——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
もうまもなくこの小説も完結が近い……はずです
応援よろしくお願いします。
『お前の願いは、必ず叶う』
その言葉だけを置き去りにして、比企谷八幡は姿を消した。
突き飛ばされ、歩道橋の冷たいアスファルトの上に崩れ落ちたまま、雪乃は立ち上がることすらできずにいた。
膝や手のひらに擦りむいたような痛みが走っていたはずなのに、感覚が麻痺したように何も感じない。
目の前で起きた出来事のすべてが、まるで悪い夢の断片のように現実感を欠いていた。
なぜ、彼はあんなことを言ったのか。
なぜ、急に背を向けたのか。
──そして、なぜ。
なぜ一度たりともこちらを振り返らず、あそこまで冷徹に、無慈悲に自分を拒絶したのか。
思考の海に沈み、どれだけ理由を探そうとしても、出口のない迷路を彷徨うばかりだった。
答えなどどこにも見当たらない。寒風に体温を奪われ、芯まで冷え切った身体を引きずるようにして、雪乃はどうにか自分のマンションへと帰り着いた。
玄関の鍵を開け、明かりを灯す。
静まり返った広すぎる部屋は、いつも以上に白く、冷たく感じられた。
靴を脱ぎ捨て、吸い寄せられるように自室のベッドへと足が向かう。
枕元に整然と並べられたぬいぐるみたち。その中央に、一際大切に据え置かれた存在へと、震える指先が自然と伸びていた。
京都の修学旅行の夜、彼から手渡されたご当地パンさんのぬいぐるみ。
『小町の分を買うついでだ』
そんな不器用極まりない言い訳を口にしながら、耳の先まで真っ赤にして差し出してきた彼の横顔。
あの時、胸の奥がきゅっと締め付けられるほど嬉しくて、同時に気恥ずかしくて身悶えしそうになった記憶が、昨日のことのように鮮明に蘇る。
あの時の彼は、あんなにも不器用で、温かかったはずなのに。
「……っ」
耐えきれなくなった雪乃は、ぬいぐるみを抱きしめることすらできず、弾かれたようにベッドの枕へと顔を埋めた。
視界を暗闇が覆い尽くす。
それでも、目を閉じれば閉じるほど、彼と過ごした時間の残像が次から次へと瞼の裏に浮かんできた。
部室の西日、屋上に吹く静かな風、悪態をつき合いながら交わした些細な会話、そして──最後に見た、あの硬く冷え切った背中。
──どうして。
自問自答をどれほど繰り返しても、最後に残るのはたったひとつの、あまりに無慈悲で決定的な事実だけだった。
──彼はもう二度と、私の前には現れない。
それが一時的な拒絶ではなく、永遠の『終わり』を告げるものだったのだと完全に理解した瞬間、
「────ッ……う…………っ」
雪乃の喉から震える息が漏れた。
枕に顔を押し当て、誰にも届かない暗闇の中で、雪乃はただ声を押し殺して泣き続けた。
──
翌朝の由比ヶ浜家のダイニングは、昨日のミサイル騒動による緊張感をわずかに残しつつも表向きは穏やかな空気に包まれていた。
「ココア、お持ちしました ニャ!」
合成音声の朗らかなアナウンスと共に、滑らかな車輪音を響かせて猫型配膳ロボットのベラがやってくる。エイトマンの相棒であり、今は由比ヶ浜結衣をあらゆる脅威から守るための専属護衛機として、または由比ヶ浜家のお手伝い兼ペットとして飲み物を届けることに専念していた。
「ありがと、ベラちゃん」
結衣は液晶ディスプレイに表示されたデジタルな笑顔に小さく笑いかけ、トレイから温かいココアのマグカップを受け取った。急な臨時休校で転がり込んできた平日の休みをどう過ごそうか、甘い香りを吸い込みながらぼんやりと考える。
「あ、そうだ」
ふと、昨日小町から届いていたメッセージを思い出した。高校受験の面接も無事に終わったはずだ。
お祝いに何か美味しいものでも食べに行こうと誘おうか。そう思い立ち、結衣はスマートフォンを開いてメッセージアプリを立ち上げた。
──だが、画面に目を落とした瞬間、結衣の身体が硬直した。
小町からの通知バッジが、異常な数字を刻んでいたのだ。未明から断続的に送られてきた数件の未読メッセージと、何本もの不在着信。
「……え、なにこれ」
胸騒ぎを覚え、震える指でトーク画面を開く。
『結衣さん、どうしよう』
『お兄ちゃんが』
『昨日の夜から帰ってこないの』
『電話も通じない』
『どこにもいない』
スクロールするたびに、画面の向こうで取り乱す小町の生々しいパニックが伝わってくる。結衣はココアをテーブルに置き、迷わず小町の番号へ発信ボタンを押した。
コール音が一度鳴り切る前に、激しい息遣いと共に通話が繋がった。
『──っ、結衣さん……っ!』
スピーカーから漏れてきたのは、今まで聞いたこともないほど怯え、涙で掠れきった小町の声だった。
「小町ちゃん!? 大丈夫!? ヒッキーが帰ってこないって、一体どういうこと!?」
『わ、分からないの……っ! 昨日の夜、夕飯のあとに「ちょっと出てくる」って言ったきりで……財布もスマホも持ったまま、一晩中帰ってこなくて……!』
過呼吸になりそうな妹の嗚咽が、痛々しく鼓膜を打つ。
『警察にも電話したし、平塚先生にも相談した……! 雪乃さんにも、何度も、何度も電話してるのに、全然繋がらなくて……っ。小町、どうしたらいいか分かんないよぉ……!』
「落ち着いて、小町ちゃん。深呼吸して、ね?」
自分自身の心臓が早鐘を打つのを必死に抑え込み、結衣は精一杯の力強い声を絞り出した。
「あたしも今から探すから。警察も平塚先生も動いてくれてるなら、大丈夫。絶対見つかるから。……何か分かったら、すぐ連絡するからね!」
『う、うん……っ、ごめんなさい、結衣さん……』
通話を切った結衣は、スマートフォンの画面を凝視したまま立ち尽くした。
──あの比企谷八幡が、誰よりも大切にしている妹を放り出して一晩中行方をくらますなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。
スマホには緊急時の追跡機能があるが、あらゆる電子機器を操作できるというエイトマンにとって、自分の居場所を誤魔化すことなど簡単だろう。彼の居場所は現在誰にも分からないといっていい。
彼がただの男子高校生ではなく、過酷な宿命を背負った機械の戦士エイトマンであると知っているからこそ、その空白が意味する最悪の事態が脳裏をよぎる。
──彼に、何かが起きた。
そして、もう一つの決定的な異変。小町からの切迫した連絡を、あの雪乃が無視し続けるはずがないのだ。
結衣は迷いを振り払うように、連絡先から雪乃の名前を呼び出し、強く通話ボタンをタップした。
足元では、配膳トレイを格納したベラが、青白いセンサーアイを静かに明滅させていた。
耳元に押し当てたスマートフォンから、果てしなく長い呼び出し音が規則正しく鳴り響いていた。
ツーツーという無機質な音が鼓膜を打つたび、結衣の心臓は締め付けられるように縮み上がる。
小町からの着信には一度も応じていなかったはずなのに、なぜ自分からの連絡には出ようとしているのか──あるいは、このまま留守番電話に切り替わってしまうのではないか。
そんな焦燥が頂点に達しかけた瞬間、不意にカチリと回線が繋がる微かなノイズが走った。
『…………もしもし』
スピーカーの向こうから漏れ聞こえてきたのは、紛れもなく雪乃の声だった。
だが、その音色に結衣は思わず息を呑んだ。
いつもの澄んだ鈴の音のような響きも、どんな状況でも芯の通っていた理知的なハリも、そこには微塵も残っていない。まるで擦り切れたレコードのように乾き、弱々しく掠れた、生気の抜け落ちた声だった。
『……由比ヶ浜さん。何か、用かしら』
「ゆきのん……? あのね、ヒッキーのことなんだけど──」
結衣がその名を口にした瞬間、電話の向こうの空気が完全に凍りついた。
荒い息遣いすら聞こえない、異様で重苦しい沈黙。
結衣は受話器を握りしめ、言葉を継ぐのを躊躇ってしまうほどの圧迫感を覚えた。それでも、事態を動かすために必死で口を開く。
「ヒッキーが、昨日の夜から帰ってこないの。小町ちゃんがすっごくパニックになってて、警察にも先生にも連絡したみたいなんだけど、手がかりが何にもなくて……ゆきのん、何か聞いてない!? 昨日の夜、ヒッキーと連絡取ったりしなかった!?」
息つく暇もなく問いかけた結衣に対し、返ってきたのは、再びの残酷なまでの間(ま)だった。
そして──数秒の空白の果てに、雪乃の口から零れ落ちたのは、感情のすべての色を奪われたような声だった。
『……知らないわ』
「え……?」
『私は、何も知らない。……何も、分からないわ』
突き放すような冷たさではない。自分の心を守るために感覚のすべてを遮断し、暗い海の底へ自ら沈んでいくかのような、あまりにも虚無的な拒絶だった。
(こんなの、絶対に普通じゃない……!)
ただの連絡の不通や、ちょっとしたすれ違いなどではない。
決定的な何かが、昨夜二人の間で起きてしまったのだと、結衣の直感が激しく警鐘を鳴らしていた。
「ゆきのん、今、家だよね? あたし、今すぐそこに行くから!」
『……来ても、無駄よ。私には、何も──』
「無駄じゃない! お願い、顔見て話したいの! 今すぐ行くから、待ってて!」
半ば叫ぶように訴えかける結衣に、受話器の向こうの雪乃は、力尽きたように小さく息を漏らした。
『…………分かったわ。鍵は、開けておくから』
通話が切れると同時に、結衣はソファから弾かれたように立ち上がった。
テーブルの上に投げ出していた上着を掴み、小走りで玄関へと向かう。
「待っててね、ゆきのん……!」
靴に足を滑り込ませ、結衣は玄関から駆け出した。
──その背後で、ベラがディスプレイを光らせながら、結衣の後ろ姿を静かに見つめていた。
──
雪乃の住む高層マンションの廊下を、結衣は半ば走るようにして進んでいた。冷たい風が吹き抜ける外廊下で、目的の部屋番号の前に立ち止まる。荒い息を整える間も惜しく、震える人差し指でインターホンを押し込んだ。
ピンポン、と澄んだ電子音が扉の向こうで響く。
数秒の重苦しい静寂の後、鍵が外れる硬い金属音がカチャリと鳴り、ゆっくりと重いドアが開いた。
「ゆきの──」
呼びかけようとした結衣の言葉は、隙間から現れた少女の姿を見た瞬間、喉の奥へと張り付いて完全に凍りついた。
「……由比ヶ浜、さん」
そこに立っていたのは、結衣の知る「雪ノ下雪乃」の姿ではなかった。
いつも陶器のように透き通っていた白い肌は完全に生気を失い、土気色に近い青白さでやつれ果てている。手入れの行き届いていたはずの艶やかな黒髪は乱れ、何より──鋭い光と理知的な誇りを湛えていたはずの瞳が、完全に光を失っていた。焦点すら合わず、虚ろに宙を彷徨っている。
「ゆきのん……何が、あったの……?」
結衣の掠れた声に、雪乃は力なく首を小さく横に振った。
「……入って。外は、寒いわ」
招き入れられた部屋の中は、暖房もつけられていないのか底冷えがしていた。
雪乃はふらつく足取りでおぼつかなくキッチンへ向かおうとする。
「お茶を……淹れるわね。少し、待って──」
「いい、いいから! そんなの座ってて!」
今にも倒れそうなその細い肩を慌てて支え、結衣は雪乃をベッドへと腰掛けさせた。まるで羽毛のように軽く、冷え切った身体。結衣はすぐ隣に腰を沈め、氷のように冷たい雪乃の両手をぎゅっと包み込んだ。
「ゆきのん、お願いだから話して。……昨日の夜、ヒッキーと何があったの?」
問いかけられた雪乃は、視線を落としたままピクリとも動かなかった。
部屋を支配する重苦しい沈黙。耐えかねた結衣が「ゆっくりでいいから……ね?」と優しく促すと、雪乃の乾いた唇が、擦れた音を立てて微かに開き始めた。
「……昨日の夜、彼から……電話があったの」
途切れ途切れに、まるで他人の記録を淡々と読み上げるような、感情の抜けた声だった。
「歩道橋で会って……小町さんの受験の話をして……それから、彼は言ったわ。……『お前の願いは、必ず叶う』って」
「え……?」
「ディスティニーランドで言ったことを……覚えていてくれて……約束を、履行させてくれって……あんなに、真っ直ぐに言ったのよ」
そこまで話したところで、雪乃の肩が激しく震え出した。
「なのに……なのに、彼はいきなり、私の言葉を聞こうともせず……背中を向けたの。……振り返りもせず、私の手をっ……振り解いて……っ」
雪乃は両手で自らの頭を抱え込み、ベッドの上で膝を引き寄せて小さく蹲った。
「どうして……? 私、何か怒らせるようなことを言ったのかしら……? どうして、一度も振り返ってくれなかったの……? 分からない……私には、彼のことが何ひとつ分からないのよ……っ」
それは、後悔と苦悩、そして自己嫌悪がごちゃ混ぜになった、痛々しいまでの精神の防衛反応だった。
一睡もできず、暗闇の中で自分自身を責め苛み続けてきたのだろう。爪が皮膚に食い込むほど強く側頭部を抱え、震える雪乃の姿に、結衣の胸は張り裂けそうになった。
(ヒッキーの、バカ……っ!)
結衣には分かってしまった。八幡の正体が、機械の身体を持つ戦士「エイトマン」であると知っているからこそ。
彼は、雪乃にその真実を最後まで明かさなかったのだ。
自分が人間ではなくなったことも、雪乃が超人類に狙われているという狂気の世界のことも、何ひとつ背負わせないために。
(知られたくないからって……怪物だと思われたくないからって……! ゆきのんをここまで傷つけて突き放すなんて、あんまりだよ……!)
結衣の瞳に、激しい憤りの涙が込み上げる。
だが──それと同時に、胸の奥を激しく抉る別の感情があった。
自らを冷酷な悪者に仕立て上げ、手を振り解き、憎まれ役になってでも雪乃を安全な日常の側に残そうとした、彼のあまりにも不器用で、残酷なまでの想い。
その痛切な祈りの深さが、痛いほど理解できてしまう自分が、結衣は悔しくてたまらなかった。
「……ヒッキーが、ゆきのんを本気で見捨てるわけないじゃん」
ベッドの上で頭を抱え、小さく震える雪乃の背中に、結衣はそっと手を伸ばした。壊れ物を扱うように、その細い肩と冷え切った背中を、優しく、何度も撫でる。
「考えてみてよ。今までだって、そうだったでしょ?」
結衣は胸の奥に溢れ出す思い出をひとつずつ手繰り寄せるように、噛み締めるように言葉を紡ぐ。
「夏休みのキャンプの時も、文化祭の時も、生徒会選挙の時も……ヒッキーはいつも、あたしたちが思いつきもしないような、無茶苦茶で、バカみたいに不器用なやり方ばっかり選んできた。自分のことなんてこれっぽっちも大事にしないで、壊れそうになるまでがんばって……」
撫でる手のひらを通して、雪乃の小刻みな震えが伝わってくる。
「今度だって、絶対に何か理由があるよ。ヒッキーは口下手で、素直じゃないから……言えないこと、いっぱい抱え込んじゃうんだよ。でもね、ゆきのんのこと傷つけるためだけに、そんなことするわけない。そんなの、あたしが絶対に信じない」
結衣は雪乃の瞳を覗き込むように、真っ直ぐに語りかけた。
「だから……世界中のみんながヒッキーを疑ったとしても、ゆきのんだけは信じてあげて。お願いだから……」
雪乃の華奢な身体がびくりと跳ねた。
抱え込んでいた両腕の隙間から、恐る恐る顔が上げられる。
涙で濡れそぼり、今にも決壊してしまいそうな、あまりにも脆く儚い漆黒の瞳。その視線が結衣を捉えた瞬間、結衣は迷わず両腕を広げ、雪乃の身体を力いっぱい自分の胸の中へと引き寄せた。
「ゆきのん……っ」
ぎゅっと抱きしめると、雪乃の身体から張り詰めていた糸がプツリと切れる気配がした。
「……っ、う……あ、ああ……っ」
結衣の肩口に顔を埋めた雪乃の口から、掠れた嗚咽が漏れ出す。
一度決壊した感情の濁流はもう止まらなかった。プライドも、強がりも、何もかもを脱ぎ捨てて、雪乃は子どものように結衣の胸に縋り付き、声を上げて泣きじゃくった。
「うっ……ぐすっ……ひぐっ……!」
温かい体温に触れ、ようやく吐き出すことのできた友の涙。
その痛々しい嗚咽を聞いているうちに、結衣の目からも大粒の涙が次から次へと溢れ落ちて止まらなくなった。
「大丈夫だから……大丈夫だからね、ゆきのん……っ」
結衣は泣きながら、何度も雪乃の背中をポンポンと叩き続けた。
自分に言い聞かせるように、目の前の大切な親友を少しでも温めるように、必死に励ましの言葉をかけ続ける。
──そして。
雪乃の涙で濡れていく自分の肩の熱さを感じながら、結衣は心の中で、未だ姿を見せないあの男へ向けて、ありったけの怒りと祈りを叫んでいた。
(どこ行っちゃったのよ、ヒッキーのバカ……っ!)
こんなになるまで、ゆきのんを追い詰めて。
自分ひとりで勝手に全部背負い込んで、勝手に消えて。
絶対に許さない。見つけたら絶対にタダじゃ置かない。
(だから……早く帰ってきてよ……っ! お願いだから、無事でいてよ……ヒッキー……!)
冷え切った部屋に、ふたりの少女の泣き声だけがいつまでも重なり合って響いていた。
──
ひとしきり泣き明かしたことで、雪乃の強張っていた全身の力はようやく抜けていた。
腫らした目を伏せながらも、少しだけ血色の戻った顔で結衣を見送る。
「何かあったら、すぐに連絡するから。……小町ちゃんにも、あたしからうまく言っておくね」
「……ありがとう、由比ヶ浜さん。お願いするわ」
小さく、だが確かに芯を取り戻した微笑みを浮かべる雪乃に、結衣は心底安堵してマンションを後にした。少なくとも、最悪の絶望の底からは一歩だけ引き戻せたはずだ。
だが、エレベーターを降りて外の冷気にさらされた瞬間、現実の重みが再び結衣の肩にのしかかった。
これから一体どうやって彼を探せばいいのか。手がかりひとつない街を当てもなく歩き回るしかないのだろうか。
そう思案しながら歩き出した瞬間、激しい振動と共に着信音が鳴り響いた。
画面に表示された名前は──平塚静。
『由比ヶ浜か。今、動けるか?』
スピーカーから響いたのは、いつになく低く引き締まった声だった。
『比企谷の件だ。至急話したい。……川崎も一緒だ。場所は──』
指定されたのは、マンションからそう遠くない寂れた児童公園だった。
急ぎ足で駆けつけると、冬枯れの木々の下に、ロングコート姿の平塚と、腕を組んで不機嫌そうにつま先で地面を小突いている川崎沙希の姿があった。
「先生! サキちゃんも!」
「……ああ」
「遅いぞ、由比ヶ浜」
平塚がわずかに眉を寄せながら顔を上げる。その鋭い瞳の奥には、隠しきれない焦燥が色濃く滲んでいた。
「単刀直入に言う。比企谷の失踪だが……昨日のミサイル発射事案と無関係ではないと見ている」
平塚が周囲を警戒するように視線を走らせながら切り出した。
「やっぱり……」
「あたしもそう思う」
沙希が吐き捨てるように言葉を継いだ。
「昨日、昼に駅前でアイツと会ったんだよ。あの時は普通だったのに、帰る途中で急に顔つきが変わって、どっか行きやがった。……その後すぐにミサイルが撃ち落とされたって聞いたから、間違いなく関係あると思う」
「ああ。比企谷が動くトリガーとしては十分すぎる」
頷く平塚の横顔は険しい。
だが、沙希は納得のいかないようにぎゅっと拳を握りしめた。
「……だからって、いきなり全部放り出して消えることないだろ。せめて一言くらい、なんか言っていけっての……」
悔しそうに唇を噛み、俯く沙希。
その姿を見て、結衣は胸の奥の澱を絞り出すように口を開いた。
「先生……やっぱり、超人類が関係してるのかな」
結衣の言葉に、平塚の視線が鋭さを増す。
「あたしをあんな風に改造した人たち……あいつらが、裏でまた何か企んでるんじゃないの? ヒッキーは、それをひとりで止めようとして……」
「その可能性は極めて高い。あの組織の動きは常に合理的で、かつ破壊的だと聞かされている。比企谷が単独で動脈を断ちに行ったのだとすれば辻褄は合う」
「だったら!」
顔を上げた沙希が、身を乗り出すように提案した。
「アイツと一緒に超人類の対策を立ててた『谷製作所』に行けばいいじゃん! あそこなら何か情報があるか、もしかしたらアイツ自身が潜んでるかもしれないだろ!?」
八幡の身体が機械であること、そしてそれを支える研究所が存在することを知る沙希ならではの最短ルートの提示だった。
だが、平塚は重々しく首を横に振った。
「……無駄だ、川崎。その線はすでに潰れている」
「は……? 潰れてるって、どういうことですか」
「比企谷が昨夜から戻らないと小町から連絡を受け、私も真っ先に谷製作所へ走った。だが──そこで見たものは、到底信じがたい光景だった」
平塚の苦々しい声音に、結衣と沙希は息を呑んだ。
「もぬけの殻だったんだ。……それも、ただ留守にしているというレベルではない。……跡形もなく、消えていた」
平塚の乾いた声が、冬の冷たい公園に重く落ちた。
「え……?」
「消えていたって……どういうことですか?」
「機材やコンピューターの類はもちろん、デスクひとつ、配線コードの切れ端ひとつ残されていなかった。……まるで最初からそこに何も存在していなかったかのように、生活の痕跡すら完全に消し去られていたんだ」
「そんな……っ!」
結衣が息を呑み、沙希も目を見開いて言葉を失う。
一晩のうちに拠点を完全に放棄し、機材ごと蒸発した。それは単なる避難ではない。徹底的な隠蔽工作であり、これ以上日常の皮を被り続けることが不可能になったという、極限状態の証拠だった。
「比企谷だけでなく、谷博士まで揃って姿を消した……。つまり、そうせざるを得ない絶対的な理由があるということだ」
平塚はコートの襟元を掻き合わせ、遠く灰色の空を見上げた。
「由比ヶ浜の言う通り、近く極めて大規模な衝突──超人類との全面戦争が引き起こされる可能性がある。八幡は、自分たちの戦場に千葉の街や、お前たちを巻き込まないために退路を断ったんだ」
最悪の事態が現実味を帯び、三人が重い沈黙の中で息を呑んだその時だった。
ウィィィィン……
微かなモーターの駆動音と砂利を踏みしめる乾いたローラーの音が、公園の入り口から静かに響いてきた。
「ニャ!」
愛嬌のある合成音声と共に姿を現したのは、ファミレスでお馴染みの猫型配膳ロボット──ベラだった。
結衣の護衛任務を完璧に遂行すべく、マンションから公園へと移動する結衣の背後を、一定の距離を保ちながら密かに追跡していたのだ。
「ベラちゃん……!」
すがるように駆け寄った結衣は、ロボットの液晶画面を覗き込んだ。
「ねえ、ベラちゃん! ヒッキーがどこにいるか知ってるんでしょ!? 教えて、ヒッキーは今どこにいるの!?」
ディスプレイに表示されたデジタルなネコの瞳が、ピコピコと青く明滅する。
「──はちまん様より、居場所に関しては一切の開示を禁じられておりますニャ。最高レベルの機密事項としてロックされてますニャ」
無機質で明るい音声が、冷酷な拒絶を告げる。
「んだよそれ! おい、ふざけんな!」
業を煮やした沙希がずかずかと詰め寄り、ベラの頑丈な特殊合金フレームを両手で掴んで激しく揺さぶった。
「さっさと吐けよ! アイツがどこで何しようとしてんのか、知ってんだろ!? 言わないと解体すんぞ!」
「キケン、キケン! ゆれがはげしいデスニャ!」
ディスプレイの表情が涙目のアイコンに切り替わり、ベラは困惑したような電子音を上げる。だが、どれほど沙希が凄もうと、システムの中枢は揺るがない。
「命令の変更および解除は、登録管理者である『はちまん様』と『デーモン博士』以外からは一切受け付けられませんニャ。情報は開示できませんニャ!」
「ちっ……! クソ、頑丈なだけのポンコツが……!」
沙希は悪態をつきながら、悔しそうに手を離した。
どんなに揺さぶろうと、エイトマンの相棒として戦闘用に特化改造されたマシンが権限のない者の脅しに屈するはずがなかった。
「……これ以上、機械相手に時間を使っても埒が明かないな」
平塚がふたりを制するように割って入る。
「ベラは放っておくしかない。……これから警視庁へ向かう。田中課長なら八幡たちや超人類の足取りについて何かしら掴んでいるはずだ」
「あたしも行きます! じっとしてなんていられない!」
結衣が真っ直ぐに平塚を見つめ返すと、沙希も乱暴に髪をかき上げながら頷いた。
「あたしも行く。アイツの面を拝んで一発殴るまでは、引き下がれるかよ」
「よし。私の車に乗れ」
平塚が踵を返し、結衣と沙希がその後に続いて足早に公園の出口へと駆け出していく。
「……ニャー」
誰もいなくなった木枯らしの吹き荒れる公園にただ一台、取り残された猫型ロボット。
遠ざかっていく三人の背中を青白い光電センサーで見送っていたベラは、主人の不在を悼むように低く寂しげな電子音をひとつだけ零した。
──
房総半島の海底急斜面、光の届かない水深500メートルの深海を、巨大な影が音もなく滑るように推進していた。
現存するあらゆるソナー探知技術を無力化し、超小型原子炉によって半永久的な単独潜航を可能にした最新鋭の原子力潜水艦。
地上から忽然と姿を消した谷製作所の真相──それは設備、資材、そして研究データのすべてを丸ごと移送し、エイトマンを極限まで再改造するための機能を完備した、動く極秘海底要塞だった。
「おい谷、いつまでこの息苦しい鉄の棺桶に潜っているつもりだ? さっさと浮上させろ」
ワイングラスを揺らしながら不遜に言い放つコズマを、作業モニターから目を離さない谷博士が手短に窘める。
「黙っていたまえコズマくん。超人類の索敵網を完全に欺瞞するには、この深度での潜航が絶対条件だ」
「フン、神経質なことだ」
コズマはやれやれと肩をすくめる。
その視線の先──区画の中央にそびえる整備ハンガーには、無数のケーブルとアームに吊り下げられた八幡の身体が、待機状態のまま静かに固定されていた。
「さて、谷よ。無駄話はそこまでにして、肝心のエイトマンの再改造プランはどうなっているのだ?」
腕を組んだデーモン博士が目をギラリと光らせて口を開いた。
「プランはすでに固まっている」
谷博士がホログラムスクリーンに三次元設計図を展開する。
「フレーム各部の徹底的な軽量化と、新開発の流体金属アクチュエータへの換装だ。スピードアップを軸に、あらゆる戦闘機動に対応できるトータルバランスの底上げを図る。これまでのエイトマンの戦闘ログを分析した結果、最大の強みはその機動性と柔軟な状況判断にあるからな」
「……手ぬるい! 手ぬるいわ、ヴァレリー!」
デーモン博士が机をバンと叩き、唾を飛ばして一刀両断した。
「貴様は相手が誰だか分かっておらんのか? あの超人類の先兵ども、そしていずれ現れるであろう魔王だぞ! 小手先の運動性能で翻弄できるほど甘い連中ではない! 優先すべきは圧倒的な火力だ! 私が開発した最新鋭の超小型荷電粒子砲、そして重火器モジュールの数々を全身に敷き詰める! これぞ史上最高・最強のマシナリーの完成形だ!」
「莫迦を言うな。そんな過剰な兵装を積めば重量バランスが完全に破綻する! 機動性を殺したマシナリーなど、ただの動く標的に過ぎん!」
「当たらなければどうということはない、などという青臭い理論が通用する相手ではないと言っておろうが! 一撃で消し炭にする火力こそが絶対の正義だ!」
「バランスだ! まずはトータルバランスを整えるのが基本だろうが!」
「いいや火力だ! 火力がすべてを解決するのだ!」
国家規模の頭脳を持つ二人の老科学者が、顔を真っ赤にして子ども同然に怒鳴り合いを始めた。
コズマはワインを煽りながら、呆れ果てたように首を振る。
「……さっきからうるせぇんだよ。なんでもいいから早く決めろ」
ハンガーの上から、低くドスの利いた声が落ちてきた。
八幡が煩わしそうに義眼のシャッターを開き、階下の二人を冷ややかに見下ろしている。
怒鳴り合っていた両天才が、弾かれたように八幡へと詰め寄った。
「比企谷くん、君からもこの分からず屋に言ってやれ! 機動性を犠牲にした兵器過積載など論外だと!」
「何を言うか! 比企谷よ、貴様もこれまで火力不足で散々苦渋を舐めてきたはずだ! 選ぶべきは火力だろう!?」
二対の老眼から放たれる熱視線に、八幡は心底うんざりしたように息を吐き出すと、平然と言い放った。
「──両方だ」
「……は?」
「……ぬ?」
谷とデーモンが同時に間の抜けた声を漏らし、静止した。
「言っただろ、両方だって。トータルバランスを1ミリも崩さず、なおかつ抱えてた決定打不足を完全に解消しろ。それがあんたら二人が揃ってここにいる意味だろ」
妥協を一切許さない、あまりにも傲慢で無茶苦茶な要求。
だが、それを可能にするだけの天才が今ここに二人揃っているのだと、八幡は傲然と言い切ったのだ。
「ぐっ……」
「ぬぅ……」
両天才は憮然とした表情で顔を見合わせ、反論の言葉を失った。科学者としてのプライドを思わぬ形で刺激され、渋々と作業台へと引き下がらざるを得なくなる。
「意見がまとまったら呼んでくれ。……ちょっとコーヒー飲んでくる」
八幡は固定ロックを解除し、数メートルの高さがあるハンガーから軽やかに床へと飛び降りた。
──
カシュッ、と小気味のいいプルタブの破断音が静寂な通路に響いた。
八幡は缶を傾け、黄色いパッケージに包まれた過剰な糖分と練乳の塊を喉の奥へと流し込む。
冷え切った機械の咽頭を甘ったるい液体が通過していく感覚に、深く重いため息を吐き出した。
(人がせっかく断腸の思いで日常に別れを告げてきたってのによ……なんだよあの爺さん連中は)
思い返せば腹立たしさすら湧いてくる。
谷博士も八幡の覚悟を受け止めて全面対決を決意してからは、かつての遠慮が消え失せて研究者としての狂気じみた情熱を取り戻していた。何だかんだ言っても、あの人は根っからのエンジニアなのだ。
デーモンに至っては言わずもがなである。放っておけば間違いなく全身を兵器の塊へと魔改造し、人の形すら留めない機動要塞に仕立て上げられそうで背筋が寒くなる。頼むから人間のシルエットだけは残してくれと、八幡は心の中で本気で祈っていた。
「どうだ。これから完全な戦闘兵器に生まれ変わる気分というものは」
不意に背後からかけられた声に、八幡は振り返りもせず缶を口元に運んだ。
気配を殺して休憩室に入ってきたコズマが、相変わらず食えない薄ら笑いを浮かべながら、隣のパイプ椅子に音もなく腰を下ろす。
「さあな。どうだろうな」
八幡は抑揚のない声で短く返し、缶の底を見つめた。
「いっそのこと、このまま世界征服でも狙ってみるか」
「ほう?」
予想外の軽口に、コズマは面白そうに片眉を吊り上げた。
「あの雪ノ下とかいう娘と手酷く別れてきて、今頃は隅っこで膝を抱えて腑抜けているかと思ったが……その様子なら余計な心配だったか。あるいは、貴様にとってその程度の存在だったということかな」
試すような、底意地の悪い問いかけ。
だが、八幡の表情はぴくりとも揺れなかった。
「腑抜けてる時間なんてねえよ」
静かに、だが迷いのない声だった。
「思い返せば、俺の人生の中で本当に本気を出さなきゃいけない場面には、いつだってアイツが関わってた。……文化祭の時も、生徒会長選挙の時も、いつだってそうだ」
自嘲気味に口元を歪めながら、八幡は缶を握りつぶすように指先に力を込めた。
「今度も同じだ。自分の持てる全てを出し切って、限界まで『本気』をやる。……後悔だけは、絶対に遺したくない」
八幡が顔を上げ、コズマの視線を真正面から受け止める。
その瞬間、コズマの息がわずかに止まった。
腐った魚の目──かつてそう揶揄されていた少年の両眼の奥底で、冷徹で、鋭利で、この世の何よりも危険な鋼鉄の輝きがギラリと爛熱を放っていた。
かつて由比ヶ浜結衣が、一色いろはが、危険と知りながらも目を奪われ、抗い難く惹きつけられた修羅の覚悟。
(……ほう)
コズマは内心で低く唸った。
絶望に呑まれるでもなく、悲劇の主人公を気取るでもない。大切な者を守るためだけに、自らの人間性を削り落として怪物の領域へ踏み込むことを、この少年は完全に受け入れている。
「……じゃあ、そろそろあの爺さんたちも話がまとまった頃だろ。行ってくる」
飲み干したマックスコーヒーの空き缶をゴミ箱に放り込み、八幡は一度も振り返ることなく休憩室を出て行った。
通路へと消えていくその頑丈な背中を見送りながら、コズマはワイン色の照明の下で、獰猛な笑みを深く口元に刻んでいた。
コズマはひとり、そのまま革張りのソファへどっかりと身体を沈める。
静まり返った室内で目を細める。脳裏に焼き付いて離れないのは、去り際にあの少年が見せた『目』の残像だった。
──あれはいい。実によい。
平和な日常に安住し、生ぬるい倫理観を振りかざすだけの有象無象のガキどもとはまるで一線を画している。
触れれば指先どころか魂ごと切り落とされそうな鋭利な危うさ。そして、見る者を底知れぬ深淵へと引きずり込むような、妖しく危険な光──。
(面白いガキだ……。フッ、ヴァレリーとデーモンが揃ってあいつに夢中になる
ただの被験体でもなければ、操り人形の兵器でもない。
自らの存在のすべてを投げ打ち、愛する者のためだけに喜んで修羅の道へと踏み出すあの少年の狂気。あれこそが、あの頑迷で偏屈な二人の大天才を狂わせ、創作意欲を掻き立てているのだ。
「──どれ。ならば、わしも少しばかり動いてやるとするか」
不敵な笑みを浮かべ、コズマはジャケットの内ポケットからひとつの『端末』を取り出した。
マットブラックの無骨な筐体。
水深500メートルの深海、通常であれば電波はおろか超長波ですら微弱にしか届かないこの完全遮蔽空間において、あらゆる物理障壁を無視して地上との即時接続を可能にする、現行科学の埒外にある通信デバイス。
操作キーを素早く叩くと、ディスプレイに青白いノイズが走り、一瞬で超高次暗号化回線が確立された。
コール音がひとつ鳴ったきり、向こうからの息遣いだけが返ってくる。
「おお、ノラか? わしだ。……突然ですまんが、至急頼みたいものがあってな」
深海の底から、その名を呼ぶコズマの声には、先ほどまでの冷笑とは微かに異なる、奇妙な親愛の色が混じっていた。
谷博士の追求する「極限の機動性を備えたトータルバランス」。
デーモン博士の妄執する「圧倒的な破壊力と殲滅火力」。
その二律背反を、あの少年は『両方だ』と笑って言い放った。ならば、あの二人の凡庸なプライドの衝突だけでは埋めきれない『最後のピース』を、こちらで用意してやるのが筋というものだ。
谷 方位。
ナイト・デーモン。
世界有数の頭脳と謳われる二人の大天才に並び立つもうひとりの異端の科学者。
──『魔人』コズマが、いよいよその底知れぬ牙を剥き始める。
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