——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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マックスコーヒー作ってるコカコーラが潰れたらエイトマンは死ぬんだよなあ


第十七話:Black Papillon(黒い蝶)

 森の静寂は、機械が発する不快な高周波と、紅いセンサーの光によって完全に塗り潰されていた。

 比企谷八幡の視界には、網膜ディスプレイが弾き出す無慈悲なシミュレーション結果が羅列されている。

 

【全個体生存確率:3.2パーセント】

【加速装置使用時の電子頭脳融解リスク:98パーセント】

 

(……笑えねぇ。一ケタ台かよ。宝くじの方がまだ当たりそうだな)

 背後では、小学生たちが声を殺して震えていた。鶴見留美もまた、その冷めた瞳を恐怖に染め、現実味のない「鋼鉄の怪物」を凝視している。

 

「な、何なのこれ……映画の撮影か何か……?」

 

 三浦優美子が、あまりの恐怖に耐えきれず、震える足で一歩後ろへ下がろうとした。その微かな動きを、猟犬のセンサーが見逃すはずもなかった。

 

「――っ! バカやろ……ッ!」

 

 一体のヘルハウンドが、弾丸のような速度で跳躍した。狙いは、無防備な三浦の喉元だ。

 

「……むやみに動くなッ!!」

 

 八幡が、自らの体に無理な負荷をかけ、三浦の前に割って入った。

 ドォォン!! という重苦しい衝突音と共に、八幡は猟犬のタックルをその胸部装甲で正面から受け止める。

 

「比企谷!?」

「ぐっ……、余計な動きをするな! 死にたいのか!」

 

 八幡は三浦を背後へ突き飛ばし、鋭い視線で彼女を叱咤した。衝撃で肋骨(に偽装した衝撃吸収材)が軋んだが、データ上はまだ耐えられる。

 

「葉山! 戸部! 何ボーっとしてる、早く女子と子供たちを集めて中心に置け! 囲いを作って守れッ!!」

「比企谷くん、君は……! その怪我で、それ以上は……!」

 

 葉山が八幡の背中を見て絶叫した。普通の人間なら、今の衝撃で骨が粉砕されていてもおかしくない。だが、八幡は肩で息をしながら、冷徹な声で言い放つ。

 

「俺はそう簡単に死なねーよ。……いいから言った通りにしろ! 俺ら全員は無理でも、最悪……三浦たちと小学生グループは逃がす。そのための隙は俺が作る!」

「……わかった。君を信じるよ。戸部、いくぞ!」

 

 葉山と戸部は、恐怖に震える脚を叩いて立ち上がった。八幡の放つ異様なまでの「生存への意志」が、彼らに絶望の中の覚悟を植え付けたのだ。

 

 その時。

 

 一体の猟犬の頭部から、ノイズ混じりの「声」が響いた。

 

『――ふむ。素晴らしいな。自己犠牲の精神、それともただの計算かな?』

 

 しわがれてはいるが、どこか穏やかで、慈父のような響きを湛えた声。だが、その声が耳に届いた瞬間、八幡は全身のセンサーが「最大級の嫌悪」を訴えるのを感じた。

 

(……なんだ、この声。反吐が出る。悪意を煮詰めて砂糖でコーティングしたような……。そうだ、他人の命と尊厳を踏みにじることに、至上の悦びを感じてる奴の周波数だ)

 

 八幡は、本能的に理解した。この声の主は、留美をハブにしている小学生の比ではない。もっと根源的で、救いようのない異常者だ。

 

『君たち「サンプル」の反応は実に興味深い。特にそこの少年……君、生身の人間にしては少々頑丈すぎやしないかな? 今の衝撃で、心臓が止まっていないのは奇跡に近いよ』

 

「……あいにく、俺の心臓は鋼(はがね)のように頑丈にできてるんだよ、ジジイ。勝手に他人のキャンプに猟犬放してんじゃねーよ」

 

 強がりを言いながら、精一杯の虚勢を張る八幡

 自分が諦めたら、その瞬間に全てが終わる。

 ここで諦めるわけには、いかなかった。

 紅い眼光を放つ機械の猟犬たちが、じりじりと包囲網を縮めていく。

 比企谷八幡の内部センサーは、過熱し始めた電子頭脳の警告を絶え間なく鳴らし続けていた。燃料であるマックスコーヒーを欠いた今の身体は、ただ立っているだけで排熱が追いつかない。

 

 その時、沈黙を保っていた猟犬の一体から、再びあの、しわがれた声が響いた。

 

『――素晴らしい。実に見事だ、諸君。自らの身を挺してでも婦女子を守ろうとするその献身……。とりわけ、そこの少年。君の勇気ある行動は、同じ男性として称賛に値するよ』

 

 穏やかな、まるで孫の成長を喜ぶ祖父のような慈愛に満ちた口調。だが、八幡の感性はその背後に潜む猛烈な腐臭を感じ取っていた。

 

『私は、敬意を表すべき対象には最大限の配慮をすると決めている。……約束しよう。君たち()()()()だけは、決して殺さない』

 

 その言葉が発せられた瞬間、周囲の空気が凍りついた。八幡は戦慄し、歯を食いしばる。敬意などという言葉は、ただのノイズだ。この声の本質は、言葉の裏側にある。

 

(……ふざけんな。こいつ、敬意なんて一ミリも持ってねぇ。……『お前ら男は、それ以外が殺されるのを特等席で見ていろ』って言ってやがるんだ)

 

 正義感でも、勇気でもない。この異常者は、八幡のような意志を持つ存在が、何も守れずに絶望にのたうつ姿を観測したいだけなのだ。

 

「……勝手なこと言ってんじゃねえぞ、ジジイ。そんな提案に乗るわけ――」

『おや、嫌かな? ならば、仕方ない。テストを行いたいのでね。……適当に、逃げてくれないか?』

 

 言葉を遮るように、声はさらに残酷さを増していく。

 

『これから私が、君たちを適当に追いかけて、一人ずつ始末していこう。……運が良ければ、明日まで生き残れるかもしれない。はっはっは、いい運動になるだろう?』

 

 確信。こいつは、遊んでいる。

 八幡たちが生きようが死のうが、あるいは実験データがどうなろうが、本質的にはどうでもいいのだ。ただ、実験用のカエルを切り刻むような、その過程を、悲鳴を、絶望を、娯楽として消費している人格破綻者。

 

(……どっちに転んでも、最後は死だ。……やるか? 冷却なしで無理やり変身して、相打ち覚悟でこいつらをぶっ壊すか……)

 

 八幡の電子頭脳が、禁忌の加速装置(アクセラレーター)へのアクセス許可を求め始めた。その時だった。

 

「……なんで。なんで、そいつら(男子)だけ助かるのよ!!」

 

 小学生のグループの中から、悲鳴にも似た喚き声が上がった。

 

「死にたくない! お願い、助けて!!」

「殺さないで! なんで私たちが死ななきゃいけないの!?」

「わたし!わたしを助けてください!なんでもしますから!!」

「おまえ、自分だけなに言ってんだよ!?」

 

 泣き叫び、地面を叩いて懇願する子供たち。その醜いまでの生存本能が剥き出しになり、刃となって八幡たちに向けられる。

 葉山隼人は顔を青ざめさせ、三浦優美子や海老名姫菜までもが、その光景に愕然としていた。あの軽薄な戸部でさえ、子供たちの豹変ぶりに声を出すことすらできない。

 

 阿鼻叫喚の地獄絵図。

 

 その中心で、鶴見留美だけが、座り込んだまま動かずにいた。

 

「………………」

 

 彼女の瞳から、急速に光が失われていく。

 それは恐怖への反応ではなかった。

 自分を排斥し、今また自分を置いて助かろうとする「人間」という存在への、決定的な決別。

 彼女の瞳は、八幡の「死んだ魚の目」を遥かに凌駕する、底なしの『虚無』へと変貌していた。

 

(……ああ、やっぱり磁石なんだな。俺たちは)

 

 八幡は、胸のリアクターが軋むのを感じた。

 彼女が、自分が最もなりたくなかった「クズのような人間」たちに囲まれ、心を死なせていく。

 鶴見留美の瞳から、最後の一滴の光がこぼれ落ちるのを、八幡の視覚センサーは残酷なまでの鮮明さで捉えていた。

 かつて自分自身が辿り着き、二度と戻れなくなったあの「深淵」。自分と同類が一人増えただけだ、と電子頭脳(ブレイン)は冷徹に状況を報告する。だが、八幡の胸の奥にある、人間としての古い回路が、猛烈な拒絶反応を示していた。

 

(そうか。俺は、自分と同じには……あの子にだけは、なってほしくなかったのか)

 

 やるせなさと、何もできない己への嫌悪。それが「比企谷八幡」というシステムを内側から焼き焦がしていく。その動揺を見透かしたように、スピーカーから放たれる声は、温度を失った氷のように冷え切った。

 

『――見苦しい。醜いものには、生きる価値などないな。……予定を早めよう。まずは、その泣き喚く子供たちから片付けるとしようか』

 

 一体の猟犬が、牙を剥いて留美たちへと跳躍の構えをとる。その瞬間、八幡の演算回路が火花を散らし、一つの「可能性」を弾き出した。

 

(……この最悪な『悪意』の対象を、別の場所に逸らすことができれば……!)

 

 八幡は隣に立つ葉山隼人に、一瞬だけ視線を向けた。必死の、そして全てを託すような激しい目。

 

『――今から俺が言うことに、全部を賭けろ』

 

 声には出さず、喉の振動だけで伝えた最短のメッセージ。直後、八幡は地面に膝をつき、そのまま無様に頭を擦り付けた。

 

「……すいません。……調子に乗ってました。見逃してください」

 

 あまりにも唐突な「土下座」に、猟犬の動きが止まる。

 

「……自分も、死にたくありません。どうか、こいつらの代わりに……自分だけでも、見逃してください」

『……ほう? その子たちは、君が身を挺して守ろうとした、大切な仲間ではないのかね?』

 

 声の主が、面白がるような、試すような問いを投げかける。八幡は額を泥に擦り付けたまま、吐き捨てるように叫んだ。

 

「あんな恩知らずの命なんて、知るかよ! ……自分の命が一番大事だ。本当は格好つけてただけで、あんな奴らいくら死のうが知ったこっちゃねえんだよ!!」

 

 静まり返る森。

 その沈黙を切り裂いたのは、葉山隼人の「激昂」だった。

 

「――見損なったぞ、比企谷ッ!! 自分のことしか考えていないなんて、最低だ!!」

 

 葉山は、震える足で小学生たちの前に立ち、胸を張った。

 

「みんなは……僕が守る! 比企谷、君がそんな奴なら、もういい! 出て行け!!」

「……あー、ムカつく。比企谷、あんた本当に最悪……。……隼人、あたしも手伝うから」

「……私も。ヒキタニくん、今のあなたの顔、本当に……救いようがないわね」

 

 三浦と海老名が、八幡の意図を汲み取った。彼女たちは葉山の後ろに並び、八幡を蔑む「観客」を演じ始める。戸部だけは何が何やら分からず、「え、え? ヒキタニくん、マジ……?」と唖然としていたが、その混乱さえも「演技」の一部として機能していた。

 

『………………』

 

 声の主は、一瞬の不自然さを感じたかもしれない。だが、泥まみれで這いつくばる八幡の、本場仕込みの「腐りきった表情」と、月光の下で濁りきった「死んだ魚のような瞳」を見て、その疑念を確信へと変えた。

 

『……くくく、はっはっは! 傑作だ! まさに期待通り、いや、期待以上の醜悪さだ。君のような『本物のクズ』を拝めるとは、この実験はやはり素晴らしい!』

 

 八幡の電子頭脳が導き出した、起死回生の茶番劇。

 

 悪意の矛先は、留美への虐めや絶望から、比企谷八幡という「裏切り者」への嘲笑へと、鮮やかにシフトした。

 

(……そうだ、もっと笑えよ。……俺一人が泥を被れば、その分だけ、英雄(葉山)の輝きが増す。……あの子の瞳に、ほんの少しでも光が戻るなら……安いもんだろ)

 

 八幡は泥を食みながら、内部冷却の限界を超えて熱を持つ「鋼鉄の心臓」を、静かに震わせ続けた。

 泥を舐め、無様に命を乞う比企谷八幡の姿を、機械の猟犬たちが包囲する。

 スピーカーから漏れる声は、新しい玩具を見つけた子供のように、無邪気で残酷な歓喜に震えていた。

 

『――なかなか面白かったよ。一度とはいえ私の目を欺いたお礼だ。……よし、決めた。今日は君一人で遊ぶことにしよう』

 

 その言葉は、八幡にとって「勝利」の合図だった。

 彼は土下座の姿勢を崩さぬまま、背後の葉山隼人へ向けて、射抜くような必死の目配せを送る。

 

(――早く、逃げろ!!)

 

 その意図を正確に汲み取った葉山が、泣き叫ぶ小学生たちの腕を強引に引き、走り出した。

 

「行くぞ! 全員、僕から離れるな! 走るんだ!!」

 

 葉山たちが背を向け、全力で離脱を開始したその刹那。

 数十頭のヘルハウンドが一斉に八幡へと襲いかかった。

 

 ――ドォッ!! ギチギチッ!!

 

 弾丸のような衝撃が全身を叩き、超硬合金の牙が八幡の人工皮膚を引き裂き、鋼鉄の骨格を食いちぎろうと軋む。

 激痛。視覚センサーに走る激しいノイズ。

 だが、八幡は視界の端で、必死に駆ける少女、鶴見留美の瞳と合ったような気がした。

 その目は潤みを帯び、困惑と、そして名状しがたい感情に揺れていた。しかし、先ほどまでの全てを拒絶するような「闇」はそこには無かった。

 

(……ああ。良かった。……俺のようには、ならなくて良かった……)

 

 八幡は、群がる猟犬たちになぶられながら、静かな安堵と共に意識の深度を下げていった。

 

 数分後。

 

 森の広場には、無惨に破壊され、内部のシリコンや配線が剥き出しになった比企谷八幡の残骸……にしか見えない「モノ」が転がっていた。

 

『……素晴らしい。これだけやっても、まだ完全に停止していないとは。君、やはり普通の人間ではないね?』

 

 声の主は、八幡の耐久力に、流石に疑念を抱き始めていた。

 そして、先ほどの醜い土下座が、他者を救うための計算され尽くした「美しい献身」であったことも。

 

『その汚れを厭わぬ心に敬意を表そう。……だが、敬意とは残酷なものだ。君のような尊い志を持つ者が、絶望にのたうつ姿こそが、最高のデータになるのだからね』

 

 八幡は、微かに機能している聴覚センサーでその言葉を拾った。

 

 そして、同時に気づく。視覚ログに残された猟犬の数は、一頭足りない。

 

『……気づいたかな? 一頭だけ、あの「英雄」たちの元へ行かせたよ。……さて、何人死ぬかな? 実に楽しみだ』

「…………あ……あああ…………ッ!!」

 

 八幡の胸の奥で、何かが弾けた。

 生まれて初めて、他者に対して抱く明確な殺意。

 そして、それ以上に彼を苛んだのは、圧倒的な「無力感」だった。

 燃料もなく、加速もできず、仲間に泥をかけ、自分までボロ雑巾のように破壊されて。

 その結果が、救いたかった少女の死なのか。

 

「……ふざけんな……殺してやる……絶対に、殺してやる……ッ!!」

 

 八幡は悲鳴のような叫びを上げ、折れかけた腕で地面を突き、声の主(スピーカー)へと飛びかかった。だが、駆動系は限界を超えていた。宙を舞った身体は、一体の猟犬に呆気なく弾き飛ばされ、背中から大樹に叩きつけられる。

 

 ――ガシャアッ!!

 視界が真っ赤なエラーメッセージで埋め尽くされる。

 体が動かない。指先一つ、制御が効かない。

 これほど絶望的な状況にあっても、自分の目からは涙一つ流れない。

 それが、今の自分が「機械」であることの証明のようで、八幡はただ情けなかった。

 

『終わりだ。君のデータは、ここで私が大切に持ち帰らせてもらおう』

 

 一体のヘルハウンドが、トドメを刺すべく八幡の喉元へゆっくりと牙を向けた。

 八幡は覚悟を決め、静かに目を閉じる。

 その時。

 漆黒の森に、あまりにもその場にそぐわない、気の抜けた電子音声が響き渡った。

 

『――コーヒーをお届けするにゃ~♪』

 

「…………は?」

 

 八幡も。

 そして、スピーカーの向こう側のプロフェッサーさえも。

 その間抜けな音声の正体を求めて、目を向けると……

 

 『――お飲み物をお届けするにゃ〜ん♪』

 

 重厚なメカニズムと殺意が支配していた空間に、突如として異物が滑り込んできた。

 それは、千葉の山奥には似つかわしくない、メカ感丸出しの寸胴ボディ。液晶ディスプレイに貼り付けられた可愛らしい電子の猫目がパチパチと瞬き、トレイには注文の品を「配膳」することに特化した、あの某ファミリーレストランチェーンのアイドル――。

 

 メイド・イン・チャイナの配膳ロボット『ベラボット』に他ならなかった。

 

「…………」

『…………』

 

 八幡も、そしてスピーカーの向こう側の主も、沈黙した。

 あまりの状況の飛躍に、電子頭脳(ブレイン)の処理が追いつかない。暗闇の中、ベラボットは車輪の駆動音を「ウィィィン」と鳴らしながら、満身創痍で倒れる八幡の目の前でぴたりと止まった。

 

『――おい。せっかく冷却剤を持ってきてやったんだ。とっとと受け取れ、エイトマン』

 

 ベラボットのスピーカーから、間抜けなネコ型ロボットの音声とは似ても似つかない、冷酷で傲慢な声が響いた。

 八幡の背筋に、猟犬の牙以上の寒気が走る。忘れるはずもない。この悪意に満ちた、狂気的な知性の響き。

 

「……デーモン……博士……ッ!」

『また会えたな、エイトマン。いや、比企谷八幡と言えばいいか?』

 

 Dr.デーモン。

 かつてエイトマン最大の敵として立ち塞がり、その圧倒的な科学力で八幡を死の淵まで追いつめた、狂気の天才科学者。その不敵な声が、千葉の森を戦慄させた。

 

「……なんで……お前が……ここに……ッ」

 

 八幡は血を吐くような思いで問いかけた。ベラボットの猫耳がピコピコと動く。

 

『こっぴどくやられたな、エイトマン。たかが自動追尾型の猟犬ごときに油断するからそうなるのだ。……谷博士の傑作であるお前を壊すのは、この私だけだ。ゴミ溜めのネズミに横取りされるのは我慢ならん』

『――Dr.デーモンだと? あのロシアの……』

 

 猟犬の頭部から、驚きを含んだ老人の声――プロフェッサー・ユレーの声が響いた。デーモンは、猫の電子表情を歪めるようにして鼻で笑った。

 

『噂に違わず胸糞の悪い男だ、「プロフェッサー・ユレー」。貴様の安っぽい「実験」に、私の検体(おもちゃ)を使われては困るのだよ』

 

 八幡は、自身の電子頭脳が状況を整理しきれていないことを自覚していた。宿敵と、新たな敵。その奇妙な対峙。だが、そんなことよりも重要なものが、目の前にあった。

 

『お飲み物をお届けしましたにゃ〜♪』

 

 相変わらず気の抜けるセリフを吐き出すベラボットのトレイの上。

 月光を反射して黄金色に輝く、一缶のアルミ。

 

 千葉の魂、究極の冷却触媒――『マックスコーヒー』。

 

「……ああ……助かったぜ、クソ野郎……」

 

 八幡は折れかけた腕を震わせながら、その奇跡の一缶を掴み取った。

 

 パシュッ……!!

 プルタブを引き抜く音が、森の静寂に高く響く。

 暴力的な糖分と、特殊な冷却剤が八幡の回路を駆け巡った。

【冷却システム、正常復旧(リカバリー)】

【原子炉、出力制限解除(アンリミテッド)】

【加速装置、全ゲートオープン】

 八幡の死んだ魚のような目に、一条の、そして純然たる殺意を秘めた「紅い光」が灯った。

 

 八幡の身体から、凄まじい熱気が蒸気となって立ち上った。

 

 『――コーヒーだと? 理解が追いつかないが、そんなものを飲んで今更……何ができると言うのだね?』

 

 プロフェッサー・ユレーの疑問が、猟犬のスピーカーから響く。

 だが、その声は最後まで続かなかった。

 八幡が最後の一滴を飲み干した瞬間、彼の体内原子炉(リアクター)が猛烈な咆哮を上げた。マックスコーヒーの特殊成分が触媒となり、過熱しきっていた電子頭脳が一気に冷却され、全ゲートが解放される。

 

「……はぁ……生き返ったぜ。マックスの甘さは、世界の真理だからな」

 

 その直後、ユレーの目は驚愕に染まった。

 八幡の「比企谷八幡」としての外見が、内側から弾け飛ぶように変質していく。

 ボロボロだった人工皮膚がパージされ、その下からしなやかで強靭なハイマンガン・スチールの装甲が滑り出す。

 溢れ出す白い蒸気と共に、丸みを帯びていた顔の輪郭は鋭利で精悍な『顔』へと固定され、月光を反射して冷たく輝く。

 その胸部装甲の中央には、誇り高き『8』の一文字が鈍い紅光を放っていた。

 心に灯るは、正義の――いや、仲間を傷つけられたことへの、静かな怒りの炎。

 

 鋼鉄の男、エイトマン。

 ──完全復活。

 

『馬鹿な……!? 数値が……計測不能だと!? 全機、攻撃開始ッ! そのアンノウンを肉片に変えろ!!』

 

 ユレーが戦慄と共に操作端末を叩く。周囲にいた十数頭の『ヘルハウンド』が一斉に、音速に近い速度でエイトマンへと牙を剥いた。

 しかし、復活したエイトマンにとって、その挙動は止まっているも同然だった。

 

(……遅い……!!)

 

 エイトマンの視界では、世界の時間が極限まで引き延ばされている。

 迫りくる猟犬たちの油圧シリンダーの動き、装甲の継ぎ目、センサーの死角――そのすべてが、スローモーションの映像のように克明に解析されていた。

 

 ドッ!!

 

 衝撃波が森を揺らす。

 エイトマンが踏み込んだ瞬間、その足元の地面がクレーター状に陥没した。

 

 次の瞬間には、跳躍していた十頭のヘルハウンドが、空中で文字通りの「屑鉄」に変わっていた。拳を振るった残像すら見えない。ただ、凄まじい風圧と火花だけが、彼がそこにいた証として残された。

 

『……ククク、はっはっは! 素晴らしい! これだよ、この加速だ!』

 

 ベラボットのスピーカーから、Dr.デーモンの弾んだ声が響く。

 

『覚悟しろ、ユレー。……これが、私の――そして世界で唯一の、エイトマンだ』

 

 それが、ユレーの操作する遠隔端末が最後に捉えた音声だった。

 

 ガガッ……ピーーーーッ!!

 エイトマンの超高速移動による電子妨害と、物理的な衝撃。

 ユレーの手元のモニターは激しいノイズと共にブラックアウトし、通信は完全に遮断された。

 

 静寂が戻った森。

 そこには、立ち上る蒸気の中に佇む、輝く鋼鉄の巨人の姿があった。

 

「……待ってろ。今、助けに行く」

 

 エイトマンの紅い瞳が、葉山たちが逃げた方角――そして、そこに放たれた最後の一頭の熱源をロックオンした。

 

 

──

 

 

 夜の静寂を切り裂き、銀色の閃光が森を駆ける。

 超高速移動を開始したエイトマンの背後には、物理法則を無視したような挙動で、あの「ネコ型配膳ロボット」がぴたりと追走していた。

 

「……おい。どういうつもりだ、デーモン」

 

 エイトマンのマスク越しに、鋭い問いが飛ぶ。隣で滑空するベラボットの液晶画面には、不敵な笑みを浮かべるデーモンの顔が合成されていた。

 

『さっき言った通りだ。私の最高傑作(おもちゃ)を、あんな下劣な男に壊させるわけにはいかんでな』

「……油断のならない奴だが、今は感謝してやるよ。クソ野郎」

 

 エイトマンは吐き捨てるように言う。その刹那、彼の電子頭脳(ブレイン)に直接、膨大なデータが流し込まれた。

 

「……っ、これは!」

『プロフェッサー・ユレーの情報だ。拝んでおけ』

 

 網膜ディスプレイに展開されるユレーの経歴。それは、血塗られた天才の足跡だった。

 

 ──元東ドイツの科学者。ロボット工学とサイボーグ研究において数々の輝かしい功績を残したが、その裏側にあるのは、数千人規模の非人道的な人体実験。彼の研究は、いつしか実験そのものが目的と化し、魂の尊厳を徹底的に破壊することに快楽を見出す破綻した領域へと達していた。

 

 国際指名手配を受け、より非人道的な研究が許される『中国』へ亡命。現在は暗黒組織『黒い蝶(ブラック・パピヨン)』を設立し、日夜破滅的な研究を続けているという。

 

『奴の研究は、人の「魂」を殺す。肉体を壊すことしか頭にない凡百の殺人鬼とは、格が違う』

 

「……お前と同類なんじゃないのか?」

『心外だな。私の研究は、戦争においてより大量の人間を一瞬で破壊することを目的とした「意味のある殺戮」だ。……だが、ユレーは違う。奴は、人の絶望する姿を見て楽しんでいるだけだ』

 

 同じ狂気でも、デーモンの方がいくらか「マシ」だと思わされる現実に、エイトマンは皮肉な笑みを浮かべた。だが、その狂気が味方についてこれほど頼もしいと思ったことはない。

 

「……ところで、なんでガストのネコちゃんロボットなんだ」

『ふむ。ちょうど立ち寄ったファミリーレストランで見かけてな、インスピレーションが湧いた。極限状況でも武器弾薬の「配膳」を可能にするロボット……。開発は、思ったより楽しかったよ』

 

 デーモンの声は心底楽しげだった。

 

 ベラボットの寸胴なボディは、今や防弾特殊合金で覆われ、足元はホバーユニットによる高機動移動を実現している。さらにマルチプル・ペンシルミサイルまで搭載され、味方には補給を、敵には「死」を届ける究極の支援機へと変貌を遂げていた。

 

(……やっぱりこいつ、頭おかしいな)

 

 その時、エイトマンの索敵センサーが最後の一頭を捉える。だが、距離がある。コンマ数秒、間に合うかどうかという微妙なライン。

 

「……くそ、間に合え……!」

『案ずるな、エイトマン。君の状態は、当然「彼」……谷博士だって把握しているさ』

 

 デーモンの言葉に、八幡の電子頭脳が一瞬だけ停止(フリーズ)し、即座に再起動した。

 谷博士。自分をサイボーグとして蘇らせ、この「まちがっている日常」を押し付けた、あの飄々とした老人。

 

(……そうだ。あの博士が、俺が燃料切れ(ガス欠)になる可能性を考えていないはずがない)

 

 デーモンがこのベラボットを送ってきたこと自体、あるいはこの状況そのものが、博士の描いた「生存戦略」の範疇にあるのではないか。

 もし博士がこの状況を把握し、手を打っているのなら――まだ「手遅れ」ではない。

 

「……ああ。あのお節介なじいさんの計算高さに、初めて感謝するぜ」

 

 八幡の胸の内に、確かな希望の火が灯る。

 エイトマンは原子炉の出力をさらに引き上げる。

 銀色の閃光が、夜の森を焼き尽くすような勢いで加速した。

 

 

 




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