——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
いつもより長めに書きます
二月に入り、一連の事件に伴う休校期間はあっという間に過ぎ去った。
八幡は久しぶりに総武高校の教室へと登校していた。世界を揺るがす裏の戦い──サイボーグ部隊や魔王の脅威──が嘘のように、校内は今のところ何事もなく平和な時間が流れている。
とはいえ、教室の窓外に広がる冬の空気は未だに厳しく、室温との寒暖差を肌で感じながら、八幡は心の中で春の訪れを待ち遠しく思っていた。
そんな放課後、いつものように周囲の警戒を怠らず、ぼっち特有のステルス機能を発揮しながら帰り支度をしていると、クラスの騒がしい一角から戸部がいかにもわざとらしく声を張り上げた。
「っべー! なんか甘いもん食いたいわー。あれじゃね? チョコっとだけ食べたくね?」
主に海老名の方をチラチラと盗み見ながら、わざとらしいダジャレを放つ戸部。その意図──間近に迫ったバレンタインデーの催促──はあまりにも明白で、八幡は露骨なウザさを覚える。隣の三浦にいたっては、小さく舌打ちを漏らして「何言ってんだコイツ」と言わんばかりの冷ややかな視線を向け、完全に引き気味だった。
「ああ、そういえばもうすぐか」
周囲の微妙な空気を察した葉山隼人が、苦笑交じりに呟いた。
世間的にはもうすぐバレンタインデー。八幡にとっては例年、母親と小町以外からの配給が一切見込めない、システム上「完全無風」のイベントである。
「隼人くんはいいけどよー、俺らマジやばいから」
「やーでも、隼人くんバレンタインのチョコとか基本受け取らねぇしさ」
「マジで!? もったいねぇ!」
大和たちの切実な嘆きに戸部が返す。
学校中の女生徒から絶大な人気を誇る葉山にチョコが集中するのは、八幡の電子頭脳の演算を待つまでもなく確実だ。だが、彼は特定の誰かを作って周囲の『和』を乱さないため、すべてのチョコの受け取りを拒否するという徹底した防衛プロトコルを敷いている。その処世術は、これまでの付き合いで八幡もそれなりに理解していた。
そして、彼を誰よりも近くで見続けてきた三浦優美子にとっても、それは分かりきった、しかし寂しい現実なのだろう。三浦の表情が、一瞬だけ複雑に曇るのを八幡は見逃さなかった。
「あ、でも、よく知らない人からもらうのってなんか怖いもんね」
「……まあ手作りとかちょっと重いし? 受け取らないっていうのも分かるかも」
三浦の気まずい沈黙を察したのか、由比ヶ浜結衣がすかさずフォローを入れる。しかし、三浦が口にした『手作りは重い』という言葉が引っかかったのか、結衣は小首を傾げてぽつりと呟いた。
「……手作り、重いかなぁ」
「うーん、相手にもよるんじゃないの?」
「あ、俺とか全然イケるっつーか? むしろ手作りとかマジほしーわー!」
海老名の冷静な分析に、戸部が狂喜乱舞しながら食い気味に賛成する。もはや物乞いに近い執着ぶりに、見ていてむしろ清々しさすら覚えるほどだ。
「……そっか、そうだよね……って、いない!?」
結衣が同意を求めて見遣った時には、すでに八幡の姿は煙のように消え去っていた。
面倒なイベントの気配を察知して、さっさと奉仕部の部室へと退避したらしい。
「……もうっ」
せめて話が終わるまで待てばいいものを。どこまでもマイペースな八幡の単独行動に、結衣は露骨に膨れっ面になりながら、慌てて鞄を抱えてその後を追い始めるのだった。
──
一人、廊下を足早に歩く八幡の電子頭脳は、先ほど耳にした「手作り」という単語をトリガーに、過去のメモリーログを検索していた。
(手作り、か……。由比ヶ浜がクッキーを作りたいって奉仕部に転がり込んできたのも、もう一年前になるんだな)
雪ノ下雪乃という完璧超人をして「……これは何かしら?」と匙を投げさせた、あの砂利か黒炭を思わせる暗黒物質の錬成風景を思い出す。あの時、すべての試食を引き受けた八幡の口内センサーは、今でもそのジャリジャリとした塩梅をハッキリと記憶している。通常の生体組織なら発ガンしていてもおかしくない代物だった。
(あいつ、あの後から少しは料理にハマったとか言ってた気がするが……今でもサボらずにやってんのかね)
そんな他愛のないデータ処理を行っていると、背後からドン、と軽い衝撃が背中に加わった。
換装したばかりのニューボディ──CMCコンポジット仕様──のジャイロバランサーは一分のブレもなく衝撃を吸収したが、それが結衣のスクールバッグによるものだということは、振り返るまでもなく検知できていた。
「むー……なんで先行くし……」
「いや、一緒に行くとか一言も言ってないし……」
「う……」
(……なんかこのやり取り、前にも何回かやったな)
「最近、ヒッキーと一緒に部室行くこと多かったから……ついクセになってたみたい」
結衣は少しバツが悪そうに、けれど照れくさそうに視線を泳がせる。どうやら彼女の中で、放課後に八幡の隣を歩いて部室へ向かう一連の流れは、すでに完全に日常の既定値に組み込まれているらしかった。それはそれで、電子頭脳の隅が少しこそばゆい。
「葉山や三浦のところは、もういいのかよ」
「あーうん、もう平気みたい。……でも、なんかいいよねああいうの。今を大事にしてるっていうか、今が一番いいっていうか……」
結衣にとっては、三浦が見せる葉山へのいじらしい想いが、高校生活における「青春の輝き」そのものに見えたらしい。普段は派手にツンツンしている三浦が、時折見せる乙女な部分。そのギャップの初々しさには、八幡も内心で大いに同意するところだった。
「まぁ……俺も、『今が一番いい』って感覚は、なんとなく分かるぞ」
「お、ヒッキーにしては珍しくポジティブじゃん!」
「過去を振り返れば自分の黒歴史で悶絶して死にたくなるし、未来を考えればサイボーグだの魔王だのの鬱展開で死にたくなる。つまり、消去法として『消去法的に今が一番マシで幸福である』と論理的に証明できる」
「やっぱりネガティブだった! もう、すぐそういう余計なこと言う……」
呆れ果てて再び頬を膨らませる結衣。しかし、彼女が本当に伝えたかった「今が一番いい」の意味──すなわち、こうして八幡の隣で並んで歩いているこの瞬間の愛おしさに気づいたのか、彼女の頬は目に見えて赤く染まっていく。
その横顔を見た瞬間、八幡のメモリーの最深部から、あの夜の彼女との『キス』の光景が唐突にロードされた。
一瞬だけ、軽く触れるような、ノイズのような秒間の接触。結衣はあの直後、今と同じように顔をリンゴのように真っ赤にして店内に逃げ帰っていった。八幡もまた、外見上はマシナリーの鉄面皮を維持していたものの、内臓原子炉の温度が急上昇していたのは隠しようのない事実だった。
(あの日以来、互いに致命的な機能不全に陥らなかったのが唯一の救いだ。由比ヶ浜がいつも通り接してくれたおかげだな。俺にはそんな高等な対人エラー修正プロトコルは実装されてない)
表面上の関係に変化はないが、内面のコアデータは確実に書き換わっている。それに対して自分がどう応答(レスポンス)すべきか。エイトマンの高性能電子頭脳を以てしても、未だに最適解は弾き出せずにいた。
悶々としながら部室のドアを開けると、結衣がいつも通りの明るい声を響かせた。
「やっはろー!」
「先輩、おっそーい」
「こんにちは」
聞き慣れた雪乃の凛とした声と、もう一人、当たり前のように居座っている後輩の柔らかいトーンが返ってきた。
部室に足を踏み入れると、そこには少し不機嫌なオーラを周囲に撒き散らす雪乃と、そんな彼女と二人きりで待たされていたのか、一色いろはの姿があった。
「……だから、なんでお前がここにいるんだよ。生徒会っていつもそんなに暇なのか?」
「何か奉仕部に用件なのかと尋ねたのだけれど、あなたたちが来るまでここで待つと言ってるのよ」
雪乃が冷たい視線をいろはに注ぐ。
「ふぅ……雪乃先輩、わたしが入ってきた時は超いい笑顔だったんですけど、その後すぐにがっかりして。それからずっとあんな感じなんですけどぉ」
「一色さん?」
「は、はいぃ! すみませんっ!」
雪乃の威圧(プレッシャー)に圧され、慌てて首をすくめて謝罪するいろは。その様子は、まるで若い嫁をちくちくと理詰めでいびる姑の構図そのものであった。八幡は静かに思考の演算をシャットダウンした。
「と、ところで先輩! どうでもいい話なんですけど、先輩って甘いもの好きですか?」
「本当にどうでもいいな……」
これ以上の追及を免れるため、いろはが露骨に八幡へ話題のターゲットを振ってきた。大方、バレンタインが近いので、意中の葉山にチョコレートを渡すための情報収集か、あるいは算段でも立てに来たのだろう。
「一言言っておくが、葉山ならチョコだろうがなんだろうが出されたものは全部喜んで食うと思うぞ」
「……むー……、そういうんじゃないんですよ」
「なんでそんな『コイツつまらねえな』みたいな顔すんだよ」
「あ、でも隼人くんチョコ受け取らないって言ってたよ?」
結衣が先ほどの教室でのログを提供すると、いろはは「えー! なんでですかー?」と不満げに声をあげた。
「揉めるからに決まっているでしょう。小学校の頃……大体バレンタインの翌日は、教室の雰囲気がギスギスしていたわ」
「あー……」
雪乃が忌々しそうに顔を背け、遠い過去の記憶を苦々しく振り返る。葉山のことだ、幼少期からモテ散らかしていたのは確実。そうなれば当然、女子の間でドス黒い牽制や嫉妬の歪み合いが発生したことは想像に難くない。さらに、彼の幼馴染であった雪乃への逆恨みやとばっちりもあったのだろう。雪乃にとってバレンタインとは、美しい青春ではなく、一種の災害ログなのだ。
「じゃあ、この際先輩でもいいです。──って、先輩は信じられないくらいの超絶甘党でしたよね?」
「ん、まあな。俺はマックスコーヒー基準だから、甘けりゃ大体なんでも受け付ける」
「あれ? なんでいろはちゃん、ヒッキーが甘いもの大好きだって知ってるの?」
結衣が首を傾げると、いろはが「あっ」と口を押さえた。
以前、生徒会選挙の打ち合わせの際、いろはと共にサイゼリヤで食事をした事がある。その時、八幡が熱々のフォッカチオに大量のポーションシロップをドバドバと注ぎ、ドリンクバーで作った特製『マックスコーヒーもどき』をこれでもかと付けて摂取する奇行を目撃していたのだ。
だが、その事実を耳にした瞬間、いろはの向かいに座る雪乃から、先ほどとは比較にならないほど真っ黒な重力波(オーラ)が噴き出した。
「そうね。比企谷くんの糖分に対する異常なまでの狂信は私もよく知っているわ。──でも、一色さん? なぜあなたがそれを把握しているのかしら?」
「そ、それはですねー……」
助けを求めるようにチラリと八幡に視線を向けるいろは。しかし、肝心の先輩は一瞬で首のサーボモーターを駆動させ、全力で視線を天井のシミへと逸らしていた。危機に際して後輩をあっさりと囮にする、実に合理的な先輩の鑑であった。
「先輩ひどーい! 前に一緒にごはん食べたじゃないですかー!」
「知らん、忘れた。なんのことですか。我が電子頭脳にそんな非効率なログは残っていない」
「完全に覚えてるやつだこれー!」
道連れを謀る後輩の猛抗議を全力でトボける八幡だったが、彼のエイトマンとしての完全記憶能力を知っている結衣からは白い目が突き刺さっていた。
「……まあ、いいわ。一色さんと比企谷くんの『処断』は後でじっくり執行するとして」
雪乃の眼鏡の奥の瞳が妖しく光る。その恐ろしさに、八幡の胃の代わりにある超小型原子炉がキリキリと異常発熱を起こす。
「もしかしてあなた、自分でチョコレートを作るつもりなの?」
「あ、そ、そうなんですよー! わたし、実はこれでもお菓子作りは得意な方で。今回は義理チョコの参考にしようかなって思いまして」
処断の恐怖を脇に退けつつ、ようやく持ち込まれた「依頼」の端緒が見えたことに、八幡は心の中で小さく安堵のシステムチェックを行うのだった。
「あー……先輩ってもしかして、チョコもらったことない系ですかぁ?」
ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべるいろはに対し、八幡はフンと鼻を鳴らした。
「ニヤニヤしながら聞いてくんじゃねぇよ。俺だってチョコくらい毎年もらってるわ」
その言葉に、部室内の女性陣の動きが一斉に止まる。
「えっ」
「ほんと!? ヒッキーほんとに毎年もらえてるの!?」
本気で驚いた声をあげるいろはに続き結衣も椅子を鳴らして詰め寄ってくる。
「比企谷くん、見苦しい嘘はつくものではないと思うのだけれど。後で自分が惨めな思いをするだけよ?」
さらに雪乃までもが、まるで奇怪な未確認生物でも見るような目を向けてきた。
「お前ら、人が奇跡でも起こしたかのような目で見るのやめろ。失礼だろ。俺には『小町』という絶対的な聖域が存在するのだ。そこらへんの打算まみれの義理チョコなんぞ、小町の愛の前には足元にも及ばん」
ふふんと得意げに胸を張る八幡に、いろはが呆れたように呟く。
「小町……? ああ、お米ちゃんのことですか」
「お米じゃねぇよ。秋田小町は確かに美味いが致命的に間違ってる」
「先輩に似ずにかわいい顔の子ですよねー。うわやだ、前からうすうす感じてたけど、やっぱり先輩ってガチのシスコンじゃないですか」
「ばっか、ちげぇよ。俺はシスコンじゃねぇ。家族思いはただの論理的防衛本能だ」
「比企谷くん、今更その見え透いた否定はあまりにも見苦しいし、論理的でもないわ」
雪乃の容赦ないツッコミに続き、いろはがさらに意地悪く踏み込んでくる。
「じゃあやっぱり、先輩って年下好きなんですか?」
「勘違いするな。俺は年上とか年下とかそういう次元じゃなくて、老若男女問わず大体の人間がシステム的に苦手だ」
「胸張って言うことじゃないよヒッキー……」
結衣が心底困ったように苦笑する。すると、いろはが急に声のトーンを落とし、胸元にそっと手を当てながら、潤んだ瞳の上目遣いで八幡を見つめてきた。
「──じゃあ、先輩。年下の女の子は、……嫌いですか?」
破壊力抜群のあざといアプローチ。しかし、八幡の音声出力はコンマ数秒の猶予もなく即答のログを弾き出した。
「言っとくけど、お前はそもそも年齢的に年下には見えねぇんだよな」
「即答!?」
「せめて考える時間くらいあってもいいじゃないですかー!?」
あまりにも冷徹な塩対応に、いろはが絶叫する。その一切の容赦のなさに、結衣までが「がびーん」といった表情で硬直していた。
八幡は二人の反応などどこ吹く風といった様子で、淡々とロジックを続けた。
「あと俺は、妹という属性であれば年下だろうが年上だろうが関係なく無条件で好きだ」
「シスコンとか年下好きよりもっと重症だよそれ!」
結衣の鋭いツッコミを綺麗にスルーし、八幡はいろはに視線を戻す。
「だいたい、お前って四月生まれだろ? 俺との差は実質八ヶ月くらいじゃん。データ上、年下って感じがしない」
いろはの誕生日について言及する八幡。
実のところ、八幡は高校入学直後の事故で一度死に、エイトマンとしてマシナリー化されているため、肉体年齢は十五歳で凍結されている。つまり戸籍上は先輩でも、感覚で言えばいろはより年下だったりする
しかしそれを聞いたいろはは、なぜかハッとしたような顔で完全にフリーズしていた。
「……なんだよ」
「あ、いえ……。ちょっと意外だったので」
「なにが」
「なんでいろはちゃんの誕生日知ってるの怖っ! ヒッキーキモい! いやマジでキモい」
「キモい言うな。つかお前らも一緒に、前にコイツの誕生日直接聞いたろ!?」
八幡が必死に弁明するが、その言葉が終わるか終わらないかのうちに、対面に座る雪乃からどす黒い微笑みと共に重力波が放たれた。
「随分と、細かいことまで詳しく記憶しているのね……」
「雪ノ下さん? その顔怖いからやめてね? 俺のメインプロセッサが過負荷で強制シャットダウンしそうになるから」
「比企谷くん?」
「すいませんでした、俺が悪かったです……」
「うわぁ、先輩折れるの秒速ですねー」
いろはがここぞとばかりにクスクスと勝ち誇ったように笑う。八幡は忌々しげに溜息を吐いた。
「これも全部、一色が自分で言った過去のデータをあざとく無駄アピールに利用しようとしたのが悪い」
「無駄ですと!? む、無駄じゃないですよー! ていうかあざとくないですし! むしろ先輩の方があざといですし!」
「俺は一度覚えたデータは忘れない仕様なだけだ」
賑やかな罵り合いが響く奉仕部。不謹慎な事件による休校が明けたばかりの四人にとって、この他愛のない空気こそが、何よりも取り戻したかった日常のデータそのものだった。
──コンコン。
その心地よい静穏を遮るように、部室のドアへ鋭いノックの音が鳴り響いた。
──
「……なんていうの? その、手作りチョコ、とかいうのを、作ってみたいんだけど……」
「はあ……作れば? 勝手に」
「あ?」
「すいませんでした、お作りになればよろしいかと思います……」
「先輩……本当にカッコ悪いです……」
現れた来訪者は、先月に続き三浦優美子、そして海老名姫菜の二人だった。
三浦の瞳に宿った炎のような攻撃的殺意に一瞬で屈服した八幡を見て、いろはは(もしかして、いつも私がおちょくられてるのって、先輩が私をナメくさってるからでは……?)と、己の立ち位置に対する不穏な演算にたどり着きかけていた。
「話戻すけど……。来年はもう受験だし、最後っていうか。……だから、まぁ、一回くらいなら試しにやってみてもいいかなーって、思っただけだし」
三浦がふいと顔を背けながら、いかにもツンとした態度で呟く。
「今時チョコなんて、スマホの料理アプリ開けば一瞬で作れるだろが……」
「ヒキオ、何か言った?」
「なんでもありません、お目が高いと褒め称えただけです」
完全にステルスオーディオ仕様の呟きだったはずだが、バッチリ聴かれている。高性能集音センサー搭載を疑うレベルで、女子の地獄耳は恐ろしい。これでは離れた席に座っている意味がまるでない。
「優美子、前は手作りって重いって言ってたじゃん」
「そ、それは……それとこれとは別だし!」
「まぁまぁいいじゃん。いいと思うんだよ、手作り」
眼鏡の奥を妖しく光らせる海老名を見て、八幡は状況を瞬時に過去ログと照合した。
(海老名が同行している時点で、これは『仲間内の和を乱したくない』という防衛案件だな……)
葉山に対して三浦がチョコを渡せば、葉山はルール通り拒否する。その結果、彼らのグループの『今』が壊れるかもしれない。海老名は、その歪みを回避するための最適解を奉仕部に求めにきたのだ。
「そうだ、ヒキタニくんも隼人くんと『友チョコ』とかすればいいじゃん! 男子同士の友情ならセーフだよ! むしろ大好物だよ!」
「いや、絶対にしないからな? ていうかなにがセーフだ。俺の倫理システム的にはスリーアウトで試合終了なんだが」
ぐ腐腐と怪しく笑う海老名に、八幡は引きつった顔で応答した。野郎同士でチョコをパカッと割り合うなど、男子校の闇深きディストピアにしか聞こえず、冗談でも笑えなかった。
「そうなんですよねー。葉山先輩が受け取らないって公言してる以上、普通に渡すのは難しいんですよねー」
「ほんとそれ。マジでそれな」
いろはの言葉に、三浦が深く同意する。珍しくこの二人の意見が完全に一致した瞬間だった。
だが、互いにその事実に気づいた瞬間、一色いろはと三浦優美子の間で、バチバチと目に見えるほどの凄まじい火花混じりの視線が交錯した。八幡の電子頭脳が「至近距離での高電圧の危険」を察知し、思わず感電の恐怖に身震いする。
恐るべき女子の戦いが幕を開けようとしていた。
「あ! じゃあわたしが女子の代表として一人で葉山先輩にチョコあげるとかぁ。生徒会長ですしぃ、そういうイベントの統括って名目なら角も立たないですよねー?」
極めて良い笑顔、かつ脳内で緻密に計算され尽くしたあざといトーンで挑発を放ついろは。対する三浦は、眉間を限界まで寄せてお決まりの超低音ボイスを返した。
「は? 意味わかんないんだけど。生徒会長ってそんな特権あんの?」
(嫌だなあ……怖いなあ……女子の戦いって、精神的電子回路への負荷デカいんだよな……)
八幡が視覚センサーの同期を切り、思考放棄のスタンバイ状態に入ろうとした、その時。部室の入り口の隙間から、こちらを窺う不審な人影をセンサーが捉えた。
「!」
(──川崎……?)
目が合った瞬間、マッハの反応速度でサッと壁の向こうに隠れる川崎沙希。なぜ指名手配犯のように逃げ隠れたのかは不明だが、なにも視線が交錯したくらいでそこまで露骨に退避しなくてもいいだろうにと、八幡は首を傾げた。
──
「──それで……何か御用かしら?」
雪乃の静かな、だが拒絶のない質問が部室に響く。
そこには結局結衣たちに捕獲され、三浦や海老名と並んで長机の前に座らされた沙希の姿があった。
「あ、えっと……」
口ごもり、指先をモジモジと動かして言いづらそうにする沙希。普段のサバサバした、ヤンキー一歩手前の彼女らしからぬ様子に、部室内の気流が一段と奇妙なものに変わっていく。
「つーか、あーしの話、まだ終わってないんですけど? 後から来て何なわけ?」
長机の先客である三浦が、イライラを隠そうともせず不機嫌な声を出す。
「……は? あんたお茶飲んでるだけじゃん」
沙希の瞳にも一瞬で鋭い光が宿り、即座に言い返した。元々クラスの派手グループの頂点にいる三浦と、一匹狼を貫く沙希だ。馬が合わない者同士、顔を合わせれば本能的に張り合ってしまうのだろう。
「まあまあ、サキサキもなんか話あったんでしょ? とりあえず話してみそ? 私でよければなんでも聞くよー」
「手伝うのは私たち奉仕部なのだけれど……」
ちゃっかりカウンセラー気取りで割って入る海老名に、雪乃が呆れた声を出す。その隙に、沙希は耳まで真っ赤にしながら、蚊の鳴くような声でようやく本題を切り出した。
「その……チョコのこと、なんだけど」
目を伏せがちにして頬を赤く染めるその姿は、普段の彼女からは到底想像できないほどしおらしかった。
「ふっ」
だが、その姿を三浦が鼻で笑った瞬間、部室の全空気が物理的に凍りついた。
「何? あんたも誰かにあげんの? ウケるんだけど」
「……あ?」
「は?」
(ちょっとマジでやめてくんないかな……一色といい君たちといい、ケンカならグラウンドとか外でやってよね……。俺の装甲、対人ギスギス用の耐性コーティングされてないから……)
一触即発、臨界点直前の空気が長机を支配する。八幡はマグカップの紅茶をズズズと啜りながら、心の中で世界平和を切実に願った。
互いに火花を散らして睨み合う二人だったが、何を思ったのか、沙希の方がふっと冷めた息を吐き、憐れむような蔑みの表情を三浦に向けた。
「……そういうあんたも、相変わらず進歩のないことやってるじゃない」
「は? 何を……」
「そういうの、世間じゃ『無駄な努力』って言うんだよ」
ピシッと、ガラスがひび割れるような幻聴が聞こえた。
(容赦ねぇな、川崎……。そこまで言うか……。直球ストレートの核ミサイルかよ……)
八幡の額の内部フレームから冷や汗が吹き出そうだった。沙希の辛辣な、しかし「葉山は受け取らない」「三浦の気持ちは伝わらない」という現状の的を射すぎている物言いを理解した瞬間、三浦の顔がみるみるうちに屈辱と怒りで紅潮していく。
「──それで、チョコレートがどうかしたのかしら?」
「う……」
「あ……」
これ以上ここで騒ぐなら今すぐ強制排除する、とでも言いたげな、雪ノ下雪乃の絶対零度の声の槍が横から飛んできた。
今にも立ち上がって胸ぐらを掴みそうな三浦と、どこからでも来いと言わんばかりに顎を引く沙希だったが、その氷の視線に射すくめられ、なんとかその場はギリギリで収まった。結衣といろはは涙目になりながらガタガタと震えており、八幡も生きた心地がしなかった。
「……あ、うん。妹が、その、チョコ作ってみたいんだって。何か小さい子でも、簡単にできるやつってない?」
「小さい子でもできるもの、ね……」
「手伝うのはいいけれど、川崎さんって家事全般、特にお料理は得意だったはずではないかしら?」
雪乃の尤もな指摘に、沙希はふいと視線を逸らし、再び言葉を濁した。
「……その、あたしが作れるものなんか地味だから。見た目が渋いっていうか……あんま小さい子が喜びそうなデコレーションとか、そういうのよく分かんないし」
「ちなみに、川崎さんの得意料理を参考までに聞いてもいいかしら?」
雪乃の純粋な質問に、沙希は耳まで真っ赤にしながら、さらに小さな声で口籠る。
「……さ、さと……」
「さと?」
結衣がオウム返しに尋ねると、沙希は観念したように吐き出した。
「……里芋の煮っ転がし」
(……地味だ……。圧倒的に茶色い……)
おそらく八幡だけでなく、その場にいる全員の思考回路(プロセッサ)が同じ結論を出しただろう。家庭的という意味ではこれ以上ないほど最高なのだが、バレンタインの華やかさとは最も対極にある和の惣菜。中々侮れない女子力である。
「い、いいんじゃない!? ほら、あたし全然料理できないから、そういう渋いのがパパッと作れるのって本当にすごいと思う! ね、ゆきのん!」
結衣が必死に場を盛り上げようと雪乃にパスを回す。
「……そうね。煮っ転がしと『ねっころがし』はちょっと語感が似ていて、なんだか非常に愛らしくて素晴らしい料理だと思うわ」
「フォローの仕方がおかしい!?」
相変わらず猫の概念が脳内に入り込むと急に重大なバグ(天然ボケ)を起こす雪乃に、結衣のツッコミが炸裂する。とりあえず、八幡がコホンと咳払いをして話を軌道修正した。
「川崎さんに基礎的な調理技術があるのなら、メニューの提案と見栄えの工夫さえこちらで用意できれば問題ないかしらね」
「あ、あたしもそれ知りたい! 小さい子ができるなら、あたしにもできるかもしれないし!」
「……それはどうかしら。難易度の次元が違うと思うのだけれど」
「ゆきのん正直すぎ!?」
暗に「結衣には無理だ」と切り捨てる雪乃。だが、過去に散々彼女のダークマタークッキーの被害に遭い、口内をジャリジャリにされてきた八幡からすれば、雪乃の判断は至極真っ当なリスクマネジメントだった。
「っつーか、あーしの話どこいったわけ? あーしも可愛い系のチョコの作り方なら、ちょっと興味あるし……」
「そうそう! 私たちも混ぜて混ぜて! みんなで作った方がアイディアも広がるし!」
「あ、じゃあ、わたしも今後の参考として、ぜひ混ぜていただきたいです」
先客だった三浦、海老名、そしていろはまでもが怒涛の勢いで話に混ざってくる。動機はそれぞれ義理、本命、家族愛とバラバラだが、最終的な主題はすべて「チョコ作り」に集束していく。こうまで一気に奉仕部へ依頼人が増えるとは、八幡も予想していなかった。
「私は別に構わないけれど……どうかしら、比企谷くん」
雪乃が判断を委ねるように、長机の端に座る八幡に視線を向けた。
「ん……いいんじゃねぇの。とりあえず、お前らの要望に合わせてこっちでいくつか考えとくってことで。実際に手を動かして作るのは自分らなんだしな」
「そうね、分かったわ。それぞれのスキルと目的に合わせたメニューを適宜まとめるから、少し時間を貰えるかしら」
雪乃の言葉に女子一同がそれぞれ頷き、レシピの選定を奉仕部に委ねる形で、その場は一旦解散という流れになった。嵐のような賑やかさが去った部室で、八幡はどっと押し寄せた精神的疲労をリセットするため、冷めかけた紅茶を深く飲み干すのだった。
三浦たちが去った部室には、いつもの奉仕部の面々と、なぜか当然のようにまだ居座っているいろはが残されていた。
「けれど、少し困ったわね……」
雪乃が小さく眉をひそめて呟くと、いろはが我が物顔で応じる。
「そうですねー。三浦先輩がちょっと本気を出しつつあるのは、対抗馬として若干困りものですー」
「私が言いたかったのは依頼の『数』と、それぞれの目的がバラバラなことなのだけれど」
ぶっちゃけて言えば、いろはと三浦の女の張り合いなど心底どうでもいい雪乃が、呆れたように釘を刺す。
「……でも、なんか隼人くんの気持ちも、分かるな……」
長机の端で、結衣がポツリと寂しげに零した。
「なんていうか、いつも色んなことに気を回してるから、かな。誰かを特別にできないっていうか……」
周囲の顔色や『場の空気』を敏感に察知してしまう結衣だからこそ、同じように集団の和を維持するために自らを縛り続ける葉山の苦悩が、痛いほど理解できるのだろう。自分を変えるというのは、そう簡単にできることではない。
だが、八幡は知っている。この一年、数々の事件や葛藤を経て、結衣がどれほど「自分を出すこと」ができるようになったかを。それは間違いなく彼女の成長だった。
「……そうだな。でも、お前は葉山よりかはだいぶ図々しくなったと思うぞ」
「ず、図々しい!?」
結衣がショックを受けたように目を見開く。
「先輩……それ、一応訊きますけど褒めてるんですかー?」
「少なくとも、女子を形容する時に使う言葉ではないわね」
「そうだよね!? もう、ヒッキーのバカ!」
八幡の意地の悪い──しかし彼なりの最大の賛辞である──指摘に、結衣がプンスカと怒って拳を小さく振り回す。そんな結衣を尻目に、八幡は人差し指でトントンと机を叩きながら本題を切り出した。
「由比ヶ浜の図々しさの推移は置いておくとしてだ。葉山はあれで極めて律儀で生真面目な男だ。つまり、『建前』とか『決まり事』を最初からセッティングしてやれば、あいつはそのルールに素直に従う。従わざるを得ない」
「……なるほど。つまり、ちゃんとした言い訳(エクスキューズ)を用意してあげればいい、ということね?」
八幡の言わんとする論理を瞬時に理解した雪乃が、納得の笑みを浮かべて頷いた。いまいち処理が追いつかない結衣といろはが、揃って小首を傾げる。
「バレンタインという個人の感情をぶつける名目ではなく、何か別の、大義名分のあるオープンなイベントを計画してしまえば、周囲の目を気にせず自然にチョコレートを渡せるということよ」
「……あ、そっか! 優美子たちや沙希ちゃんも全員巻き込んで、一緒に作っちゃえばいいんだ!」
「いいじゃないですかそれー! お料理教室みたいなイベントを建前として生徒会共共催で立ち上げて! それで色んな人が雪乃先輩に教えてもらうって形にすれば、ただの講習会ですから葉山先輩も断れません!」
「ええ、私に教えられることであれば、それで構わないけれど」
そうと決まれば話は早い。いろはは即座にスマホを取り出し、驚異的な指捌きで生徒会役員たちへの連絡をし始めた。この圧倒的なフットワークの軽さと高い行動力だけは、八幡も素直に高評価をつけている部分だった。
「ねぇねぇゆきのん! あたしは何を手伝えばいい?」
結衣が目を輝かせて身を乗り出す。
「……あなたの気持ちだけで十分よ」
「信頼ゼロ!?」
にっこりと美しい完全な笑顔でお断りされてしまった結衣。
「じゃあ、ヒッキーは……どうする?」
結衣に話を振られ、八幡はうーんと首をひねった。
「俺か? さあな……どうしよっかな」
自分は自他共に認める限界突破の甘党だ。マックスコーヒーで鍛え上げられた舌ゆえ、糖分の配合や味には人一倍うるさい自覚がある。何より、チョコレートというスイーツの作成難易度は、温度管理一つとっても非常に繊細だ。
そこまで思考を巡らせた時、雪乃がフッと柔らかく微笑みながら、八幡をまっすぐに見つめてきた。
「構わないわ」
「あん?」
「また、あの時のように──私たちが作ったものの味見をして、感想を教えてくれればいいわ」
「!」
一年前、あのクッキー作りの時も、八幡はすべての試食を口内センサーで受け止め、不器用に評価を下した。あの頃の奉仕部は、互いの距離を計りかねて、どこかギクシャクとした壊れそうな関係だった。だが、今は違う。
八幡は口元を少しだけ緩め、自身のタスクを登録した。
「──任せろ。味見なら俺の得意分野だ。どんだけでも付き合ってやるよ」
もう一度、あの時と同じように味見役として彼女たちの前に立つ。それは、
過去のログを塗り替えるような、少しだけ胸が躍る試みだった。
「というわけで! 細かい役所への申請や場所の手配はわたしがやっておくので、お料理教室よろしくです!」
ビシッと敬礼のポーズを決めるいろは。どうやら、奉仕部と生徒会の共同プロジェクトのタイムラインは完全に確定したようだ。
こうして、バレンタインの悲劇を回避し、それぞれの想いを包み込むための「お菓子教室」の開催が、正式に決定されたのだった。