——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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やっと書き上がったので投稿します。


第三章:サイバネティック・ラプソディー
第十五話:サマーシーズン、到来


 

 夏休み。それは、あらゆる社会的義務から解放されたぼっちにとってのサンクチュアリ、聖域である。

 比企谷家、二階の自室。比企谷八幡は今、冷房効率を最大化したこの空間で、原子炉(リアクター)をアイドリング状態に保つ至福の時を過ごしていた。

 

「……ふぅ。やはりマックスコーヒーの冷却効率は、他の追随を許さないな」

 

 キンキンに冷えた缶のプルタブを引き、暴力的な糖分を喉へ流し込んだ。過熱した論理回路が、一気に静まり返るのを感じる。

 八幡はアイマスクを装着し、脳内の電子頭脳(ブレイン)をフル活用して「ネット碁」の世界にダイブしていた。相手は最高難易度のAI。一秒間に数億回の演算をこなす八幡にとって、囲碁やチェスはもはや「思考のストレッチ」でしかない。

 

(はい、中押し勝ち。新世界の神になるのも、意外と退屈なもんだな……。おっと、次はマッハでラノベ三〇冊分をスキャンするか……)

 

 脳内ボード上でAIを完膚なきまでに叩きのめし、超高速読書に切り替えようとしたその瞬間、内部受信機に異質なパルスが割り込んできた。

 

 ――ピコーン。

 

(……メール? 誰だよ、ダイブ中に割り込み電波飛ばしてくる非常識な奴は。肝が冷えるどころか回路がショートしそうだ……)

 

 無視。当然だ。「比企谷八幡」という平凡な高校生として、ただ寝ているだけの時間を守らなければならない。たとえこの身体がハイマンガン・スチールの塊であっても、家族の前では「少し体力の乏しい、目の腐った兄」でいなければならないのだ。だが、通知は止まらない。

 

(いや、待て、この暗号化パルスは……)

 

『平塚静です。メール確認したられ んらくをください。比企谷くん、夏休み中の奉仕部の活動について至急連絡を取りたいです折り返し連絡をくださ い。』

『もしかしてまだ寝てますか? 先程から何度かメールや電話をしています』

『本当は見てるんじゃないんですか?』

 

『見てるんでしょう?』

 

『でんわ でろ』

 

「怖っ!? ネット怪談かよ!」

 

 最後の『でんわ でろ』という平仮名の羅列に、八幡は思わず跳ね起きた。

 改行のタイミングといい、この執念の深さといい、もはや現代の都市伝説である。

 

「先生。その執念の十分の一でも婚活に活かせばいいのに。……あ、今のは出力設定を間違えた。思考ログが漏れたら俺の装甲ごと粉砕されるな」

 

 空になったマックスコーヒーの空き缶を、無意識に指先で「プチッ」と一ミリ以下の極小サイズにまで圧縮しそうになるのを、必死の姿勢制御で抑える。

 

「お兄ちゃーん! 夏休みの宿題終わったよ! 勉強頑張ったご褒美に、小町に何か買ってくれてもいいんだよ!」

 

 ガチャリ、と扉が開く。コンマ数秒で電子頭脳のクロック数を「一般人モード」まで引き下げ、脱力したポーズでベッドに沈み込んだ。

 

「ご褒美ね。小町、俺の財布には今、四〇〇円しか入ってないの知ってるか? お前の兄貴の資産は、その大半がマックスコーヒーに変換されて……あー、胃袋で燃やされてるんだよ」

「えー、お兄ちゃん貧乏すぎ! 小町、ポイント大幅減点だぞー」

 

 小町がベッドの縁に腰掛ける。その振動でさえ、センサーは精密に感知してしまう。彼女の体温、心拍。それらを感じるたびに、自分が「機械」であることを突きつけられて胸が痛む。いや、胸のリアクターが軋む。

 

「その代わりと言っちゃなんだが、勉強なら見てやるぞ。微分積分でも量子力学の基礎理論でも、一瞬で……じゃなくて、それなりに時間をかけて教えてやる」

「微分積分はまだいいよ! 量子力学とか、お兄ちゃん最近なんかキャラ変わってない? 勉強しすぎて頭打った?」

「……かもな。一度、派手に打ったのは事実だ」

 

 あの交通事故の日。比企谷八幡が死んで、谷博士に拾われたあの日。小町は奇跡的に軽傷で生還したと信じている。その「嘘」を守ることだけが、今の八幡に残された唯一の家族愛だった。

 

「うーん、じゃあさ。別に物が欲しいわけじゃないんだ。お兄ちゃんと一緒にお出かけできれば、小町はそれで十分かな! ……なんてね、今の小町的にポイント高かった?」

 

 小町が首を傾げて、あざとく笑う。

 

「(うぜえ)はいはいポイント高い」

「もう、あからさまにテンション低いよお兄ちゃん。じゃあ決まり! 今日は千葉の方に行こうよ。……あ、でも準備するからちょっと待っててね!」

 

 小町はそう言うと、自分の部屋から他所行き用の大きめのカバンを引っ張り出してきた。

 

「おい。小町さん。ちょっと千葉に買い物に行くだけだよな? なんでお前、そんな荷物をパッキングしてんだ? 不審な点が多すぎて、俺のセンサー……じゃなくて、勘がレッドゾーンなんだが」

「え? 気のせいだよ! 小町、女の子だから色々必要なの! お兄ちゃんも、着替えくらいは持ってったほうがいいと思うよ。……特に、汚れてもいい服とか! 予備の靴とか!」

「……汚れてもいい服?」

 

 嫌な予感がする。

 平塚先生からの、怨念の籠もった『でんわでろ』メール。

 小町の、明らかに一泊以上を想定したパッキング。

 そして、なぜか原子炉が不吉な未来を予見して、微かに脈動を強めているこの感覚

 

「……小町。もしかして俺、また何か面倒なことに巻き込まれてる?」

「えへへ、それは着いてからのお楽しみ! じゃ、行こ行こ!」

 

 八幡は、期待と不安が入り混じった妹の背中を追うように、サンクチュアリから引きずり出された。

 自分が「鋼鉄の男(エイトマン)」であることを隠し通しながら、最愛の家族にさえ嘘をつき続ける孤独な夏休み。

 比企谷八幡の、二度目の、そして決定的にまちがっている夏休みが幕を開けようとしていた。

 

 

──

 

 

 待ち合わせ場所にいたのは、小町の友人でも、涼しげな商業施設の入り口でもなかった。

 SUVの前に仁王立ちし、サングラス越しに獲物を待つ猟師のような眼光を放つ、平塚静その人だった。

 

 (……は? なんでここに生活指導の鉄人がいるんだ? 俺の予測ログには一ミリも存在しないデータなんだが。まさかこの人、俺の行動パターンを動物的勘だけで逆算したのか?)

「――さて、比企谷。まずは、私の電話とメールを無視し続けた言い訳を聞かせてもらおうか」

 

 平塚がゆっくりと迫り来る。その一歩ごとに、八幡のセンサーが「物理的圧力:大」のアラートを吐き出した。

 

「いや、その。夏休みは電波の届かない……精神的な意味での深淵に潜っていたもので。……っていうか先生、なんでここにいるんですか」

「ああ、色々と手を回してね。君の妹君に連絡が取れた時は一安心したよ。比企谷、まさか、私の誘いを断って逃げ切れると思っていたのか? 逃がさん……お前だけは、絶対にな」

「最後の方が完全にホラーなんですが。先生、その執念を婚活に……」

「――何か言ったか?」

「いえ、なんでもありません」

 

 さらに背後からは聞き慣れた賑やかな声が響く。

 

「ヒッキー! 遅いし!」

「由比ヶ浜。なんでお前までいんの?」

「何でって、今日は部活じゃん! 平塚せんせーに呼ばれたんだよ」

 

 隣には、相変わらずの絶対零度の美少女、雪ノ下雪乃も立っていた。

 

「やっはろー、由比ヶ浜さん!」

「小町ちゃん、やっはろー!」

 

 小町と由比ヶ浜が楽しげに挨拶を交わす。……なんだその挨拶。バカっぽすぎるからやめろ。

 

「……こ、小町さん。や、やっ……やっ、は……。……おはよう、いい天気ね」

 

 雪ノ下までもが流れに乗りかけて、真っ赤な顔で言い直した。

 そこへ、八幡の視覚センサーをホワイトアウトさせる「天使」までもが合流する。

 

「八幡! お待たせ!」

 

 その瞬間、俺の視覚センサーがパッとホワイトアウトした。

 集合場所へ走ってくる、戸塚彩加。

 相変わらず女子より色素が薄く、完璧に構成された輪郭。揺れる髪。……なんだ、天使か。天使が千葉の街に降臨したのか。

 

「……戸塚。お前が来るなら、最初からそう言えよ……。全演算リソースをこの瞬間に捧げてもお釣りが来るわ」

「えへへ、八幡が来るって聞いて僕も楽しみにしてたんだ。よろしくね!」

 

 さっきまでの疑心暗鬼が嘘のように消え去る。神はいた。谷博士ではなく、戸塚彩加という形の神が。

 

 

──

 

 

 平塚静の愛車が、アスファルトを熱く切り裂きながら高速道路を駆ける。

 車内の揺れを、八幡の内部ジャイロスコープが微細な振動制御によって無力化していた。隣で小町が「お兄ちゃん、顔色悪くない? 酔った?」と心配そうに覗き込んでくるが、八幡は死んだ魚の目を維持したまま、カーナビの現在地情報をスキャンしていた。

 

「先生。一応確認しますけど、この道、千葉駅方面じゃないですよね」

 

 平塚がバックミラー越しに不敵な笑みを浮かべた。

 

「いつから行き先が千葉駅だと言った? 残念千葉村でした!!まさに外道!!」

「はぁ。なんすかそのアレなテンション」

 

 ノリノリで返す平塚に、八幡の電子頭脳(ブレイン)が引き気味に演算を回す。

 

(今どき古くさいネットスラングかよ。夜な夜なふたば(掲示板)を見て管を巻いてる姿が目に浮かぶようだ。三十路前でネット掲示板に浸ってる女教師……そりゃ結婚できねえわー)

 

 そんな八幡の失礼な思考を知ってか知らずか、車はやがて懐かしの林間学校施設、高千穂千葉村へと到着した。

 現地では、既に別のグループが到着していた。

 眩しい太陽の下、爽やかすぎるバイオ信号を放つ少年が手を振っている。葉山隼人だ。その後ろには三浦優美子や戸部翔、海老名姫菜の姿もある。

 

「やあ、ヒキタニくん。また一緒だね」

 

 葉山の屈託のない笑顔に、八幡は「……ああ。お前のその高出力な爽やかさ、光学的ノイズだから少し抑えろ」と内心で毒づくのが精一杯だった。

 

「先生、なんで葉山くんたちがここにいるんですか?」

 

 雪ノ下の問いに、平塚がタバコを吹かしながら説明を始めた。

 

「人手が足りなくてな。内申点を餌に募集をかけたところ、葉山たちが申し込んできた。……いいか比企谷、雪ノ下。これは奉仕部にとって、他者とのコミュニティを学ぶいい機会だ」

 

 平塚の瞳が、一瞬だけ真摯な教師のそれに変わる。

 

「仲良くする必要はない。だが、敵対して無視するのでもなく、さらっと無難にやり過ごす術を身につけろ。それが『社会に適応する』ということだ。……お前たちのことを案じて言っているんだぞ」

「相変わらず、説得力だけは一丁前ですね」

 

 八幡は素直に頷き、一行は小学生たちのオリエンテーリングのサポートを開始した。

 山道を進む小学生の群れ。その賑やかさを超高感度センサーでフィルタリングしながら歩く八幡

 自分もあんな時代があったのだろうかと記憶ログを洗ってみようとしたが、どうせ悲しい気持ちになるだけだろうと思いやめた。

 

 その時、前方の女子グループから悲鳴が上がった。

 駆けつけると、道端に一匹のアオダイショウが鎌首をもたげている。

 

「――っ! ヘビ、ヘビがいるー!」

「大丈夫だよ、みんな。ちょっと失礼するよ」

 葉山がスマートに木の枝でヘビを誘導し、茂みの奥へと追い払った。

「凄ーい! 葉山お兄ちゃんカッコいい!」

 

 子供たちからの喝采を全身に浴びる葉山。相変わらずの「初期設定から好感度マックス」の挙動を、八幡は電子頭脳で冷淡に記録していた。

 だが、その騒ぎの輪の外側。

 一人でデジカメをいじり、グループの楽しげな空気から完全に断絶している一人の少女を、八幡の視覚センサーが捉えた。

 

「……あの子」

 

 八幡の隣で、雪ノ下が小さくため息をつく。

 その瞳は、眩しい光を放つ葉山の輪ではなく、その光が作り出した「影」に真っ直ぐ向けられていた。

 

「一人でいることが悪いことだとは思わないけれど。……あの場所にいるのは、少し、寒すぎるわね」

 

 雪ノ下がこぼした言葉。その声の周波数は、八幡の内部メモリに深い「共鳴」として刻み込まれた。

 

(……ああ、なるほどな。ぼっちとぼっちは、磁石のように惹きつけ合うらしい。N極とS極が引き合うように、あるいは同極同士が反発しながらも、その存在を誰よりも鋭敏に察知するように)

 

 雪ノ下雪乃は、あの少女の中に、かつての自分、あるいは今の自分を見ている。

 そして八幡もまた、そんな雪ノ下の視線の先にある「孤独」を、センサーのログ以上に正確に理解してしまっていた。

 

 その時、八幡の横を歩いていた小町が深刻な表情で兄の袖を引いた。

 

「お兄ちゃーん、大変大変! 超緊急事態だよ!」

「どした。燃料切れか? マッ缶ならまだ一本予備があるぞ」

「違うよ! あのイケメン、葉山さん相手にしたらお兄ちゃんに勝ち目ゼロだよ、危険信号点滅中だよ!」

 

 小町が指差す先では、葉山隼人が子供たちの輪の中心で、眩いばかりの「正解の笑顔」を振りまいている。

 

「うるせ、ほっとけ。……俺の対人インターフェースは最初からバグだらけなんだ。あんな高スペックなコミュニケーション能力を、俺の演算能力でシミュレートできるわけねーだろ」

 

 事実、八幡にはあのような立ち回りは不可能だ。だが、その自虐的なやり取りに、これまで沈黙を保っていた海老名姫菜が、眼鏡の奥を妖しく光らせて食いついてきた。

 

「確かに、それは大変かもしれないわね……。ヒキタニくん、受けオーラがすごいし。完全な『へたれ受け』って感じだから、葉山くんに強引に迫られたら即落ちしそう。あぁ、王道ね……!」

(何言ってんだこの女。電子頭脳の言語処理が追いつかねーよ。せめて日本語で喋れ。……いや、待て。へたれ攻めなら、戸塚相手ならありなんじゃないか……?)

 

 八幡の思考回路が、一瞬だけ別の深淵(戸塚)へとダイブしかけたが、視線の先で葉山が孤立していた少女、鶴見留美に歩み寄るのを見て我に返った。

 葉山はさりげなく彼女の名前を聞き出し、優しく手を添えてグループの輪へと連れて行く。その手際の良さは、八幡には一生かかっても習得できない芸当だった。

 

「あなたには一生かかっても出来ない芸当ね。けれど、あまり良いやり方とは言えないわね」

 

 隣で見ていた雪ノ下が、冷たく言い放つ。葉山が去った後、留美を取り囲んだ他の少女たちは、愛想笑いを浮かべつつも、その瞳の奥には明らかな拒絶を秘めていた。

 

「小学生でもああいうのはあるもんだな」

「小学生も高校生も変わらないわよ。等しく同じ、人間なのだから。……周囲に理解者がいないことや、それを割り切ってしまう辛さを味わうのは……少し早すぎるわ」

 

 雪ノ下の言葉に宿る重みに、八幡は言葉を返せなかった。彼女が歩んできた「正しさゆえの孤独」が、その横顔から漏れ出していた。

 

 夕食の準備が始まると、平塚先生がサバイバル慣れした手つきで火おこしを開始した。

 

「これでも大学時代はよくサークルでバーベキューをしたものさ。私がこうして火を準備している間、周りのカップルどもがいちゃこらいちゃこらと……ッ! チッ、思い出しただけで気分が悪くなった!」

 

 八幡の熱センサーが、平塚先生の周囲の温度が物理的に上昇しているのを検知する。

 

「男子は火の準備! 女子は食材を取りに行け! 男女混ざって作業することは許可せん、隔離だ、隔離!」

 

 過去の怨念を爆発させる教師の指示により、不自然な男女別作業が始まった。

 食材班では、由比ヶ浜結衣が包丁と格闘していた。

 

「あ、あれっ? なんかジャガイモが転がってっちゃう……! 待って待って!」

 

 彼女が包丁を振り下ろす角度を、八幡の電子頭脳が瞬時に計算する。

 

(……まずい。あの入射角だと、ジャガイモと一緒に指が物理的に切断される確率、82パーセント……)

「貸せ。指が飛んでからじゃ遅い」

「ひゃっ、ヒッキー!?」

 

 八幡は由比ヶ浜の手から包丁を受け取ると、淀みない動きでジャガイモを刻み始めた。

 エイトマンとしての超高速移動を微細に抑制しつつも、人間に可能な「極限の効率」で切っていく。等間隔で刻まれるリズム、無駄のない刃の動き。

 

「え、すご……。ヒッキー、包丁の扱い、妙に様になってるじゃん!」

「……カレーくらいならたまに作るからな。小町に食わせるために最適化された結果だ」

「へぇ……そうなんだ。なんか、ちょっと意外っていうか……嬉しいかも」

 

 由比ヶ浜が頬を緩ませて八幡を見つめる。その柔らかい空気を、平塚先生の鋭い一喝が切り裂いた。

 

「比企谷! 由比ヶ浜! そこで何を良い雰囲気になっている!自分の持ち場に戻れ!」

 

 どうやら平塚先生の過去を蒸し返してしまったらしい。

 らしくない事をするとすぐこれである。

 

 オリエンテーリングの最中、葉山隼人が孤立していた少女・鶴見留美をグループの輪へ連れて行こうとする様子を、八幡と雪ノ下は遠巻きに眺めていた。

 

「あんな風に声をかけるのは、逆効果にしかならないのにね」

 

 雪ノ下が小さくため息をつく。八幡も心の中で深く同意していた。

 

(……ああ。ぼっちに声をかける時は、必ず一人の時じゃないとダメなんだ。衆人環視の中で特別扱いされるのは、周囲からすれば『晒し者』にされているのと同じ。ますます距離が開くだけだ)

 

 留美は葉山が離れた隙を見計らい、器用にその場を逃げ出した。その足取りから八幡は、彼女が「上手くやり過ごす方法」を熟知していることを察する。

 

「ま、大概のバカやその他大勢の中ですら、一人になれる逸材ってことだろ。俺たちと同じくな」

「一緒にして欲しくないのだけれど。その他大勢の中でさらに一人になれるなんて、呆れるのを通り越して軽蔑するわ」

「そこは尊敬じゃねーのか」

 

 そんな毒舌のやり取りが気になったのか、逃げ出したはずの留美がこちらをじっと見つめていた。

 

「ねえ。名前、なんていうの?」

 

 意を決したのか、小さな声で話しかけてきた。

 

「人に尋ねる時は、まず自分から名乗るものよ。小学生ならなおさらね」

 

 雪ノ下は子供相手にも一切の妥協をしない。そこへ由比ヶ浜も加わり、不器用な自己紹介が始まった。少女……鶴見留美はどこか冷めた瞳で三人を見比べ、ポツリと言った。

 

「……なんかそっちの二人は、あっちの人たち(葉山たち)と、なんか違う感じがする」

「そりゃそうだろうな。あっちが眩しい太陽なら、こっちは深い沼だ。属性が違いすぎる」

「……比企谷くん、自分を基準に深い沼などと言わないで。私はせいぜい高潔な孤島よ。あなたと一緒にしないでちょうだい」

 

 雪ノ下が八幡を鋭く睨む。だが、留美の抱える問題はそんな軽口で済むものではなかった。中学になれば新しく友達を作ればいい、と言う留美に対し、雪ノ下は残酷な現実を突きつける。

 

「いいえ。中学に進級しても、同級生の顔ぶれは変わらない。あなたの状況も、そのままスライドするだけよ。現実は、あなたが思うほど優しくはないわ」

 

 留美は唇を噛み、淀みなく話し出した。グループの中でハブられる対象が定期的に入れ替わること。誰かが言い出し、何となくそういう雰囲気になること。自分が加害者側にいた時は何とも思わなかったが、今、被害者側になってその痛みを知ったこと。

 

「中学でも、こんな風になっちゃうのかな」

 

少女の痛々しい呟きに対する正確な返答を、例えエイトマンともいえど持ち合わせてはいなかった。

 

──

 

 

 夕食後。小学生たちがロッジへ戻った後、高校生たちは留美の話題になった。

 一人でいること自体は八幡にとっても肯定すべきことだが、問題は「悪意によって強制的に孤立させられている」ことだ。

 

「なんとかしてあげたいんだけどな。皆が仲良くなれる方法があれば……」

 

 葉山が沈痛な面持ちで口を開くが、雪ノ下がそれを一刀両断する。

 

「仲良くなる? そんなこと、不可能よ。一欠片の可能性もないわ」

「ちょっと雪ノ下さん、せっかくいい感じにしようとしてるのに、なんでそうやって突っかかってくるわけ?」

 

 三浦が雪ノ下を睨みつける。旅行だと思って我慢していた彼女のイライラは、限界に達していた。

 

「私は、その思考停止した『仲良しごっこ』が好きじゃないと言っているのよ」

「はぁ? あー、ムカつく。私もあんたのこと、最初から好きじゃないから」

「奇遇ね。私もあなたのことは、はっきり嫌いよ」

 

 火花が散る二人の間。小町が八幡の耳元で囁く。

 

「……お兄ちゃん、あの留美って子、性格キツそうだよね。なんか冷めてるし、周りを見下してる感じがあるっていうか……」

「ま、三浦の言い分を借りれば、可愛げがないからハブられるってことか」

 

 三浦の「上から目線だから誰かさんみたいにハブられる」という主張に対し、雪ノ下は「それはあなたが劣っている自覚があるから、そう感じるだけではないかしら?」とカウンターを放つ。

 

「……女の喧嘩ってのは、どんな高性能センサーでも回避不能な爆心地だな……」

 

 結局、話し合いは一歩も進まず、その場はお開きとなった。

 

 

──

 

 夕暮れの山中を、それは歩いていた。

 それは、端的に言えば「飢え」ていた。

 親元を離れて約三ヶ月。春の頃に比べて不足してきた山の恵み。さらに、昨今の異常な気温上昇は生態系を狂わせ、木の実の不作を招いている。それの胃袋は、容赦なく栄養補給の警鐘を鳴らし続けていた。

 

 本能に従うまま山中を徘徊するそれの鼻が、ようやく「食い物」の匂いを捉える。

 慎重に目標に近づくそれは、この山の絶対的な捕食者、ツキノワグマと呼ばれる個体だった。犬の六倍とも言われる嗅覚を持つ猛獣は、キャンプ場から漂う夕食の匂いに惹かれ、静かに移動を開始した。

 

 その時。

 クマの目の前に、「あるモノ」がスルリと降り立った。

 自分よりも遥かに小柄な、この辺りでは見かけない「犬」のような四足歩行の影。以前、猟師が連れていた犬を返り討ちにし、その死肉を漁ったことがあるクマは、喉の奥から唸り声を上げ、巨体を震わせて威嚇する。

 

 しかし、その犬は動じるどころか、ヒタヒタと無機質な足取りでクマに近づいてくる。

 

 「境界線」を超えた、その瞬間。クマが咆哮を上げ、その巨大な前足を犬に向かって叩きつけた。

 

 ――瞬間、犬の姿が消えた。

 

 同時に、クマは己の身体に異変が起こっていることを認識した。

 視界の端で、自分の身体が「空いている」ことを理解すると、猛烈な苦痛が遅れてやってくる。クマは絶望的な呻き声を上げ、逃げ出そうとした。だが、周囲はいつの間にか、無数の冷たい眼光に取り囲まれていた。

 闇から次々と現れる、犬の形をした「ナニカ」たち。

 

 クマが見た最期の光景は、自分に向かって殺到する、残光を帯びた「線」の群れだった。

 

 キャンプ場から少し離れた古いログハウス。その一室で、冷徹な報告の声が響いていた。

 

『プロフェッサー。……『ヘルハウンド』の集団戦闘データ、採取完了しました』

 

 モニターには、先ほどの山中での凄惨な解体作業が、赤と青のワイヤーフレームで詳細に解析されていた。チェアに腰掛ける老人は、穏やかな笑みを浮かべながらモニターを見つめている。

 

「ご苦労。……ふむ、思考AIは本能と上手く同期しているようだね。野生の獣程度では、もはや適切な負荷テストにすらならないか」

『はい。個体ごとの連携誤差はミリ秒以下。極めて安定しています。……プロフェッサー、次のフェーズへ移行しますか? キャンプ場には格好の『検体』たちが揃っていますが』

 

 声の問いに、老人は窓の外、楽しげなキャンプファイアの火が小さく見える遠景を眺め、至極のんびりとした口調で答えた。

 

「いや……今日はもういいよ。少々眠くなった。実験は、明日あたりにでもしようか」

『明日、ですか? しかし、検体が移動してしまう可能性も……』

「構わないさ。どうせどこへ逃げたところで、彼らの命の価値は変わらない。……明日の夜辺り、紅茶でも飲みながら、ゆっくりと子供たちが絶望する顔を観測させてもらうよ。その方が、データも『熟成』されて面白いだろう?」

 

 老人にとって、キャンプ場にいる人々は、明日潰す予定の、あるいは賞味期限を待つだけの「実験材料」に過ぎなかった。

 

 窓から一羽の黒揚羽(くろあげは)が飛び立ち、夕闇の空へと溶け込んでいく。

 

 それは、死を運ぶ、不吉の証。

 




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