——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第十六話:Unexpected(想定外)

夜が更けるにつれ、高千穂千葉村のロッジを包む空気は鋭い冷気を帯び始めていた。

 昼間の喧騒は厚い木製の壁に遮られ、森の奥から聞こえる虫の音だけが、世界の静寂を際立たせている。だが、比企谷八幡の意識は、体内の原子炉(リアクター)をアイドリング状態に保つことさえ困難なほどの混乱に陥っていた。

 

(……いや、無理だ。これ、設計上の欠陥だろ。なんで俺の向かいの布団に戸塚がいるんだよ……)

 

 暗視モードを起動させるまでもなく、窓から差し込む僅かな月光が、至近距離に横たわる「天使」の輪郭を鮮明に描き出していた。戸塚彩加は規則正しい寝息を立て、時折、桃色の唇を微かに震わせて、熱を帯びた寝言を漏らす。

 

「……はちまん……えへへ……」

(……どんだけ俺のこと好きなんだよ。演算回路がオーバーヒートして爆発するぞ。……あー、ダメだ。一旦、外の空気を吸って排熱してこよう)

 

 八幡は音もなく布団を抜け出した。ハイマンガン・スチールの関節が一つとして軋まぬよう、ミリ単位で駆動系を制御し、気配を完全に殺したまま廊下へ出る。ロッジの扉を開けると、真夏とは思えないほど冷涼な夜風が、彼の人工皮膚を撫で、排熱スリットから漏れる熱をさらっていった。

 

 見上げた夜空には、息を呑むような星の海が広がっていた。

 

 そこで八幡は、一人の先客を見つける。星あかりに照らされ、一人静かに夜空を仰ぐ少女、雪ノ下雪乃だった。

 星の光をそのまま滑らせるような、透き通った白い肌。夜の闇よりも深く、艶やかな黒髪が風に揺れ、星屑のような光を反射させている。奉仕部に所属して数ヶ月、彼女の顔は見飽きたはずだったが、こうして無機質な銀色の光に包まれた彼女を見ると、やはりこの少女は生物学的な枠を超えた、特別な造形なのだと再認識させられた。

 

「――誰?」

 

 振り向かずに放たれたのは、冷たく、そして凛とした鈴の音のような声。八幡は自身の熱源を悟られないよう、いつもの気だるげな声を絞り出した。

 

「……俺だよ」

「……誰?」

「なんでさっきと同じ問いなんだよ。一応、数ヶ月の付き合いがある顔見知りだろうが。俺の死んだ魚のような目のパターンを忘れたのか?」

 

 雪ノ下はようやく振り返り、月光の下で濁った光を放つ八幡の瞳を確認すると、心底呆れたように小さくため息をついた。

 

「比企谷くん、こんな時間にどうしたの? 永眠はしっかり取ったほうがいいわよ」

「優しさに見せかけた死の宣告はやめてくんない? ……星でも見てたのか?」

「……ええ。少し、三浦さんが突っかかってきてね。三十分ほどかけて彼女の主張の矛盾を論理的に説明したら、泣かせてしまったのよ」

「……気まずくなって出てきたのか」

「まさか泣いてしまうとは思わなかったから……。今は由比ヶ浜さんが宥めてくれているわ。私がいれば、事態がさらに悪化するでしょうから」

 

 三十分かけて論破し、相手を泣かせた挙句、自分が悪いとは微塵も思っていない。さしもの雪ノ下も「涙」という論理外の物理現象には弱かったようだが、彼女の辞書に「妥協」や「謝罪」という言葉は記されていないようだった。

 

「……あの子のこと、何とかしなければね」

 

 雪ノ下が再び、遠い空へと視線を戻す。八幡は意外そうに眉を寄せ、自身の聴覚センサーに届く微かな森のざわめきを意識の端に追いやりながら言った。

 

「知らん子のために、やけにやる気だな。お前らしくもない。もっと効率的に動く人間だと思ってたんだが」

「今までだって、依頼人は知らない人ばかりだったわ。私は知己の仲だからといって手を差し伸べるわけではないもの。ただ、放っておけないだけよ」

 

 その言葉を聞いて八幡は思索に耽る。八幡は、雪ノ下が抱く正義感とは別の、もっと泥臭く、もっと深刻な気掛かりを抱えていた。それは、鶴見留美が孤独に耐えきれずに「腐ってしまう」ことへの危惧ではなかった。

 

「……俺が怖いのは、あの子が傷つくことじゃない。孤独に耐えきれずに、自分を排斥した連中と同じ……他人を排斥して傷つける側に回ってしまうことだ」

 

 雪ノ下が、はっとしたように八幡を見た。

 

「人間は自分の行いを正当化する生き物だ。『自分は悪くない、あいつが悪い。自分を無視する周囲が悪い。だから何をしてもいい』。……そうやって自分を正当化して、自分より弱いものを叩いて保身に走る。……あの子が、お前が一番嫌いな『クズみたいな人間』になるのは、見てて寝覚めが悪いだろ」

「……そうね。それは、嫌だわ。耐え難いことよ」

 

 珍しく、雪ノ下が素直に同意の言葉を口にした。その声は、夜風に混じってどこか切なく響く。

 

「まあ、俺の場合は俺以外全部周りが悪いって考えなんだが」

「一瞬でも感心した私が愚かだったわ」

 

 あくまでも自分一番。それが八幡イズムである。

 

「話は戻すけど、あの子……由比ヶ浜さんと、どこか似ている気がしないかしら?」

「そうか?」

「他人や友達の輪に、人一倍敏感なところよ。……多分、由比ヶ浜さんにもああいう経験があったのよ。それと……多分、葉山くんもずっと気にしているわ。彼なりの、贖罪のつもりなのかもしれないけれど」

「葉山もか。……お前、葉山となんかあんの?」

 

 八幡の問いに、雪ノ下はふっと視線を落とし、足元の影を見つめた。

 

「小学校が同じだけよ。それと、親同士が知り合いなの。彼の父親が、うちの会社の顧問弁護士をしているのよ。……ただそれだけ、というには少しばかり複雑な縁だけれど」

「へー、家ぐるみの付き合いってのも、大変そうだな。俺には想像もつかん世界だ」

「そうなのでしょうね」

「えらい他人事だな」

 

 八幡の指摘に、雪ノ下は自嘲気味な笑みを浮かべた。その表情は、星の光の下で酷く脆く、今にも砕けてしまいそうに見えた。

 

「そういった外向きの場に出るのは、すべて姉の役割だから。私はその陰に隠れる……いわば代役でしかないの。それでも、今日はこの合宿に来られて良かったわ。無理だと思っていたから」

 

 その言葉には、どこか遠くへ消えてしまいそうな危うさが孕んでいた。家族の中でも孤独であり、常に誰かの「控え」として生きてきた少女。八幡は、自身の論理回路が導き出した結論ではない、なんとなしに浮かんだ問いを口にしていた。

 

「……今のお前は、主役なのか?」

「…………」

 

 雪ノ下は答えなかった。ただ、夜風に揺れる髪を白い指先で耳にかけ、微かに口元を緩めただけだった。その沈黙は、肯定でも否定でもなく、ただ夜の闇に深く沈んでいった。

 

「おやすみなさい、比企谷くん。永眠ではなく、まともな睡眠をとりなさい」

「……ああ。おやすみ」

 

 二人はそれぞれの寝室へと戻っていく。八幡は、冷たい夜風が装甲を撫でる感覚を心地よく感じながら、自室へと戻った。

 

(主役だの代役だの……面倒な話だな。……ま、明日は明日で、また騒がしいキャンプが始まるってことか)

 

 八幡は再び布団に入り、隣の戸塚の穏やかな寝顔を薄暗い視界で眺めながら、緩やかに演算クロックを下げていった。

 

 

 ──

 

 

 キャンプ二日目の朝。ロッジの窓から差し込む眩しい朝日と共に、比企谷八幡の聴覚センサーが柔らかい衣擦れの音を捉えた。

 

「八幡、起きて。朝だよ」

 

 意識を覚醒させ、アイマスクを外した八幡の視界に飛び込んできたのは、Tシャツの襟元を少し着崩した戸塚彩加の姿だった。鎖骨のラインから覗く白い肌、寝起き特有の少し掠れた声。その破壊的な色気に、八幡の原子炉(リアクター)は早朝から臨界点(メルトダウン)を迎えそうになる。

 

(……朝チュンか? 俺の人生に朝チュンが実装されたのか? いや、相手は男だ。……いや、性別とかもうどうでもよくないか?)

「えへへ、起きたね。八幡、夏休みはあんまり運動してないんでしょ? 後でテニスに付き合ってよ。……あ、そうだ。メアド、教えてくれるかな?」

「……え、メアド? 俺の? 暇つぶし機能付きの目覚まし時計と化している、この携帯にか?」

 

 ついに、八幡の端末に「戸塚彩加」という神の領域へのアクセス権が刻まれた。

 直後に届いた戸塚からの初メール――女子力の塊のようなデコレーションと文面に、八幡の電子頭脳(ブレイン)は「これは女子だ。本能がそう言っている。人類のバグだ」と結論を出した。

 朝食後のミーティング。平塚静が地図を広げながら、威勢よく今日の予定を告げた。

 

「さて、今日の予定だ。夜に肝試しとキャンプファイヤーをやる予定だ。昼間、小学生たちは自由行動なので、その間に我々スタッフは準備を進める。……比企谷、小町。キャンプファイヤーと言えば、フォークダンスだな」

「キャンプファイヤー……ベントラー、ベントラー……てやつですよね!」

 

 小町が空に向かって手をかざす。

 

「小町さん。それ、もしかしてオクラホマミキサーと言いたいのかしら。最後の長音しか合っていないわよ」

 

 雪ノ下が呆れたように口を挟む。八幡は遠い目で、自身のメモリに封印されたトラウマを再生した。

 

「相手にするのは宇宙人みたいなもんだから同じようなもんだ。小学生の時、最初にペアになった女子から『手、繋がなくていいよね?』と除菌ウェットティッシュを構えられて以来、俺の周りだけモーゼの十戒みたいに人が割れたからな。……一人オクラホマミキサー、あれは空間効率の究極系だぞ」

「比企谷、目が腐っているぞ。……まぁ、その目ならお化け役にはぴったりだ。お化けの仮装セットは用意してある。手分けして脅かす準備をしてくれ」

「……結局、俺の役割ってそういう不審者枠なんですね」

 

 準備が始まると、八幡は黙々と薪割りと組み立てを任された。

 戸部が割った薪を、八幡は精密な姿勢制御で寸分の狂いもなく積み上げていく。

 

(一人ジェンガ状態だな。重心を垂直に維持し、空気の通り道を最適化する……。よし、完璧だ)

 

 ふと振り返ると、周囲には誰もいなかった。スタッフたちは各々の作業や休憩に散っており、八幡だけが広場に取り残されていた。

 ふらふらと川辺へ歩いていくと、そこでは川遊びを楽しむ女子陣の声が響いていた。

 

「お兄ちゃーん! 小町の新しい水着、どう?」

 

 小町が中学三年生相応の、快活な水着姿を見せびらかしてくる。

 

「たかが中坊の水着で動揺する兄貴ではない。……が、まぁ、控えめに言って世界一可愛いんじゃないか? 比企谷家の遺伝子は、お前の方に全振りされたようだな」

「あはは! さっすがお兄ちゃん、分かってるぅ!」

 

 続いて、由比ヶ浜結衣も水着姿で登場する。彼女の豊かな曲線美は、かつての透視装置の暴走で見飽きているはずだったが、こうして「布」を纏った状態で見ると、逆にその破壊力が増している気がした。

 

「……ヒッキー、なんか反応薄くない? じろじろ見るのは嫌だけど、全然見られないのもなんか……」

「……いや、見てるぞ。見てるが、俺のセンサーは常に冷静だからな」

 

 由比ヶ浜が拗ねる。八幡は「最近は透視機能の制御も完璧だからな」と、自分の身体を使いこなしている実感を噛み締めつつ、視線を別の方向へ向けた。

 

 そこには、ホルターネックの水着を纏った雪ノ下雪乃がいた。

 

 無駄な部分が一切ない、研ぎ澄まされた美しさ。その白い肌は川面の反射を受けて輝き、さながら名工の手による一振りの刀のようだった。隣には、大人の女性らしいナイスバディを見せつける平塚先生も立っている。

 

「……ヒッキー。さっきから、ゆきのんのことばっかり見てない?」

 

 由比ヶ浜がじとっとした目で八幡を覗き込む。

 

「いや、日本刀(雪ノ下)の造形美に見惚れてた。無駄な肉を削ぎ落とし、ただ鋭さだけを追求したような……あれこそが工芸品としての完成形だな」

「……日本刀って、お兄ちゃん、何その感想。小町たち、一応女の子として可愛さをアピールしてるんですけど!」

 

 小町が腰に手を当てて膨れる。

 

「そうだよヒッキー! 工芸品とか完成形とか、なんか基準が変だよ! あたしと小町ちゃん、せっかく頑張ったのに二人まとめてスルーとか……もー、本気で拗ねちゃうからね!」

 

 由比ヶ浜と小町、二人が並んで八幡に抗議の視線を送る。二人の「可愛さ」よりも雪ノ下の「鋭さ」を優先した八幡の機械的な美的感覚が、乙女心を完全に逆撫でしてしまった。

 

「比企谷、私への感想はないのか?」

 

 平塚先生の圧に押され、八幡は演算ミスのまま口を開いた。

 

「……いや、先生。歳をとれば体型が崩れる分、雪ノ下の方が将来的に有利なんじゃないかと思いまして。……先生のそれは、今がピークというか、あとはメンテナンス次第というか……」

 

「――比企谷ぁあああッ!!」

 

 平塚の怒号と共に、野生の咆哮を宿した拳が、八幡の腹部に突き刺さった。

 

――ドムッ……!!

 

「………………!?」

 

 衝撃を受けたのは、八幡ではなく平塚の方だった。

 彼女の拳が捉えたのは、人間の柔らかい腹部ではなかった。それは、大型重機のタイヤのような、あるいは高圧を充填された強化ゴムの塊のような、不気味なほどの厚みと硬度を持った「何か」だった。

 

「……っ、づ……っ!? な、なんだ君の腹は」

 

 平塚は突き出した拳を抑え、顔を歪めて激しく手を振った。あまりの衝撃に指の関節がジンジンと熱を持ち、激痛が走っている。

 

「危ないですよ先生、骨折してませんか?」

 

そう言う八幡の目線には一切の動揺もなく、ただ平塚の拳が骨折していないかを心配していた。

 

(比企谷……見かけによらず鍛えているのか……?いや、何か違う……こいつは、まるで)

「……比企谷くん、あなたの介錯(かいしゃく)は私がしてあげましょうか。ついでに今の発言、どのあたりが平塚先生より有利だったのか三時間ほどかけて論理的に説明しなさい」

 

 平塚の動揺を他所に、雪ノ下の冷たい視線が突き刺さる。

 そこへ三浦優美子が通りかかり、雪ノ下の胸元と自分を比較して「ふっ……勝った」と誇らしげに鼻を鳴らした。

 

「……? ……べ、別に本当にまったく気にしていないけれど。全体のバランスこそが美の本質だわ」

 

 雪ノ下がようやく理解し、顔を赤くしてまくしたてる。八幡は痛む(ふりをしている)腹を抑えながら、「……雪ノ下、お前はそのままがいいんだよ」と心の中で呟いた。

 

 午後。水着を持っていない八幡が木陰でぼんやりと川を眺めていると、一人の少女が近づいてきた。鶴見留美だ。

 

「……八幡。何してるの」

「呼び捨てかよ。……見ての通り、光合成だ。お前こそ、自由行動じゃないのか」

「……部屋に戻ったら、誰もいなかったの。それで、ここに来ただけ。……一人でいるのも、手持ち無沙汰だし」

 

 どこか寂しげな留美に、八幡は自身の「ぼっちログ」を照合させる。

 

「俺も小学生の頃、友達はいなかったな。だが、大体みんな同じだぞ。卒業したら一人も会わなくなる。そんなもんだ」

「奇遇ね。そういえば私も会ってないわ」

「留美ちゃーん、それはこの人たちが特殊なだけだからねー」

 

 いつの間にか由比ヶ浜と雪ノ下も隣にいた。

 

「……でも。中学になっても、また今の状態になるかわからないから、怖い。なら、このままでいい。……どうせ変わらないなら、もういいって、諦めるしかないから」

 

 留美の言葉は、諦念という名の冷たい壁だった。平塚の『仲良くする必要はないが上手くやれ』という言葉を思い出しながら、八幡は留美を真っ直ぐに見据えた。

 

「自分が変われば世界が変わる、なんてのは嘘だ。世界は変わらないが、自分は変えられる。……お前が惨めなのが嫌なら、俺がやり方を見せてやるよ」

「……やり方?」

「ああ。今夜の肝試し、楽しみにしてろ。……新世界の神の力、見せてやる」

 

 

──

 

 

 ロッジの一角、古びた段ボール箱に詰められた肝試しの衣装セットを前に、奉仕部と葉山グループの面々は、重苦しい沈黙の中にいた。

 話題の中心は、やはり鶴見留美のことだった。

 

「……あの子の状況を、このまま放置するわけにはいかないわ。肝試しは、絶好の機会よ」

 

 雪ノ下が幽霊の白装束を手に取りながら、静かに、だが断固とした口調で切り出した。

 

「やっぱり、留美ちゃんが皆と話し合うしかないんじゃないかな。僕も間に入るから」

 

 葉山が理想的な解決策を提示する。だが、その甘さを由比ヶ浜が即座に打ち消した。

 

「……無理だよ、隼人くん。今そんなことしても、留美ちゃんがみんなから責められるだけになっちゃう。そんなの、可哀想だよ」

「……それなら、一人ずつ呼び出して話し合えばどうだろう。それなら周囲の目も気にならないはずだ」

 

 食い下がる葉山。だが、そこでこれまで衣装選びに没頭していた海老名姫菜が、不意に、そして氷のように冷ややかな声で反論した。

 

「……同じだよ、隼人くん。その場ではいい顔をしても、裏ではまたすぐに始まるの。女の子って、隼人くんが思っているよりずっと……ずっと怖いんだよ」

「マジ?超コエー」

 

 三浦の反応は無視するとして、海老名の放った言葉の重みを八幡は見逃さなかった。

 その言葉には、普段の腐女子的な躁状態とは正反対の、ドロドロとした現実の重みが宿っていた。八幡は海老名の横顔を盗み見て、自身の電子頭脳(ブレイン)に新たなプロファイルを記録した。

 

(……海老名姫菜。ただの調子外れな腐女子かと思ってたが……。この洞察力、こいつ、自分も同じような地獄を見てきた口か)

 

 議論が平行線を辿る中、八幡がゆっくりと手を挙げた。

 

「八幡、なにかいい考えがあるの?」

 

 戸塚の問いに対し、八幡はこの部屋にいるもの全てに対して、正確には葉山に対して言った。

 

「……やり方を変えよう。葉山、お前の言う『仲直り』は、この際あきらめろ」

「ヒキタニくん、何か案があるのかい?」

「ああ。作戦名は『人間関係の破壊』だ」

 

 その禍々しい言葉に、周囲の空気が凍りつく。八幡は死んだ魚の目を維持したまま、論理回路を淡々と回し続けた。

 

「他者を疎外することで成立しているような歪な関係は、一度徹底的にぶち壊した方が健全だ。肝試しの最中、留美を孤立させてる連中もろとも、恐怖のどん底に突き落としてバラバラにしてやる」

「バラバラにするって……どういうこと?」

 

 由比ヶ浜の問いに、八幡は冷徹な「エイトマン」としての視点を織り交ぜて答えた。

 

「人間、本当に命の危険を感じるほどの恐怖に直面したら、他人のことなんて考えていられない。隣の奴を犠牲にしてでも、自分だけは助かろうとする……。そんな醜い本性を互いに晒し合えば、今の『仲良しごっこ』なんて一瞬で瓦解する」

「……それだと、根本的な問題は解決しないんじゃないのか?」

 

 葉山の指摘に、八幡は鼻で笑った。

 

「解決はしないな。だが、問題の『解消』はできる。バグが入り込んだシステムを放置すれば、いつまでも全体を脅かし続ける。なら、一度フォーマットして再起動するしかねーだろ。……一歩間違えれば、内申点どころか警察沙汰もあり得る危ない橋だが……やるか?」

 

 八幡の提案は、毒薬のような劇薬だった。だが、意外にも雪ノ下と由比ヶ浜、そして葉山グループの三浦や海老名までもが、その「悪」を受け入れるように頷いた。

 

「いいのか、葉山。お前、こういうのは嫌いだろ」

 

 八幡の問いに、葉山は複雑な表情で八幡を見つめた。

 

「……そういう考え方か。……彼女が、君を気にかける理由が少しわかった気がするよ」

「……彼女?」

 

 八幡の電子頭脳が「雪ノ下雪乃」の生体データを検索しかけたが、葉山はそれ以上語らず、力強く頷いた。

 

「オーケー、それでいこう。……ただし、ヒキタニくん。俺はまだ、土壇場で彼女たちが一致団結して対処する可能性にかけている。根は良い子たちだと思いたいんだ」

「……勝手に期待してろよ。俺は俺のやり方で、その期待をスクラップにしてやるから」

 

 葉山が乗ってくるとは思っていなかったが、彼も現状の解決方向に思うところがあったらしい。

 作戦は決まった。

 肝試しの森。そこは留美を虐める子供たちにとっての処刑場になる。

 

 だが、八幡も、葉山も、まだ気づいていなかった。

 この森に潜んでいるのは、彼らが扮する「偽物のお化け」だけではない。

 

 ──死を運ぶ機械の猟犬が、すでに獲物の匂いを嗅ぎつけていることに。

 

 

──

 

 

 月明かりさえ届かない深い森の奥。肝試しの脅かし役として配置についた八幡は、黒いローブの裾を揺らしながら、暗視モードの視界で森の温度分布を確認していた。

 

 予定では、間もなく鶴見留美たちの班が葉山たちに合流する。

 

(……柄にもなく、心拍数(パルス)が上がってやがるな)

 

 八幡は自身の原子炉(リアクター)が刻むリズムが、わずかに早まっているのを感じていた。作戦は「人間関係の破壊」。留美を孤立させている連中の醜い本性を引き出し、その歪な繋がりをデバッグする。八幡らしい、救いのない救済策だ。

 

「……比企谷くん」

 

 隣に立つ雪ノ下雪乃が、夜の闇に溶けそうなほど微かな声で彼を呼んだ。彼女は白装束に身を包み、その白い肌と相まって本物の幽霊のような凄絶な美しさを放っている。

 

「なんだ。怖いのか? 安心しろ、幽霊より俺の死んだ魚の目の方がよっぽど呪い属性強いからな」

 

 八幡の軽口に、雪ノ下はいつものような鋭い反論を返さなかった。彼女は少しだけ伏せ目がちに、自身の白い指先を見つめている。

 

「……結局、私は何もできなかったわ。問題解決のための意見を一つも出せず、葉山くんの甘さを否定するだけで……。あなたのような、決定的な解決策を提示することができなかった」

 

 雪ノ下の声には、自己嫌悪と悔しさが混じっていた。正しさを貫こうとするがゆえに、汚れ仕事を引き受ける八幡の足元にも及ばない自分を、彼女は責めているようだった。

 

「……お前が俺みたいなダーティな真似をする必要はねーよ」

 

 八幡は、彼女を見ずにぶっきらぼうに言った。

 

(雪ノ下雪乃という存在は、綺麗なままでいてほしい。そう考えるのは、勝手なのだろうか……)

 

 それが自分の身勝手な理想像の押し付けであることは自覚している。だが、彼女の高潔さが損なわれることを、八幡の論理回路はどうしても拒絶していた。

 

「反省会なら全部終わってからにしろ。……今は、目の前の『バグ』を直すことだけ考えろ」

「…………。そうね、そうするわ」

 

 短く、だが確かな信頼の籠もった返事。二人の間に、奇妙な一体感が生まれていた。それは不器用な者同士が、闇の中で背中を預け合うような、少しだけ気分の良い感覚だった。

 

 だが。

 

 その心地よい静寂を、不快な「ノイズ」が塗り替えた。

 

――ギギッ……。カチッ、カチッ……。

 

(……!? この音、なんだ?)

 

 八幡の「エイトマン」としての高性能聴覚センサーが、異常な周波数を捉えた。

 それは風の音でも、夜鳥の羽ばたきでもない。

 明らかに「人間のものではない」無機質な足音が、葉山や留美たちの班がいるはずの地点へと、急速に接近している。

 

(……複数。……四足歩行か? いや、歩き方に生物特有の『揺らぎ』がない。完全に統制された規則性……これは機械だ!)

 

 八幡の網膜ディスプレイに、森の奥から接近する複数の高熱源体がマッピングされる。それは、先ほどまで彼らが「人間関係」について語り合っていた次元とは全く異なる、純然たる殺意の波動だった。

 

「……比企谷くん? どうしたの、急に顔色を変えて……」

「雪ノ下、ここにいろ。動くな!」

「えっ、ちょっと、比企谷くん!?」

 

 八幡は雪ノ下の静止を振り切り、闇の中へと飛び出した。

 

 

──

 

 比企谷八幡は、かつてない焦燥の中にいた。

 森を駆ける彼の足取りは、いつもの超人的な軽やかさとは程遠い。ハイマンガン・スチールの骨格が重く、人工筋肉が悲鳴を上げている。

 

(……くそっ、なんでこんな時に……!)

 

 今の八幡は『省電力待機形態(パワーセーブ・モード)』にある。

 彼の電子頭脳は、戦闘機動を行えば即座に数千度の高熱を発する。それを冷却するために必須なのが、マックスコーヒーに含まれる独自の糖分と成分を触媒とした冷却システムだ。だが、今回の合宿はあまりにも急だった。ストックは昨日の昼に底を突き、この山奥で補給する手段はない。

 

 わずかな加速装置(アクセラレーター)の使用さえ、今の彼にとっては電子頭脳の焼失を意味する致命傷になりかねない。

 

 八幡は熱を持ち始めた頭部を夜風に晒しながら、数ヶ月ぶりに「比企谷八幡」という一個の人間としての脚力だけで、全力で森を駆けた。

 一方、肝試しのルート上では、合流した留美たちの班と葉山グループが対峙していた。

 小学生の女子たちは、仮装もせずに立っている葉山たちを見て、生意気な口を叩いている。

 

「なーんだ、葉山お兄ちゃんたち、全然怖くないじゃん。手抜き?」

「……ふん。あんたたち、随分と余裕じゃない」

 

 予定通り、三浦優美子が「悪役」のていで留美たちの前に立ちはだかる。戸部も背後で脅かしのタイミングを計っていた。

 

――ヒタヒタ……。

 

 闇の奥から、無機質な、だが軽やかな足音が近づいてきた。

 現れたのは、一匹の小型犬だった。室内で飼われる座敷犬のような、愛くるしく、なんの害もなさそうな存在。

 

「あ、可愛いー! 迷子かな?」

 

 女子たちが黄色い声を上げる。想定外の乱入者に、三浦や葉山も顔を見合わせた。

 

「なんだ、お化けじゃなくて犬かよ。ビビらせやがって。……おーい、こっち来い。腹減ってんのか?」

 

 戸部が昨日のヘビの時のように、安易にその「犬」に手を伸ばそうとした、その時。

 

「――戸部ぇええ!! そいつに近づくんじゃねえ!!」

 

 森の茂みを引き裂くように、全身から蒸気を上げた八幡が飛び出してきた。

 その形相は、これまでの「死んだ魚の目」からは想像もつかないほど必死で、凄絶だった。

 

「……え、ヒキタニくん……?」

 

 戸部が呆然と八幡を振り返った、その瞬間。

 

 「犬」の身体が、ミシミシと嫌な音を立てて膨張を始めた。愛くるしい毛並みが内側から引き裂かれ、黒光りするセラミックの装甲と、油圧シリンダーの骨格が剥き出しになる。

 

「……っ!!」

 

 凶暴な機械の牙が、無防備な戸部の喉笛を引き裂こうと跳躍する。

 戸部の思考が停止し、死の予感に全身が強張ったその刹那――。

 

「――戸部くん、危ないッ!!」

 

 鋭い叫び声と共に、横から飛び込んできた影があった。海老名姫菜だ。

 彼女は自分に牙が向くことも厭わず、戸部の身を案じた咄嗟の行動でその身体を強く突き飛ばし、自らが盾になるように彼を庇った。

 

「海老名……さん……!?」

 

 突き飛ばされた戸部と、彼を庇って覆い被さる形になった海老名が、抱き合うような格好で地面を転がる。その直上の空間を、ヘルハウンドの超硬合金の爪が空振りし、火花を散らした。

 

「……ひっ……あ、ああ……っ」

 

 三浦優美子は、目の前で起きた「生物が機械に変わる」という異常事態に、思考が完全停止していた。葉山もまた、理解の範疇を超えた化物を前に、膝を震わせている。

 

「戸部、海老名、立て! 葉山、三浦! 走れ、ガキどもと一緒に今来た道を引き返せ!!」

 

 八幡が、海老名に庇われて呆然としている戸部の襟首を掴んで立たせ、叫んだ。

 

 だが、逃げ場はどこにもなかった。

 

 周囲の闇から、一つ、また一つと、怪しく輝く紅い光が灯り始める。

 完全な包囲。

 無機質な音と共に、数十頭の「猟犬」たちが、獲物の肉を切り刻むタイミングを冷酷に算出していた。

 

(……最悪だ。センサーが告げている。……今の俺の残存エネルギーと冷却効率じゃ、こいつら全員を相手にするのは……不可能に近い)

 

 八幡は、流すはずもない「冷や汗」を、鋼鉄の背中に感じていた。

 燃料なし、加速不可。

 守るべき対象は、あまりにも多い。

 比企谷八幡の、人生で最も過酷なデバッグ作業が始まろうとしていた。




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