——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第十話:Super Sonic Boom

 

「さて……始めるぞ」

 

 谷製作所の地下深く、青白い無影灯の下で谷方位博士が静かに、だが鋭く告げた。

 磁力線発生装置が唸りを上げ、作業台の上に横たわる無残な鉄の塊――比企谷八幡を宙へと浮かび上がらせる。全方位から伸びる多関節マニピュレーターが、立体的に、かつ精密にその故障箇所を走査(スキャン)していく。

 

「馬鹿ものめが。これほどボロボロの状態で極超音速移動を行うなど、自殺行為だということが分からんのか」

 

 博士は毒づきながらも、その手は恐るべきスピードで動いていた。

 ボディの回路の八割は焼き切れ、黒く炭化している。超小型原子炉も臨界寸前の熱ダメージを受け、かろうじて出力を維持している状態だ。博士はレーザーカッターと超高速溶接機を操り、ミリ単位の精度でハイマンガン・スチールの骨格を組み替え、劣化したパーツを次々と交換していく。

 

 ――その頃、八幡の意識は深い、深い暗闇の底にあった。

 

 冷たい虚無。上下の感覚すら失われた世界で、ただ一つの光が、鼓動のように明滅している。

 その光が、音を介さず直接、八幡の意識へと問いかけてきた。

 

『おまえは誰だ。きみは何者だ』

 

(……わからない。何も、思い出せない……)

 

 自分の名前、自分の居場所。今まで守ってきたはずの「何か」さえ、熱波に焼かれて消えてしまったかのようだった。自分が人間なのか、ただの機械なのか。その境界線すら溶け去った意識の海に、ふわりと一人の少女の姿が浮かび上がる。

 

「私は由比ヶ浜結衣。……あなたは?」

(俺は……)

「私は由比ヶ浜結衣。……あなたは、誰?」

(俺は……八幡……。いや、エイトマン……?)

 

「私は由比ヶ浜結衣。エイトマンなんて知らないよ。……あなたはヒッキーでしょう?」

 

 ヒッキー。

 その、ひどく歪で、それでいて温かい響き。

 その言葉が、霧散しそうになっていた八幡のメインプロセッサを強引に繋ぎ止めた。

 

(そうか……そうだ……。俺は……比企谷八幡だ)

 

 明滅していた光が、爆発的な輝きとなって闇を塗りつぶしていく。

 

「よし……これで完全に治ったぞ」

 

 谷博士の声で、八幡は目を開けた。

 視界の隅に走るシステムチェック。全ての機能がグリーン。右腕も、かつてより遥かに洗練された動作で復旧している。

 

「博士……。俺は、いつここに……」

「ここに来た時のことも分からんほど、意識が混濁していたか。この基地にいる限り、君の状態は手に取るように分かる。……危ないところだったな。電子頭脳が破壊され、記憶メモリが暴走していたのだ。自分では気づいていないだろうが、君はクラスメートの女の子の姿になっていたのだよ」

 

 八幡は絶句した。由比ヶ浜に変身していた……。あの意識下での対話は、崩壊しかけた自己を繋ぎ止めるための、予備電子頭脳の足掻きだったのだ。

 

「クラスメート……そうだ! 雪ノ下は!? あいつはどうなった!」

「安心したまえ。彼女は無事だ。学校に駆けつけた警察に保護されている。私には警察に知己がいるのでね、話は早い」

「そうですか……よかった……」

 

 安堵の息を吐く八幡。だが、谷博士の表情は険しいままだった。

 

「しかし、困ったことになった。ナイト・デーモン……あの男は今、君のもう一人のクラスメート――由比ヶ浜結衣こそがエイトマンだと勘違いしておる。君が無意識のうちに、彼女の姿で姿を晒してしまったのが原因だ」

「由比ヶ浜が……? まさか……!」

「そうだ。奴は今、回収した007を修復している。直り次第、彼女を『エイトマン』と断定して攻撃を仕掛けるに違いない。兵器としての性能を確認するために、躊躇なく、な」

 

 心臓が――いや、アクチュエーターが、激しく軋んだ。

 

「それなら、一刻も早く由比ヶ浜のところに行かなければ!」

 

 飛び起きようとする八幡に、谷博士の鋭い一喝が飛ぶ。

 

「待て! 逸るな。八幡くん、極超音速移動装置を使った影響で、君の性能は兵器として何段階もレベルアップしている。だが忘れるな、力に溺れ、ゴリ押しを続ければ、君もあの007のような単なる破壊兵器に成り下がってしまうぞ」

「……博士」

「エイトマンの真の力は、装備や加速装置に留まらない。もっと根源的な、人の精神力が深く関わっているのだ。それを忘れるな」

「……分かってます。……行ってきます」

 

 短く返し、八幡は擬態皮膚を再構成した。

 夜の闇へ。日が沈み、冷え切った千葉の街へと、鋼鉄の守護者は一筋の光となって飛び出していった。

 

 

──

 

 

千葉の街に、沈みかけの夕日が長い影を落としていた。

 奉仕部の部室から一人、帰路につく由比ヶ浜結衣の足取りは、いつになく重い。

 

「……ヒッキーの、バカ」

 

 ぽつりとこぼれた独り言が、冷たくなり始めた夜気に溶けていく。

 先ほどの部室での、比企谷八幡との確執。彼の突き放すような冷たい態度は、結衣の心に深く、鋭い傷跡を残していた。

 

 何も想わない相手に何を言われようと、腹は立っても悲しくはならない。

 だが、今の結衣を支配しているのは、胸の奥を締め付けられるようなズキズキとした痛みだ。それは、彼女自身が認めざるを得ない、彼への確かな「好意」の証明でもあった。

 

「こんな気持ちにさせるなんて……。あの捻くれ者め。謝ってくるまで絶対許してやんないんだから」

 

 頬を膨らませて自分を鼓舞してみるが、すぐにその表情は曇る。

 なぜ、彼は急にあんな態度をとったのか。考えても全く心当たりがない。

 

(もしかしたら、あたしが知らないうちに酷いことをしたのかもしれない……)

 

 彼は斜に構えていて、どうしようもない捻くれ者だ。けれど、そのひん曲がった視線の先で、誰よりも周りのことを、そして「あたし」のことを見てくれている人だということも知っている。

 もし、自分の無神経さが彼を傷つけていたのなら、今すぐにでも――。

 

「……やっと見つけたぞ、エイトマン」

 

 不意に、凍てつくような声が前方から降ってきた。

 思考を遮られた結衣が顔を上げると、そこには異様な二人組が立っていた。

 

 一人は、時代錯誤なマントを羽織り、眼光の鋭い痩身の男。

 そしてその隣には、重機のような威圧感を放つ、巨大な鋼鉄の巨人――修復された007が、不気味にモノアイを赤く明滅させていた。

 

「……え? なに、これ……?」

 

 結衣は本能的な恐怖に、思わず後ずさった。

 

「くくく、よくも謀ってくれたものだ。かわいい女の子に化けていれば、誰も貴様がエイトマンだとは気づくまい。実に合理的な隠蔽工作だったよ、ヴァレリーの最高傑作(マスターピース)」

 

「エイトマン? ……何それ。人違い……だよね?」

 

 結衣の混乱した問いに、男――ナイト・デーモン博士は、勝利を確信したような笑みを深める。

 

「誤魔化しても無駄だ。マッハ15を叩き出したあの残光、そして変身の瞬間。私のスパイ・ボールはすべてを記録している。これほど精密な擬態、比企谷八幡などという冴えない少年よりも、君のような少女の方が『監視』には向いていると判断したのかな?」

 

「何言ってるの……? ヒッキーのこと、知ってるの……!?」

 

「今度こそ逃さないぞ。君のその身体をバラバラに分解し、内部の原子配列まで徹底的に研究させてもらう。……私の科学の、輝ける糧となるがいい!」

 

 デーモン博士の手元で、青白い火花を散らす電気スティックが振るわれた。

 

「きゃっ――!」

 

 逃げる暇もなかった。超高電圧が結衣の華奢な体を貫く。

 エイトマンの強靭なハイマンガン・スチールならまだしも、ただの少女である結衣の意識は、抵抗する間もなく暗転した。

 

「……今度こそ気絶したか。やはり精神的なトリガーがあるようだな、このマシンは」

 

 デーモンは、ぐったりと地面に伏した結衣を、冷酷な目で一瞥した。

 彼の中では、目の前の「少女」こそが、谷博士が作り上げた究極のサイボーグに他ならなかった。

 

「運べ、007。自らの研究所でじっくりと解体してやろう。……進化する兵器の秘密、すべて私が手に入れてみせる」

 

 007の巨大な腕が、無造作に結衣を抱え上げた。

 闇の中から現れた黒塗りの大型車両。

 由比ヶ浜結衣は、一人の「人間」としてではなく、狂気的な科学者の「実験体」として、夜の街へと連れ去られていった。

 

すっかり暗くなった千葉の街並みを、一陣の激しい風が駆け抜ける。

 否、それは単なる風ではない。高マンガン鋼(ハイマンガンスチール)の骨格に10万キロワットの出力を秘めた、復活したエイトマン――比企谷八幡が放つ超音速の旋風だ。

 

「……どこだ、由比ヶ浜……!」

 

 八幡は全身の索敵センサーをフル稼働させ、彼女の足跡を追っていた。

 通常の登下校ルートから自宅までの距離をミリ秒単位で計算し、下校時刻から現在位置を割り出すが、どこにも反応がない。八幡の電子頭脳(ブレイン)に焦燥という名のノイズが走る。

 彼は即座に思考を切り替えた。エイトマンの真価は物理的な速度だけではない。情報化社会である現代において、彼はネットワーク上のあらゆるパケットを傍受し、処理できる最強の「サイバー」なのだ。

 千葉市内の監視カメラ、基地局の通信ログ、さらには微弱な電磁波の乱れ。街全体の情報網を支配下に置き、全力をもって捜索を開始する。

 

(見つけた……!)

 

 異常な高電圧の放電反応――電気スティックが使用された痕跡をキャッチした。現場へ急行したエイトマンは、地面に残された僅かなタイヤの摩擦痕と、空間に残留するデーモン博士特有のエネルギー波形を解析。

 由比ヶ浜結衣が拉致されたという確信が、彼の中の回路を怒りで焼き焦がす。

 

「……必ず、救い出す」

 

 割り出したデーモン博士の隠れ家、湾岸部の廃倉庫へと、八幡は再び極超音速の領域へと踏み込んだ。

 ――同時刻。デーモン博士の秘密研究所。

 無機質な手術台の上で、由比ヶ浜結衣は自由を奪われていた。擬態を剥がし「内部構造」を精密に調査するため、彼女は下着姿にまで剥かれ、無機質な照明に晒されている。

 

「くくく……ついに、すべての秘密が明らかになる。ヴァレリーが隠し持っていた『進化する兵器』の真髄、この私が手に入れてみせるぞ!」

 

 狂喜に瞳を輝かせるデーモン博士が、バチバチと音を立てる電磁メスを掲げた。

 だが、その鋭利な刃先が結衣の肌に触れようとしたその瞬間、彼女の意識が急速に浮上する。

 

「……っ、やだ、離して……!」

 

 驚異的な生存本能か、結衣は手術台から転げ落ちるようにして逃げ出そうとした。しかし、背後に控えていた巨大な鋼鉄の塊――修復された007が、その鉄腕で非情に彼女を抑え込む。

 

「往生際が悪いぞ、エイトマン! いや、今は由比ヶ浜結衣と呼ぶべきかな? どれほど抵抗しようとも、その身体に流れる『鋼鉄の血』は隠せまい!」

「違う……あたし、そんなのじゃない……っ!」

 

 デーモン博士が再び電磁メスを振り上げる。青白い放電が結衣の瞳を恐怖で染める。

 007の万力のような力に押さえつけられ、逃げ場はない。絶体絶命の窮地。結衣は、今ここにいるはずのない、来るはずのない少年の名前を、魂の底から叫んだ。

 

 

「助けて……ヒッキー!!」

 

 

 絶望の淵で、由比ヶ浜結衣は叫んだ。

 この場にいるはずのない、唯一心を許した少年の名前。だが、その叫びが空虚に消えるより早く、世界が物理的に粉砕された。

 

 

 ――ドォォォォォォン!!

 

 

 研究所の堅牢なコンクリート壁が、内側からの爆圧を受けたかのように弾け飛ぶ。

 舞い上がる土煙と、火花。その中から歩み寄る人影に、ナイト・デーモン博士は驚愕して叫んだ。

 

「な、何事だ! 誰だ貴様は!!」

 

煙が薄れるにつれ、そこに立つ「異形」の姿が露わになる。

 鈍い銀色の輝きを放つ、人間を模した鋼鉄の肉体。そして、擬態皮膚を纏った頭部に宿る、一つの貌。

 それは、凛とした気品と強い意志を湛えた「青年の顔」だった。

 

「……あ……」

 

 007の鉄腕に抑え込まれたまま、結衣は息を呑んだ。

 見たこともない青年だった。比企谷八幡ではない、どこか神話的な美しささえ感じさせる、無機質な救世主。けれど、その瞳に宿る静かな、それでいて燃え上がるような蒼い光を見た瞬間、結衣の心臓は別の意味で激しく脈打った。

 

「貴様……まさか、エイトマンか!? バカな、エイトマンの正体は比企谷八幡、あるいはこの少女ではなかったのか!」

 

 デーモン博士が狼狽する。彼がスパイ・ボールで見た「変身」の断片は、彼の論理回路を混乱させるに十分だった。目の前の「青年」が誰なのか、デーモンの精密な演算は今、致命的なエラーを吐き出している。

 

「……デーモン。貴様の科学に、一つだけ教えてやる」

 

 エイトマン――比企谷八幡の喉から発せられたのは、ノイズ混じりの、けれど鋼のように硬い電子音声だった。

 八幡は、下着姿で無残に押さえつけられた結衣の姿を一瞥し、自分の中の10万キロワットの出力が、怒りによって臨界点に達するのを感じた。

 

「人間の『必死の叫び』に、距離や論理は関係ない。……俺は、ただそれを聞きつけただけだ」

「おのれ、知った風なことを! 007、その小娘を握り潰せ! 真のエイトマンが誰であろうと、私の目の前で死ぬことに変わりはない!」

「Уничтожить(破壊)……」

 

 007の鉄指に力がこもる。結衣の華奢な体がミシミシと異音を立てる。

 その瞬間、八幡の視界から「速度」という概念が消失した。

 ――ッ。

 

 デーモン博士が瞬きを終えるより早く、エイトマンの姿が掻き消えた。

 マッハ15を経験した八幡にとって、この程度の距離はもはや「静止」に等しい。

 

 ドォォォォン!!

 

 直後、火花を散らして007の右腕が肘から先を消失させた。超高速振動を伴うエイトマンの手刀が、物理法則をあざ笑うかのように鋼鉄の装甲を断ち切ったのだ。

 

「……あ、……え……?」

 

 拘束から解かれ、床に落ちる結衣。その体を、エイトマンは残された左腕でそっと受け止めた。

 

「怪我はないか、由比ヶ浜結衣」

 

 青年――エイトマンは、自分を「比企谷八幡」と認識していない彼女を、静かに見下ろした。

 結衣は震える手で、彼の冷たい、けれど強固な腕に縋りつく。

 

「……あたしの名前……。どうして、助けてくれたの……?」

 

 完全な初対面の、名前も知らぬ鋼鉄の青年。

 けれど、彼が発する圧倒的な守護の意志と、その貌に宿る深い孤独。結衣は恐怖も忘れ、その謎めいた救世主の横顔を、ただ見つめることしかできなかった。

 

「……俺は、ただの通りすがりのエイトマンだ。下がっていろ、すぐに終わる」

 

 八幡は彼女を安全な物陰へと誘導し、再び007へと向き直った。

 由比ヶ浜結衣という「日常」を、狂気の実験台から救い出すための、鋼鉄と鋼鉄の決闘が今、幕を開ける。

 

「小癪な真似を……! 007、追加装備を起動せよ! その程度の小細工、物量で押し潰してやる!」

 

 デーモン博士の叫びに呼応し、007の重装甲の隙間から、無数の電磁レーザー砲塔が姿を現した。先ほどの「手刀」による切断を教訓に、デーモンは接近戦を放棄し、全方位射撃による殲滅を選択したのだ。

 

「消え去れ、エイトマン!」

 

 無数の銃口が赤く熱を帯び、唸りを上げる――その直前だった。

 エイトマンの姿が、陽炎のように揺らぎ、次の瞬間、十数体もの「分身」へと分裂した。

 

「なっ……何だと!? 幻覚か!?」

 

 否、それは幻覚ではない。極超音速の領域を経験した八幡の電子頭脳が導き出した、超高速移動の応用――残像移動(シャドー・ムーヴ)。あまりの速さに、光学センサーも人間の網膜も、彼の移動軌跡を「実体」として誤認しているのだ。

 

 007の低性能な電子頭脳では、十数体に及ぶエイトマンのどれを優先してロックオンすべきか判断できず、致命的な遅滞が発生する。その隙を見逃す八幡ではない。

 

「……終わりだ」

 

 四方八方から肉薄した分身たちが、一斉に手刀を振るう。

 007の電磁レーザー砲身が、まるで飴細工のように次々と斬り飛ばされていく。最後に分身たちの全エネルギーを乗せた一撃が、007の巨体を廃倉庫の壁ごと突き破り、夜の海へと吹き飛ばした。

 

「今だ、由比ヶ浜!」

 

 八幡は呆然とする結衣を左腕で抱きかかえ、そのまま倉庫の天井を蹴り破って夜空へと飛び出した。

 

「逃さぬ……絶対に逃さぬぞ! 行け、スパイ・ボール! 奴の電子回路を焼き尽くせ!」

 

 デーモン博士の執念が、最新鋭の攻撃型ドローン群を解き放った。高いステルス性と飛行性能を備えたスパイ・ボールは、エイトマンにしか視認できない不可視の電磁放射を浴びせながら、執拗に追跡してくる。

 

千葉の夜を彩る摩天楼の灯が、一筋の銀色の閃光によって切り裂かれていく。

 エイトマン――比企谷八幡は、由比ヶ浜結衣をその左腕で力強く抱きかかえたまま、ビルの壁面を垂直に駆け上がっていた。

 時速三千キロを支える高マンガン鋼(ハイマンガンスチール)の脚部が、強化ガラスを粉砕することなく、その反発力だけを推進力に変えていく。物理法則を無視したその機動は、地上から見上げれば、重力を忘れた流星が逆巻いているように見えただろう。

 

「……ひっ、……きゃああっ!」

 

 結衣は、あまりの速度と高度に、彼の胸元へ必死に縋り付いていた。

 下着姿のままの肌に触れるのは、温かな体温ではない。夜気よりもなお冷たく、けれど岩盤のように揺るぎない、鋼鉄の硬質感だ。

 

(……怖い。……なのに、どうして……)

 

 彼女の視界の中で、千葉ポートタワーやモノレールの軌道、幾千もの街灯りが、光の帯となって後方へ流れていく。

 凄まじい風圧が彼女の桃色の髪を激しくなびかせるが、エイトマンの体が風除けとなり、不思議と息苦しさはない。彼は機体表面の流体制御を微調整し、自分の腕の中にだけは、静謐な空間を作り出していた。

 

 ふと、結衣は顔を上げ、自分を抱く「青年」の横顔を見つめた。

 月明かりに照らされたその貌(かお)は、整いすぎていて、どこかこの世のモノとは思えないほどに美しい。八幡の本来の「腐った魚の目」とは対照的な、澄み切った蒼い光を宿す双眸。

 だが、その精悍な青年の表情には、自分を救うための「怒り」と、それ以上に深い、言葉にできないほどの「哀しみ」が刻まれているように見えた。

 

「……あの、エイトマン、さん?」

 

 風の音に掻き消されそうな、小さな声。

 エイトマン――八幡の聴覚センサーは、その微かな震えを確実に捉えていた。

 彼女の心拍数は140を超えている。自分への恐怖か、あるいは死の淵から生還した動揺か。その鼓動が、自分の無機質な装甲を通じて、電子頭脳の深淵へと響いてくる。

 

「……喋るな。舌を噛むぞ」

 

 ノイズ混じりの電子音声が、ぶっきらぼうに告げる。

 正体がバレるわけにはいかない。けれど、このお人好しで、泣き虫で、自分なんかのために一生懸命メールを打ってくる少女を、これ以上恐怖に晒したくはなかった。

 その時、後方から赤い光の点が幾つも迫る。

 デーモン博士が放った、執念のスパイ・ボール群だ。

 

「しつこいな……」

 

 八幡は空中で身を翻した。

 ビルの屋上の縁を蹴り、敢えてさらに高い空へと跳躍する。

 一瞬の無重力。

 千葉の夜景が眼下で宝石箱のように煌めく中、エイトマンは結衣を落とさないよう抱き直した。

 

 結衣の耳元で、彼の機械の心臓――超小型原子炉が、微かに唸りを上げる。

 それは心音の代わりに刻まれる、彼が「人」ではなく「モノ」であることの冷酷な証明。

 

(……ヒッキーなら、こんな時、なんて言うのかな)

 

 なぜだろう。見ず知らずの、この美しい青年に助けられているはずなのに、結衣の脳裏に浮かぶのは、部室でマックスコーヒーを啜る、あの捻くれ者の背中だった。

 

「……つかまってろ。加速するぞ」

 

 エイトマンの背中の排熱スリットから、青白いプラズマが噴き出す。

 10万キロワットの出力を全開にした銀色の救世主は、少女の祈りを乗せて、光り輝く摩天楼の迷宮へと深く潜り込んでいった。

しかし、やはり由比ヶ浜を抱えたままのエイトマンは、機動力を制限されていた。

 

 そして、とうとう一つの高出力照射が、エイトマンの脇腹を掠めた。

 

「ぐっ……ぁ……!」

 

 10万キロワットの出力を誇るエイトマンの体が、一瞬にして痺れ、機能を停止する。

 ビル街の屋上に墜落するように着地したエイトマン。膝をつき、動けなくなる彼に、結衣が悲鳴を上げて駆け寄った。

 

「……あ、あの……大丈夫!? 怪我、してるの……?」

「……腰の……ベルトの……ケースを……」

 

エイトマンは絞り出すような声で告げる。

 

「中の、液体を……俺の口に……」

 

 それは緊急用の小型マックスコーヒー。過負荷で焼き付いた論理回路を強制再起動させるための、最後の一手だ。

 

 スパイ・ボールがそれを阻止せんと、再び電磁放射を開始する。今度は、エイトマンを介抱しようとする結衣に狙いを定めて。

 だが――。

 

「え? ……なに、これ。あったかい……風?」

 

 結衣には何も起きなかった。ロボットの回路を焼き切るはずの電磁波は、生身の人間である彼女には、ただの微かな熱にしか感じられない。由比ヶ浜がロボットである可能性すら考慮したデーモン博士の慎重さが、ここでは致命的な裏目に出たのだ。

 結衣は震える手で、琥珀色の液体を青年の唇へと流し込んだ。

 

 ゴクッ、と喉が鳴る。

 

 次の瞬間、エイトマンの瞳に青い炎が再燃した。

 

「……感謝する、由比ヶ浜結衣」

 

 立ち上がったエイトマンが、右手を一閃させる。放たれたプラズマの弾丸が、滞空していたスパイ・ボールを木っ端微塵に粉砕した。

 だが、安堵する間もなく、廃ビルの縁を巨大な鉄の指が掴んだ。

 海から這い上がり、機能を全快させた007が、月を背に立ちはだかった。

 

「Уничтожить(破壊)……!!」

 

 007の咆哮。

 エイトマンは冷徹に敵を分析していた。これまでの戦闘データ。007はその自重ゆえに、水平方向の突進力は凄まじいが、垂直方向への跳躍力はエイトマンに及ばない。

 屋内で戦っていた時はその弱点を突けなかったが、今は遮るもののない、夜の空中だ。

 

「……賭けに出るぞ」

 

 エイトマンは結衣を物陰に伏せさせると、真っ向から007へと突き進んだ。

 激しい打ち合い。火花が飛び散り、屋上のコンクリートが砕け散る。

 そして、彼は不意に真上へと跳躍した。

 案の定、007の追随は僅かに遅い。

 エイトマンは空中に見えない「空気の壁」――超音速移動で圧縮された空気層を蹴り、反転。重力加速度を無視した、極限の急降下を開始する。

 

「超音速移動装置(スーパーソニック・ムーブメント・システム)、攻撃転用開始……!」

 

 それは加速装置を「移動」ではなく「衝撃」へと全振りする、禁忌の術式。

 自身の最高速度を拳の一点に収束させ、物理的な接触の直前に、凝縮された衝撃波を解き放つ。

 

「超音速衝撃波(スーパーソニック・ブーム)!!」

 

 ドォォォォォォォォン!!

 

 千葉の夜を切り裂くような轟音。

 エイトマンの全質量と全速力が注ぎ込まれたその一撃は、007の重装甲を紙細工のように貫通し、内部の電子頭脳と動力源を一瞬で粉砕した。

 007は言葉を発することもなく、無数の破片となって夜の闇へと散っていった。

 静寂が戻る。

 

 月明かりの下、右腕を失い、全身から蒸気を立ち昇らせる銀色の青年。

 由比ヶ浜結衣は、その神々しくも、どこか今にも消えてしまいそうな儚さを纏った背中を、ただ黙って見つめていた。

007が粉砕され、静寂が戻った廃ビルの屋上。

 エイトマンは、自分の腕の中で震える由比ヶ浜結衣を一度見下ろし、すぐさま視線を逸らした。

 

(……いかん。光学センサーが優秀すぎるのも考えものだ)

 

 下着姿のまま、露わになった彼女の白い肌。月光に照らされたその曲線は、エイトマンのメインプロセッサに不必要な負荷を与え、冷却用マックスコーヒーの残量を危うくさせる。

 夏休み目前の蒸し暑い夜。彼は無言のまま加速装置を起動し、数分後、近くのショッピングモールから調達してきた「夏の装い」――涼しげなノースリーブのブラウスと、デニムのショートパンツを彼女に差し出した。

 

「……とりあえず、それを。夜風で冷える」

 

 電子音声で短く告げ、彼女が着替える間、エイトマンは背を向けて摩天楼を監視した。

 やがて、夏らしい軽やかな格好に着替えた結衣が、少し照れくさそうに彼の隣へ歩み寄ってくる。

 

「……ありがと、エイトマンさん」

 

 エイトマンさん。

 彼は、その新しい呼ばれ方に奇妙なむず痒さを覚えた。

 それにしても、だ。たった今、狂気の科学者に拉致され、電磁メスで解体されそうになり、さらには巨大ロボットの死闘を目の当たりにしたというのに。

 

「あー……びっくりしたぁ。ホント、死ぬかと思ったし。でも、エイトマンさんのおかげで助かったよ、あたし」

 

 そう言って、えへへと力なく笑う彼女を見て、エイトマンは改めて思った。

 

(……こいつ、もしかして相当な大物なんじゃないのか?)

 

 並の人間なら一週間は不登校になるレベルのトラウマだ。それを、この短時間で「日常」の側に引き寄せて立ち直ろうとする彼女の精神力に、彼は少しだけ救われたような気がした。

 その後、エイトマンは極超音速移動を抑え、彼女の自宅近くの路地裏まで送り届けた。夏の夜の匂いと、隣を歩く彼女から微かに漂う石鹸の香りが、彼のセンサーを無意味に刺激する。

 

「あの! また、会える……かな?」

 

 別れ際、結衣が期待を込めた瞳で問いかけてくる。

 

「……縁があればな。早く帰れ、由比ヶ浜結衣」

 

 一度も振り返らず、彼は夜の闇へと溶け込んだ。

 

 

 ――由比ヶ浜の姿が見えなくなった頃。

 背後の闇から、乾いた拍手の音が響いた。

 

「素晴らしい。実に素晴らしい戦いだったよ、エイトマン」

 

 彼は即座に戦闘態勢をとった。そこには、敗北したはずのナイト・デーモン博士が、悠然と佇んでいた。

 

「……まだやるか、デーモン」

「いや、今回は私の完敗だ。素直に認めよう」

 

 デーモンは、自虐的で、それでいて清々しい笑みを浮かべていた。

 

「今まで、自分こそが地上最高の頭脳と技術力を誇っていると自負していた。だが、君の存在……その『進化する意志』が、私の積み上げてきたプライドを完膚なきまでに破壊してくれたよ。……いや、それが嬉しいのだ。感謝しているよ、エイトマン」

「……いい迷惑だ。俺は自分の日常を守りたいだけだ」

「くくく、それもまたいい。これからも君の活躍を見守らせてもらうよ。次は負けぬ。……私の科学が、君の『心』を凌駕するその時までな」

 

 デーモン博士の姿が、細かな光の粒子となって揺らぎ、消えていく。

 それは実体ではなく、最後の一機のスパイ・ボールが投影していた立体映像(ホログラム)だった。

 

「……厄介な奴に目を付けられたもんだ」

 

 エイトマンは深くため息を吐いた。

 首筋のスリットから、疲労の蒸気が微かに漏れ出す。

 右腕の接合部の軋みと、不足した冷却材の補給、そして明日から始まるであろう雪ノ下との「事情聴取」という名の毒舌攻撃を思い、彼は重い脚取りで、谷製作所へと向かった。

 

翌朝、総武高校は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

 

 正体不明の爆発、閃光、そして衝撃。廊下と教室の一部を完全に吹き飛ばしたその痕跡は、平和な日本の学園風景にはあまりに不釣り合いだった。警察の公式見解では「過激派によるテロ活動の可能性」が示唆され、クラスの連中はその話題で持ちきりだ。

 

 だが、その真実を知る者は校内に二人しかいない。

 

 一人は、鋼鉄の救世主としてその嵐の中にいた比企谷八幡。そしてもう一人は、その嵐の直撃を目の当たりにした雪ノ下雪乃だ。

 

(……胃に穴が空きそうだわ)

 

 八幡は、10万キロワットの出力を誇る自分の腹部をさすりながら、げんなりとした足取りで奉仕部の部室へ向かった。電子頭脳(ブレイン)に記録された昨夜の戦闘ログが、現実の光景と重なってノイズを走らせる。

 部室の扉を開けると、そこには既に雪ノ下がいた。

 

「……あら、おはよう。比企谷君。今日は一段と顔色が腐っているわね」

 

 いつもと変わらない、冷徹で美しい毒舌。彼女の瞳には、昨夜の「鋼鉄の青年」と、目の前の「腐った魚の目の少年」を結びつける気配は微塵もない。

 雪ノ下自身も警察からの事情聴取を受けていたはずだが、不自然なほどの速さで解放されたらしい。おそらく、彼女の『家』が裏で動いたのだろう。権力という名の不可視の装甲。それはある意味、エイトマンのハイマンガン・スチールよりも強固な壁だった。

 

「やっはろー!」

 

 間抜けな、それでいてどこか安心させる声と共に、由比ヶ浜結衣が勢いよく入ってきた。

 

「あー、学校大変だったみたいだね! テロとか怖すぎだし! ヒッキーもニュース見た?」

 

 屈託のない笑顔。昨夜、文字通り死の淵にいたはずの少女は、それを完全に他人事のように語っている。

 

(……お前も昨日、大変な目に遭っただろうが)

 

 八幡は内心で激しくツッコミを入れた。昨夜、自分の腕の中で震えていた「由比ヶ浜結衣」と、今の「ガハマさん」が同一人物であるとは到底信じがたい。

 

(やはりこいつは大物……いや、単なるアホなだけなんじゃないのか?)

 

 昨夜の評価を上方修正した自分を殴りたくなった。

 だが、由比ヶ浜は八幡と目が合うと、ふいっと可愛らしく顔を背けた。

 思い当たる節はある。昨日の件での、徹底的な拒絶と確執だ。

 

「……」

 

 気まずい沈黙。それを察した雪ノ下が、八幡を思い切り睨みつけ、その肘で彼の脇腹を鋭く突いた。

 

(……なんとかしなさい、この駄犬。と言っているのか。雪ノ下、お前の肘はエイトマンの装甲でも地味に響くんだが)

 

 八幡は、背けたままの由比ヶ浜の横顔を見つめた。

 彼女は知らない。自分が一度死んで、彼女の事故をきっかけにエイトマンとして蘇ったことを。

 

 あの日、俺が死んだのは彼女のせいだ。その事実が楔となって、どう接すればいいのか分からなくなっていた。由比ヶ浜との、あのおバカで心地いい関係が壊れるのが怖くて、俺は逃げた。嫌われて疎遠になればいいとさえ、本気で思っていた。

 

 だが、昨夜の泣いて怒った顔を見て、ようやく理解した。

 

 由比ヶ浜結衣は、比企谷八幡という捻くれ者に、泣いて怒るほど真剣に向き合ってくれていたのだ。

 真実を知らなくても、彼女は俺から目を背けなかった。ならば、俺も背けるわけにはいかない。

 八幡は深く息を吸い、意を決して由比ヶ浜に向き直った。

 

「……由比ヶ浜。……昨日は、悪かった。……ごめん」

 

 ぼそりとした、聞き取りづらい声。

 だが、その謝罪に、由比ヶ浜は弾かれたように顔を上げ、驚愕の表情を浮かべた。あの雪ノ下でさえ、持っていた文庫本を落としかけるほど呆気に取られている。

 

「……え、……ヒッキー、今、謝った?」

「……一度しか言わねえぞ。色々、間違ってた。……だから、最初からやり直させてくれ」

 

 鋼鉄の体を手に入れても、心は相変わらず錆びついたままだ。だが、錆びついているなら、何度でも磨き直せばいい。それが、谷博士が俺に託した「人間を思い込むための論理回路」の正解なのかもしれなかった。

 

「……うん! あたしも、ごめんね! ……じゃあ、仲直りのしるし、決まりだね!」

 

 由比ヶ浜が、いつもの、いや、それ以上の輝かしい笑顔を咲かせた。

 結局、仲直りの証として、三人で由比ヶ浜の誕生日プレゼントを選びに行くことになった。場所はららぽーと。

(誕生日プレゼントを本人と一緒に選ぶのはサプライズにならないのでは、というツッコミは墓まで持っていくことにする)

 

 また、騒がしい日々が始まる。

 八幡は小さくため息を吐きながらも、カレンダーの予定日を見て、フッと自嘲気味に、けれど確かに笑った。

 

 その約束の日。

 

 ららぽーとの人混みの中で、比企谷八幡の、そしてエイトマンの運命を決定的に変える「出会い」が待っているとも知らずに。

 




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