——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
今日は二話投稿します。
東京・霞が関、警視庁本部。
冷え切った冬の空気の中、平塚の運転する車で到着した三人は、巨大な庁舎のロビーへと足を踏み入れた。
受付カウンターで平塚が身分証を提示し、捜査一課特捜部への取り次ぎを進めている間、結衣と沙希は少し離れた待合用のベンチに腰掛けていた。
「……なんか、変じゃない?」
沙希が周囲に視線を走らせながら、小さく眉をひそめた。
結衣もつられてあたりを見回す。フロアを行き交う警察官たちの足取りは異様なほど速く、書類を抱えた刑事たちが怒号に近い早口で言葉を交わしながらエレベーターへと吸い込まれていく。
静まり返っているはずの受付ロビーにまで、張り詰めた殺気と焦燥がビリビリと伝わってきていた。
「由比ヶ浜、川崎」
手続きを終えた平塚が戻ってくると同時に、奥の通路から一人の若い刑事が足早に歩み寄ってきた。以前にも何度か交流のあった羽佐間刑事だ。
「平塚先生、どうもお疲れ様です」
スーツ姿の羽佐間刑事は軽く会釈をすると、声を潜めて手短に告げた。
「課長は現在、上層部への直談判で執務室を空けておりましてね。取り次ぎの連絡を受け、自分が先にお迎えに上がりました」
「羽佐間刑事、比企谷の件はどうなっている? 何か足取りは掴めたのか」
平塚が単刀直入に切り込む。結衣と沙希も息を呑んで刑事の表情を注視した。
だが、羽佐間の返答は重苦しい首振りと共に落ちてきた。
「……芳しくありません。千葉県警にも極秘で捜索協力を仰いでいますが、発見は絶望的です。警視庁のサイバー特捜班がエイトマン固有の暗号化生体通信を追跡しているものの、信号は昨夜の時点で完全にロストしています」
「そんな……」
結衣の顔から血の気が引く。
「ご存じの通り彼の拠点である谷製作所も、機材ごと忽然と姿を消しています」
羽佐間は周囲を警戒するように声を一段と低くした。
「ここからは警察内部のひとつの推測ですが……比企谷くんは、谷博士と共にすでに国外へ高飛びしたのではないかと。Genesisの手が届かない海外の研究機関へ亡命、あるいは潜伏した可能性を上層部は視野に入れています」
「それはない」
平塚が即座に、冷徹なまでの確信を込めて言い切った。
「比企谷は、自分の身を守るためだけに何もかもを放り出して逃げるような子ではありません。……絶対に」
「あたしもそう思います!」
結衣が身を乗り出すように言葉を重ねる。沙希も腕を組んだまま、鋭い眼光で刑事を睨みつけた。
「あいつは根暗でひねくれてるけど、そういう一番大事なところでケツまくる奴じゃないです」
三人の迷いのない言葉に、羽佐間は虚を突かれたように目を瞬かせた。
「……なるほど。彼がそこまで信頼されている理由が、少し分かった気がしますよ」
羽佐間が感心したように息を漏らした、その時だった。
「──すまん、待たせたな!」
廊下の奥から、せかせかと早足で歩いてくる小柄な男の姿があった。
ネクタイを緩め、額に脂汗を滲ませながら駆けてくるその男──警視庁特捜部の田中課長が、焦燥を顔いっぱいに張り付かせながら平塚たちの前で足を止めた。
「平塚先生、それに由比ヶ浜くんと川崎くんか。わざわざ来てもらってすまない」
田中課長はハンカチで額の汗を乱暴に拭い、三人へ深々と頭を下げた。
「まずは謝罪させてくれ。比企谷くん──エイトマンの行方だが、こちらの網にも一切引っかかっていない。彼が意図して通信を遮断している以上、現在の警察の追跡技術では居場所の特定は極めて困難だ。本当にすまない」
「いえ、田中さん。あの子が自ら痕跡を消しているのだとすれば、警察を責めるわけにはいきません」
平塚が静かに首を振ると、田中は苦渋に満ちた表情で唇を噛んだ。形式的な挨拶を早々に切り上げると、田中は羽佐間刑事に視線で合図を送り、フロアの隅にある防音仕様の小会議室へと三人を行き先を促した。
重いドアが閉まり、完全な密室となったところで、田中が重々しく口を開いた。
「単刀直入に本題に入ろう。……警視庁は、組織犯罪対策部および公安部を動員し、テロ組織『Genesis』の本拠地に対する強制捜査に踏み切ることを正式に決定した」
「強制捜査……!?」
結衣が思わず息を呑む。
「先日、東京上空に向けて発射された迎撃ミサイル事案……あれの黒幕がGenesisであるとロシア政府が完全に特定したのだ。ロシア側から日本政府に対して、国内に潜伏するテロ組織の即時殲滅を求める猛烈な外交圧力がかかった。国家の威信を揺るがす事態に、官房もこれ以上放置はできないと判断し、強制捜査のゴーサインを出した」
「あの、待ってください、田中さん」
沙希が眉を吊り上げ、身を乗り出した。
「相手は普通のヤクザやテロリストじゃないんですよね? あいつ──エイトマンと同じようなサイボーグやら超兵器を山ほど抱えてる連中を相手に警察だけでどうにかできるんですか」
「川崎くんの言う通りだ。まさにその件で、私は先ほどまで上層部に怒鳴り込んでいた」
田中の声に、やり場のない憤りが滲み出る。
「確かに警視庁には、対サイボーグ・マシナリー用の特殊武装を備えた特科機動隊が存在する。だが、Genesisの戦力は一国の軍隊に匹敵する。相手が本気で迎撃に出てくれば、警察の部隊など瞬く間に蹂躙され、被害が周囲の市街地にまで拡大するのは火を見るより明らかだ。だから私は自衛隊の治安出動、最低でも合同での実力行使を上層部に強く進言してきたのだ」
「……だが、退けられたのですね?」
平塚の鋭い問いに、田中は悔しげに拳を握りしめた。
「ああ。『法的な根拠が不十分だ』『平時において軍事組織を前面に出せば国内外への刺激が強すぎる』とね。災害派遣でもない限り、自衛隊を動かすことへの政治的なハードルはあまりに高すぎた。現場の命よりも、事なかれ主義と体面が優先されたのだ」
「そんな……それじゃ、突入する人たちが犬死にしちゃうじゃないですか!」
結衣が悲痛な声を上げる。相手がどれほど恐ろしい存在か、自らの身体を実験台にされた結衣には痛いほど分かっていた。
田中は苦渋に顔を歪め、会議室の磨りガラスの向こう、廊下に人影がないことを鋭い眼光で確認した。
そして、平塚たちへ向けてぐっと身を乗り出し、息の音すら潜めるような極小の囁き声で告げた。
「……作戦決行は、数日後だ。詳しい日時は漏らせないが、準備は最終段階に入っている。そして、Genesisが地下深くに築き上げた国内最大の拠点──奴らの本拠地が外部からの協力者によって判明している」
三人は息を止め、田中の次の言葉を待った。
「──千葉県、『館山市』だ」
田中の乾いた唇から漏れ出た言葉は、彼女たちにとって、あまりに生々しく、馴染み深い土地の名だった。
──
平坦な地形が多い千葉県の中にあって、房総半島南端に位置する館山市の周辺は深い山林と険しい丘陵が入り組み、東京湾と外房の荒波に挟まれた孤立した地形を形作っている。千葉市周辺の喧騒に比べれば格段に人通りも少なく、のどかな田舎町と見なされているこの地の地下深く──旧人類のいかなる探知網も届かない岩盤の底に、超人類が統べる組織「Genesis」の要塞が築かれているなど、地上の誰も思いつきもしないだろう。
「麻薬カルテルの幹部連中は『根こそぎ』排除しておいたよ」
薄暗い司令フロアの中央、巨大なホログラムディスプレイを前に、アルフ博士が退屈そうに指を弾いた。
少年のような容貌でありながら、その瞳には生命への敬意が欠片も宿っていない。
「で、残った下っ端どもはどうするんだい?」
アルフの問いかけに、Genesisを率いる三人の少年少女のリーダー、大江シンが静かに視線を向けた。
目前に迫る決戦の日を前にしても、大江の佇まいは底知れぬ静寂を保ったままだ。
「彼らは薬物などという、旧人類の負の遺産に縋った愚か者たちだ。生かしておいて何の役に立つと思うかい?」
大江は感情の起伏を一切見せず、淡々と続ける。
「僕たちが作る新しい世界に、下らない薬物や、それが生み出す暴利を貪る連中など不要だ。……徹底的に潰してしまえ」
「オーケー」
アルフは肩をすくめ、軽薄な笑みを浮かべた。
「それなら、僕の実験体として好きに使わせてもらうよ。使い潰しても文句は言われないしね」
一息ついたアルフは、空中に浮かぶ世界地図のホログラムを指先でなぞりながら、話題を切り替えた。
「ところで、僕たちの所在がロシアと日本の警察、それにおそらくアメリカの諜報にも割れた件だけど……本当にいいのかい?」
「問題ない」
大江は即座に言い切った。
「機は熟した。我々の力を知ってなお立ち向かうというなら、それもいいだろう。旧人類の脆弱な権力機構に、超人類の絶対的な力を存分に見せつけるまでのことだ」
「まあ、それもそうだな」
アルフは同意しつつも、呆れたように首を横に振った。
「だけどさ、千葉なんかに本拠地を作ったのは色々と面倒な結果になったよな。エイトマンを始めとして鬱陶しい連中が集まりすぎてる。どうせなら僕が最初に提案した通り、上海あたりに拠点を作った方が良かったんじゃないか?」
そう言いながらアルフが中国大陸沿岸部を指差す
「ほら、ディスティニーなんとかってやつ、あれは上海にもあるじゃないか」
そのぼやきに、大江は珍しくわずかに眉を寄せ、微かなため息を零した。
「ソフィアが首を縦に振らなかったのだよ。『上海なんかイヤだ』ってね。ディスティニーランドは日本が一番だと言って譲らなくてね……。どうも僕は、あの目つきの悪いパンダは好きになれないのだが」
やれやれと首を振る大江の耳に、背後の気密扉がスライドする微かな作動音が届いた。
大江は視線だけをゆっくりと後方へ向ける。
「──貴女もそう思いませんか? 陽乃さん」
開かれた重いハッチの向こう、白光の通路に、ひとりの女性が影のように佇んでいた。
憮然とした面持ちのまま、一切の生気を瞳から消し去った雪ノ下陽乃が無言で立っていた。陽乃はそのまま、音もなく大江の前へと歩み寄る。
まるで感情を削ぎ落とされた能面のような表情が顔に張り付いている。
「……警視庁が動いたわ」
乾いた冷たい声で、陽乃は事実だけを淡々と口にした。
「数日以内に、この館山拠点への強制捜査を実行する手筈よ。……自衛隊の治安出動は見送られた。動くのは公安と警察の特科機動隊のみ」
「ふ……」
報告を聞いた大江は、侮蔑を滲ませた薄い笑みを漏らした。
「この期に及んで、まだ我々をその程度の武装集団と見くびっているのか。法と体面に縛られた旧人類の限界だな。やはり、我々の相手を務められるのは『彼』しかいないらしい」
大江は琥珀色の瞳をわずかに細め、目の前に佇む陽乃を見据えた。
「それで? 彼──エイトマンが我々に反旗を翻し、忽然と姿を消した真意について、君はどう見ている?」
「……谷博士の技術と合流し、深海、あるいは国外の遮蔽施設で対超人類用の戦闘モジュールを構築していると見ているわ。それと……ロシアの工作員が同行している可能性が高い」
「ほう、ロシアか」
「ええ。冷戦期に兵器開発を主導した、ナイト・デーモンという男よ」
「ああ、あの老人か」
大江は面白そうに喉を鳴らした。
「彼が遺した『グングニル』は有効に活用させてもらっているよ。いずれ顔を合わせたら、礼の一つでも言ってやらねばならないな」
大江の軽口に対し、陽乃は微動だにせず、ただ無機質な視線を床に落としていた。かつての奔放さも、他者を弄ぶような残酷な悪戯っぽさも、そこには微塵も残っていない。
大江はそんな陽乃の様子を眺めると、ふっと意地の悪い笑みを口元に浮かべた。
「……エイトマンが君の期待通りに動かなかったことが、そんなに不満かい?」
ぴくりと、陽乃の指先がわずかに震えた。
痛いところを突かれたはずの彼女は、しかし反論もせず、ただ沈黙をもってそれを肯定した。
旧人類の支配者としての資質を秘めた妹──雪ノ下雪乃。
その隣に寄り添い、彼女を導き、覚醒を促す鍵となるはずだった鋼鉄の少年、比企谷八幡。
だが、彼は雪乃の隣に立つことを拒み、その手首を冷酷に振り解き自ら修羅の道へ姿を消した。自分の描いた筋書きを無残に踏み躙られたことに対する憤りと虚無感が、陽乃の胸を苛んでいた。
「……私を、始末しないのですか」
長い沈黙の果てに、陽乃は感情の抜けた声で問いかけた。
「エイトマンの懐柔に失敗し、雪乃の覚醒を遅らせた。……その責任を、問わないのですか」
「まさか」
大江は肩をすくめ、事も無げに言い切った。
「君ほど優秀な超人類を、そんな些細な理由で処分するわけがないだろう。君の価値は、まだ十分に生きている」
その言葉に、陽乃は静かに瞳を閉じた。
(……逃げられない)
胸の奥底を、冷え切った諦観が満たしていく。
いっそ使い潰されて殺されるなら、まだマシだった。死ぬことすら許されず、自分はこれからも永遠に、この超人類たちの手足──意志を剥奪された奴隷として使役され続けるのだ。
閉ざした瞼の裏、暗闇の底で、陽乃は姿を消した少年の顔を思い描いていた。
(……君はこれから、どう動くのかな、比企谷くん)
すべてを切り捨て、独り深海で牙を研ぐ鋼鉄の少年。
その存在だけが、陽乃にとってこの狂い切った盤面を揺るがす唯一のノイズだった。
──
水深500メートルの静寂に包まれた潜水艦の内部、改装された整備ドックには、金属を研磨する鋭い電子音と無機質な冷却ガスの排出音が絶え間なく反響していた。
整備ベッドの上には、胸部と両腕の装甲を完全に展開された八幡が横たわっている。
その肉体の中枢へ、谷博士は拡大スコープを目元に固定したまま極細のファイバーピンセットとマイクロレーザー溶接機を操り、ミリ単位以下の精度で手を加えていた。
「フレーム各部の超微細ハニカム構造化……アクチュエータの伝達経路を流体カーボンバイパスへ変更。これで純粋な機動性と瞬発力は従来比で三〇パーセントは向上する……」
呟きながら、谷博士は傍らのメインモニターへ視線を走らせる。
そこに映し出されていたのは、デーモン博士が開発した自律型球体偵察・暗殺兵器「スパイ・ボール」の機密設計図だった。
画面の中央で明滅しているのはその心臓部に組み込まれていた極小のユニット
──『
触れたあらゆる物質の分子結合そのものを超高速の微細振動によって強制的に破断させ、いかなる強固な装甲や生体組織であっても一瞬で粉微塵の塵へと還元してしまう、純粋な破壊の極致。
本来ならば人命を救い、社会を守るための科学を志してきた谷にとって、この兵器の組み込みは自らの信念に反する劇毒そのものだった。
だが、あの少年は言ったのだ。
『両方だ』と。
大切なものを守るためなら、自分自身の人間性を削り落として怪物の領域へ踏み込むことすら厭わないと、あの危険な双眸で真っ直ぐに言い放ったのだ。
少年がすべてを投げ打って修羅の道を往くというのなら、自分だけが生ぬるい倫理の殻に閉じこもっているわけにはいかない。
谷博士は迷いを断ち切るように奥歯を噛み締め、超振動発生ユニットのエネルギー接続端子を八幡の右前腕部フレームへとバイパス接続していく。
「ふん……ようやくその気になったか、谷」
通路を挟んだ向かい側のコントロールコンソールから、低く濁った声が投げかけられた。
椅子に腰掛けコンソールを操るデーモン博士が、分厚いスコープ越しにぎらついた視線を谷の手元へと注いでいる。
デーモンの周囲に浮かび上がるサブモニター群には、彼が潜水艦へと持ち込んだ凶悪な超兵器群の数値ログが怒涛の勢いでスクロールしていた。
「貴様が作り上げた『
我が知恵の結晶である『超電導システム』。
それに加え、あらゆる防壁を原子レベルで粉砕する『
デーモンは静かに喉を震わせ、乾いた唇を舐めた。
「それら三大システムをひとつの肉体に集約し、同時に最大出力でオーバードライブさせた時、一体いかなる現象が産声を上げるのか……。考えただけで、我が科学者としての血が沸き立つわ」
倫理や人道など歯牙にもかけない悪魔の知性。
その純粋すぎる破壊への探究心を前に、谷博士は眉ひとつ動かさず、ただ冷徹に溶接レーザーの光芒を走らせ続けた。
「……それは絵空事というものだよ、デーモンくん」
谷博士は溶接レーザーのスイッチを切り、スコープを押し上げて冷徹に告げた。手元のサブモニターを指先で弾き、シミュレーション結果をデーモンの目の前に突きつける。
「見ろ。三大システムの理論値だ。君の言う通りに同時稼働させた瞬間、伝達経路にかかる負荷はエイトマンのフレーム耐久限界を四〇パーセント以上も超越する。敵を倒す前にエイトマン自身の体内回路が過熱で焼き切れ、内部から自壊するのが落ちだ」
「フン、フレームの耐久力など後からいくらでも補強できるわ」
「その補強のための装甲やバイパスを積めば重量が増加し、私の目指す運動性能のバランスが完全に破綻する。何より──」
谷博士は重々しく息を吐き、最も根本的で致命的な数値を指し示した。
「──炉心の出力がまるで足りん。この三大システムを同時に支え切るには、小型核融合炉の抜本的な出力強化が不可欠だ。だが、そのためには安定した高純度の放射性物質が桁違いの量で必要になる」
小型原子炉の抜本的な出力強化には、安定した大量の特殊放射性物質──ウラン、プルトニウム、三重水素などが不可欠である。
──この深海の閉鎖環境で、一体どこからそんなものを調達するというのだ
暗に谷博士はそう告げた。
絶対的なエネルギー不足。
机上の空論をどれほど積み上げようと、物理的な資源の壁が冷酷に立ちふさがっていた。
このままでも、現状のエイトマンに比べれば十分なパワーアップは果たせる。だが──それで、あの規格外の超人類軍団、何よりその頂点に君臨する最大戦力『魔王』に勝てるのか?
問われたふたりの老天才は、科学者としての矜持があるからこそ、安易に「勝てる」と欺瞞を口にすることはできなかった。
谷博士は背もたれに深く体重を預けて天井を仰ぎ、デーモン博士は忌々しげに舌打ちを鳴らして拳を握りしめる。
重苦しい手詰まりの沈黙が整備ドックを支配した、その時だった。
『──ポー、ポー、ポー……』
甲高く張り詰めたソナーの探知警報が、突如として艦内に鳴り響いた。
「なにっ!?」
デーモンが弾かれたように立ち上がり、メインソナーのスクリーンを睨みつける。深度500メートルの暗黒の中、音もなく急速接近してくる単一のスクリュー音が、波形となって緑の画面に描かれていた。
「小型潜航艇だと……!? 馬鹿な、この深度での隠密航行をどうやって捕捉した!?」
「Genesisの哨戒網に引っかかったか……!」
谷博士が即座に迎撃コンソールへと手を伸ばし、緊急回避プロトコルを起動しようとした、その刹那だった。
「まあ慌てるな、ヴァレリー。みっともなく取り乱すものではない」
気密ハッチが開き、ワイングラスを手にしたコズマが悠然とした足取りで部屋へと入ってきた。
その身の毛もよだつほど落ち着き払った態度に、谷博士の手が止まる。
「……コズマくん、君はまさか」
「なに、あれはわしが呼んだ客だ」
「何だと?」
谷博士が声を僅かに荒げた。
「この状況で勝手に外部と通信したというのか? 敵に探知されたらどうするつもりだ」
「まったく、耄碌したかコズマ! これだから秘密主義のペテン師は信用ならんのだ!」
デーモンも眉を逆立てて怒鳴りつける。
だが、希代の異端科学者たるコズマは、ふたりの怒声など心地よい春風であるかのように受け流し、口元に獰猛な薄ら笑いを浮かべた。
「そうカリカリするな。お前たちが壁にぶち当たって頭を抱えているだろうと思ってな、極上の『手土産』を運ばせてやったのだ」
「手土産だと?」
訝しげに目を細めるデーモンを意にも介さず、コズマはくるりと背を向けた。
「アレの応対はわしがする。お前たちは大人しく、あの小僧の改造に専念していろ」
「待て、貴様の勝手な真似を黙って見過ごせるか!」
疑念を隠せないデーモンが荒々しい足取りでコズマの後を追う。作業を中断せざるを得なくなった谷博士も、深い溜息をつきながら、八幡の休眠状態を確認してふたりの後を追ってドックを出た。
潜水艦の補助エアロックが水密解放音を響かせ、重いハッチが外側からゆっくりと開いた。
減圧された白い蒸気の中から姿を現したのは、全身を身体のラインに沿った漆黒のダイバースーツで包んだ、妙齢の美女だった。滴り落ちる海水を気にも留めず、濡れた金髪をかき上げたその双眸は、深海のように静まり返っている。
「……ご苦労だったな、ノラ」
歩み寄ったコズマの口調には、先ほどまでの冷笑とは明らかに異なる親愛の色が混じっていた。
ノラと呼ばれた女性は無言のまま短く顎を引き、右手に携えていた無骨なジュラルミン製の頑丈なトランクをコズマへと差し出す。そして彼女の背後のハッチからは、小型艇の油圧クレーンによって、巨大な金属製コンテナがゴトンと重苦しい音を立てて艦内のデッキへと運び込まれていた。
「コズマくん、その女性は一体誰なのだ?」
怪訝な表情で詰め寄る谷博士を、コズマは片手で軽く制した。
「野暮な詮索はよせ、ヴァレリー。それよりも、こちらを見るがいい」
コズマはトランクを作業デスクの上にドンと置くと、両側のロックを躊躇いなく外して蓋を跳ね上げた。
敷き詰められた黒い衝撃吸収材の中央に鎮座していたもの──それを見た瞬間、谷博士とデーモン博士の目が同時に見開かれた。
「……これは!」
それは一見すると、一対の無骨な『拳銃』のシルエットを持っていた。
だが、通常の銃器にあるべき弾倉も、薬莢を排出するエジェクションポートも存在しない。代わりに、驚異的な精度で研ぎ澄まされた極細の光学バレルと、幾重にも折り重なった微小な結晶プリズムが、銃身の内部に精密機械の極致として組み込まれていた。
「……レーザーブラスターか……!」
デーモンが喉の奥で唸り声を漏らした。
「日本の光学技術の頂点……水沢博士が基礎理論を確立させながらも、その余りの破壊力ゆえに封印した携行型レーザー兵器……! なぜ貴様がこれを持っている!?」
「宇宙空間のスペースデブリを瞬時に粉砕・蒸発させるために、私も独自に同種の光学発振器を研究していたが……」
谷博士も息を呑み、息を止めるようにしてその銃身を凝視した。
「これほど小型かつ完璧な集光収束率を誇る完成品など、見たことがない……。実用化など数十年は不可能とされていたはずだぞ」
「言ったはずだ。わしが望んで手に入らんものなど、この地上には存在しないと」
コズマは得意げに鼻を鳴らす。
その横で、ノラは淡々とコンテナの固定ワイヤーを外し、潜水艦のフロアへと完全に降ろしていた。
谷博士が我に返り、その巨大なコンテナを指差す。
「……それで、コズマくん。そのコンテナには何が入っているのだ? そのレーザーの予備バッテリーか何かか?」
「なに」
コズマはトランクから視線を上げ、事も無げに笑って見せた。
「近くの採石場から少しばかり失敬してきた、ただの『岩』の山よ」
「……何?」
デーモンが疑惑と困惑の視線をコズマに向けた。
「岩だと? 貴様、この期に及んで正気を失ったか? ただの石ころなど持ち込んで一体どうするつもりだ」
「岩石……採石場の……」
デーモンの隣で、谷博士の言葉が不意に途切れた。
谷の顔から急速に血の気が引き、やがてその瞳が信じられないものを見るように見開かれていく。
「……まさか。コズマくん、君は……」
「ほう、さすがはヴァレリー。察しがいいな」
コズマと旧知の仲である谷博士──
ヴァレリーだけが、コズマの意図を察した。
「これだけ素材があれば、あの小僧を真の『怪物』に仕立て上げるには十分すぎるだろう?」
口の端を裂けんばかりに吊り上げ、深海の闇の中でコズマは獰猛に嗤った。