——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
人生はリセットできないが、人間関係はリセットできる。
かつて比企谷八幡が嘯(うそぶ)いていたことだが、まさか物理的に人生を一度失い、鋼鉄の身体で「やり直す」ことになるとは、彼自身も想定していなかった。
人間関係のリセット――SNSアカウントの削除、連絡先の変更、突然の音信不通。医学的な病名ではないが、現代では「人間関係リセット症候群」や「人間関係リセット癖」などと呼ばれる現象だ。
人嫌いな八幡にとって、対人関係における気疲れや、完璧主義ゆえの「白黒思考」からくるその性質は、電子頭脳のログ以上に正確に自らの本質を言い当てているように思えた。
他人が怖い。繋がりは求めているが、傷つきたくない。やる気も意志も見せないのは、全力を出して空回りし、無様に傷つく自分を見たくないからだ。
だが、結局のところ、それは言い訳に過ぎない。八幡は今、奉仕部という繋がりに、至極人間的な「心地よさ」を感じ始めていた。リセットという得意技を封じてでも、この場所に浸っていたいという弱さを、彼は自覚しつつあった。
それはおそらく、由比ヶ浜結衣も同じだろう。……雪ノ下雪乃については、まだ答えは出ていない。今の彼女はこれまでの活動において、見ようによっては楽しそうにすら思えるが、その深淵を八幡の電子頭脳(ブレイン)でさえ測りかねていた。
ともかく、そんな奉仕部の繋がりの一環として、彼らは週末のららぽーとに集まっていた。
「わあ、人すごーい! ね、ヒッキー、今日はお買い物日和だね!」
「……そうか? どちらかと言えば引きこもり日和な気がするが。わざわざ休日に二酸化炭素を吸い込みに来る奴らの気が知れん」
由比ヶ浜結衣の弾むような声に、八幡はいつも通りのひねくれた返答を返す。だが、その隣では妹の小町が、にやにやとした笑みを浮かべて八幡を小突いた。
「もう、お兄ちゃん。女の子二人を連れてららぽーとに来られたんだから、もっとシャキッとしなよ。小町的には、お兄ちゃんが美少女二人と遊びに行くなんて面白いこと、絶対に見なきゃダメだよねって思ったわけ。ね、雪乃さん!」
「遊びに行くわけではないと言っているでしょう、小町さん。これはあくまで奉仕部の活動……由比ヶ浜さんの誕生日プレゼントを選ぶという、重要な任務の延長よ」
雪ノ下雪乃が、凛とした声で釘を刺す。今回のショッピングは、意外にも雪ノ下本人の発案によるものだった。彼女なりに由比ヶ浜を「気の許せる存在」だと認めている証左なのだろう。
ふと、八幡の視線が雪ノ下の横顔で止まった。
今日の彼女は、珍しいツインテール姿だった。
「うわぁ……ゆきのん、やっぱりその髪型すっごい可愛い! 似合ってるよ!」
「そうですよ雪乃さん! マジ最高です、小町ポイントが今、計測不能なレベルで爆上がりしました!」
「……そうかしら。あまり見つめられると、少し落ち着かないのだけれど」
由比ヶ浜と小町がキャイキャイと雪ノ下を褒めそやす。雪ノ下は少し照れたように、白い指先で結び目を軽く触れた。
髪型一つで、随分と印象が変わるものだ。
八幡は、自らの電子頭脳による演算結果から、観測する雪ノ下の外見的情報が普段より数パーセント――いや、数値化できないレベルで向上しているという事実を客観的に認識した。
(……くそ、なんだ。目のやり場に困るだろうが)
「ちょっと、お兄ちゃん。さっきから無言で雪乃さんのことガン見しすぎ。なんか感想とかないの? 語彙力がなくなっちゃったの?」
「……いや、別に。……髪型変えるだけで、随分と、その……印象が変わるもんだと思ってな」
八幡が視線を逸らしながらぼそりと呟くと、雪ノ下はふっと視線を合わせ、少しだけ口角を上げた。
「比企谷君。それは、良くなったという意味かしら? それとも、前のままの方が良かったという皮肉?」
「……どっちでもねえよ。ただ、演算……じゃなくて、外見的な整合性が取れているというか……その、悪くない、と思うぞ」
回路に妙な恥ずかしさが混じり、エラーを吐き出しそうになる八幡。
「ヒッキー、顔赤いよー? もしかして、ゆきのんに見惚れちゃった?」
「うるさい、由比ヶ浜。これは空調の調整ミスだ。整備員に点検してもらわないと……」
「お兄ちゃんたらすぐそうやって機械のせいにするんだから」
──
目的地のフロアに到着し、いよいよプレゼント探しが始まろうとしたその瞬間だった。
「あ、小町、あっちのショップ見たいから離脱! 三人で仲良くね!」
言い残すや否や、小町は鮮やかな手並みで人混みの中へと消えていった。
八幡は、遠ざかる妹の背中に向かって心の中で「おい」と突っ込んだが、彼の電子頭脳(ブレイン)はそれが「お兄ちゃんを二人きりに、あるいは特定の状況に追い込むための妹的演算」であることを瞬時に導き出し、諦めへと処理を移行させた。
「あ、行っちゃった。小町ちゃん、相変わらず素早いね」
「自由というか、策士というか……。さて、比企谷君。小町さんの気遣い(余計なお世話)を無駄にしないためにも、速やかに目的を果たしましょうか」
「……ああ。だが、俺はあそこのベンチで待ってるわ。流石に女性物のエリアに男が居座るのは、不審者スキャンに引っかかるからな。お前ら二人で決めてこい」
八幡は周囲の視線を気にし、戦略的撤退を試みた。しかし、それを雪ノ下の氷の微笑を湛えた声が射抜く。
「待ちなさい、比企谷君。由比ヶ浜さんと二人で探せばいいなんて思っているのかしら。それでは『私とあなた』で選んだプレゼントにならないわ。却下よ。……来なさい」
「……そうだよヒッキー! 三人で選ぶから意味があるんだよ? ほら、行こ!」
「……はいはい。逆らうと、またマッハの速度で投げ飛ばされそうだしな」
観念した八幡を引き連れ、三人は華やかな雑貨や小物が並ぶエリアへと足を踏み入れた。しかし、友達に贈り物をした経験など皆無に等しい二人にとって、そこはデーモン博士の研究所よりも過酷な戦場だった。
「……これ、どうかしら。可愛らしいけれど、実用性に欠けるかしら」
「うーん、ゆきのん、それはちょっと大人っぽすぎるかも? あたし、もうちょっとカジュアルなのがいいかなぁ」
「カジュアル……。定義が広すぎて、私のデータベースでは処理しきれないわね」
棚に並ぶ無数の商品を前に、雪ノ下が珍しく力なく肩を落とし、弱音をこぼした。
「……私、由比ヶ浜さんが何が好きとか、どんなものが趣味とか……本当は何も知らなかったのね。自分の無知をこれほど痛感することになるとは思わなかったわ」
データ不足。エイトマンの電子頭脳であれば、作戦行動不能に陥るほどの致命的なエラーだ。だが、八幡はその雪ノ下の「弱音」を、彼なりの解釈で拾い上げた。
「別に知らんくていいだろ。むしろ、半端な情報だけで『あんたの好み、知ってるわよ』みたいな知った顔をされたら腹が立つ。……それは、千葉県民に向かって他県産の落花生を送りつけるようなものだ。プライドを傷つける最悪の侮辱(テロ)だからな」
「あー、なんかわかる! 千葉県民だからって味噌ピー送られても全然嬉しくないし。むしろ『うちの近所のスーパーの方が美味いし』って思っちゃうもん。そんなんじゃ心がこもってないよね」
由比ヶ浜のゆるい指摘に、八幡の不器用なフォロー。
そのひねくれた、けれど確かな優しさを含んだ例えに、雪ノ下の口元が僅かに緩んだ。
「……随分と独特な例えね。でも、不思議と腑に落ちたわ。相手を理解していると錯覚することこそが、最も不誠実なことなのかもしれないわね」
「……そういうことなら、背伸びをした贈り物よりも、今の彼女に必要なものがいいかしら。……例えば、これ」
雪ノ下がふと手に取ったのは、落ち着いた色合いのエプロンだった。
「由比ヶ浜さんは最近、お料理を頑張っていると聞いたわ。これを着て、さらに精進してはどうかしら。毒味の回数が減ることを祈ってね」
「あ、いいかも! 確かにあたし、形から入るタイプだし! 毒味は……頑張る!」
雪ノ下はふと思い立ったように、そのエプロンを自分の服の上からあててみせた。凛としたポニーテールと、家庭的なエプロンのミスマッチ。
「……どうかしら。比企谷君、感想を言いなさい。忌憚のない意見を希望するわ」
「……ああ。すげぇ良く似合っていると思うぞ」
直球の、あまりにもストレートな八幡の回答に、雪ノ下は一瞬だけ目を丸くした。頬に微かな朱が差したのを、八幡の高性能光学センサーは見逃さなかった。
だが、それを邪魔するように、由比ヶ浜が「あたしも! あたしも着てみる!」となぜか対抗心を燃やして別のエプロンを手に取った。
「ヒッキー、あたしはどうかな!? ゆきのんみたいに似合ってるかな!?」
「……いや、似合ってると思うけど」
「な、なにその適当な感じ! ゆきのんの時よりテンション低くない!? むー!」
八幡としては全く同じ熱量で答えたつもりだったが、由比ヶ浜はなぜか頬を膨らませて拗ねてしまった。高マンガン鋼の骨格を制御するよりも、女心の微細な振動を読み解く方が、八幡にとっては遥かに難解な演算を必要とした。
「……適当に言ったわけじゃないんだが。女心は、マッハ15の世界より複雑だな」
「……そうね。私もそう思うわ。……比企谷君のアドバイス(?)に従って、由比ヶ浜さんへのプレゼントはこのエプロンにしましょうか」
結局、二人は同じ店のエプロンを由比ヶ浜へのプレゼントに決めた。由比ヶ浜は「嬉しい! ありがと、二人とも!」とはしゃいでいる。
だが、雪ノ下はレジへと向かう際、由比ヶ浜へのプレゼントとは別に、さっき自分が着てみせたエプロンも一緒にトレイへと載せた。
「……あれ。雪ノ下、お前もそれ買うのか?」
「……ええ。古くなったものがあるから、買い替えよ。深い意味はないわ。……本当に、他意はないのよ?」
「……誰もそんなこと聞いてねえよ」
雪ノ下の不自然な強調に、八幡は首を傾げた。
商品をレジに持っていき、支払いを済ませようとした、その時だった。
「あら、雪乃ちゃん」
鈴を転がすような、柔らかく、それでいて周囲の空気から一切の逃げ場を奪うような声が響いた。
振り返った先には、完璧な美貌と人当たりの良い笑みを湛えた女性
――雪ノ下陽乃が立っていた。彼女の登場と共に、雪ノ下の身体が、一瞬にして凍りついたかのように硬直するのを八幡は見逃さなかった。それは「畏れ」であり、同時に抗いようのない「怯え」にも似た拒絶反応だった。
「……姉さん。どうして、ここに」
「どうしてって、ちょっとお買い物。それより雪乃ちゃん、誰かと一緒にいるなんて、珍しいこともあるんだね。あ、もしかしてデート?」
「ち、違うわよ! これは部活動の一環で……」
「ふーん。部活動ねぇ……」
陽乃はニコニコと人懐っこい笑みを浮かべながら、流れるような動作で八幡へと歩み寄ってきた。
「君が比企谷君だよね? 雪乃ちゃんがいつもお世話になってるみたいでさ」
「あ、いや、お世話になってるのはこちらの方で……」
陽乃は距離を詰めると、八幡の腕に軽く手を添え、のぞき込むように顔を近づけてきた。不必要なまでのスキンシップ。漂う香水の香りと、有無を言わせぬカリスマが八幡の感覚を揺さぶる。その一挙手一投足は極めて社交的で、周囲の視線さえも自分の味方につけてしまう、完成されたパフォーマンスだった。
「比企谷君って、面白い顔してるよね。なんだか、見てると吸い込まれちゃいそう」
「……それは、単に俺の目が腐っているからだと思いますけど」
「あはは! 謙遜しちゃって。ねぇ、これから三人でお茶でもどう? お姉さんが奢っちゃうよ?」
奔放な振る舞いに翻弄されながらも、八幡は一瞬、ふいに由比ヶ浜へと向けられた陽乃の眼差しに、言いようのない違和感を覚えた。
柔らかい眼差し。微笑を絶やさない表情。だが、その瞳の奥には、人間を見ているようで、どこか「モノ」を効率的に観察しているかのような、あるいは何も見ていないような、絶対的な空虚が潜んでいた。
(……なんだ、この感じ。……おかしいだろ、これ)
八幡は本能的な、生存本能に直結するような不安に駆られた。彼は即座に視覚センサーの全リソースを陽乃のスキャンへと振り分けた。
心拍数、体温、皮膚の抵抗値、骨格の密度、神経伝達の微細なラグ。エイトマンの電子頭脳(ブレイン)が、ミリ秒単位で陽乃という個体を解体し、再構成していく。
――スキャン結果:100% 純粋な人間。
改造箇所なし、異物混入なし。生化学的な反応も、すべてが正常な「人間」の範囲内に収まっていた。
だが、その事実こそが、八幡のメインプロセッサを戦慄させた。
(……気のせいか? だが、この不自然なまでの『完璧さ』は何だ。この人は、自分の感情さえも『最適化』して出力しているのか……?)
ふと、陽乃が八幡の方を向き、悪戯っぽく微笑んだ。
「……なぁに? そんなに私を見つめて。お姉さんに惚れちゃった?」
「……まさか。あまりに眩しくて、目が潰れそうになっただけですよ」
腑に落ちない感覚を残したまま、陽乃との会話は終了した。彼女は「じゃあね、雪乃ちゃん。比企谷君も、またね」と風のように爽やかな余韻だけを残して、人混みの向こうへ去っていった。
「……お前の姉ちゃん、すげえな。なんつーか、歩くカリスマって感じだ」
去っていく陽乃の背中を見送り、八幡はぽつりと漏らした。隣では由比ヶ浜が「ねー! すっごい綺麗な人だし、優しいし。憧れちゃうよね」と、陽乃の外面に素直な好印象を抱いているようだった。
それに対し、雪乃は皮肉とも、深い情念とも取れる重い声で返した。
「あれほど完璧な存在もいないでしょう。誰もがあの人をほめそやすわ。……あなたたちのようにね」
「姉さんへの皮肉か? それとも俺たちへの憐れみか?」
「どちらでもないわ。ただの、事実よ」
先程八幡が雪乃から感じ取った「畏れ」と同じ質感が、その言葉には混じっていた。
「……そんなの、お前も大して変わらんだろ。俺から見れば、お前も十分に完成されてるよ」
「……比企谷君、それは褒め言葉のつもりかしら」
「さあな。ただ、陽乃さんの外装を見抜ける程度には、お前のことも見てるってことだよ」
雪乃は珍しく感心したような、毒気を抜かれたような顔をした。陽乃の完璧な「外面」に惑わされず、その妹もまた同質の「完璧さ」を背負っていると断じた八幡の冷徹な視線に、彼女は何かしらの救いを感じたのかもしれなかった。
「あ、もうこんな時間! 今日はホントにありがと、二人とも! すっごい楽しかった!」
帰り道、駅前の夕焼けの中で由比ヶ浜が満面の笑みを咲かせた。八幡は慣れない感情に振り回される自分に呆れつつも、この瞬間が「勘違いであって欲しくない」と願う、人間らしい弱さを自覚していた。
「……ああ。プレゼント、喜んでくれるといいな」
「うん! 絶対大事にするね!」
そんな二人を少し離れた場所から見つめていた雪乃が、ふいに助け舟を出すように、あるいは自分を突き放すように呟いた。
「……ちゃんと始めて、続けることだってできるわ。あなたたちは」
自分たちの方を見ず、夕闇に溶けゆく千葉の街並みに視線を向けたままの言葉。
その一言と、どこか「自分を外側に置いた」ような動作に、八幡は何かしらの不吉な――取り返しのつかないような予感を覚えるのだった。
後日、放課後の奉仕部部室。
そこには、外部からの干渉を拒絶するような、完成された静寂が横たわっていた。
比企谷八幡は、自分の席で冷却用のマックスコーヒーを啜りながら、電子頭脳(ブレイン)の演算ログをぼんやりと眺めていた。対面では、雪ノ下雪乃がいつものように斜陽を背負い、文庫本をめくっている。
ふと、八幡の視覚センサーが、彼女の手元にあるブックカバーの柄を捉えた。
それは、あの日ららぽーとで彼女が自分用に買い求めたエプロンの柄と、完璧に一致していた。
(……ああ。結局、そういうことか)
八幡は、彼女に問いかけることもなく、心中だけで小さく安堵に似た溜息を吐いた。
雪ノ下があのエプロンを買った理由は、決して「誰かに褒められたから」などという感傷的な動機ではない。単に、彼女のパーソナルなデータベースにおいて、あらかじめ「好ましい」と定義されていたデザインだったからに過ぎない。
男に褒められて舞い上がるような、ありふれたラブコメ展開の否定。予定調和を拒むアンチテーゼとしての雪ノ下雪乃。八幡は、彼女が自分の知る「嘘を一切つかない、完璧な」彼女のままであることに、奇妙な平穏を感じていた。
八幡自身は自覚していないが、その考え自体が「そうであってほしい」という、彼の臆病な「リセット癖」が招いた都合のいい理想化であることには、まだ気づかない。
――その時、部室の扉が勢いよく開いた。
「やっはろー! 二人とも、お疲れー!」
由比ヶ浜結衣が、いつもの軽快な挨拶と共に飛び込んできた。彼女は自分の椅子に座るなり、スマートフォンを取り出して画面を二人の前に突き出した。
「ねぇねぇ、見てよこの写真! 昨日のエプロン、お母さんに撮ってもらったんだ。あたし、意外と似合ってるっしょ? ゆきのんのセンス、マジ最高だわー」
画面の中で、新しいエプロンを着てピースサインをする由比ヶ浜。
「今度これで肉じゃがとか作っちゃおうかな、なんてね。……あ、でも味は期待しちゃダメだよ? 」
由比ヶ浜の屈託のない笑い声。それに対し、八幡と雪ノ下はいつになく軽快な反応を見せた。
「……まあ、いいんじゃないか。少なくとも、迷子の小学生には見えなくなったぞ」
「あー! ヒッキーまた失礼なこと言った! ひどいし!」
八幡の投げやりな、それでいてどこか気の置けない茶化しに、由比ヶ浜が頬を膨らませる。一方、雪ノ下も依然として本から目を離さなかったが、その口元には明らかな変化があった。
「そうね。エプロンのデザイン『だけ』は完璧だわ。中身の技術がそれに追いつくのは、あと数世紀先の話でしょうけれど」
「ゆきのんまで! もー、二人でいじめるんだから!」
雪ノ下の毒舌には、刺々しいトーンではなく、どこか親愛の情を含んだ「遊び」があった。八幡の高性能センサーは、彼女の口元がわずかに緩み、メインプロセッサの負荷が和らいでいることを捉えていた。それは、彼女なりの、由比ヶ浜という存在への安堵だったのかもしれない。
「……あ、二人ともまた無視? もー、せっかくあたしが盛り上げてるのにー。ヒッキー、たまにはもっと気の利いたこと言ってよね!」
由比ヶ浜の明るい抗議が、今の部室に漂う「安らぎ」をより確かなものにする。八幡のメインメモリには、あの日雪ノ下が放った言葉が、消えない警告灯のように明滅し続けていたが、今のこの瞬間だけは、その不協和音を遠ざけておきたかった。
『――ちゃんと始めて、続けることだってできるわ。あなたたちは』
「あなたたちは」――その不自然なほどに境界線を引いた、疎外の響き。
そして何より、あの完璧な姉、雪ノ下陽乃の存在を、なぜあそこまで頑なに隠し続けてきたのか。八幡は、陽乃をスキャンした際の結果を思い出す。100%純粋な人間。だというのに、あの底知れない虚無感は何だったのか。
(……人間関係のリセット、か)
10万キロワットの出力を持ち、極超音速で世界を置き去りにできる身体を手に入れても、八幡は目の前の少女が隠し持っている、ガラス細工のように脆い暗部の入り口すら見つけられずにいた。
八幡は飲み終えたマックスコーヒーの空き缶を手に取り、無言で立ち上がった。
「あ、ヒッキー。もう行くの?」
「……ああ。ちょっと用事がある」
由比ヶ浜は「そっか、了解! じゃあまた明日ね!」と短く手を振り、深入りはしてこなかった。
彼女もまた、この部室の外側にある見えない境界線を、無意識のうちに守っている。一緒に帰るなどという選択肢は、今の彼らの間には存在しない。それは、奉仕部という一時的な繋がりの外側にある、守られるべき「心地よい」距離感だった。
「じゃあな」
八幡は一度も雪ノ下と視線を合わせることなく、鞄を肩にかけた。雪ノ下もまた、最後まで顔を上げず、ページをめくる指を止めることもなかった。
比企谷八幡は、もはや「リセット」という安易な逃げ道が機能しなくなっていることを、その平穏な沈黙と、由比ヶ浜の眩しすぎる笑顔の中で悟りながら、静かに扉を閉めた。
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