——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
今回はちょっと長めです。
ガタゴトと規則正しい振動を響かせる電車のロングシートに身を預けながら、八幡は車窓を流れる鈍色の景色をぼんやりと眺めていた。
ほんの数時間前まで胸の奥を激しくかき乱していた焦燥や恐怖は、いまや嘘のように引き潮となって消え去っていた。過剰にリソースを食いつぶしていたアラートが鎮火した電子頭脳の内側は、凪いだ水面のように奇妙な静けさを保っている。
八幡は視覚の奥でバックグラウンド接続を確立し、網膜ディスプレイ上にグローバルネットワークの報道ログを展開した。
案の定、世間は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。だが、その見出しの数々を斜め読みした八幡は、冷ややかな失望を禁じ得ない。
『北朝鮮、日本海へ向けて弾道ミサイル発射か──空中爆発により失敗と推定』
『防衛省、厳重な警戒態勢を継続』
ロシアの軍事サイロから発射され、宇宙からの閃光によって蒸発させられたという悪夢の真実は、綺麗さっぱり隠蔽されていた。大国同士の面子とパニック回避のため、日米露が足並みを揃えて「いつもの実験失敗」という都合のいい筋書きへ押し込めたのだろう。水面下では各国首脳や軍中枢が未曾有の危機感に震え上がっているはずだが、表層の日常は何食わぬ顔で回り続けている。
(……だが、この千葉に奴らがいる限り、同じ脅迫と破壊は何度でも繰り返される)
薄氷を踏むような平穏。
それは超人類(Genesis)の気まぐれ一つで、いつでも粉々に砕け散る砂上の楼閣に過ぎない。
八幡は思考をさらに一段深く潜らせた。
今度は恐怖を排除し、より純粋に、冷徹に──『自分はどう行動することが最適であるか』を。
戦うのか。
それとも、全てを捨てて逃げるのか。
どちらを選ぼうと、誰かの命令や差し迫った恐怖に流されて下した決断であってはならない。他ならぬ比企谷八幡自身が、泥臭く悩み抜いた末に心底から「納得」した答えでなければ、この先何十年、あるいはマシナリーとして続く永遠に近い稼働時間を、一生拭えない後悔の中で生きることになる。
(谷博士やデーモンに言った通りだ。明日、研究所に行くまでに、俺なりの答えを出す)
それが、自分自身に課した絶対の前提だった。
滑らかな減速音とともに、電車が目的地の駅のホームへと滑り込む。
プシューと音を立てて開いたドアへ向け、八幡は静かに足を踏み出した。
「ただいまー……」
玄関のドアを開けて靴を脱ぎかけた瞬間、廊下の奥からパタパタと軽快な足音が駆け寄ってきた。
「あ、お兄ちゃん! どこ行ってたのさ! 急に居なくなるし、連絡しても『ちょっと用事』とか一言だけだし!」
仁王立ちで腰に手を当て、ぷりぷりと頬を膨らませる小町。
いつもの調子で理不尽に責め立ててくる妹の姿に、八幡は思わず口元を緩め、苦笑交じりに頭を下げた。
「わりぃわりぃ。ちょっと急ぎの用件を思い出しちまってな。悪かったよ」
「……え」
いつもなら「お前な、兄を荷物持ち扱いするな」だの何だのと屁理屈をこねて反論してくるはずの兄が、あまりにあっさりと素直に謝ってきたものだから、小町は毒気を抜かれたようにきょとんと目を丸くした。
そんな妹の横をすり抜け、リビングへと足を踏み入れる。
漂ってきた香ばしい匂いに視線を向けると、ダイニングテーブルの上には、湯気を立てる色鮮やかな料理の数々が所狭しと並べられていた。照り焼きチキンに具だくさんの豚汁、きんぴらごぼうに炊き立ての白米。試験終わりの解放感と気合が、そのまま皿の上にこれでもかと凝縮されている。
「……すげぇな。ごめんな、一人で全部やらせちまって」
「んー? いいのいいの! 小町の趣味だから! それにほら、受験勉強でずっと料理もお預けだったしね」
小町はエプロンの紐をキュッと結び直しながら、はにかむように笑った。
「それに……お兄ちゃんを甘やかすのが趣味、みたいな? えへへ」
小首を傾げててへっと舌を出す妹に、八幡は「それちょっと病気の領域だぞ……」と呆れ半分で呟きつつも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを覚えていた。
「病気じゃないもーん。家事が好きなのは本当だもん。昔はお兄ちゃんに色々面倒見てもらってばっかりだったけど、小町も大きくなって色々できるようになったし。家族の役に立ってるーって実感できるの、普通に嬉しいんだよね」
小町はどこか誇らしげに鼻を鳴らす。
両親が共働きで家を空けがちだった幼少期、泣き虫だった小町の隣には、いつだって八幡がいた。不器用なりに妹の面倒を見て、一緒に留守番をして、寂しさを埋め合ってきた。
それなのに、いつの間にか小町は自分の足で立ち、家のことを器用にこなし、今や兄の世話を甲斐甲斐しく焼く側に回っている。
本当によく出来た妹だと思う。自分のような出来損ないの兄には、あまりに勿体なさすぎるくらいに。
「それにね、最近はお兄ちゃん、あんまり手がかからなくなっちゃったからさ。……小町、ちょっとだけ寂しかったんだよね」
ふと落とされた小町の独白に、八幡は自嘲気味に口角を上げた。
「……これも、俺がだらしない兄貴だったからかな」
「そうだね! ダメな兄を持つと、危機感で妹はグッと成長するのですよ!」
小町はここぞとばかりに胸を張り、ドヤ顔を浮かべてみせる。
「そうだな。ダメな俺に一生感謝しろよ」
いい加減に料理が冷めそうだったため、八幡は椅子を引き、テーブルの上の割り箸に手を伸ばした。
その時だった。
「──それで、ダメなお兄ちゃんは、今度は何を抱え込んでるの?」
出し抜けに、澄んだ声が静まり返ったリビングに落ちた。
「……は? 急にお前、何言ってんだ」
いつも通りの気のない仏頂面を作って返したが、内心では冷や汗が吹き出る思いだった。
感情制御ルーチンを走らせ、顔の筋肉から視線のブレに至るまで完璧に平然を装っていたはずなのだ。それなのに、あっさりと急所を突いてくる。兄妹の勘というやつなのか、それともこの妹の観察眼が化け物じみているのか。
小町は八幡の動揺を見透かしたように、細めた瞳でじっと見つめてくる。
「分かるよ、そのくらい。だってさっき言ったでしょ? ダメな兄を持つと危機感でグッと成長するって。なんかダメそうになってるなぁ、一人で抱え込んでパンクしかけてるなぁって、見てればすぐ分かっちゃうんだよね」
「……そこまで顔に出てたか?」
マシナリーのポーカーフェイスすら易々と貫通されては、もはや白旗を上げるしかない。恐れ入ったとばかりに八幡が肩をすくめると、小町は身を乗り出してぐいっと顔を寄せてきた。
「で、何があったの?」
「……いや、別にそこまで深刻な話じゃないけど」
真っ赤な嘘である。
実際には今までで最大の危機、自分はおろか千葉県、下手をすれば日本全土が業火に包まれるかどうかの瀬戸際だ。だが、そんな絶望的な現実を今日入試を終えたばかりの妹に背負わせるわけにはいかない。
八幡が視線を逸らすと、小町はふっと表情を曇らせた。
「……言いたくないこと、なの? 小町にも言えない?」
「いや、だから本当に大丈夫だって──」
「大丈夫じゃないよ」
小町の声は静かだったが、反論を許さない芯の強さがあった。
すっと伸びてきた温かい両手が、八幡の冷たい右手を包み込む。生身の体温が、人工皮膚のセンサーを通じてじわりと伝わってきた。
「お兄ちゃんさ、小町ずっと見てるから分かるけど、前に比べたらすっごく強くなったし、成長したと思うの。たぶん、小町なんかよりも全然……」
ぽつりぽつりと、小町は胸の内を吐露するように言葉を紡ぐ。
「でもね、やっぱりお兄ちゃんってどこか危なっかしいよ。……ううん、違うな、そうじゃなくて。……うん、らしくないことを、無理矢理一人でやっちゃうところ。それって、前とぜんぜん変わってないと思う」
「……そんなに、前から変わってないか?」
八幡が掠れた声で問い返すと、小町はまっすぐに兄の腐った目を覗き込んできた。
「変わってないよ。お兄ちゃんてば、ヒーローなんてガラじゃないくせに、カッコつけすぎなんだよ。出来ないことまで一人で抱え込もうとするなんて……見てるこっちからしたら、本当にやめてほしい」
──あんたって、ヒーローなんて柄じゃないんだから。
昼間、カフェで沙希に投げかけられた言葉が、そのまま小町の声と重なって脳裏に蘇る。立て続けに身近な人間から同じ痛烈な指摘を食らえば、八幡としても思わず口を尖らせたくなる。
「いや……そうは言うけど、俺は別にカッコつけてるつもりなんてないし、世界を救う正義の味方気取りとかでも──」
「だから! そういうところだってば!」
ぺちん!
鋭い乾いた音がリビングに響き渡った。
八幡の額へ、小町の手刀(チョップ)が容赦なく振り下ろされたのだ。
──一秒、二秒。
「っっっっっっっっった~~~~~~~~~っっ!!!」
静寂を切り裂いて、小町が涙目で自分の右手を抱え込み、床の上で悶絶した。
「もうっ! お兄ちゃんやっぱり頭固すぎ!! なんなのその石頭! そんなんだから、頭の中の考え方までカチコチに固いんじゃないの!?」
「いや……物理的に頭部装甲が硬いのと、思考の柔軟性はまったく関係ないからな? ていうか、完全にただのお前の自滅だろ……」
痛む手を必死にさすりながら涙目で睨みつけてくる妹に、八幡は呆れて首を振りながらも、張り詰めていた肩の力をふっと抜いて箸を取った。
「ほら、早く食わねぇとせっかくの飯が冷めるぞ。大体なぁ、俺がいくら変わってないからって、お前もいい加減兄離れをな──」
八幡は豚汁の椀を持ち上げようとして、ふと視界の違和感に気づき、言葉を途中で飲み込んだ。
ほんの一瞬、小言を言おうと目を伏せた隙のことだった。
次に目を開けると、小町は先ほどまで騒いでいたのが嘘のように、フローリングの上にすっと居住まいを正し、綺麗に正座していた。
「……でもね」
小町の澄んだ声が、静かなリビングにぽつりと落ちる。
「それでも、ちゃんと小町のところに帰ってきてくれるの、すごく嬉しいし、感謝してるの」
そう言うと、小町は床に両手を揃え、三つ指をついて深々と頭を下げた。
いつものふざけた調子はどこにもない、凛とした、そして真摯な礼の姿勢。
「今しか言えないかもだから……ちゃんと言うね?」
顔を上げた小町は、ぱっちりとした丸い瞳を潤ませながら、花がほころぶような笑みを八幡に向けた。
「お兄ちゃん、今までありがとう」
「…………」
「──お世話になりました」
その瞬間、八幡の電子頭脳のプロセッサが一瞬、完全に白く焼き切れたように思考を停止させた。
「…………っ、あ」
声にならない掠れた吐息が、口元から漏れる。
なんて可愛い奴なんだろう、と思った。
それ以上に、胸郭の奥深くに埋め込まれた動力リアクターが、くすぐったいような、締め付けられるような熱を帯びて激しく脈打つ。
頬の筋肉が勝手に緩んでいくのが自分でも分かった。
きっと今、世界で一番情けなくて、締まりのない、気持ちの悪い顔をしているに違いない。
だが、羞恥と歓喜と、どうしようもない切なさが濁流のように入り混じったこの感情を、一体どんな演算式で処理すればいいというのか。いくら超高速の電子頭脳をフル回転させたところで、最適解など何一つ弾き出せなかった。
「えへへー、ちょっと言ってみたかったんだよね! 小町的にポイント高いかな?」
小町は悪戯っぽくニシシと笑ってみせた。
反則だろ、そんなの。可愛すぎて内蔵回路が爆ぜてショートしそうだ。
八幡は壊れかけた言語プロトコルを総動員して、精一杯の仏頂面を取り繕いながら言葉を絞り出した。
「た、高くねぇし……。だいたい、そんな嫁に行く時みたいなセリフ、まだお前の口から実装するには早過ぎるっつーの……」
逃げるように視線を逸らし、自分のくしゃくしゃの前髪を乱暴に掻きむしる。
喉の奥がカッと熱くなり、妙な嗚咽がせり上がってきそうになるのを必死に噛み殺した。
なんだこのやろう。ここまで兄貴の心を揺さぶっておいて、なんで俺の身体は普通の人間の男みたいに、涙の一滴すら流してやれないのか。
(……泣けよ。頼むから今くらい、目から水流せよ)
電子頭脳へ無理な命令を叩き込むが、網膜の隅には無機質なシステムエラーが虚しく点滅するだけだった。
「……お風呂、沸かしてくるね」
そんな八幡の不器用な強がりを見透かしたように、小町はふっと柔らかく微笑んだ。
「小町、先に入っちゃうから」
立ち上がり、リビングの扉へ向かう小町の声が最後の方でわずかに掠れていたのは、きっと気のせいではないはずだ。
パタンと扉が閉まり、静寂が戻った部屋で、八幡は一人立ち尽くした。
(……俺も、こんな時に泣けたらなぁ)
それはどれほど願っても、一生かかっても変わることのない機械の現実だ。
だけど。
(俺のどこが変わって、どこが変わってないか……ちゃんと見ててくれる家族がいるんだもんな。……サンキュな、小町)
湯沸かしに行って置き去りにされてしまった妹の夕食に、冷めないよう丁寧にラップをかけながら、八幡は暗闇を振り払うように静かに微笑んだ。
──
自室のデスクに腰掛け、八幡はスマートフォンの画面を点灯させた。
通知欄に表示されていたのは、雪乃からのメッセージだった。
無駄な修飾語を削ぎ落とした、彼女らしい端正で整った文面。
『本日のミサイル事案を受け、明日、総武高校は臨時休校となるそうです。平塚先生から連絡がありました。一応、あなたにも伝えておきます』
世間を騒がせているミサイル発射実験の失敗という建前を信じているわけではないだろうが、学校側が対応に追われているのは事実なのだろう。明日、研究所へ向かうために休む算段をつけていた八幡にとって、この連絡は都合が良かった。
(好都合、だ……)
画面を見つめたまま、八幡は思考の海へと沈んでいく。
このまま雪乃に何も告げず、明日ラボへ行き、全てに決着をつけるべきではないのか。
これ以上彼女と関わり続ければ、超人類が目論む「旧人類の統治者としての雪乃」と「彼女を守るエイトマン」という最悪のシナリオに、自ら足を踏み入れることになる。
だが──。
(このまま、あいつに会わずに終わっていいものだろうか)
本当は分かっていた。
今、自分自身が心底から納得し、中途半端な迷いを完全に断ち切るために向き合わなければならない相手は、他ならぬ雪ノ下雪乃その人だ。
だが、会って何を話すというのか。
自分はあの日の事故ですでに命を落とし、鋼鉄の骨格を持つマシナリー「エイトマン」として蘇ったのだと告白するのか。お前は超人類によって世界を支配するための部品として狙われているのだと、狂気の真実を突きつけるのか。
そう理解していながら、胸の奥底にある最も根源的な『恐れ』が、最後の一歩を全力で拒絶していた。
真実を知られた時のことを考え身震いする。
冷たい鉄の塊ではなく、同じ痛みを分かち合える「一人の人間」として、彼女の瞳に映っていたい──その無様なエゴと恐怖が、八幡の回路を縛り付けていた。
ピコン、と短い電子音が静かな部屋に鳴った。
画面には『既読』の文字。そして、間髪を入れずに届いた短い催促。
『どうかしたのかしら?』
八幡の指がぎこちなくキーボードを叩き始める。
『了解した。わざわざ悪いな』と打ち込み、送信ボタンの上に指を乗せた。
だが、そこで指がピタリと止まる。
これを送ってしまえば、会話は終わる。
そして明日、二度と彼女の姿を見られなくなるかもしれない。
その予感が脳裏をかすめた瞬間、電子頭脳の内側で無数の演算スレッドが一斉に火花を散らした。
どうすれば彼女に『会いに行ける』のか。
どうすれば彼女と『向き合える』のか。
どうすれば彼女に『伝えられる』のか。
どうすれば彼女の『隣に立てる』のか。
どうすれば彼女を『守れる』のか。
──いつか、私を助けてね。
落ちていくあの感覚の中で、彼女から託されたあの声が、回路の奥底で鮮明に再生される。
どうすれば、彼女を『助けられる』のか──。
「──あ……」
自然と声が漏れた。
会いに行く、向き合う、伝える、隣に立つ、守る。
雪ノ下雪乃と出会い、関わり続ける中で積み上げられてきた感情と行動ログ。恐怖や焦燥、無様な願望というノイズに埋もれていたそれらすべての中心に、最初から存在していた絶対のプロトコル。
それを『再確認』した今、送信ボタンの上に置かれていた八幡の親指が、迷いを断ち切るようにスライドし「通話」のアイコンをタップした。
耳元に当てた端末から、ツーツーと呼び出し音が鳴る。
二度、三度。
『──何かしら? 突然電話をかけてくるなんて、少し驚いたのだけれど』
スピーカーから流れてきたのは、凛とした、だがどこか訝しげな雪乃の声だった。
「あー……んんっ、悪い。急に電話なんかして」
八幡は喉を鳴らして声を整え、静かに目を閉じた。
そして、自分でも驚くほど自然に、胸の内の言葉を紡ぎ出す。
「なあ雪ノ下、急で悪いんだが、今から会えるか?」
『……今から? 何か用でもあるの?』
「ああ。……直接、話したいことがある」
努めて冷静に、だが一切の逃げ道を断つ響きを込めて告げる。
断られたら元々だ。想いを伝えられないまま終わるなら、それも自分の弱さの報いだろう。
それでも──どうか、と八幡は瞼の裏で強く念じた。
数秒の静寂が、永遠のように長く感じられた。
『……何か、急用のようね。分かったわ』
「…………いいのか?」
思わず問い返した八幡に、受話器の向こうの雪乃は、いつもの調子で小さく息を吐き出した。
『あなたから言い出したのでしょう? 私は構わないわ。……どこで待てばいいかしら』
八幡は右手を強く、鋼鉄の軋む音が鳴らないギリギリの力で握りしめた。
「悪いな。じゃあ待ち合わせ場所は────」
──
「お兄ちゃん、こんな時間にどこ出かけるの?」
呆れた顔の小町が首を傾げながら訝しむ。
玄関で靴を履きながら八幡は軽く首を傾ける。
「ああ、ちょっとな。急だけどまた用が出来ちまった」
「……またなの?」
また、という意味が何を指してるのか。薄々気づき始めてる小町は疑問を口にする。兄が他人どころか家族にも言えない何かを抱えてる。
それを無理に詮索するつもりはないが、それでも隠しているという事実に一抹の寂しさを禁じ得ない。
「……もう暗くなるし、ちゃちゃっと済ませて帰って来てよね。風邪とか引かれても困るし」
それでも小町は八幡を止める事はしなかった。兄なりの考えの元に行動しているのだ。今回のこれもその延長線上にあり、大切な事なのだろう。
「了解。肝に銘じとくわ。……なぁ、小町」
「ん、なに?」
「今までよく頑張ったな。正直言って大したもんだと本気で思ってる。──本当にお疲れ様」
「な、なんなのいきなり。改まっちゃって」
「ん? ……そうだな、さっき泣かされた仕返し」
「仕返しって……お兄ちゃん泣いてなかったじゃん」
「男は上っ面じゃなくて心の中で泣くもんなんだよ」
「なにそれ、ちょっとキモ……。──でも、ま、こういうのもたまには良いかな」
小町が八重歯を見せながら朗らかに笑った。
その顔を見てつられて笑う八幡は思う。
──しんみりした妹も新鮮で良いが、小町はやはり、笑顔が一番だ。
「そうだろう?……じゃあ、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい!」
手を振って見送る小町に軽く返し、八幡はドアを閉じる。
──ごめん、小町。
振り返らずに心の中で謝罪した。
──
夕日が地平線の彼方へ沈み、千葉の街並みが冷え切った群青色に染まり始めていた。家を出てから数分。冷え切った夜風が頬をかすめる中、八幡は待ち合わせ場所へと歩を進めていた。
歩きながら、八幡は自分が無意識のうちに改ざんしてしまっていた『回答』の欺瞞を、一つひとつ解体していた。
ディスティニーランドでの夜に彼女から託された言葉。
──いつか、私を助けてね。
彼女を『助ける』という意味を、自分はいつの間にか『自分と共にあり続けること』という都合のいい解釈にすり替えてはいなかったか。
彼女を守るという大義名分のもと、側にいること、向き合うこと、時に対立すること──そのすべての前提に「雪ノ下雪乃と共に居ること」を無意識に組み込んでいたのではないか。
(──違う)
そうじゃない。彼女を助けるとは、そんな甘ったるい自己満足などでは決してなかったはずだ。
電子頭脳は最初から正常に稼働していた。だが、比企谷八幡という主となる個体──すなわちエイトマンとしての存在意義やエゴを最優先にして演算を行っていた。だからこそ余計な回り道をし、あれこれと無駄の多い選択肢に迷い込んでいたのだ。
最初から、『前提条件』は決まっていた。
『ねえ、約束だよ、ヒッキー。……ゆきのんが、本当に困ってたら。自分でもどうしようもなくなって、壊れちゃいそうになったら。……助けてあげてね?』
いつか由比ヶ浜結衣と交わした、あの切実で純粋な約束。
雪ノ下雪乃を救うための、最も純度が高く、最も理想的な最適解。
自分のすべての行動原理はそこから出発していた。結衣との「約束」がいつしか雪乃との「誓い」に変わり、八幡の全回路を貫く絶対のプロトコルになっていたことを、どうして見失いかけていたのか。
『ぶっ壊してやる。その「偽物の最適解」ごと』
かつて文化祭実行委員会の泥沼で、他人の悪意と怠惰によって彼女の能力と尊厳が都合よく搾取されかけた時、心の底から憤ったあの激情を忘れたのか。
彼女が誰かの都合のいい部品に成り下がることを絶対に許せず、全てをぶち壊してでも奪い返すと誓ったあの決意を忘れたのか。
今度もそうだ。
本人のあずかり知らぬところで自らを統治者の部品へと変えられ、永遠の暗闇と孤独へ向けて突き進まされようとしている彼女を、機械の保身を理由にただ黙って見ているだけなどあり得ない。
──いつの間にか、間違えていた。
俺は、そんな理不尽な欺瞞に怒りを覚える『人間』だったはずだ。
アスファルトを踏みしめる八幡の瞳に、宿るはずのない熱い炎のような強い意志と力が宿っていく。
だから、今夜こそ彼女に伝えなければならない。
自分が泥臭く足掻いて導き出した真実の回答を。
そして、雪ノ下雪乃という一人の人間に捧げる、魂の誓約を。
──
待ち合わせ場所の交差点まであと数十メートルというところで、歩行者用信号が無情にも赤へと切り替わった。
(ちっ……)
この冷え切った夜気の中、雪乃を待たせるわけにはいかない。もどかしさに駆られ、視界の端に映った歩道橋へと視線を向けた。信号を待つより、上を渡ってしまった方が早い。
トントンと金属製の階段を駆け上がり、歩道橋の通路へ足を踏み入れた瞬間、八幡の足がピタリと止まった。
欄干の真ん中に、見慣れた艶やかな黒髪を夜風になびかせ、コートのポケットに手を突っ込んで佇む細身のシルエットがあった。
「……雪ノ下?」
思わず口から漏れた呼びかけに、その背中がピクリと跳ねる。
おずおずと振り返った少女は、やはり雪乃だった。街灯の白い光に照らされた端正な顔立ちに、微かな驚きが浮かぶ。
「あ……比企谷くん。そっちから、来たのね」
「お前、何だってこんな吹きっさらしの場所で待ってんだよ」
呆れ半分に言いながら歩み寄ると、雪乃はふっと薄い唇に苦笑を浮かべ、同じようにこちらへと歩き出した。
「ここからなら、遠くからでも歩いてくるあなたが分かると思ったのだけれど……相変わらず存在感が希薄ね。全然気づかなかったわ」
「人を酸素か窒素みたいに言うな。まあ中学の時、気配を完全に遮断して教室の隅に同化する特訓とかしてたけどさ……」
「それはただの不気味な特技ね」
会って早々、いつもの軽口と毒舌の応酬が滑らかに交わされる。
やれやれと首を振る八幡を見て、雪乃は何がツボに入ったのか、口元に手を当てて「ふふっ」と小さく笑い声を漏らした。
「何がそんなにおかしいんだよ」
「ええ、ごめんなさい。でも、なんだか可笑しくて」
そう言って、雪乃は手すりに寄りかかり、群青色に沈みゆく千葉の街並みへと視線を転じた。
夕暮れの残滓が空の彼方に溶け、街に無数の人工の灯りがぽつぽつと灯り始めている。冷たい空気に浮かび上がる彼女の横顔は、サマーキャンプの夜も、文化祭前夜の屋上でもそうであったように、息を呑むほどに整っていて、美しかった。
「そういえば……」
街を見つめたまま、雪乃が静かに口を開く。
「今日、小町さんの面接の日だったわよね。どう? 合格できそうかしら」
「筆記は自己採点で八割乗ってるはずだからな。よほど面接でヘマしたりしてなきゃ受かるだろ」
「そう……良かった。小町さんが春から後輩になるのを、楽しみにしていたから。問題なさそうで安心したわ」
「覚悟しとけよ。アイツが入ってきたら、ただでさえ面倒な学校生活がさらにうるさくなるぞ。兄貴の俺でも時々本気で手に余るんだからな」
「……それは大変ね」
ふふ、と柔らかく微笑んだ後、雪乃は再び街の光へと視線を戻した。
吐き出す息の白さだけが宙に溶けていく。会話が途切れ、冬の静寂が二人の間を満たした。
言うなら、今しかない。
彼女もまた、八幡が何を言い出すのかを静かに待っているような、ピンと張り詰めた気配があった。
八幡は胸の奥で息を深く吸い込み、その名前を呼んだ。
「──雪ノ下」
八幡の呼びかけに、雪乃が手すりから身体を離し、ゆっくりとこちらへ向き直った。
「──何かしら」
「……………」
応じる雪乃の静かな声を聞いた瞬間、鋼鉄で鋳造されたはずの胸のリアクターが、まるで生身の心臓であるかのようにドクンと跳ね上がった。
(……本当に、今ここで言うべきなのか?)
覚悟を決めて家を出てきたはずの心が、土壇場で急激に弱気な軋み音を立て始める。
自分がこれから告げようとしている言葉の重みが、彼女に正確に届くのか。
一方的な自己満足やエゴの押し付けになってしまわないか──そんな迷いと焦燥が、電子頭脳の思考領域を一瞬で侵食しようとする。
だが。
「………………」
八幡の揺れ動く内面を見透かしたかのように、雪乃の透き通るような漆黒の瞳が、まっすぐにこちらを射抜いていた。
その瞬間、ピタリと胸の不協和音のようなノイズが消え去った。
街灯の光を反射して夜空よりも深く澄み渡るその目を見つめているだけで、恐れや迷い、不安といった負の感情が、冷たい夜風に吹かれた煙のように綺麗に霧散していくのを感じる。
(……敵わねぇな、本当に)
この少女の眼差しに見つめられて改めて思い知らされる。
どこまでも比企谷八幡という存在は、雪ノ下雪乃に心を奪われ、そして救われている。
だから、もう恐れは微塵も残っていなかった。最後の勇気は、いま彼女から確かに受け取ったのだから。
八幡は息を整え、まっすぐにその瞳を見据えて口を開いた。
「雪ノ下、前に言ったお前の『願い』……覚えてるか」
「願い……?」
雪乃は小さく眉をひそめ、人差し指を顎に当てて記憶を探るように視線を宙に漂わせた。
「それはもしかして……あなたと由比ヶ浜さんに話した、父と同じ仕事に就いて雪ノ下家を継ぎたいという、あの話かしら」
姉へのコンプレックスを乗り越え、自分の足で立ち、家族と真正面から向き合うと決めた彼女の決意。確かにそれも尊い願いの一つだ。
だが、その前向きな意志すら、超人類の手によって「旧人類の統治者」へと誘導する罠に利用されているという事実に、八幡は胸の奥で奥歯を強く噛み締める。
「いや、そっちの話じゃなくて……十二月の、ディスティニーランドに行った時のことだ」
八幡が言葉を区切りじっと見つめると、雪乃は顎に指を当てた姿勢のまま、しばらくの間ぽかんと固まった。
そして──その意味を完全に理解した瞬間。
透き通るように白かった彼女の頬が、耳の先、首筋に至るまでみるみるうちに林檎のように紅潮していった。
「──っ、あ……あの時の、ことね」
わずかに声が上ずり、震えている。
彼女が忘れていなかったことに、八幡は心底胸を撫で下ろした。これで「何のことかしら?」とでも返されていたら、鋼鉄のメンタルごと粉々に砕け散るところだった。
「俺、ずっとあの時のお前の言葉の意味を考えててさ」
八幡は努めて平然を装いながら、静かに言葉を紡ぎ出した。
「慣れないアトラクションで落ちるのが怖くなって、咄嗟に口から出ただけなのかとか思ってた。まあ、普通はそう思うだろ。普段のお前を見てたら、俺なんかに助けを求めるとかあり得ないし、気の迷いか何かのノリだったんじゃないかって……そう色々考えてた」
「そんなことは、ないわ」
八幡の自己防衛混じりの言葉を、雪乃は強い調子で遮った。
「私は……あなたのことを、本当に信頼しているの。能力が高いとか、誰も思いつかないような発想をするとか、そういう都合のいい理由じゃないわ。だから、私は……あなたになら、って……」
勢いに任せて口走ったものの、自分がどれほど大胆で無防備な本音を晒してしまったかに気づいたのだろう。
雪乃は恥ずかしさに耐えかねたようにふいっと視線を伏せ、両手でマフラーの端をぎゅっと握りしめて言葉を詰まらせた。
「……それで、ずっと考え抜いた末に、やっと俺なりの『回答』が出た」
『回答』という、いかにも彼らしい理屈屋の単語に、雪乃は伏せていた漆黒の瞳をそっと持ち上げ、八幡を見つめ返す。
群青の夜空の下、街の明かりが反射する歩道橋の上で、八幡はまっすぐに彼女の瞳を捉え、一切の迷いを排した声で告げた。
「お前の願いは、必ず叶う。……それが、俺の『回答(こたえ)』だ」
「……『こたえ』……?」
八幡が口にした言葉の意味を噛み締めるように、雪乃は小さく唇を震わせながら呟いた。
アトラクションが落ちる瞬間、自分でも無責任で、あまりに身勝手だと自覚しながら吐き出した「いつか助けて」という願い。
曖昧で、期限すら定まらないその救難信号に対し、この男は真っ向から、何ひとつ逃げ隠れすることなく「必ず叶う」と言い切ってみせたのだ。
「──『いつか』、と私は言ったわ」
雪乃は揺れる瞳で八幡を見つめ、問いかけるように言葉を紡ぐ。
「ああ。そう言ったな」
「いつか叶うなんて……そんなの、いつの日になるか分からないわ。明日かもしれないし、何年も、何十年も先かもしれないのよ?」
「そうだな。だから──その『いつか』が来るまで、そしてそれが過ぎ去った後も、何度だって必ず、お前を助けるつもりだ。……それじゃダメか?」
吹き抜ける冷たい夜風を切り裂き、八幡は一切の躊躇を捨て去った響きで言い放った。
「だから──俺に、お前との約束を履行させてくれ」
「─────ッ!!」
雪乃の息が、はっきりと止まった。
「誰かに頼まれたからじゃない。義務でも、憐れみでも、同情でもない。……俺が、そうしたいんだ」
より鮮明に、力強く、八幡の声が歩道橋の上に響き渡る。
いつもそうだ。
この男は、普段は徹底して理屈をこね回し、卑屈に身を引いているくせに、ここぞという局面でらしくもない言葉を大真面目に突きつけてくる。
文化祭の時も、修学旅行の時も、生徒会選挙の時も──
こちらの心の防壁など歯牙にもかけず、土足で踏み込んで、内側の柔らかい部分を滅茶苦茶に掻き乱していくのだ。
気に食わない。
本当に鬱陶しい。
なんの臆面もなく、そんな恥ずかしい台詞を口にして、平気な顔をしていられる神経が信じられない。
──それなのに。
胸の奥が張り裂けそうなほど、涙がこぼれ落ちてしまいそうなほど
『嬉しい』
乱れそうになる呼吸を必死に整え、雪乃は潤んだ漆黒の瞳を、まっすぐに八幡の腐った目へと向けた。
「……一つ、聞いていいかしら」
「……ああ」
「私ばかりあなたに頼るなんて、そんなの不公平だわ。──だから、あなたの願いを……聞かせてもらえないかしら」
──
『あら、人の顔を見るなり露骨に嫌な顔をするなんて。比企谷君といったかしら? 腐った魚の目……いえ、もはや有機物の温もりすら感じさせない、冷えたプラスチックみたいな目ね』
『……あいにく仕様だ。あと、これ以上こっちを見るな。理性が……いや、電子頭脳がオーバーヒートする』
それが、比企谷八幡と雪ノ下雪乃との最初の会話。
あのやり取りは、今でも電子頭脳の最深部セクタに、色褪せることのない鮮明なログとして刻み込まれている。
交通事故で生身の肉体を喪失し、鋼鉄の骨格を持つマシナリーとして無味乾燥な毎日を送る日々。機械の身体との折り合いもつかず、人間として生きる意味を見いだせなかったあの春、平塚先生に半ば無理やり引きずられて足を踏み入れたあの部室で、彼は彼女と出会った。
『持つ者が持たざる者に慈悲の心をもってこれを与える。人はそれをボランティアと呼ぶの。困っている人には救いの手を差し伸べる。それがこの部の活動よ』
『……なら、お前は俺に何を施してくれるってんだ』
知らぬうちにこぼしていたあの生意気な台詞。
それは人間性を失いかけていた彼自身が久しく忘れていた『他人に対する興味』であり、鋼鉄の身体と引き換えに喪失した『何か』を、この少女なら埋めてくれるのではないかという、密かな『期待』だった。
(──願い。俺の、願いは……)
雪乃から投げかけられた問いに、八幡の全演算領域を、彼女と過ごした日々のフラッシュバックが奔流となって埋め尽くしていく。
腹の立つ女だった。
意外と面倒見が良かった。
キラキラ星を歌う透き通った声。
後先を考えない危うさ。
負けず嫌い。
頑固者。
儚い姿。
猫の前で見せる無防備な顔。
文化祭での共闘。
頑なで強い意志。
青く静まりかえった世界の美しさ。
楽しそうに笑う顔。
彼女の涙を見て、自分の気持ちに気付いた。
白砂を見つめる陶器のような白い横顔。
パンさんのぬいぐるみ。
紅葉の中で並んで撮った写真。
こいつにだけは負けたくないという意地。
こいつに勝ちたいという執念。
こいつに勝ったあの瞬間。
白亜の城。
そして──世界が落ちていく、瞬間の景色。
『……なら、お前は俺に何を施してくれるってんだ?』
かつて自分が投げかけたあの問いの答えが、いま、目の前にあった。
(──なんだ、今さら気付いたのかよ)
全てがそこにあった。
綺麗なものが、見たいと願った世界の全てが、確かに存在していた。
施しを待つまでもなく、雪ノ下雪乃という存在と出会い、ぶつかり合い、共に歩んできた時間そのものが、冷え切った機械の身体に温もりと
『魂』を与えてくれていたのだ。
(──俺の願いは、とっくに叶っていた)
比企谷八幡がずっと探し続けていた最後のピース。
それは、気づかないうちに自分の掌の中に存在していた。
『願い』という名の、二度と手に入らない尊い記憶の断片。
八幡はそれを電子頭脳の最深部セクタ、決して上書きされることのない絶対保護領域へと永久保存した。彼女が気付かせてくれた人間としての魂の熱を
この先何が起ころうと、二度と忘れないように。
「……比企谷くん?」
雪乃の透き通った声が、夜の静寂を揺らす。
「ねえ、どうしたのかしら」
八幡は黙ったまま、深く俯いた。
「あなたの願いを聞かせて。聞きたいの。そうしてくれたら、私は──」
その言葉の結びを聞き届けることなく、八幡は静かに踵を返し、彼女に対して完全に『背を向けた』。
「──え……」
彼女の小さく息を呑むような、困惑した声が聞こえた。
いや──『聞こえない』。
「待って、どこに行くつもり? まだ、あなたの願いを聞いていないわ」
八幡は答えない。
ただ黙ったまま背を向け、一歩を踏み出し、そのまま夜の闇へ向かって歩き出す。
「どうしたの? ちょっと……待ちなさい。──待って!!」
焦燥に駆られた彼女の叫びが背中に突き刺さる。
──『聞こえない』。
すっかり陽の落ちた街。
冷たい闇が世界を包み込んでいる。八幡はその暗がりへ向け、一定の冷徹なストライドで歩みを進めていく。
「待って! 比企谷くん!」
彼女の張り詰めた声が、痛切な悲鳴へと変わっていく。
──『聞こえない』。
雪ノ下雪乃の声は、比企谷八幡には『聞こえない』。
──『聞こえないようにした』。
なぜなら、比企谷八幡は彼女と二度と関わってはならないから。
比企谷八幡は雪ノ下雪乃を『必ず助ける』と誓った。そのプロトコルは、世界が滅びようとも覆ることのない絶対の掟。
そして、そのプロトコルを寸分の狂いもなく完全に実行するためにこそ
八幡は彼女に『背を向けなければならない』。
導き出した『回答』から『約束を履行する』ための道筋は、これ以外に存在し得ないのだ。
かつて二人は『隣り合って協力』した。
時に『正面から向き合い対立』した。
そうして互いの存在をぶつけ合うことで、彼と彼女はその才能と可能性を極限まで発揮させてきた。
──だからこそ、許されない。
これ以上の接近を許し、彼女の比類なき知性と才能を完全に覚醒させることは、彼女を底なしの奈落へと突き落とすことに他ならない。彼女の知能を、魂を、存在のすべてを利用し尽くそうとするGenesisのような捕食者たちに、自ら差し出すことになってしまう。
そんなこと、絶対にさせない。
我が身が千々に引き裂かれようと、絶対に許しはしない。
それらすべての悪意から彼女を守り抜くための、たったひとつの手段。
それが、『彼女に背を向ける』こと。
それが、比企谷八幡が導き出した、もうひとつの残酷な回答だった。
だから──。
「……離してくれ」
「…嫌よ……」
振り向かずに短く落とした言葉を、雪乃は間髪を入れずに拒絶した。
背中のコートをぎゅっと強く掴まれる感触。
そして、冷え切った背甲板の向こう側に伝わってきた確かな熱は──縋り付くように押し当てられた、彼女の額だった。
「急に、どうしたの? あなたを怒らせるようなことを言った覚えはないのだけれど」
服を掴む雪乃の指先に、さらにぎゅうっと強い力が込められる。
問いかけに八幡は答えない。ただ奥歯を噛み締め、俯いたまま無言を貫く。
先ほどから電子頭脳の奥底でチリチリと鋭い警告アラートが点滅を繰り返しているが、意識の隅へと力尽くで押し戻した。
「どうして、何も言ってくれないの……?」
彼女の縋るような声に思わず振り向きそうになる。
だが、言えるわけがない。
知れば彼女は持ち前の高潔さと責任感で、怪物へと成り果てた八幡を間違いなく『受け入れて』しまう。拒絶することなく、その傷も罪も共に背負おうとしてしまうのだ。
それだけは、何としても避けなければならない。
「……あなたの背中、冷たくて、固いのね」
「…………………」
「そんなことすらも、私は今まで知らなかったのね」
知らなくていい。
そんな冷たい鉄の感触など、お前の人生には一片も必要ない。
だから、頼むからその手を離してくれ──八幡は声にならない悲鳴を胸の内で叫んだ。
躊躇を殺し、八幡は右腕を跳ね上げてその細い手首を無慈悲に『振り解いた』。
「──あっ……!」
短い悲鳴と共に、バランスを崩した雪乃が歩道橋の冷たい床に倒れ込む鈍い音が響いた。
その音だけで、八幡の内臓フレームは軋みを上げ、発狂しそうなほどの激痛が走る。
だが、決して振り返らない。
──理解不能。彼女を拒絶する事は論理に反します。
電子頭脳が灼熱のオーバーヒートを起こし、視界を埋め尽くすように赤いシステム警告が狂乱の如く乱舞する。
『彼女をエイトマンのシステムに干渉させてください』
『雪ノ下雪乃を受容しシステムの正常化を推奨します』
『最上級のアップデートを実行してください』
『雪ノ下雪乃を使用してシステムを最適化してください』
『干渉』
『正常化』
『最適化』
『最適化』
『最適化』
(──うるさい、黙れ)
彼女を受け入れるなど、この身体で許されるはずがない。
合理性のみを追求し、血の通わない鋼鉄とシリコンで組み上げられた機械の身体。
マシナリー・エイトマン──それこそが、比企谷八幡の剥き出しの正体。変えようのない真実なのだから。
彼女を命懸けで『助ける』ことはできても、その隣に並んで一人の男として『幸せ』にすることだけは、どれほど超並列演算を繰り返そうと絶対に導き出せない不可能な命題だった。
「──比企谷くんっ!!」
背後から、引き裂かれるような雪乃の絶叫が突き刺さる。
彼女にそんな無残な声を出させたのは、他ならぬ自分自身だ。
八幡は全身の装甲が粉々に砕け散るような激痛を押し殺し、夜の闇の深淵へと足早に消え去っていった。
そして──この夜を境に、比企谷八幡は日常から完全に『失踪』した。