——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第百十話:迫り来る悪意

 

 

 倒れ伏したハーキュリーの残骸から漏れる青白い火花が、沈黙した体育館の床をかすかに照らしていた。

 白銀の巨躯──プロトタイプ・エイトマンは、静かに拳を下ろすと、へたり込んだままの結衣の前へと歩み寄った。装甲の隙間からわずかに排熱の蒸気を吐き出し、穏やかな老紳士の声が響く。

 

「……大丈夫かね、由比ヶ浜君」

「あ、は、はい……っ」

 

 結衣は掠れた声で答えながら、ずきりと痛む側頭部を片手で押さえた。

 胸の奥底から噴き上がったあの怒りと衝動。ほんの一瞬だけ引き戻された忌まわしい『力』の反動か、激しいめまいと倦怠感が全身を鉛のように重く締め付けている。

 

「……何なんだ、一体。奴らは……それに、その姿は……」

 

 平塚が身構えながら、ジャージの裾を握りしめて低く問いかける。その背後では、沙希が鋭い眼差しで白銀のサイボーグを睨みつけ、結衣をかばうように半歩前へ出ていた。

 唐突に現れ、規格外の破壊力を持つ重装甲兵器の部隊を瞬時に叩き伏せた未知の存在。警戒するなという方が無理だった。

 

「先生、サキちゃん……大丈夫、だよ」

 

 結衣はおぼつかない足取りで立ち上がろうとしながら、二人へ向けて必死に首を振った。

 

「この人は……谷博士。あたしとヒッキーを……助けて、くれた人だから」

「谷……博士……? このマシナリーが……!?」

 

 平塚の目が丸くなる。谷博士は機械化された首筋をわずかに傾け、短く会釈を返した。

 

「いかにも。平塚君、それに川崎君、災難だったな。詳しい事情を話す時間はないが……ひとまず安心していい。この避難所は、私が責任を持って守り抜く」

 

 その冷徹な機械の声音に宿る、確かな人間としての矜持。それを感じ取ったのか、平塚と沙希の肩からわずかに険が抜けた。

 だが、その平穏は数秒と持たなかった。

 

「ッ……痛、ぁ……!?」

 

 結衣が突如、両手でこめかみを強く押さえ、その場に崩れ落ちそうになった。

 

「由比ヶ浜!? どこか怪我でもしたのか!?」

「結衣っ!」

 

 平塚が咄嗟にその細い肩を抱き留め、沙希が顔を覗き込む。

 結衣は荒い息を吐きながら、「だ、いじょうぶ……」と小さく呟いた。だが、その言葉とは裏腹に、彼女の視覚世界は完全に狂い咲いていた。

 

 バチッ、と網膜の裏でショートするような火花が散る。

 

 視界のすべてが一瞬だけ、血を流し込んだかのような『鮮烈な紅』へと染め上げられた。

 直後、色彩を失ったノイズが走り──結衣の瞳の奥に、灰色がかった奇妙な『映像』が焼きつくように投射された。

 

 ──崩落したコンクリートの瓦礫。立ち込める硝煙と、遠くで響く雷鳴のような破壊音。

 

 そこに、居るはずのない少女が立っていた。

 黒髪を乱し、痛切な悲痛をその双眸に宿した、親友──雪ノ下雪乃。

 そして、その彼女と正面から向き合っている、もう一つの影。

 かつての生身の輪郭をかろうじて留めながらも、異形の鋼鉄と紫電を纏い、感情を削ぎ落としたような冷たい眼差しを向ける少年──比企谷八幡。

 

 二人は、壊れかけた世界の中心で、互いに言葉を交わすこともなく、ただ痛々しく視線を交錯させていた。

 

「っ……あ……!」

 

 結衣が強く瞬きをした瞬間、灰色のヴィジョンは霧散し、煤けた体育館の天井が視界に戻ってきた。

 心臓が激しく早鐘を打ち、冷たい汗が背筋を伝い落ちる。

 

「……今のは……何……? ゆきのん……? ヒッキー……?」

 

 見えるはずのない光景。ここにいないはずの二人が、なぜ自分の頭の中に浮かび上がったのか。

 混乱と恐怖に唇を震わせる結衣の姿を、谷博士の青白い光学センサーが冷徹に、そして微かな驚愕をもって見つめていた。

 

「……脳波パターン、扁桃体の一時的な異常過熱。バイオモニターのログが、先ほどの超能力発現時と酷似しているな」

「博士、それはどういうことだ?」

 

 平塚の切迫した問いに、谷博士は静かに腕を組み、重い声で告げた。

 

「肉体に刻まれた改造の残滓が、極限の感情に呼応して新たな受容野を開いたのかもしれん。……見えるはずのない情景、あるいはこれから起こり得る事象の断片を感知したのだとすれば──近い時間を見通す『未来予知』である可能性が高い」

「未来……予知……?」

 

 沙希が息を呑み、言葉を失う。

 結衣は自らの胸元を両手で強く握りしめた。

 

「……ヒッキーと、ゆきのんが……もう一度、会えるの……?」

 

 あの灰色の光景。

 雪乃のあの泣きそうな瞳と、それを見つめる八幡。

 

 ──もし、あれが本当にこれから訪れる『未来』の断片なのだとしたら──。

 

 結衣は硬く冷たい床を見つめたまま、激しい葛藤の渦に沈み込んだ。

 恐怖はある。あの忌まわしい力に関わりたくなどない。

 だが、あの二人の痛切な姿を放置してしまえば、何が待っているのか。

 数秒の沈黙の後、結衣はゆっくりと、迷いを削ぎ落とした真っ直ぐな瞳を上げた。その胸の奥底に、一つの揺るぎない覚悟を灯して。

 

「……あたし、ゆきのんのところに行きたい」

 

 結衣の口から零れ落ちたその言葉に、体育館の空気が凍りついた。

 

「な……何を言ってるんだ、由比ヶ浜!?」

「結衣、あんた正気!?」

 

 平塚と沙希が同時に声を荒らげる。

 だが、結衣は二人の動揺を受け止めながらも、自らの胸元をぎゅっと握りしめたまま視線を逸らさなかった。

 

「今見えたのが本当に未来なら……あたし、そこに全部賭けてみたい。ゆきのんとヒッキーが、もう一度会えるチャンスがあるなら……、その可能性を信じたい」

「気持ちは分かる。だが、今の君はもう超能力者ではないのだぞ」

 

 谷博士が機械化された腕を静かに下ろし、淡々と、しかし重く告げた。

 

「先ほどの瞬間的な発現はあくまで極限状態での偶発的な暴走だ。今の君はテレポートもサイコキネシスも使えぬ、ただの生身の人間に過ぎない。外はGenesisの残党や機械兵器が徘徊する文字通りの戦場だ。丸腰の少女が歩いて生き延びられる場所ではない」

「博士の言う通りだ、由比ヶ浜」

 

 平塚もまた、教師としての厳格な眼差しを結衣へ向ける。

 

「お前が二人を心配する気持ちは痛いほど分かる。だが、お前を危険に晒すわけにはいかない。教え子をみすみす死地へ送り出すような真似は、私には絶対にできない」

「それでも……! それでも行かなきゃダメなんです!」

 

 結衣の大きな瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。

 だが、その声は微塵も震えていなかった。

 

「あたし、ずっとなにもできなかった。ヒッキーが一人で抱え込んで傷ついてた時も、ゆきのんが苦しんでた時も、ただ隣でオロオロしてるだけで……なにもできなかった! でも、もしあたしがここで立ち止まっちゃったら……二度と、あたしたちの『奉仕部』の繋がりは戻らなくなっちゃう! それだけは……それだけは絶対に嫌なの! お願い、先生……行かせて……!」

 

 床に膝をつき、必死に頭を下げる結衣。

 その全身から放たれる痛切なまでの覚悟と熱情が、冷え切った体育館の空気を震わせた。

 平塚は拳を固く握りしめ、苦渋に満ちた表情で唇を噛んだ。

 いつも周囲の顔色を窺い、空気を読んで笑っていた少女が、自らの命を懸けてまで他者のために前を向いている。そのひたむきな魂を、大人の常識という檻に閉じ込めることが、果たして正しい教えと言えるのだろうか。

 

 ──長いため息の後、平塚の険しい顔がふっと緩んだ。

 

「……まったく。お前たち三人は、揃いも揃って頑固で世話が焼ける」

「先生……?」

 

 平塚はジャージのポケットから車のキーを取り出し、指先でジャラリと鳴らした。

 

「私がお前を送り届ける。私の愛車なら、少々の悪路だろうと走破してみせるさ。雪ノ下と比企谷の元へ、責任を持って連れて行ってやる」

「平塚君……」

 

 谷博士が制止しかけたが、平塚の真っ直ぐな瞳を見て口を噤んだ。

 白銀のコンソールが微かに明滅し、即座に衛星索敵リンクを起動する。

 

「……二人の現在座標は既に特定してある。平塚君、君の端末へデータを転送した」

 

 ピピーッ、と平塚のスマートフォンが受信音を鳴らした。

 

「感謝する、谷博士」

「礼には及ばん。ここは私の管轄だ。この避難所は、我が命に代えても守り抜くと約束しよう。……行きなさい」

 

 谷博士が重厚に頷く。

 その横から、沙希が結衣の元へツカツカと歩み寄ってきた。

 

「……サキちゃん……」

 

 怒られる、と結衣が身を縮めた瞬間。

 バチンッ! と、沙希の手のひらが結衣の背中を小気味よく叩いた。

 

「いっ……!」

「あんたの親には、あたしが適当に言い訳しといてあげる。『沙希ちゃんの家で急遽手伝いすることになった』とか何でもね」

 

 沙希はぶっきらぼうにそっぽを向きながら、ポケットに手を突っ込んだ。

 

「だから……絶対に、無傷で帰ってきなさいよ。ちょっとでも擦り傷作って戻ってきたら、ただじゃ置かないからね」

「……っ、うん! ありがとう、サキちゃん!」

 

 結衣は涙を乱暴に袖で拭い、花が咲くような満面の笑顔を咲かせた。

 平塚が搬入口へ向けて駆け出し、結衣もその背中を追って力強く地を蹴る。

 二人の足音が遠ざかり、壊れたシャッターの向こうの硝煙の中へと消えていった。

 

 静まり返った体育館。

 

 二人の去った扉を見つめながら、沙希は深く、小さく息を吐き出した。

 

(……はぁ)

 

 壁に背中を預け、ずるずると力を抜く。

 行けるものなら、自分もついて行きたかった。

 あの頑固な比企谷の胸ぐらを掴んで、「何かっこつけてんだバカ」と一発殴りつけてやりたい衝動がなかったと言えば嘘になる。

 

 だが──できなかった。

 

 比企谷八幡、雪ノ下雪乃、そして由比ヶ浜結衣。

 あの『三人』の間に流れる、痛々しいほど純粋で、誰の侵入も許さない異様な空気の中に、割って入れるだけの理由を自分は持ち合わせていなかった。

 傷だらけになりながら、それでも『奉仕部』という絆を必死に繋ぎ止めようとする結衣の姿が、胸の奥をチクリと刺す。

 少しだけ……本当に少しだけ、眩しくて、羨ましかった。

 

(……もしさ)

 

 沙希は自嘲気味に口元を歪めた。

 もし、自分がもっと早くあいつと出会っていたら。

 あるいは、あの教室の部室の扉を、自分が先に開けていたとしたら──。

 自分も、あの特別な輪の中に立っていた可能性はあったのだろうか。

 

「……バカ。何考えてんだか、柄にもない」

 

 自らの淡い感傷を振り払うように頭を振ると、沙希は二人が駆け出していった冬枯れの空を見上げた。

 

「……死ぬんじゃないよ、アンタたち」

 

 声には出さず、唇の動きだけで投げかけた小さな祈り。

 あの不器用な少年と、不器用な少女たちに──どうか、最悪の結末だけは訪れませんようにと、沙希は冷え切った両手をぎゅっと握りしめていた。

 

 

 

──

 

 

 

 ジュウウッ!

 

 エルケーニヒの禍々しい両目から放たれた極太の熱線が、冬の冷気を一瞬で焼き焦がし、大気を白熱させながら空間を両断した。

 エイトマンはスラスターの噴射角をミリ単位で微調整し、三次元の急激な捻り運動でその直撃を紙一重で回避する。網膜ディスプレイを掠める熱線の余熱だけで、外部装甲のコーティングがピリピリと悲鳴を上げた。

 

「くたばれッ!」

 

 身を翻した八幡は、両前腕の集光器から連続でレーザーブラスターを叩き込む。超電導ラインから供給される高密度の光弾が、寸分の狂いもなく黒き魔王の胸部へと殺到した。

 

 ──だが。

 

 直撃のわずか数ミリ手前で、光の軌道がグニャリと不自然に湾曲した。

 真空のレンズに触れたかのように光条が歪み、エルケーニヒの装甲を撫でることすら叶わず、背後の虚空へと滑り落ちていく。

 

(チッ……光すら曲げる重力の盾かよ。ゲームじゃよくある展開だが、実際相手にすると厄介極まりねぇな)

 

 エイトマンは歯を食いしばる。

 一般相対性理論が示す通り、質量と重力は時空そのものを歪める。エルケーニヒがその身に宿す超重力制御装置は、直撃コースの光子線すら偏向させて逸らしてしまう絶対的な防御フィールドを形成していた。

 

 戦闘開始から、わずか数分。

 

 その短い間に、エイトマンの超電子頭脳はテラバイト級の弾道データと戦況推移を処理し続けていたが、弾き出される結論は面白くないものばかりだった。

 遠距離からの射撃兵器は、重力歪曲フィールドによってほぼ無力化される。

 いくらメガソニックバスターを温存していようと、光や電磁波をねじ曲げる力場の前では決定打になり得ない。勝機を掴むには、相手の重力場が最も薄くなるゼロ距離──肉薄しての直接攻撃しかない。

 

「──なら、懐に飛び込むまでだ!」

 

 前腕の集光器をブレードモードへと即座に切り替える。

 青白い光刃が両腕に固定されると同時に、背部の主推進器が爆発的な推進力を生み出した。音速を軽く突破する超加速。視界の景色が激しく後方へと流れる中、エイトマンはエルケーニヒの喉元へと一直線に肉薄した。

 

 その時だった。

 

 カッ──!

 

 エルケーニヒの深淵のセンサーアイが妖しく閃光を放った。

 

(……ッ!?)

 

 全身の毛穴が逆立つような、本能的な悪寒。

 思考よりも先に反射回路をフル稼働させ、全身の姿勢制御スラスターを逆噴射させた。推進フレームが激しく軋みを上げ、強引に機体を反転させて後方へと弾け飛ぶ。

 

 ズズズズズゥゥッ……!!

 

 直後、ほんのコンマ数秒前までエイトマンがいた空間が、縦長の歪みとなって悍ましく圧縮された。

 不可視の超重力の塊が空間ごと垂直に叩きつけられ、その直下にあった館山の山肌が、見えない巨大な杭を打ち込まれたかのように円形に陥没し、土煙を吹き上げて粉々に圧砕されていく。

 

(……あ、危ねえ。冗談じゃねえぞ)

 

 反応がわずかに遅れていれば、あの不可視の重力網に捕縛され、四肢ごと圧搾機にかけられた肉塊のように潰されていた。

 反撃の暇を与えまいと、牽制として肩部からマイクロミサイル数発を一斉射出する。だが、発射された小型弾頭は、魔王の両目から放たれた鋭利な熱線によって一瞬で迎撃され、空中で無残な火球へと変わった。

 攻守ともに隙のない、完全なる絶対強者。

 

 だが──八幡の口元に、冷たく獰猛な笑みが微かに浮かんだ。

 

(……だがな。以前の俺とは違う)

 

 かつて、なす術もなく手足を砕かれ、ただ解体されるのを待つしかなかったあの絶望的な敗北。

 それに比べれば、今は確実に敵の攻撃を見切り、回避し、手応えを測るだけの余裕がある。超電子頭脳が導き出す勝率のグラフは、決してゼロの底に張り付いてはいない。

 空中戦での機動性、そして遠距離での撃ち合いでは分が悪い。

 ならば、奴の重力制御の死角をどう突き、いかにしてこの装甲を貫く至近距離へ持ち込むか。

 

 超電子頭脳が冷却ファンの唸りを上げ、魔王を撃破するための最適解を求めて限界領域で回転を続ける。

 

 激突の火花は、まだ散り始めたばかりだった。

 

 

 

──

 

 

 吹き荒れる突風に黒マントを激しく波打たせながら、デーモン博士は電磁ステッキを握りしめたまま、上空の激突を見上げていた。

 冬の寒空を焦がす熱線と、青白い光刃の軌跡。

 強化改造を経て生まれ変わったエイトマンと、Genesisが誇る超重力の化身エルケーニヒ。双方が放つ破壊の余波は大気を震わせ、数キロ離れたこの地上にすらビリビリとした地響きとなって届いている。

 だが──。

 

(……おかしい)

 

 デーモン博士の固く結ばれた唇から微かな呟きが漏れた。

 先ほどから、胸の奥底で燻る不吉な感覚が消えない。

 エルケーニヒは超人類組織の最高戦力だ。

 これまでのドローン網やヘルハウンド部隊による包囲戦がただの前座、露払いであったとするならば、この黒い魔王の出撃こそが敵の総攻撃の合図であるはずだった。

 

 しかし、戦場を包むこの異様な『静けさ』は何だ。

 

 それは、生涯を悪と狂気の境界で生き抜き、数々の謀略と裏切りを渡り歩いてきた者だけに備わった、第六感的な悪意の感知力だった。

 狡猾な罠、底知れぬ悪意が仕掛けられている時特有の、冷え切った澱みが空気の中に漂っている。

 

 上空では、互角の怪物が天を裂くような死闘を繰り広げている。現存するあらゆる通常兵器を紙屑同然に変える二大破壊神の激突。

 その真後ろで、巨大な漆黒の球体要塞『黒い太陽』は、まるでただの舞台装置のように完全な沈黙を保ったまま、不気味に浮かび続けていた。

 要塞からの援護射撃もなければ、第二波の増援すら射出されない。

 エイトマンを叩き潰すことだけが真の目的ならば、エルケーニヒの戦闘に同調して総力を叩きつけるのが道理だ。それを行わないということは──。

 

(ここで一斉攻撃を仕掛けない理由はなんだ? 奴らの本当の狙いは……?)

 

 デーモン博士の眉間に深い溝が刻まれる。

 その思考のすぐ側で。

 ベラボット軍団によって機体を砕かれ、黒煙を吹き上げて転がっていたはずのヘルハウンドの一頭。

 そのひしゃげた頭部の奥深く、冷え切っていたはずの真紅のアイサイトが、誰にも気づかれぬまま──チカ……チカ……と、鈍く不気味な明滅を再開させていた。

 

 上空で繰り広げられる神速の死闘を、田中課長は息を詰めて見つめている。

 エイトマンが空を裂き、魔王の超重力が山肌を圧砕する。その光景に視線を奪われ、地上の警戒がほんの数秒、緩んだその刹那だった。

 田中の背後、瓦礫の陰に転がっていたヘルハウンドの残骸。

 生体を持たない完全な機械仕掛けの猟犬は、動力炉が粉砕されない限り、予備回路によって再稼働する自己修復ルーチンを秘めていた。

 

 キィィ……と微小な駆動音を立て、ひしゃげた頸部が持ち上がる。

 照準バイザーの網膜に、無防備な田中の背中がロックオンされた。背面にマウントされた小型高出力レーザーガンの銃口が、発射シーケンスの熱を帯びて青白く白熱していく。

 

「課長ッ、伏せろォォッ!」

 

 異変に最初に気づいたのは羽佐間だった。

 考えるよりも早く地を蹴り、田中の背後へと全力で割り込む。

 

 バシュッ、バシュッ──!

 

 空気を切り裂く冷酷な閃光。

 身代わりとなって飛び込んだ羽佐間の胴体を、高熱のレーザー光条が容赦なく貫通した。

 

「が、はッ……!」

 

 焦げた布地と肉の焼ける異臭、そして鮮血が真冬の土煙に飛び散る。

羽佐間の身体が糸の切れた人形のように力なく崩れ落ちた。

 

「羽佐間ァッ!」

 

 田中が絶叫し、振り返りざまに倒れ込む部下の身体を抱き止める。胸部と腹部に開いた複数の穿孔から、どす黒い血が止めどなく溢れ出していた。

 

「チッ……小癪な野良犬風情が!」

 

 デーモン博士が忌々しげに舌打ちし、手にしたステッキを閃かせた。

 すぐ脇に控えていたベラボットMk12が『フシューッ!』とけたたましい排気音を立てて突進し、油圧式の重装甲トレイをヘルハウンドの頭部へ垂直に叩き落とす。グシャリと無残な破砕音が響き、猟犬の中枢プロセッサが完全にスクラップとなって沈黙した。

 

「羽佐間! おい、しっかりしろ羽佐間ッ!」

 

 田中の悲痛な叫びが木霊する。だが、羽佐間の瞳の焦点は定まらず、荒い呼吸と共に唇の端から血泡が零れるばかりだった。即死こそ免れたものの、明らかに致命傷の領域に達している。

 

「おい、Mk5、Mk6! この男を運べ! トレイに固定し、応急止血シーケンスを開始するのだ!」

 

 デーモンの鋭い怒号に反応し、二機のベラボットが滑るように駆け寄る。トレイを展開して羽佐間の身体を手際よく収容すると、内蔵された圧迫ゲルと止血レーザーを起動させながら後方の安全地帯へと全速力で搬送を開始した。

 

「すまない、デーモン博士……!」

「例には及ばん。それよりも周囲の警戒を厳としろ」

 

 田中が血に染まった両手を震わせ、絞り出すように礼を言う。

 短く返答するデーモン。その視線は再び、激突を続ける寒空の頂点へと据えられている。

 

(……雲行きが、本格的に怪しくなってきたな)

 

 博士の口が険しく引き結ばれる。

 背後を突く残党の再起動、そして何より──この致命的な騒乱すら意に介さず、ただ沈黙を守り続ける天空の『黒い太陽』。

 胸の奥を締め付ける不吉な予感は、もはや確信へと変わりつつあった。

 

 デーモンはステッキを握り直すと、冷たい風が吹き荒れる空の決戦を、苦々しい眼差しで睨み据えた。

 

 

──

 

 

 上空で急旋回を刻むエイトマンは、スラスターの噴射角を鋭角に絞り、機首を真下へと向けた。

 急激な高度低下。背後から追従して降り注ぐエルケーニヒの両目からの熱線が、八幡の旋回軌道をミリ単位で掠めて冬の大気を焼き焦がす。八幡は装甲をかすめる熱波をものともせず、スラスターを反転噴射させながら、房総の荒涼とした大地へと滑るように両足を滑り込ませた。

 

 ズザザザザッ!

 

 土煙と火花を巻き上げながら、地表を削り取って完璧なブレーキングを決める。

 

 ──空中戦は敵の土俵だ。

 

 だが、地面に足を着けたこの地上こそ、エイトマンというマシナリーが最も猛威を振るう絶対の領域。

 

(演算終了……。勝ち筋は見えたぞ。あとは、1ミリの隙もなく実行するまで)

 

 電子頭脳が叩き出した無機質な物理計算の回答。そこに、比企谷八幡という人間が培ってきた冷徹で泥臭い悪知恵と観察眼を掛け合わせる。

 敵の弱点、力場の偏り、重力制御の死角──そのすべてを突いて、あの傲慢な魔王を完全破壊するためのプロットが完成した。

 

「──炉心臨界、リミッター全解除」

 

 八幡が低く呟く。

 胸部の小型原始リアクターが猛然と回転数を上げ、超電導バイパスを通じて四肢の人工筋肉へかつてない莫大なエネルギーが注ぎ込まれた。

 

『極超音速移動装置(ハイパーソニックムーブ)』──起動シーケンス開始。

 

 数瞬遅れて、重々しい地響きと共にエルケーニヒが虚空から地表へと舞い降りた。

 漆黒の魔王がその禍々しい剛腕を持ち上げ、地上にいるエイトマンを叩き潰すべく重力場を集中させようとした、まさにその刹那──。

 

 ブ、──ゥンッ……!

 

 エイトマンの輪郭が、蜃気楼のように猛烈な勢いで掻き消えた。

 

 ──キィィィィィィンッッ!!

 

 直後、大気の分子が無理やりに引き裂かれ、鼓膜を劈くような超音速の高周波音が、荒野の果てまでけたたましく響き渡った。

 

 ──ハイパーソニックムーブ起動。現在速度、マッハ5。

 

 地表を舐めるように疾走するエイトマンの足元から、衝撃波の塊が地割れとなって四方へ弾け飛んだ。巻き上げられた土煙すら置き去りにする異次元の加速。

 

 ──マッハ8到達。『シャドームーブ』起動。

 

 眼前のエルケーニヒの視覚センサーが、狂ったように追尾エラーのアラートを吐き出し始めた。

 単一の標的であったはずのエイトマンの姿が、網膜の残像処理の限界を遥かに超え、数十、数百の黒い残影となって荒野全域を包囲するように高速で旋回する。

 

 胸部の小型原子炉はさらに唸りを上げ、炉心出力を極限のオーバードライブ領域へと引き上げていく。デーモンと谷の二大天才が改修を施した最新リアクターは、きしむ装甲の内側で、かつての倍以上の膨大なエネルギーを淀みなく捻出していた。

 

 ──マッハ10到達。『エアロストライク』発射シークエンス開始。

 

 大気を暴力的に切り裂きながら疾走するエイトマンのボディ周辺で、空間そのものが断熱圧縮と凄まじい摩擦熱によって軋みを上げ、グニャリと陽炎のように歪み始めた。

 ただ走るだけの運動が、周囲の大気分子を巻き込み、極小の特異点のごときエネルギーの塊へと凝縮されていく。

 

 異変を察知したエルケーニヒの紅き双眸が禍々しく輝いた。

 周囲一帯の大地ごとエイトマンを押し潰すべく、無差別の超重力の檻が叩きつけられる。

 

 ドガガガガァンッ!

 

 巨木が根こそぎ圧搾され、巨岩が塵へと粉砕されて大地が円形に陥没していく。だが──文字通り『放たれた弾丸よりも速い』超音速の戦士となったエイトマンの軌跡を捉えることなど、もはや神の業をもってしても不可能だった。

 

 スピードこそが、エイトマン最大の武器。

 

 そして限界を超えて上昇し切ったそのスピードは、ただの回避機動ではなく、魔王の心臓を抉り抜くための文字通りの『牙』へと変貌を遂げていた。

 

 ──マッハ15到達。エアロストライク、ターゲット・ロックオン。

 

「──行くぜ……」

 

 光を呑み込む冷徹な眼差しを宿し、エイトマンはエルケーニヒの真正面、わずか数十メートルの距離へと忽然と現れた。

 その背後に従えているのは、極超音速機動によって圧縮されきった大気

 

 ──直径20メートルにも及ぶ、空間そのものを歪ませた超高圧の『空気の弾丸』。

 

 エルケーニヒの禍々しい両目が最大出力で輝き、正面のエイトマンへ向けて超重力の圧殺網を放とうとした。

 しかしその瞬間、すべての音を圧殺する耳を劈く巨大な爆音が、冬枯れの館山を根底から揺るがした。

 

 ドッゴォォォォォンッッ!!

 

 天地を揺るがす大爆音。

 極超音速移動が削り出し、背負い込んだマッハ15の莫大な運動エネルギーのすべて──超圧縮された直径20メートルの空気弾『エアロストライク』が、エルケーニヒの頭上へ向けて解き放たれた。

 

 直撃すれば、いかに超重力の魔王とてフレームごと微粒子へと粉砕される必殺の質量弾が猛然と迫る。

 

 

──だが、それは直撃はしなかった。

 

 

 ギュララララッ!

 

 衝突の寸前、エルケーニヒの前面に展開された超重力湾曲フィールド。不可視の重力障壁が暴威を振るう巨大な空気砲を真っ向からねじ伏せ、その圧搾エネルギーを強引に四方へと霧散させたのだ。

 極限まで圧縮されていた空気分子は反発で一気に励起し、灼熱のプラズマと化して白銀の閃光を撒き散らす。

 吹き荒れるプラズマの嵐。

 魔王の絶対的な障壁は、近づくあらゆる物理攻撃を力づくで無へと帰した。

 

 だが──その閃光のカーテンの向こう側に、エイトマンの姿はなかった。

 

 エルケーニヒの頭部演算ユニットが、コンマ数秒のエラーを弾き出した。

そのわずかな逡巡、不可視の空白こそが、この死闘の命運を分かつ絶対の分水嶺だった。

 

 シューッ……!

 

 前面視覚センサーの盲点──プラズマの余波を切り裂き、エルケーニヒの懐、装甲が触れ合うほどの超至近距離に、全身の排熱ダクトから激しい白煙を吹き上げる漆黒の巨躯が滑り込んでいた。

 

「うおおおおおおおおっっ!!!」

 

 八幡の魂の底からの咆哮が、装甲板を震わせて轟く。

 

 すべてはこの一瞬のための布石に過ぎなかった。

 マッハ15に達するハイパーソニックムーブは、機体内部の原始リアクターを限界出力まで過熱させるための助走。

 ド派手にぶちかましたエアロストライクは、エルケーニヒの前面重力フィールドと視覚センサーを完全に釘付けにするための、ただの『囮』。

 

 虚に紛れ、実を刺す。泥臭く欺き、最後の最後で確実に急所を抉る。

 綺麗事など一つもない、これこそが比企谷八幡の必殺必死の戦い方だ。

 

 リアクターはすでに臨界を超え、極超音速の運動エネルギーはすべて両腕へとバイパスされていた。

 八幡の漆黒の両掌が、キィィィィィン……と鼓膜を狂わせるような不気味な高周波を唸らせながら、エルケーニヒの胸部装甲板へと直接押し当てられる。

 

 

 ──『超振動発生装置(ギガ・バイブレーション)』!!

 

 

 瞬間、触れた掌の先から、物質の理を崩壊させる破滅の衝撃波が、魔王の体内中枢へと音もなく雪崩れ込んでいった。

 

 それは、デーモン博士が狂気と共に組み込んだ悪魔の発明。

 あらゆる物質の分子結合そのものを根底から解体する、死神の爪痕。

 

 エイトマンの両掌から流し込まれた秒間数兆回に及ぶ超高周波の振動波は、エルケーニヒの分厚い重装甲を何ら抵抗なくすり抜け、その体内中枢へと音もなく浸透していった。

 金属の軋む音も、爆薬が炸裂する轟音すらない。

 ただ、原子と分子を繋ぎ止めていた不可視の結合力だけが、不可逆のレベルで粉々に解きほぐされていく。

 

 黒き魔王の装甲表面が、陽炎のように曖昧に揺らいだ。

 エルケーニヒの制御機構が急激な崩壊を察知し、重力場を反転させて後方への緊急離脱シーケンスを作動させようとした──まさにその刹那。

 

 まるで長年の風化に耐えかねた砂の彫刻のように、エルケーニヒの両腕と両脚が、何の抵抗もなく同時に崩れ落ちた。

 断面から火花が散ることすらない。落ちていく先から金属の破片は細やかな粒子へと相転移し、地面に触れる前に灰色の塵と化していく。

 超重力発生炉が沈黙し、思考プロセッサを宿した頭部すらも追随するように輪郭を失っていく。

 

 ──魔王の象徴であった禍々しい二本の角が、冬枯れの館山を吹き抜ける冷たい海風を浴びて、淡い煙のように解け落ち、虚空へと霧散していった。

 

 完全なる消滅。

 

 そこに残されたのは、抉り取られた冷たい土の匂いと、荒涼とした静寂だけだった。

 

「……ッ、ハァ……ハァ……」

 

 エイトマンは掌を下ろし、過熱した原始リアクターの出力をアイドリング状態へと落とした。

 全身の排熱スリットから、シューッ……と白い冷却蒸気が立ち上る。

 

(終わったのか……? これで……)

 

 呆然と立ち尽くす八幡の思考プロセッサは、あまりに呆気ない幕切れに奇妙な空白を抱えていた。

 かつて自分をゴミ屑のように蹂躙し、なす術もなく四肢を粉砕して死の淵へと叩き落としたあの絶対的な魔王。

 デーモン博士が組み込んだ『ギガ・バイブレーション』の破壊力が規格外であったことは事実だ。まさに死神の一撃、悪魔の発明と呼ぶに相応しい威力だった。

 

 だが──。

 

(……これで本当に、全部片付いたのか?)

 

 冷徹な観察眼と電子頭脳の思考回路が、静まり返った戦場に鋭い警鐘を鳴らし続けていた。

 あの傲慢極まりない超人類組織『Genesis』が、自分たちの最高戦力と誇る切り札を、これしきの戦術とたった一撃の奇襲で完全に失うなどということがあるのだろうか。

 疑念が黒い靄となって頭部演算ユニットを巡る。

 

 そして、その直感の正しさは、数秒と経たずに証明されることとなった。

 

 キィィィィンッ!

 

 視界のコンソールが、突如として激しいエラー音と共に真紅に明滅した。

地殻の奥深く、常軌を逸した規模の巨大な熱源反応が、直近の暗黒から一気に急浮上してくる。

 

 先ほどエイトマンがメガソニックバスターを叩き込み、完全に消滅させたはずのGenesis本拠地跡。

 漆黒の球体要塞『黒い太陽』が虚空へと浮上したことで、地表には底の見えない巨大な縦穴が、ぽっかりと暗黒の口を開けていた。

 

 その奈落の底から──。

 

 ドシュウウゥゥッ!!

 

 大気を引き裂く猛烈な推進音とともに、四条の閃光が直上へと噴き上がった。

 ビルの柱ほどもある四基の大型ミサイルが、煙を引いてエイトマンの直頭上へと殺到する。

 

「ッ……!」

 

 思考を挟む間もなく地を蹴り、スラスターを全開にして真横へと超音速跳躍を敢行した。

 直後、先ほどまで立っていた大地に四発の弾頭が相次いで着弾。

 

 ドガガガガァァンッ!!

 

 天地を揺るがす大爆炎が巻き起こり、猛烈な爆風と赤熱の破片がエイトマンの背部装甲を激しく打ち据える。空中で体勢を立て直しながら、冷ややかに息を吐いた。

 

(……だよな。そう簡単に話が終わるはずもねえと思ってたぜ)

 

 舞い上がる黒煙と立ち込める硝煙の帳。

 その向こう側、大穴の暗黒の底から、ズズ……ズズズ……と大地そのものを軋ませる不吉な地鳴りが這い上がってきた。

 

 バキィッ!

 

 黒く煤けたクレーターの縁に、巨大な鋼鉄の爪が突き立てられた。

 大人の胴回りほどもある極太の指先が、コンクリートと岩盤を軽々と握り潰す。

 さらにその上──両肩の異様な装甲の隆起から生え出た、もう一対の巨大な剛腕が這い出でて、両脇の大地を深々と抉り取った。

 

 ズシンッ……!

 

 地殻を揺るがす重い足音が響き渡り、土煙を割ってその威容のすべてが白日の下に曝け出される。

 息を呑むエイトマンの視覚センサーの前に現れたのは──紛れもなく『魔王』の意匠を宿した怪物だった。

 

 だが、先ほど砂へと還った個体とは、質量も、放つ威圧感も、根本から次元を異にしていた。

 

 見上げるような巨躯は十メートルに迫り、周囲の光を貪り喰らう深淵の漆黒装甲は重戦車すら紙細工のように思わせる重厚さを誇る。

 両肩から生え揃った四本の剛腕は、触れるものすべてを物理的にも重力的にも握り潰す凶悪な質量を湛えていた。

 そして、頭部に聳え立つのは、先ほどの倍以上に巨大化し、天を刺し貫くように鋭く湾曲した漆黒の二本角。

 

 先ほどの魔王すら、ただの露払いの尖兵に過ぎなかったのだ。

 これこそが、Genesisが深淵に秘匿し続けていた真の破壊神。

 

 

「バケモノが……!!」

 

 

 四つの赤色センサーアイが冷酷に灯り、周囲の大気が異様な超重力の奔流によって目に見えて歪み、軋み声を上げ始めた。逃げ場のない死の重圧が、エイトマンの全身のフレームを締め上げていく。

 

 

 ──父も心 おののきつつ

   あえぐその子をいだきしめ

   辛くも宿に着きしが

   子は既に息絶えぬ

 

  ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『魔王』

 

 

 





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