——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
バレンタインイベント編の続きです。連続10,000文字超えは中々骨が折れました……。
もうすぐ2期も終わりです。
数日後、バレンタインお菓子教室の会場となるコミュニティセンター。
いろはがまたどこかで致命的なミスをやらかして泣きついてくるのではないかと身構えていた八幡だったが、予想に反して彼女は生徒会でソリッドに仕事をこなしたらしい。奉仕部は特段のトラブルシューティングをすることもなく、極めて穏やかに当日を迎えていた。
「いやー良かったよ! 前回のクリスマスイベントがリアクションも含めて非常に高水準でバズってさ。今後も彼らと強固なパートナーシップを築き、持続可能なアライアンス活動を構築していきたいと思っていたところに今回のオファーだったからね、実にタイムリーさ」
「ですねー」
調理室の前で、気のない返事をするいろは。その話し相手は、海浜総合高校の生徒会長を務める玉縄だった。かつてカタカナ混じりの意識高い系ディベートで、八幡の言語処理能力(メインプロセッサ)をショート寸前にまで追い込んだ強敵である。
そんな玉縄が、ちょうどセンターに到着した奉仕部の面々に気づいた。
「──あっ!?」
「……どうも」
八幡の姿を認めた瞬間、玉縄が素っ頓狂な声をあげる。イベントの会議際、彼のMacBookに侵入した謎の凶悪なマルウェアを、エイトマンである八幡がサイバー空間で直接パージして救った経緯がある。彼にとって八幡は一種の恩人であり、巨大な貸しを作りっぱなしの相手なのだ。さらに言えば、過去のイベント企画の際には雪乃にこっ酷くやり込められた記憶もある。
「や、やあ、君たちも来ていたのか……」
「あー……言ってませんでしたっけ?」
「うーん、僕のメールベースのやり取りでは、そんなログ(既定路線)は無かった気がするけれど……」
間違いなく、いろはが予算調達のために意図的に伏せていたのだろう。八幡のジト目に気づいたいろはは、てへっと可愛らしく舌を出してウインクしてみせた。そのあざとさに、八幡のコアデータが一瞬「可愛いなコイツ」と処理してしまう。
「比企谷くん。クリスマスイベントの時はすまなかったね。あれ以来、いつか君とコンタクトを取りたいと思ってはいたんだ」
「あ、いや。……こっちこそ、その節はどーも」
適当に濁すものの、やはり玉縄は苦手なフォーマットの人間だった。
「……あれ以来、僕は自分のシステムの脆弱性を痛いほど理解したからね。せっかくだからサイバーセキュリティの資格を取るため、色々勉強を始めているんだよ。君の迅速な脅威対処を目の前で見せつけられた影響さ」
意外にも玉縄は、あれを機に本物のセキュリティ勉強を始めていたらしい。セキュリティ関係の資格はレベル3以上から本格的になり、資金もそれなりにかかる傾向にあるが、いい意味で彼の「意識の高さ」が実務的な防衛プロトコルへと向かったようだ。
「会長、そろそろ始めたいんだけど」
「ああ。──それじゃあ、そろそろ行くよ」
生徒会メンバーの折本かおりに促され、玉縄は自校の生徒会スペースへと戻っていく。その背中は、以前の見掛け倒しだけだった頃よりは、多少なりとも頼れるリーダーとしてアップデートされているように見えた。
「これって地元の製菓業者とのビジネスチャンスでもあるよね。クラウドファンディングで資金集めて全国展開していくスキームもありかもしれない」
「それアグリーだね」
「それある!」
(……いや、やっぱり何言ってるか全然わかんねーわ。バグだろこれ)
成長したと思ったのは気のせいだったかと、八幡は処理を諦め、そっと視線を外した。
──
調理室への移動中、八幡は隣を歩くいろはに声を潜めて尋ねた。
「お前、海浜総合の連中まで巻き込んだのかよ」
「合同イベントって形にして向こうの学校からも予算を引っ張って来れるなら、ウチの生徒会としてはベストじゃないですかー。ついでにわたし個人の義理チョコ代も浮いてラッキー、みたいな!」
「……したたかだな、お前。いや、裏の政治力としては素直に感心するわ。才能あるんじゃねぇの? 詐欺師とか、組織犯罪のフィクサーの」
「詐欺師って酷くないですか!?」
「その物騒な例えはどうかと思うけれど……思いのほか優秀なのは確かね、一色さんは」
八幡のあんまりな毒舌に、雪乃が半ば同意するように肩をすくめる。実際、自分の利になるように他組織を転がす手腕は目を見張るものがある。生徒会長に就任したことで、いろはに元々備わっていた「他人をパペットにする才能」が急速に最適化されているようだった。
そして、いよいよイベントの開始時刻になろうとしたその時。調理室の重い防音ドアが、勢いよく開け放たれた。
「ひゃっはろー!」
場にそぐわない、あまりにも聞き慣れた、そして奉仕部にとって最も警戒すべき高エネルギー反応。なぜこの人がここにいるのか──その疑問は、八幡、雪乃、結衣の脳内プロセッサに同時に浮かび上がった。
「──姉さん」
雪乃のトーンが一瞬で氷点下に凍りつく。
「ごめーん、遅れちゃった!」
雪ノ下陽乃は相変わらず完璧に美しく、そして底知れない朗らかな態度で、実の妹にパチンとウインクを投げかけた。
「というわけで! 今日のイベントの特別講師としてお呼びしました、はるさん先輩でーす!」
「どーもー、はるさん先輩でーす。チョコのテンパリングなら任せてね?」
いろはの能天気な紹介に、陽乃がノリノリで手を振る。
(一色……お前、なんでよりによってこの人呼び込んじゃったのよ……)
これまでのことを鑑みても、この人が絡んで面白半分の介入を受ければ、せっかくのイベントがカオスになるのは確実だった。八幡は深刻なシステムエラーの予感に襲われ、ただ静かに、調理室の無機質な天井を仰ぎ見るしかなかった。
陽乃の紹介を終えて満足げにニコニコしているいろはの元へ、八幡はすかさず足早に赴いた。
「なあ一色さぁ……なんでわざわざ、あの人を呼んじゃったわけ?」
「えー、だってはるさん先輩、超百戦錬磨っぽくて頼りになるじゃないですかー」
確かに雪ノ下陽乃ほどパーフェクトで高スペックな人間はそうそういない。大学生でありながら頻繁に総武高校に顔を出し、生徒会の無茶振りにも乗ってくれるとなれば、いろはの政治的観点からすればこれ以上ないリソースなのだろう。その理屈は理解できるのだが、やはり釈然としない防衛アラートが脳内で鳴り響く。
「……私一人で、指導の処理能力としては十分足りていたのだけれどね」
雪乃にいたっては「またか」といった風で、やれやれと肩を落として首を振っていた。
──そうして始まった、奉仕部・生徒会合同のお菓子教室。
雪乃はさっそく、結衣と三浦が陣取る調理台の指導に回っていた。サクサクと、ややぎこちない手つきで板チョコを包丁で刻んでいく三浦。
「チョコレートを均一に刻んだあとは湯煎よ。粗熱をとってから型に流し込むの」
「……ん、それだけ? ちょろくない?」
「まぁ、基本のプロトコルとしてはそうね」
「甘いよ優美子! 湯煎ってお湯の中にチョコを直接ダイブさせることじゃないんだよ!? なんかこう、ボウルを重ねて下からぐわーって熱を伝えるの、ぐわーって!」
(お前、過去に入れたことあるんだな……それただの『チョコのお湯割り』だからねガハマさん)
三浦の方はなんとかなりそうだったが、やはり結衣のディザスター級の不器用さが心配だった。こういう時だけ都合よく彼女の超能力(エスパー)が発現して、エントロピー操作でちゃっちゃと分子構造を変えてくれないだろうかと八幡は切実に願うのだった。
「ねえ比企谷。……ほんとに、連れてきてよかったの?」
そんな風に他の卓を観察していた八幡に、少し遠慮がちに川崎沙希が話しかけてきた。そのすぐ傍らには、ちょこんとエプロンを着た妹の京華の姿がある。
「まあ、いいんじゃねぇの。本人がいた方が京華だって楽しいだろ。な?」
「うん! はーちゃんと一緒にお菓子作るの!」
無邪気に笑う京華の頭を、八幡は思わず目を細めて見つめた。
「そうかそうかー。いい子だな、けーちゃんは。うん、偉いぞ」
デレデレと顔のサーボモーターを緩める八幡。やはり『妹』という存在は素晴らしい。小町にもこんな風に、兄の言うことを素直に聞いて懐いてくれる無垢な時期があったなぁ、としみじみ思い出す。それが今や、ことあるごとに小町ポイントを換金してくる抜け目ない受験生に……。時の流れという残酷なシステム更新を噛み締める八幡。
「川崎、これ注文通り、小さい子でも失敗せずに作れるチョコ菓子のレシピデータ。なんかエラーが起きたら俺か雪ノ下に言ってくれ」
「うん、ありがと。……頼りにするから」
珍しくホクホクとした優しい気分になる八幡。沙希もどこか嬉しそうに口元を綻ばせている。そのままブラブラと歩き、八幡は他の調理卓の偵察へと向かった。
「よく考えたな」
戸部と海老名が騒いでいる卓の近くを通りかかった時、いつの間にか背後に立っていた葉山隼人が、静かなトーンで話しかけてきた。
「葉山か」
「これなら、みんな自然に振る舞える。おかげで戸部も、優美子も喜んでるよ」
「お前は相変わらず集団データばかり気にするんだな。たまには自分自身で楽しんだらどうだ?」
「楽しんでるよ。俺は、こういうみんなが笑っていられる空気が好きなんだ」
「そうかよ……」
海老名が作ったチョコを嬉しそうに頬張る戸部を見つめ、感慨深げに目を細める葉山。奉仕部が用意した「お菓子教室」という大義名分は、周囲の『和』を壊したくない葉山にとっても、最大の救いプロトコルになっていたようだった。一応、今回の任務の第一段階はクリアと言っていい。
「じゃ、俺は他の卓の巡回があるから。三浦と戸部のハンドリングは任せたぞ」
「ああ、分かっているよ」
彼と別れ、次に八幡が赴いたのは、一人黙々とチョコを練り上げている一色いろはの調理台だった。彼女はちょうど、スプーンについたソースをペロリと舐めて味見をしているところだった。
(調温攪拌中のチョコレートの表面温度、約26.5度か……)
八幡の視覚センサーからの情報では、いろはが理想的な温度帯を維持しながら攪拌作業を行っていることが理解できる。
「……へぇ。お前、マジで料理得意なんだな」
素直に感心してそう褒めたその瞬間だった。いろはの目がキラッと光る。
「……なんですか先輩、もしかして今それ口説いてるんですか? 甘いチョコレートイベントのドサクサに紛れて、甘い言葉を囁けばわたしを攻略できるんじゃないかとか、ちょっと考えが甘すぎるので頭冷やして出直してきてくださいごめんなさい」
せっかく褒めてやった途端にこれである。八幡ほどではないが、この後輩もだいぶ性格のアルゴリズムが捻くれていると感じる。だが、八幡の電子頭脳は、その長台詞の中に決定的な「欠損」があることを検知した。
「……お前、いつも言ってる『無理』って言葉、今回は入ってねぇのな」
「──あっ」
いつもなら台詞の最後に必ずシステム構築される『無理なので』『無理です』の拒絶ワードが、今回は綺麗に消失していた。
「な、何言ってるんですかぁ!? 別に、そんな深い意味じゃありませんよーだ! 先輩のクセに変な勘違いしないでください!」
「お、おう」
急に顔を真っ赤にして、ズイッと至近距離まで詰め寄ってくるいろはの気迫に、思わず後退りする八幡。すると、その動揺の隙を狙ったかのように、いろはの手元から味見用のスプーンが八幡の口めがけて、マッハの速度で飛び込んできた。
「もが……む……!?」
(おい待て、このスプーン、さっき一色が自分の口に……)
「えへへ、先輩ってこういう甘いの、お嫌いですか?」
「……嫌い、じゃないけど」
「あはっ、良かったです!」
確かに甘い。糖分の数値だけでなく、調理室の一角に違う意味での加糖された空気が立ち上るのを感じる八幡。
「……だが、加糖と加乳の配分が多いチョコは後半の温度管理がシビアになるから気をつけろ。そこさえクリアすれば、もっと旨くなる」
「えー? 先輩からそんなガチのアドバイスもらうなんて意外ですねー」
八幡の必死の誤魔化しプロトコルを、いろはは満更でもなさそうに受け流して作業に戻る。
「……そういえば、比企谷くんは今回の『味見役』だったわね」
だが、その甘い領域を容赦なく一刀両断する殺気が背後から迫ってきた。
「ゆ、雪ノ下、さん……」
恐怖のあまり、思わず役職抜きでさん付けの音声出力をしてしまう八幡。
「今の今までなんの役にも立たずにフラフラしていたから、すっかりその役割を忘れていたわ」
ボウルの中の真っ黒な液体を、冷たい金属音を響かせながらかき混ぜる雪乃。その姿はさながら、怪しい劇薬を錬成する魔女の威圧感そのものだった。
「ぜひ、こちらのデータについても、あなたの優秀な舌で感想を聞かせて欲しいものね?」
ぬばたまの如き不気味な黒い光沢を放つ液体を、スプーンですくい上げて差し出す雪乃。
(カカオ含有率93%……! そんなもんダイレクトに摂取したら、全システムが拒絶反応で咽せるわ……!)
どうやら、氷の女王の機嫌を著しく損ねた代償は、あまりにも重い劇薬の強制インストールだった。その後の八幡の味覚センサーがどう破壊されたかは、あえて語るまでもなかった。
──
お菓子作りもいよいよ佳境に入り、周囲の生徒たちもそれぞれのタスクに完全集中し始めていた。
三浦は綺麗に溶かしたチョコを慎重に型へと流し込み、いろははチョコチップ入りミニケーキのデコレーションに職人さながらの熱量で勤しんでいる。結衣は何やら初心者向けのレシピ本を片手に「ふむふむ」と頷いていた。こうなると、味覚をカカオ93%で麻痺させられた味見役にできることは何もない。
「暇だな……」
ポツリと呟き、ぼんやりと周囲を観察していると、ちょうど川崎と京華の調理台が目に入った。
どうやら二人はチョコレートの「テンパリング」を行っている最中のようだが、ボウルに氷水を当てながら一定の速度で攪拌するという、両手の異なる駆動制御が幼い京華には難しいらしく、完全に悪戦苦闘していた。
「おう、なんか大変そうだな」
「あ、比企谷……うん。同時に手を動かすのが思ったより難しいみたい。けーちゃん、大丈夫?」
「うまくまわせないの……」
べそをかきそうになる京華。その時、八幡の視覚センサーからの情報がアラートを発した。
(──ボウル内温度、約33℃前後か。このパラメータのままだと失敗するな)
テンパリングにおける最初の冷却プロトコルの理想値は、均一に27℃前後までチョコレートの温度を下げなければならない。溶けたチョコレートを冷やすための、下の氷水ボウルへの当て方が圧倒的に不均一な証拠だった。
「──ちょっと貸してみな」
「比企谷?」
「はーちゃん?」
「せっかくだから、俺もなんかやるわ。バレンタインの日はちょうど小町の受験当日だしな。小町の分を作るついででこのくらいの手助けは許容範囲内だろ」
京華の手からサッとボウルを引き取り、ゴムヘラを構える八幡。ヘラによってチョコレートがボウルの内壁に薄く広げられ、再び中央へと集められながら、一定の速度で攪拌されていく。時折、下の氷水ボウルに接触させ、全体の温度を一秒ごとに均一に下げていく。
その精密な攪拌の過程で、チョコレートに含まれるカカオバターの特殊な分子構造が、綺麗に整列させられていく。
──常温に近い温度でダラダラ冷やせば、固まりすぎの不格好な「6型結晶」に。逆に、急激に冷やしすぎれば、緩く不均一な「1〜4型結晶」になってしまう。八幡の電子頭脳が照準を合わせるのは、唯一無二の準安定結晶──「5型結晶」。すなわち、人間の口の中の体温で瞬時に溶け、しかし手で触った程度では溶けないという、理想的な物理構造の精製だった。
「へー、比企谷って結構そういうの慣れてるんだ」
いつの間にか隣にに回り込んでいた折本かおりが、感心したように、しかし相変わらずのトーンで声をかけてきた。
「ん……ああ。ほら、スイーツ作りって突き詰めればただの材料工学だからな。正確な熱量管理と物理知識があれば、資格がなくたってわりかしコントロールできるっつーか」
「あはは。 何それ、チョコ作りに材料工学とか持ち出すの? マジウケる!」
「いや、ウケねぇから……」
実際、製菓材料においてチョコレートほど職人泣かせの気難しい物質はない。その繊細な相転移のバランス調整は、ほとんど科学者レベルの精密さを要求されるほどなのだ。
「比企谷、そろそろいいんじゃない?」
「そうだな。川崎、次は隣に用意してあるボウルにお湯入れてこっちに回してくれ」
「あれ? 冷やすんじゃなかったの? なんでお湯?」
冷やす工程の直後に温水を用意しろという八幡の指示に、折本が不思議そうに首を傾げた。
「一度27℃まで下げて安定させたあと、最後にちょっとだけ熱を入れて32℃まで温めるんだよ。そうすると不要な結晶が完全に融解して、出来上がりのスナップ性と光沢が向上する」
「へー、ガチじゃん」
(準安定結晶・5型結晶の固定開始を確認。このまま最終形成を続け、分子構造を最適化させる──)
八幡が最後の温煎を加えながらヘラを滑らせると、それまでマットだった褐色の液体に、まるで鏡のように調理室の蛍光灯を反射する、見事な艶と光沢が出現し始めた。
「わぁ、きれーい! チョコレートがピカピカ光ってる! はーちゃんすごーい!!」
「すごいね、けーちゃん。はーちゃんにお礼言わなきゃね」
「ははは、そうかそうかー。綺麗にできて良かったな、けーちゃん」
見事な褐色の光沢を帯びたチョコに目を輝かせる京華と、彼女の頭を優しく撫でながら、およそ彼らしくない穏やかなお兄ちゃん笑いを浮かべる八幡。さらにそこに、母親のように微笑む沙希まで加わるその様子は、客観的に見ればどう見ても子連れの若夫婦そのものだった。
「うう……先輩が、なんか川崎先輩と、めちゃくちゃいい雰囲気になってるんですけどぉ……」
長机の向こうから、いろはの恨めしそうな声が漏れる。
「ていうか、ヒッキーが京華ちゃんに対して甘すぎるんだよ。さすが重度のシスコン……他人の妹でもあんなにデレデレ可愛がるんだ……」
結衣もまた、頬を微かに膨らませてジト目を向けている。
「それにしても、比企谷くんがテンパリングの微調整まで完璧にこなせるなんてね。意外と言えばそうだけれど……少し、面白くないわね」
雪乃の瞳の奥までもが、なぜかチリチリとした熱量を帯びて険しく光っていた。だが、当の八幡はカカオバターの結晶構造の固定にすべてのリソースを割いていたため、周囲の女子たちの視線には完全に気づいていなかった。
「ゆきのん、さっきも聞いたけどテンパリングって何? 輪っか型の天然パーマ?」
「それはただの円形脱毛症の初期症状だと思うわ、由比ヶ浜さん。テンパリングとは、温度を調節しながらかき混ぜる調理法のことよ」
八幡が先ほどから行っていた、素早く丁寧に広げ、伸ばし、集めるといった細心の注意と集中力を要する工程。融点が17℃から36℃の間に複雑に点在する難食材であるチョコレートを形成するために、テンパリングは必須の技法なのだ。
「よし、あとは型に流し込めば終わりだ」
「ピカピカだー!」
京華の歓声と共に、調理室のライトを眩しく跳ね返す、美しい光沢を宿した5型結晶のチョコレートが完成したのだった。
「うわ、なんか比企谷の作ったの、お店で売ってるのみたい。ガチじゃん」
折本かおりの感心した声に、八幡はぷいと視線を逸らした。
「そこまでこだわってねぇよ。ま、綺麗に作れるのに越したことはないけどな」
「そういえばさー」
「ん?」
「あたし、昔比企谷にチョコあげたことあったっけ?」
──ッ!?
折本がそのログを提示した瞬間、調理室の各所からザワッと明確なノイズ(どよめき)が上がった。八幡の高感度集音センサーは、それぞれ離れた位置にいる雪乃、結衣、沙希、そしていろはの息を呑む音を正確にキャッチする。
(……いや待て、なんで玉縄まで「えっ」みたいな顔してフリーズしてんだよ。お前関係ねぇだろ)
八幡の与り知らぬデータだが、玉縄は折本に対して個人的な関心を抱いており、しかしその事実は折本側にはミリ単位も同期されていないらしかった。
「ねぇ、聞いてる? 比企谷」
「……あ、いや……ないな。もらった記憶は一切ない。というか、あるはずがない」
「そう? じゃあ、今年はあげるよ」
「え? ……あ、そう」
「うん。じゃあ出来たら食べに来てよ」
あまりにも脈略のない、折本特有の軽いノリによるバレンタインの約束。その一連のログを耳にして、長机の向こうで雪乃と結衣の動きがピタリと止まり、どこか気が気でない視線をこちらに送ってくる。そして、その様子を遠くから観察していた陽乃が、底意地の悪い笑みを浮かべて獲物を見定めた。
「そういえば、隼人は昔──雪乃ちゃんからチョコをもらったよね?」
「!?」
その暴露に最大出力で反応したのは、やはり三浦優美子だった。いろはも「はわわ……」と効果音が聞こえそうなほど激しく動揺する。明らかに陽乃は、その場のパワーバランスを引っかき回すためだけに面白半分で言ったに違いない。
八幡が反射的に雪乃に目を向けると、ちょうど彼女の瞳と視線が正面から同期した。瞬間、八幡は心臓のパルスが跳ね上がるのを感じ、咄嗟に視線を逸らしてしまう。
(……いや、なんで俺は今、あいつから目を逸らしたんだ……?)
自身のメインプロセッサを以てしても、その例外処理(動揺)の論理的理由が弾き出せない。気まずさ?恥ずかしさ?
──八幡は自身の制御しきれない感情を持て余していた。
「ああ、あったね。小学校に上がる前くらいに、陽乃さんと一緒にもらったことがあったよ」
葉山が苦笑混じりに穏やかな補足を加えたことで、三浦はホッと胸を撫で下ろし、いろはも「ほうほう」と興味深そうに首を傾げた。
「そうだったっけ? なんか昔のことで、よく覚えてなかったかな?」
すっとぼける陽乃は、そのままヒールの音を響かせてつかつかと雪乃の前に立ちはだかる。
「で、雪乃ちゃんは、今年は誰にあげるつもりなの?」
「……別に、姉さんには関係のないことよ」
「ふーん? 『誰にもあげない』とは言わないんだ? やっぱり、誰かにあげるんだね?」
完全にお見通しだとでも言いたげな陽乃の誘導。雪乃は不快感を隠そうともせず、姉を鋭く睨み返した。
「馬鹿馬鹿しい。勝手に言ってなさい」
「まぁ、雪乃ちゃんが渡す相手なんて限られてるけどねー」
「──ッ!」
もはや対話のプロトコルは不要とばかりに、雪乃は話を切り捨てて調理器具へと手を伸ばした。しかし、感情の乱れが駆動系にノイズを与えたのか、彼女の肘が金属製のボウルを小突いてしまう。ボウルは無情にも調理台のフチから、床へ向けて自由落下を開始し──
パシッ、と小気味よい音が響いた。
床に激突して音を立てる寸前、八幡のアームが正確に割り込み、空中でボウルをキャッチしていたのだ。
「お前にしては珍しい凡ミスだな」
そのまま、何事もなかったかのようにボウルを雪乃の前に差し出す。
「ほら」
「──ご、……ごめんなさい」
雪乃はボウルを受け取るが、どこかぼうっとしたような、心ここに在らずといった表情を浮かべていた。その漆黒の瞳は八幡の目をまっすぐに見つめ、微かに揺れている。
(……なんでお前がそんなに動揺してんだよ。こっちまでエラー起きるだろ……)
目の前の少女のそんな姿を見せつけられては、八幡の防壁も容易く決壊する。それにしても、こうして遮るものなく面と向かって見つめ合うなんて、かなり久しぶりのデータである気がした。
「ふふん! ゆきのんもまだまだだね」
いまだにフリーズしている雪乃に対し、由比ヶ浜が空気を換えるように明るい声を響かせた。
「あたしはボウルとか調理器具のハンドリングに関しては完璧だからね!」
くるるっと指先で器用にボウルを回してみせ、由比ヶ浜が得意げに豊かな胸を張る。
「お前は、その器具の扱い以外の工程が致命的だろ」
「……ふふっ」
八幡の容赦ないツッコミに、雪乃がようやく気を取り直したように、苦笑混じりに目を細めた。
──
それから数十分後。チーン、と調理室のオーブントースターが軽快な音を鳴らし、三浦が慎重に扉を開けた。
ふんわりと焼き上がったハート型のガトーショコラを皿に取り分け、恐る恐る雪乃の前に差し出す。雪乃はまじまじとその構造を視覚スキャンし、やがて満足げに目を閉じた。
「……いいんじゃないかしら。非常に綺麗に成形できていると思うわ」
雪乃の口から発せられたのは、合格の通知だった。
「優美子すごいじゃん!」
由比ヶ浜が自分のことのように大喜びして三浦の腕にひしっと抱きつく。
「うん、ありがと結衣。……あ、あと、その。……雪ノ下さんも、ありがと」
気恥ずかしそうに頬を林檎のように染めながら、三浦が小さく感謝を述べる。
「まだ実際に味見していないから何とも言えないけれど、ビジュアルとしてはひとまず及第点と言っていいんじゃないかしら」
(素直に『どういたしまして』が出力できないのか、このぶきのしたさんは)
八幡は内心でツッコミを入れたが、それでも、当初は険悪極まりなかったこの二人が、ここまで相互理解を深めた事実に、静かな感慨を覚えていた。その後、三浦は嬉々として葉山のもとへ味見を頼みに行き、普段の爆撃女王からは想像もつかない乙女モードを起動させていた。彼女の努力が報われたようで、ひとまずは安心である。
「うむむむむ……なかなかやりますね、三浦先輩……」
「ああ。初めての割にはよく出来てるよな、あのガトーショコラ。お前も負けてらんねぇな」
「は?」
いろはがジト目を八幡に向ける。
「そうじゃなくて、ギャップですよ、ギャップ! 普段あんなガチで性格悪そうなギャルなのに、こういう時いじらしくて可愛いって超卑怯じゃないですかー」
「三浦はあれで表裏なんて一切ないからな。あざとさとか欠片も意識してないだろうし。どこぞの二枚舌の小悪魔と違って」
「……まあ、それは理解してますけど。あの人、本当は性格悪くないですし……って、さり気なくわたしが性格悪いって言いました!? 酷くないですか!?」
「はいはい、お前は世界一いい子だよマジで」
ギャーギャーとシステム警告のように喚くいろはを適当なマニュアル対応であしらいながら、八幡は川崎の調理台へと向かった。どうやら彼女たちも、京華との共同タスクを無事に完了したらしい。
「あ、はーちゃん見て見てー! クッキー作ったの!」
「おー、動物さん型クッキーか。クマとかウサギとか、めちゃくちゃよく出来てるな」
「あんたも一個食べていきなよ。せっかく綺麗に焼き上がったんだからさ」
先ほどから打って変わり、川崎はスマホで京華の勇姿を撮影しながら、凄く柔らかい笑顔で試食を勧めてきた。
「んじゃ、一つもらうわ。……ん、旨い。サクサクだし糖度もちょうどいい」
「ほんとー!? よかったー!」
無邪気に跳ねて喜ぶ京華につられ、八幡の口元の緩みも最高潮に達する。今の自分の顔は、小町が見たらキモいと一蹴するレベルで締まりがない自信があった。
「それはそうと比企谷、あんたもさっきなんか作ってなかった?」
「ああ、そうだな。お前らも一個食っていけよ。俺の計算上、おそらく完璧に作れたはずだから」
八幡は京華の手を引き、自身の個人調理台へと案内した。
「これって……」
「きれーい!!」
川崎と京華が八幡の皿を見た瞬間、その顔が驚愕に固定された。
そこに鎮座していたのは、美しくダイヤモンドカットを施された、一口サイズの一連のチョコレートだった。先ほどの五型結晶の光沢を最大限に反射するよう、エッジの角度まで計算され尽くした、文字通り食べるのを躊躇するほどの造形美である。
「名付けてブリリアントパワー・八幡スペシャル」
「……ちょっと、気合い入れすぎじゃない? 業者なの?」
「バカ言え。明後日は小町の高校受験当日なんだぞ? 頑張ってる妹へ贈るもんなんだから、これくらいハイエンド仕様にするのは当然の論理だ」
「あんたって……」
シスコンここに極まれりである。
ふふんと自慢げに胸を張る八幡に、川崎は半ば呆れ気味に首を振る。しかし、皿の細部に目を凝らした瞬間、その指先が戦慄に震えた。
「このチョコレートの台座……もしかして……」
「気づいたか」
「うえっ!? 待って先輩、これマジですか……!?」
いつの間にか背後に寄っていたいろはが、本気で顎が外れそうな驚愕の声を上げる。
ダイヤモンド型のチョコの下に敷かれた、一見するとただのチョコレートの薄板。だがその正体は、糸のように極限まで細く引き伸ばしたチョコレートの繊維を、寸分の狂いもなく格子状に『織り合わせて』成形した、前代未聞のカカオ・ファイバーの織物板だったのだ。
「し、信じられないです……どんな超精密でヘラ動かしたらこんなのできるんですか。バケモンですか先輩」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「……やっぱり、やりすぎだよあんた。ちょっと気持ち悪い」
「褒め言葉として……。いや、悪いやっぱ傷つくからやめて……」
川崎が盛大に溜息を吐く。そんな姉たちを置いて、京華がダイヤモンドチョコを一つパクリと口に放り込んだ。次の瞬間、彼女の表情が至福でとろけ去る。
「これ、あまずっぱくておいしーい!!」
「比企谷、これ中に何か仕込んだの?」
「ああ、苺のピューレを中に入れてある。ちょうど今は二月で旬だからな。それに、カカオの濃厚な脂質に対して果物のシャープな酸味を合わせることで、何個食べても飽きがこない設計にした」
「む、無駄に計算され尽くしてますね……。こだわり強すぎて逆に引きます……」
造形だけでなく、フレーバー設計にまで完璧なロジックを叩き込んだ逸品を前に、いろはが引き攣った笑みを浮かべる。
(っていうか、もしかしてこの料理教室の中で一番女子力高いのって、この先輩なんじゃないの……?)
それは割と冗談抜きの事実であると確信し、いろはは己の手を少しだけ強めるのだった。
──
試食会は特に大きなトラブルを起こすこともなく、順調に推移していた。
視線を巡らせれば、雪乃と結衣が互いに作った菓子を食べ比べながら、ごく自然に、そして良い雰囲気で笑い合っているのが見える。つい最近、超能力の暴走に囚われていた結衣を自身の総力を挙げて食い止め、こうして連れ戻すことができて本当に良かった。
八幡は胸の奥で深く実感していた。この温かい光景こそが、数々の戦いの末に守り抜いた日常という名の貴重な一ページだった。
「いいイベントになったな、比企谷」
「……先生。来てたんですか」
一人で壁際に佇み、全体の様子を眺めていた八幡の隣に、いつの間にか平塚静が並んで立っていた。
「……それにしても、ちっ、調理室のあちこちでこれ見よがしに甘い空気が出来上がっているな。忌々しい……実に見るに耐えん……」
(……なんか勝手に自己の精神的地雷を踏み抜いてるぞ、この人。独身の身にこのイベントは特効ダメージが入るんだから、来なきゃいいのに……)
それ以上の詮索は、彼女の鉄拳プロトコルを誤起動させるリスクしかない。八幡は賢明にその思考をシャットダウンした。
「ま、まあ、イベントの建て付けとしては大成功じゃないですか? 俺にはよく分からないですけど」
「それでいいのさ。元々、君たちは最初からよく分からない奴らだった。歪で、ごちゃごちゃした複雑な関係性の上で成り立っているんだ。そんな君たちが試行錯誤した結果がこれなら、こうなるのは必然だろう」
「よく分からない、ですか……。まあ、適当なラベリングで他人を知ったつもりになってるよりは、そっちの方がよっぽどマシかもですね」
「そうだな。だが、私も前よりは多少、君たちのことが分かるようになったよ。特に──君のこととか、まさにそうだがね」
人の印象や関係は、日々新しい時間で更新され続ける。
八幡自身、かつて頑なに隠していた自身の本質や正体を、少しずつ周囲に知られ、受け入れられていくことで。
結衣は、自身の内面に抱えていた歪なコンプレックスや全感情を吐露したことで。
そして雪乃は、その二人との交流を経て、誰かの人形ではない真の自立の道を歩み始めたことで。同じ時間を生存し、互いに影響を与え合いながら成長し続けた証だった。
「……別に、俺自身が成長したなんて自覚はないですけどね。いつもと同じですよ」
「歩んでいる最中の人間は、自分が進んだ距離をいちいち振り向かないものさ。大切なのは、歩みを止めないことだ。……歩みを完全に止めてしまった者からすれば、周囲が進んだその距離そのものが、進んだ距離だけ裏切られたように感じてしまうからな」
「……それ、誰かのこと言げてますか?」
八幡の問いに、平塚は寂しげな、しかしどこか吹っ切れたような笑みを浮かべてぐっと言葉を濁した。
「さあな? ……とにかく、今こうして一番近い場所で、君たちのこの輝かしい光景を見られてよかったよ」
ぽんと、八幡の肩を優しく叩く平塚。
「──いつまでも、こうして見ていてはいられないからな」
「え? もう帰るんですか?」
「ああ、若者だけの空気はどうも居心地が悪くてな。長居は無用さ」
(先生だってまだまだ若者だと思いますよ)
そう言って、コートを翻して去っていく平塚の背中。八幡には、その去り際のセリフが、単なるイベントの退室という意味を超えた、何か別の意味を持っているように思えてならなかった。
──
「ヒッキー! これ、食べてみて!」
(……ついに、最終防衛ラインを越えてきやがったか……)
瞳を限界までキラキラと輝かせた結衣が、可愛らしくデコレーションされたカップケーキのトレイを両手で差し出してきた。
八幡は即座に視覚による観察を開始。外見は至って普通の洋菓子であり、過去のような「消し炭」の反応は一切見られない。刺激臭も感じられない。どうやら本当に、まともな手順で作られているようだ。
(問題は、内包された味だ。土壇場で砂糖と塩を間違えました、なんていうのは由比ヶ浜の基本スペックだからな。あるいは、隠し味と称してニョクマムとか得体の知れないものをインジェクションしてたり……)
「ヒッキー、今なんか失礼なこと考えてない?」
「いや、別に……。よし、食うぞ」
「ずいぶんと悲壮な覚悟をしているようだけれど、安心しなさい。一応、私が横で一緒に監修したから」
文字通り、主君から賜った劇薬を煽る武士のような覚悟で手を伸ばした八幡に、雪乃からこれ以上ない強力なフォローが入った。
「なんだ……。雪ノ下がパッチを当てたんなら、百パーセント安心だな」
「なんかヒドイこと言われてる気がするんだけど!?」
結衣の抗議をスルーし、八幡はヒョイとカップケーキを摘んで口内へと放り込んだ。咀嚼と同時に、味覚から詳細なデータが送られてくる。
「……すげぇ。普通に美味いし、普通に食えるな」
「普通ってなんだし! 食べられるに決まるでしょ!」
「まあ当然ね。危険な化学反応が起きないよう、要所要所で彼女の挙動を完璧に監視していたもの」
「あれ監視だったの!? あたし普通に優しく教えてくれてるんだと思ってたのに!」
雪乃の辛辣な報告に、結衣がガーンとショックを受ける。だが、一年前のあのクッキーのディザスター級の前科がある以上、そう簡単に奉仕部の警戒レベルが下がるわけもないのだ。
「……いや、本当に旨いわ。去年の春頃にお前が作った、あの口内がジャリジャリする暗黒物質とは段違いだ。……ありがとな」
冗談混じりの皮肉を交えつつも、八幡は彼女がここまでのものを調理できるようになった事実と、それを他ならぬ自分へと真っ先に食べさせようとしてくれたその心意気が、素直に嬉しかった。珍しく、一切のひねくれ回路を経由しないストレートな表現で感謝を伝える。
「……うんっ!」
八幡の本音が正確に伝わったのか、結衣は頬をぽっと赤く染め、世界で一番嬉しそうに、大きく何度も頷いたのだった。
──しかし、そんな温かい調理室の喧騒から遠く離れた場所から。
その奉仕部たちの微笑ましい様子を、冷たい、しかしどこか薄く楽しげな歪んだ笑みを浮かべて『観察』し続けている雪ノ下陽乃の存在に気づく者は、今はまだ、誰もいなかった。