横断歩道の向こう側で僕を見つけ、夕食のレシピを自慢するように楽しげに笑った。

 

 その光景が、不快なほど鮮明なスローモーションで脳裏に焼き付いている。

 

 信号を無視して交差点に滑り込んできた、巨大な鉄の塊。

 耳をつんざくような制動音。硬いものが砕け、何かが飛び散る音。

 

 僕の視界の中で、彼女の身体が不自然なほど軽やかに宙を舞った。ビニール袋から飛び出したリンゴが、アスファルトの上を無機質に転がり、無惨に潰れる。

 

「っ、……!」

 

 声にならない叫びを上げて、僕は彼女のもとへ駆け寄った。

 崩れ落ちた彼女の身体は、驚くほど小さく感じられた。道路の熱と、鉄の匂いと、そして生暖かい血の混ざった独特の臭気が鼻を突く。

 

 僕は震える右手で、彼女の右手を掴んだ。

 

「……僕だ。分かるか? 待て、すぐに、すぐに……」

 

 彼女の瞳は空を彷徨い、やがて僕の顔を捉えた。

 唇がわずかに動く。何かを言おうとしていた。慈しむような、あるいは謝罪するような、ひどく穏やかな光がそこにはあった。

 

 けれど、その瞬間に起きたことを、僕は一生忘れない。

 

 彼女の指先から、文字通り「命」が逃げていくのが分かった。

 春の陽だまりのようだった彼女の熱が、僕が握りしめた右手を通じて、滝のように僕の中へ流れ込んできたのだ。

 

 いや、それは「熱」が移ったのではない。

 彼女の生命が消えていくのと引き換えに、死の静寂が、僕の右手を侵食し始めたのだ。

 

 彼女の瞳から光が消え、視線がどこか遠い場所を固定した時。

 僕の右手は、もう、僕のものではなくなっていた。

 

 彼女の身体から最後に失われたあの冷たさが、僕の右手の細胞ひとつひとつに定着し、永遠に解けない氷となって凍てつかせた。

 

 救急車のサイレンが遠くで聞こえる。

 僕は動かなくなった彼女の冷たい手を、それでも離すことができなかった。

 

 僕の右手が凍りつく代わりに、彼女の熱を僕がすべて引き受けたのだと、その時の僕は、愚かにもそれが「最後の愛の形」だと信じていた。

 

 

__________

 

 

 

 彼女がいなくなってから、何度目かの冬が巡ってきた。

 

 職場の同僚である「その人」と過ごす時間は、凪のように穏やかだった。

 彼女と過ごしたような、火花が散るような鮮烈な幸福とは違う。けれど、灰色の日常に少しずつ色が戻っていくような、そんな静かな変化を感じていた。

 

 夕暮れの街を、「その人」と二人で歩く。

 吐きだす息が白く、街路樹の枝が寒さに震えている。僕の右手の痛みは、この寒さに呼応するように鋭さを増していた。

 

 不意に、歩道の段差に躓きそうになった「その人」が、バランスを崩して僕の左腕にすがった。僕は反射的に、ポケットから右手を出して彼女を支えようとした。剥き出しの、あの凍てついた右手が、「その人」の温かな手に直接触れた。

 

「あっ、すみません。……あ……」

 

 今まで、誰の温もりに触れても、どれほどの熱源に翳しても、びくともしなかった右手の芯が、不意に、激しく、叫ぶように拍動を始めた。

 それは「温まる」という生ぬるい現象ではなかった。

 

 右手の奥底、血管の壁にこびりついていたものが、彼女の熱に反応して、溶かされていく。

 右手の痛みが、徐々に「形」を変えていく。それは僕を蝕む呪いではなく、何かの合図を送り続けるように。

 

 「その人」の熱を通じて、僕の右手が、僕に語りかけ始めていた。

 

 

__________

 

 

 

「……温かい、ですね」

 

 僕の口から漏れたのは、自分でも驚くほど乾燥した声だった。

 「その人」に触れた右手が、熱を帯びて脈打っている。凍りついていた感覚が、溶けて、流れ出す。

 

 その瞬間、視界の端でアスファルトの上に転がったあのリンゴが、鮮明な赤色を取り戻した。

 あの日、彼女は死の淵でなぜあんなに穏やかに笑ったのか。その答えが、今、掌に伝わる他人の体温を通じて、あまりに明快に突きつけられた。

 

 この右手の冷たさは、彼女が僕を縛るための鎖ではなかった。

 いつか僕の前に現れる「誰か」の温もりを、僕が拒絶しないための、鋭利な目印だったのだ。

 

 彼女は、僕が独りになれば暗闇の中に閉じこもり、誰の熱も受け入れずに心を死なせてしまうことを予見していた。だからこそ、自分の命が消えゆく間際に、あえてこの「冷たさ」を僕に託した。

 

 この氷を溶かすほどの熱を持つ誰かに出会った時、迷わずその手を取れるように。

 それが、彼女が死の直前に遺した、最後の手向け。

 

 僕の右手が凍りついていたのは、誰かを拒絶するためではない。

 僕が「生きる」ことを選べるように、彼女が仕掛けた祝福だったのだ。

 

 その事実を理解した瞬間、右手の芯にあった激痛は霧散した。

 代わりに残ったのは、空恐ろしいほどの空虚さだった。

 

 

__________

 

 

 

 「その人」と別れた後の部屋は、以前にも増して静まり返っていた。

 

 加湿器は相変わらず、彼女が愛した穏やかな霧を吹き出し続けている。

 僕はソファに深く腰を下ろし、自分の右手を見つめた。

 

 冷たさは消えている。指先には微かな赤みが差し、爪の先まで血が通っているのが分かる。数年ぶりに取り戻した、生きた人間の手。彼女の呪縛から解き放たれた、自由な手。

 

 けれど、僕にとってそれは、彼女との最後の繋がりを失ったことを意味していた。

 彼女は僕に「祝福」を遺した。僕が明日を生き、誰かを愛し、笑いながら生きていくための祝福を。

 

 その慈愛の深さを知れば知るほど、僕の中の何かが、静かに、けれど決定的に壊れていくのが分かった。

 

「……君は、本当に優しいな」

 

 僕は独り言を呟いた。

 彼女は僕に、自分を忘れて幸福になれと言った。そのために、何年もこの右手を冷たく保ち続け、僕を導いてくれた。

 

 だが、その優しさが、僕には耐えがたかった。

 祝福を受け入れることは、彼女という「呪い」を、僕自身が完全に殺してしまうことと同じだった。

 

 僕は立ち上がり、キッチンへ向かった。

 冷蔵庫の中には、まだ、彼女が言った通りに隠し味として使われるはずだったリンゴが残っている。

 

 リビングへと戻り、彼女が最後に触れたあの冷たさを求めて、窓を大きく開け放った。

 冬の夜気が一気に部屋へ流れ込み、加湿器の霧を乱暴にかき消す。

 

 右手の体温はまだ残っている。けれど、心臓の奥の方は、もう二度と温まらないほど凍りついている。

 

 彼女は僕を「生」へと導こうとした。

 僕は、その導きに心から感謝している。

 

 僕は静かに、ベランダの手すりに手をかけた。

 生ぬるい右手の感触が、再び夜の冷気と同化していく。

 

 その瞬間、遠くで彼女の声が聞こえたような気がした。リンゴをすり下ろす、あの微かな音とともに。

 

 僕は目を閉じ、真っ暗な虚空へと、その一歩を踏み出した。

 


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。