——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
「雪ノ下を……殺せだと……?」
八幡の口から絞り出された声は、低く、室内の空気を凍りつかせるほどの異様な威圧感を帯びていた。
電子頭脳のプロセッサが過熱し、全身の駆動フレームがきしむような微細な振動を放つ。エイトマンの内に秘められた戦闘本能が、目前の老科学者へ向けて明確な『殺気』の奔流となって立ち込める。
しかし、デーモンはその殺気を意に介した様子もなく、ステッキの石突きで軽く床を突いてみせた。
「そうだ。貴様がGenesisの構成員である雪ノ下陽乃と接触を繰り返していることなど、我が諜報網はとうに把握している」
デーモンは全てお見通しと言わんばかりに両手を広げた。
「そして……その妹である雪ノ下雪乃。あの小娘こそが、超人類が旧人類を間接統治するための『最も合理的で優れた器』としての才覚を秘めていることもな」
感情の一切を削ぎ落とした淡々とした口調で、冷徹な事実を積み上げるように語り続ける。
「ロシア政府の情報機関は、あの女を単なる女子高生などとは見做していない。超人類の世界再編計画における
「それは……」
「エイトマンによる超人類の完全殲滅か、あるいは超人類が推し進める世界支配の要たる雪ノ下雪乃の排除か。そのどちらか一方が成立すれば、奴らの計画に致命的な破綻と大幅な遅延が生じる。……私は本国上層部にそう進言し、日本攻撃のカウントダウンを一時的に押し留める時間的猶予をもぎ取ってきたのだ」
デーモンは薄く唇を歪め、吐き捨てるように息を漏らした。
「これでも最大限の譲歩であり、私なりの苦肉の策なのだぞ」
「ふざけるな……!」
八幡の胸の奥底で、煮え滾るような怒りが爆発した。
「雪ノ下は……あいつは、誰かの道具なんかじゃねぇ! 誰かに縛られたり、自由を奪われていい存在なわけないだろッ!」
「自由だと? 笑わせるな」
八幡の叫びを、デーモンは冷酷に切り捨てた。
「本人は自らの意志で選び、自らの足で進んでいるつもりだろうが、現実は超人類の盤上で踊らされている哀れな操り人形に過ぎん。……そしてな、比企谷。貴様の個人的な青臭い感情や感傷など、国家間の戦争と国際政治の前には一片の価値もないのだ」
デーモンは冷然とした瞳で八幡の胸元を指し示すように、ステッキの先端をピタリと突きつけた。
「重要なのは、超人類にとってもロシアにとっても『雪ノ下雪乃が鍵を握っている』という動かしようのない認識のみだ。この理不尽を覆したくば、貴様が力で世界をねじ伏せてみせろ」
谷博士は苦渋に満ちた表情で唇を噛み締め、俯くことしかできない。
その一方で、ソファーに深く腰掛けたコズマだけが、品定めするように愉悦に満ちた視線を八幡へ注ぎ続けていた。
「くっくっく……、その雪ノ下とかいう小娘、お前にとって随分と特別な存在のようだな?」
緊迫した沈黙を破り、ソファーのコズマが下品に口端を吊り上げて八幡を揶揄うように口を挟んだ。
「そんなに大事で手放したくないなら、いっそ力尽くで奪って、手篭めにでもしてしまえばいいだろうが。泣いて縋るまで飼い慣らせば済む話だ」
吐き気を催すようなコズマの暴論に、八幡の視覚センサーが鋭く光り、激しい不快感と拒絶が全身の回路を駆け巡る。
「……下品極まりない狂言を。口を慎め」
「コズマくん、いい加減にしたまえ」
デーモンが忌々しそうに吐き捨て、谷博士も窘める。
「何を青い顔をしてやがる。欲しいものは力尽くで奪い取るのがこの世の絶対法則だろう」
コズマはどこ吹く風といった様子で悪びれもせず鼻で笑った。
「わしには極めて美しく優秀な妻がいるが、それだって邪魔な求婚者どもを暴力と謀略で片っ端から排除し、力で手に入れたものだ。……世界最強のマシナリーであるお前に、それくらいの芸当ができんはずがなかろう?」
感情を剥き出しにして拳を握りしめる八幡の姿を眺め、コズマは「ハッ」と嘲笑を漏らした。
「ま、そのツラを見る限り、どう転んでもその女を殺すことなんざ出来やしないようだがな。……ならば、お前の辿るべき道は最初から一つしか残されていない」
懊悩する八幡に対し、コズマは嬲るようにその指先を突きつける。
「そこのロシアの老いぼれが言った通り、お前自身が一切の情を捨てて『完全な破壊兵器』へと成り果て、超人類どもを根こそぎ粉砕するしかないな」
八幡は言葉を失い、重苦しい沈黙の中に押し黙った。
確かに、この体を限界まで戦闘用に最適化し、一切の加減を排した純粋な兵器へと変貌させれば、あのエルケーニヒや超人類に打ち勝てる可能性が生じることは、電子頭脳の演算結果からも導き出されていた。
──だが、エイトマンに施されている安全リミッターや人倫プロトコルを完全に解除した場合、自身の精神や人格にどのような致命的異常(バグ)が生じるのか、予測不能なリスクが大きすぎる。
何より――人間としての境界線を自ら踏み越え、引き返せない本物の怪物へと堕ちていくことへの本能的な忌避感が、八幡の魂を強く縛り付けていた。
思い悩み、立ち尽くす八幡の姿を見届けたデーモンは、フンと冷ややかに鼻を鳴らした。
「どうやら、その甘ったれた思考では覚悟を決めることはできんようだな」
デーモンは黒マントを翻し、踵を返して出口へと歩を進める。自動ドアの前で一度だけ足を止め、冷徹な横顔で八幡を振り返った。
「言っておくが、貴様に残された猶予は極めて少ない。数週間か、あるいは数日後か……少なくとも近日中には、我が祖国のミサイルがこの千葉の空を埋め尽くすことになる」
「……」
「また来る。その時に貴様の最終的な返答を聞かせてもらうぞ」
ステッキの無機質な反響音を残し、デーモンは嵐のようにラボを去っていった。
静まり返った研究室の中で、八幡は逃れられない悪夢を突きつけられたかのように、ただ深く、深く項垂れることしかできなかった。
──
谷製作所を後にした帰り道、八幡の電子頭脳は先ほど交わされた会話のログを何度も、執拗なまでに反芻していた。
Genesisの殲滅を名目に、この千葉を焦土へと変えようとするロシア軍の侵攻計画。
それを食い止めるための猶予条件は二つ。
エイトマンが単機で超人類を完全に滅ぼすか。
あるいは、超人類の次代の尖兵として組み込まれようとしている雪ノ下雪乃の抹殺か──。
(……ふざけんな。そんなバカな話があるかよ)
八幡は歩みを止めず、後者の選択肢を即座に思考の底へと叩き落とした。
自分が雪乃に手をかけるなど、天地が引っくり返ろうとあり得ない。論理演算にかけるまでもなく、人間としての魂がその選択を完全に拒絶していた。
そうなれば、道は一つしかない。谷博士に頼み込み、倫理リミッターをすべて解除して、己の肉体をただ殺戮のためだけの『破壊兵器』へと再改造してもらうことだ。
だが、その先に何が残る? 心を捨て、ただ敵を粉砕するだけの鉄屑になった自分は、果たしてまだ「比企谷八幡」と言えるのだろうか。
あるいは──。
思考の片隅に、ふと別の可能性がよぎりかけた、その時だった。
「ひゃっはろー、八幡くん」
冷え切った夜の空気を裂いて、今この瞬間、世界で最も耳にしたくない軽薄な声が響いた。
「……陽乃、さん」
八幡が絞り出すように視線を向けると、街灯の薄暗い影から、ロングコートを羽織った雪ノ下陽乃が音もなく姿を現した。口元に浮かべられたのは、いつもの掴みどころのない薄笑いだ。
「そんなに今にも死んじゃいそうな顔して、どうしたの?」
挑発するように首を傾げるその物言いに、八幡のプロセッサが一瞬カッと熱を帯びる。だが、すぐに奥歯を噛み締めて感情を押し殺した。怒りをぶつけるだけ無駄だ。この人はいつだって、安全な高みから他人の足掻きを愉悦の瞳で見下ろす存在なのだから。
「……何の用です」
「んー? 作戦会議は終わったのかなーって思ってさ」
陽乃は悪戯っぽく笑いながら、八幡の間合いへと無遠慮に踏み込んでくる。
やはり、谷製作所でのやり取りは筒抜けだったのだ。ロシアの動きも、デーモンが提示した選択肢も、すべて奴らの掌の上。
陽乃はふと笑みを消すと、底知れない黒い瞳で八幡の顔を覗き込んできた。
「それで……君はどうするつもりなのかな? 私たちGenesisと戦うのか……それとも、『私たちの所に来る』のか」
心臓を直に鷲掴みにされたような衝撃が走る。
陽乃が口にしたのは、八幡が先ほど一瞬だけ頭をよぎらせ、慌てて打ち消そうとしていた第三の選択──エイトマンが旧人類を見限り、雪乃と共に超人類の庇護下へ下るという道、そのものだった。
「雪乃ちゃんと一緒にいることで、本来のスペック以上の出力を叩き出すエイトマン……そんな君が私たちの側にいてくれれば、ロシアだろうがアメリカだろうが、旧時代の遺物に怯える必要なんてどこにもない」
陽乃は滑らかな声音で、甘い毒を注ぎ込むように語り続ける。
「もし君たちがGenesisに来てくれるなら、私たちは二人を全力で歓迎するし、どんなサポートだって惜しまないよ。……そうするしか、君たちが幸せでいられる世界なんて残ってないと思うけどな」
目尻を下げ、慈愛の真似事のような笑みを浮かべる陽乃に、八幡は一歩詰め寄った。
「勝手なことを抜かすな。まだ選択肢はある。……俺があんたたちGenesisを根こそぎ叩き潰せば、それで全部終わりだ」
それは、もし本気で雪乃を守る気があるならGenesisの本拠地へ手引きしろという、八幡なりの揺さぶりでもあった。だが、陽乃は動じる素振りすら見せず、ふっと軽薄に息を吐き出す。
「うん、君の言う通りあのバケモノたちを全員根絶やしにできたら一番話が早いよね。……でもさ、無理でしょ?」
事も無げに、決定的な現実を突きつけてくる。
「もし君が無謀な戦いなんて仕掛けたら、Genesisは真っ先に雪乃ちゃんの命を奪うよ。ついでに私も裏切り者として殺されちゃうね。あはは、笑えない冗談でしょ?」
「あいつは、あんたたちの計画の要なんじゃないのか」
「そうだよ。だから殺せば計画の大幅な見直しは避けられない。……それでもやる時は迷わずやるよ、アイツらは。冷酷で合理的だからね。それに、未だに旧人類的な倫理観に縛られてる今の君じゃ、Genesisの中枢に触れることすらできない」
底冷えのする瞳で八幡を見つめ、陽乃は冷徹に言い放った。
「だから、私たちに降る道を選ぶのが一番安全なの。少なくとも、君と雪乃ちゃんは確実に生き残れる」
「……俺たち以外の人間は、どうなる」
八幡の低く絞り出すような問いに、陽乃は眉一つ動かさず、きっぱりと言い捨てた。
「諦めるしかないね」
八幡の電子頭脳に、小町、結衣、戸塚、沙希、平塚先生――陽乃が平然と切り捨てろと口にした枠組みに入る人々の姿が、矢継ぎ早に浮かび上がる。
超人類の軍門に下るということは、それらの人間を、自分の守るべき日常を、文字通り見殺しにして売り渡すことに他ならなかった。
諦められるわけがない。そんな取引に応じるくらいなら、死んだほうがマシだ。
息を詰まらせ、激しい拒絶の視線を向ける八幡に対し、陽乃はさらに踏み込み、心の最も脆い隙間を正確に抉るような言葉を投げかけてきた。
「それにさ……仮に奇跡が起きて私たちを倒せたとして、その後の君に、一体どんな幸福が待ってるっていうの?」
陽乃は残酷な現実を、まるで明日の天気を告げるかのように淡々と並べ立てていく。
「マシナリーである君はね、どう足掻いたって、いずれ人間社会からはみ出す運命にあるんだよ」
「君の周りにいる大切な人たちは、みーんな『寿命』で老いて、病んで、消えていく」
それは否定しようのない現実の羅列だった。
「残されるのは、永遠に錆びることのない鋼鉄の身体を持った君だけ。……最後にはたった一人、果てしない孤独の中で立ち尽くすしかないんだよ」
八幡の奥歯がギリと軋む。それは、エイトマンとしての生を受け入れた時から、心の底に澱のように沈殿していた最も暗い恐怖だった。
「でも、Genesisは違う」
陽乃は両手を小さく広げ、瞳を妖しく輝かせた。
「超人類がもたらす技術の特異点はね、いずれ老いも病も完全に消し去って、人間と世界の定義そのものを塗り替える。そこはね、マシナリーだろうが何だろうが、異形として疎まれることなく普通に生きていける新しい世界なの。……君と雪乃ちゃんが、誰にも邪魔されず、隣り合って生きていける世の中になるんだよ。その可能性を……君は捨てちゃうの?」
八幡の思考プロセッサが一瞬、凍りついたように停止した。
甘美で、毒に塗れた未来図。
それがGenesisにとって都合のいい詭弁であり、自分たちを飼い慣らすための餌に過ぎないと頭では分かっている。だが──もしも本当に、雪乃と共に平穏な時間を過ごせる場所があるのだとしたら。その提示された一握の可能性に、心が激しく揺れ動いてしまった事実を、八幡は完全に否定しきれなかった。
そんな八幡の葛藤を見透かしたように、陽乃は満足げに口元を吊り上げる。
「ふふっ……よく考えてから、答えを出してね。待ってるから」
それだけを言い残すと、陽乃は夜の闇へと溶け込むように背を向け、軽やかな足取りで去っていった。
冷たいアスファルトの上に、一人取り残された八幡。
世界が自分に過酷な選択を突きつけている。
デーモン博士の冷徹な理屈に従い、心を殺して純粋な『破壊兵器』へと成り果て、勝率皆無の絶望的な戦いに身を投じるか。
それとも、陽乃の誘いに乗って超人類の軍門に下り、雪乃と自分だけの生存を選んで、街も仲間もすべて戦火の渦へ売り渡すか。
そして、最も最悪な選択
雪乃をこの手で殺す────
「バカか!? 何を考えてる!?」
八幡は頭を振ってそれを却下するが、常に最適解を出すべく稼働し続けるシステムを止める術は無い。
電子頭脳が過熱し、ファンが狂ったように唸りを上げる。
最善の解を導き出そうと、何万、何億通りもの演算が凄まじい速度で駆け巡る。
だが、どのルートを辿っても、画面の向こうに広がるのは地獄のような結末ばかりだった。
守りたいものを守るための答えが、どこにも見当たらない。
「──そんな簡単にッ!」
軋む胸の装甲を両手で力任せに押さえつけ、八幡は暗い夜空へ向けて魂を絞り出すように叫んだ。
「答えなんか……出せるわけねぇだろッ!!」
人気のない冷え切った夜の道に、悲痛な咆哮だけがいつまでも虚しく木霊していた。
──
ひんやりとした朝の冷気で目が覚めた。
電子頭脳の内部スリープが解除され、OSのステータスが順次最適化されていく。視界の隅で、糖分欠乏を告げる警告インジケータが無機質に点滅していた。
頭の芯に霞がかかったような重苦しさは、昨晩の過酷な選択から逃避するように、半ば強制的なスリープモードへ意識を落とした反動だろう。昨夜、暗い部屋の寝床へ飛び込んだ情けない現実逃避の記憶が蘇り、八幡は深いため息を吐いた。
幸いなことに、今日も高校入試の影響で在校生は自宅待機、つまり休みだ。普段の自分なら嬉々として昼過ぎまで惰眠を貪るはずの絶好の休日だったが、とてもそんな気分にはなれなかった。
高校入試──。
先ほど自分の思考をかすめた単語が、再び脳裏を駆け巡る。
「入試……そっか、今日は小町の入試二日目か」
両親はとっくに出勤している時間だ。せめて自分だけでも見送ろうとベッドから這い出し、階段を降りてリビングへと向かった。
──
リビングのドアを開けると、すでに制服を着込み、お気に入りのヘアピンを光らせた小町がまさに玄関へ向かおうとしていたところだった。
八幡の姿に気づいた小町が、ひょいと小さく手を挙げる。
「お。おはよ、お兄ちゃん」
「おう」
八幡は短く応えながら、テーブルの上にラップをかけて置かれていた朝食を摂るべく椅子を引いた。
小町はスクールバッグを開け、最終チェックを繰り返している。筆記試験は昨日で全て終わっているため、今日のスケジュールは面接のみのはずだ。受験票と筆記用具さえ忘れていなければ、何の問題もない。
昨夜、小町は持ち帰った問題用紙を広げて自己採点をしていたはずだった。特に取り乱したり落ち込んだりした様子がないところを見るに、筆記の方にはそれなりの手応えがあったと見て間違いないだろう。
「どんな感じだ?」
トーストを口に運びながら八幡が尋ねると、小町は振り返り、肩をすくめてみせた。
「んー……まあ、ぼちぼち。今更ジタバタしてもしょうがないしね」
小町の返答を聴覚センサーが解析するが、焦りや怯えといった負の感情パラメーターは一切検出されなかった。この様子なら大丈夫そうだ、と八幡は胸を撫で下ろす。
今の自分は世界の命運だの超人類だの、途方もない二者択一を迫られている身だ。だが、そんなことはそれとして完全に別問題だった。
八幡にとって何よりも優先されるべき関心事は、目の前の妹の受験そのものだった。
「それに昨日の試験でほとんど決まっちゃってるし」
そう苦笑混じりに付け加えられた言葉の端々には、うっすらとした不安が滲んでいた。ある種の諦観とでも言うべきか。表面上こそ気丈に振る舞っているものの、やはり十五歳の少女なりに重圧や恐怖と戦っているのだろう。
「……終わったら、一緒に飯でも食うか」
淹れたてのホットコーヒーへドバドバと砂糖とミルクを流し込みながら八幡が口にすると、小町はパッと表情を明るくして、可愛らしく八重歯を覗かせた。
「お、いいねいいね! お兄ちゃんの奢り?」
「おう。……って、俺が奢るの前提かよ」
「お兄ちゃんが奢ってくれるなら、小町もっと頑張れそう……」
そう言って両手を胸の前で合わせ、わざとらしくしなを作ってみせる妹。八幡は思わず口元を緩めた。
「まあ、妹とのデートだしな。飯代くらいはどうにかしてやるよ」
「うん、いや、デートって言われると正直絶対行きたくないけど、アゴアシ持ってくれるなら我慢します」
この妹はアゴアシなどという業界用語を一体どこで仕入れてきたのだろうか。それと、実の妹に面と向かって「我慢する」と言い放たれると、兄としては普通に地味な精神的ダメージを負う。最近、心が抉られるイベントが多すぎて本当に辛い。
そんな八幡の仏頂面を見てクスクスと笑いながら、小町は「よいしょ」と鞄を肩に掛け直した。
「んじゃ、終わったら連絡するね」
「おう。面接の時間待ち、暇つぶし程度に何食べたいか考えとけ」
「……うん、そうする」
あまり気負いすぎるなよ、という八幡なりの不器用なエール。それを鋭く察知したのか、小町はふと、どこか大人びた柔らかな微笑みを浮かべた。
「では、いってくるであります!」
「はいよ、いってらっしゃい」
くるりと爪先でターンし、パタパタと小気味よい足音を響かせて駆け出していく小町の背中を、八幡は静かに見送った。
ほんのわずかな家族との他愛のないやり取り。それだけで、鉛のように重かった八幡の胸の奥が少しだけ軽くなるような気がした。
世界がどう狂おうと、この日常だけは絶対に手放してはならないのだと、あらためて実感させられる。
心の中で妹の健闘を祈りつつ、八幡は昼の合流に向けて外出の計画を組み立て始めた。
──
昼近くになり、総武線から京葉線へと乗り継いで高校の最寄り駅である稲毛海岸駅までやってきた八幡は、小町の面接試験が終わるまでの時間を潰す場所を探していた。
試験会場である高校の正門前で保護者よろしく出待ちをするのは、さすがに目立ちすぎるし小町にも鬱陶しがられるのがオチだ。そこで向かった先は、駅の南口を出てすぐのところにある大型商業施設、マリンピアだった。
ここならサイゼリヤがある。ミラノ風ドリアとドリンクバーで粘れば、格安で何時間でも時間を潰せる最適解のスポットだ。駅ビル側の席を確保できれば人通りの多い駅前ロータリーがよく見渡せるため、中学校の制服を着た受験生たちの集団が駅へ向かって歩き始めた瞬間、面接が終わったと一目で把握できる寸法である。我ながら完璧な計算だと内心で自画自賛する八幡だった。
大通り沿いの歩道を歩いていると、ふと視界の端に見慣れた姿を捉えた。
通りに面したサンマルクカフェの、大きなガラス窓で仕切られたカウンター席。そこに、青みがかった長い黒髪を高い位置でポニーテールにまとめた川崎沙希が座り、忙しなく両手を動かしていた。
その手元には、姉によく似た淡い青髪をおさげにした小さな少女──川崎京華の姿がある。ホットドリンクで汚れた口元をペーパーナプキンで拭ってやったりと、甲斐甲斐しく世話を焼いているようだった。
(本当に仲がいい姉妹だな……)
尊いものを目撃したドラえもんのような温かい半目になる八幡。
どこかの姉妹とは大違いである。あっちの姉は妹への執着と愛情表現が歪みすぎていて、思い出すだけで胃とプロセッサが痛くなる。というか、今はなるべく思い出したくない。
そんな現実逃避を交えつつぼんやり眺めていると──ガラス越しに、八幡の腐った死んだ魚の目と、京華のくりくりとした大きな瞳がぱっちりと合ってしまった。
京華は目を輝かせ、ガラス越しに小さな口をぱくぱくと動かす。八幡の読唇術ルーチンが、その動きから即座に『はーちゃんだー』という音声を割り出した。
そして案の定、妹の視線の先を追った川崎沙希とも、バッチリと目が合うこととなった。
はっきり言って、猛烈に気まずかった。
沙希の方も、丸く見開いた瞳に明らかな戸惑いと警戒の色を浮かべているのがわかる。
喩えるならば、飼い猫と家の外の路地裏でばったり出くわしてしまった時に酷似していた。下手にこちらが一歩でも踏み込もうものなら、脱兎の如くダッシュで逃げていきそうな、あの絶妙で危うい距離感。
(……やっぱり帰ろう)
余計な気まずさを回避すべく、踵を返して立ち去ろうとした八幡だったが、ガラスの向こうで京華が満面の笑みを浮かべ、小さな手をちぎれんばかりにぶんぶんと振って手招きしている。
──妹の誘いは断れまい。
それが他人の妹であっても、重度のシスコンである比企谷八幡にとっては些細な問題だった。
八幡は小さくため息を落とすと、観念してカフェの自動ドアへと足を踏み入れた。
──
「はーちゃんだー!」
自動ドアをくぐって席へ近づくなり、京華は満面の笑みを咲かせて椅子の上でぴょこぴょこと跳ねた。
「おう、けーちゃん。元気だったか」
八幡が細めた目をさらに緩め、小さな頭を優しくわしわしと撫でてやると、京華はくすぐったそうに喉を鳴らしながら、自分の隣の空いた席を小さな手のひらでぽんぽんと叩いた。
どうやらここに座れと仰せらしい。
促されるまま隣の椅子に腰を下ろすと、カウンターの向かい側からアイスブルーの切れ長な瞳と正面から目が合った。
「……そういや、お前なんでここにいんの」
「買い物……に来たんだけど、ちょっと休憩……」
沙希は視線をわずかに逸らしながら、ぶっきらぼうに答えた。
足元を見れば、確かに食料品店のロゴが入った紙袋が置かれている。だが、わざわざ休日に電車で駅を跨いでまで、総武高校に近いこのイオンへ買い物に来る理由としては少し不自然だった。
八幡が無言で怪訝そうな視線を向けていると、沙希は居心地悪そうに首元をかき、観念したように小さく呟いた。
「……ついでに、大志も。今日で、その、受験終わりだし」
「ああー……そうだったなー」
そっちが本命の理由かと、八幡は得心がいった。
昨日の筆記に続き、今日の面接を控えた弟が心配でたまらなくなり、いても立ってもいられず試験会場の最寄り駅まで足が向いてしまったのだろう。
「お前、相当なブラコンだな。やばいぞ、もはや病気の領域だろ……」
「は? あんたにだけは言われたくないんだけど」
じろりと鋭い眼光で睨みつけられ、八幡は思わず肩をすくめて縮こまった。弟想いのいい姉だと知ってはいても、元ヤン気質の眼力は普通に心臓へ悪い。
注文カウンターで受け取ってきたチョコクロとホットコーヒーをテーブルに置き、八幡は備え付けのミルクとスティックシュガーを遠慮なく手に取った。カチャカチャとスプーンを動かし、大量の糖分を溶かし込んでいく。あっという間に白に近い濁った褐色へと変貌した怪しげな液体を一口啜る。
それを見ていた京華が身を乗り出し、「あれやりたい!」と瞳を輝かせた。
「甘いものの摂りすぎは頭が悪くなるからダメ」
即座に沙希からピシャリと嗜められる京華。(間接的に俺の頭が悪いって言われてる気がするんだが……)と八幡は心の中で小さく突っ込んだ。
気を取り直してチョコクロを齧ろうと手を伸ばした瞬間、隣から熱烈な視線を感じた。
京華が両手を膝の上に揃え、宝石のようにキラキラとした瞳で八幡の手元をじっと見つめている。
「……食べるか?」
「たべるー! だから、はーちゃん好き!」
「ははは、そうかー。んじゃ、ちょっとだけ分けちゃおっかなー」
京華の無邪気な一撃に完全に撃ち抜かれ、八幡はデレデレと相好を崩しながら全開のシスコンぶりを出力した。
そんなだらしない八幡の様子を見かねたのか、沙希がすっと手を伸ばし、八幡の上着の袖をぐいと引っ張った。
京華の頭越しに顔を寄せ、耳元へ吐息がかかりそうな距離で、沙希は内緒話のように声を潜める。
「ていうかさ、あの……そういうの、ちょっと困るんだけど」
「え」
あまりのシスコン全開ぶりに引かれたのかと、八幡は一瞬で背筋を凍らせた。
「お昼も、まだだし……」
「あ、あー……」
沙希の微かに赤らんだ横顔を見て、八幡は失念していた事実に思い至った。小さな子どもの胃袋を考えれば、昼食前の間食は致命傷になりかねない。
少し考えた後、八幡は電子頭脳のセンサーで京華の身長と体格を目測スキャンし、即座に胃容量をデータ解析した。──ちょうど半分に割れば、昼食に影響を及ぼさない安全マージン内に収まる。
「じゃあ、半分こな。お姉ちゃんには内緒だぞ」
クロワッサンを綺麗に二つに割り、片方を差し出す。
「うん、ないしょ!」
京華は嬉しそうに受け取ると、小さな人差し指を口元に当てて「しーっ」とポーズを取った。
「……見えてるっつーの」
沙希は深いため息を吐きながら愚痴をこぼし、じとっとした怒気混じりの瞳で八幡を睨めつけた。
「あんまり甘やかさないでよ。あんた、いつもそうなんだから」
「いつもってことはないだろ。京華は特別だ。……あと小町」
その返しを聞いた瞬間、沙希の切れ長のアイスブルーの瞳が、すっと温度を失って細められた。
「……自覚、無いんだ」
「うっ」
その低く落とされた言葉に、八幡は息を詰まらせた。
自覚がないということは、自分は無意識のうちに他人に甘くしているということなのか。少なくとも沙希の目には、そう映っているらしい。だが、一体何を見てそんな判断を下したというのか。エイトマンとして他人の厄介事に首を突っ込んできたことか、それとも──。
「そういうとこ、もっとはっきりさせた方がいいと思う」
しどろもどろになる八幡へ冷淡なジト目を向けながら、沙希は冷めかけた自分のコーヒーを一口煽った。
「……また、何かあったの?」
そして、何の脈絡もなく、核心を突くような問いを投げかけてきた。
「……はい?」
あまりに唐突な問いかけに、八幡の口からすっとんきょうな声が漏れた。
「また」が何を指しているのかは、痛いほど察しがつく。だが、なぜ目の前の少女がこちらの異変を言い当てられるのかが理解できない。まさか電子頭脳の暗号通信が漏洩して、無意識のうちに独り言でも口走っていたのだろうかと、背筋に冷たいものが走る。
「あんた、そうやってコーヒーに砂糖を馬鹿みたいに入れる時って、決まって何か深刻な考え事してる時でしょ」
痛いところを突かれ、八幡はカップを握る手に思わず力を込めた。
自身の精神状態の揺らぎが、そんな些細な日常の癖から見抜かれていたとは思いもしなかった。沙希の観察眼の鋭さに、内心で舌を巻くしかない。
沙希は視線を伏せ、テーブルの木目を指先でなぞりながら言葉を継いだ。
「昨日、海外のニュースやってたでしょ。……変な機械の部隊がどうとかっていう、あれ」
遠回しな言い方だが、彼女が何を言いたいのかは明白だった。メキシコで突如として実戦投入された謎の機械化部隊──Genesisの台頭。マシナリーの身体を持つ八幡が、あの異様な事件と無関係でいられるはずがないと、沙希なりに勘づき、心配していたのだ。
「また、危ないことになりそうになったら、真っ先に自分が動くんでしょ? ……あんた、甘いから」
「……どうだかね。俺はそんなに働き者じゃないし、思いやりもねぇよ」
八幡は窓の外、行き交う人々の雑踏へと視線を泳がせた。
大国のエゴ、千葉への無差別爆撃のカウントダウン、雪乃を巡る破滅的な二者択一。目まぐるしく過激化する情勢に翻弄され、明日の自分が破壊兵器へと成り果てているのか、それとも道端の鉄屑としてスクラップにされているのかすら、何一つ定まっていない。
「分かってるなら、あんまり無理しないでよ」
沙希は伏し目がちに、少しだけ肩をすぼめてしゅんとしながらも、どこかぶっきらぼうに言葉を紡ぐ。
「……あんたって、ヒーローなんて柄じゃないんだから」
「分かってるよ……」
それには、八幡も心の底から同意するしかなかった。
自分は世界を救う正義の味方でも、誰かの希望になる英雄でもない。ただの出来損ないのマシナリーであり、今は自分の大切な日常と妹の平穏を守ることだけで手一杯で、有効な手立て一つ打てずに立ち尽くしているだけの存在なのだから。
「……けんか、しないで?」
二人の間に落ちた重苦しく深刻な空気を察したのか、京華がチョコで茶色く汚れた口元を尖らせ、不安そうに見上げてきた。
「喧嘩じゃないよ。ほら、けーちゃん、こっち向いて」
沙希はふっと張り詰めた空気を解き、テーブルのウェットティッシュを手に取ると、妹の小さな口元を丁寧に拭ってやった。
その横顔に浮かんだ柔らかな微笑みは、普段のツンツンとした威嚇が嘘のように、世界中の誰よりも優しさに満ちていた。
日曜日にまた投稿する予定です。