——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第十八話:虚構と真実の果てに

 

 肺が焼ける。足の感覚はとうに消え、ただ泥を蹴る衝撃だけが脳に伝わってくる。

 葉山隼人は、必死に走っていた。

 

(見捨てた。……僕はまた、見捨ててしまったんだ)

 

 その思考が過るたび、心臓を冷たい手が握りつぶすような感覚に陥る。

 背後で響いていたあの機械的な駆動音と、肉が叩きつけられるような鈍い衝撃音。比企谷八幡が、自ら泥を啜り、「裏切り者のクズ」を演じて稼ぎ出した、わずか数分の空白。それが今の自分たちの命を繋いでいる。

 自分一人を標的にするために演じた、あまりにも醜悪で、あまりにも美しい「土下座」。

 

 「……ハァ、ハァ……っ、マジかよ……。……なぁ、ヒキタニくん、本当にあんな奴だったのかよ……っ!」

 

 隣を並走する戸部が、荒い息を吐きながら叫んだ。

 戸部は混乱していた。土下座までして自分だけ助かろうとした八幡の姿は、あまりにも醜悪だった。だが、彼の内側にある何かが、その「正解」を拒んでいた。

 八幡の行動が、どこか不自然でおかしいと思った。

 

 戸部の言葉に、三浦優美子と海老名姫菜は一瞬だけ視線を交わした。

 彼女たちは気づいていた。比企谷八幡が、あえて「共通の敵」となり、自分たちに「生き延びる」という唯一の選択肢を強制したことを。あんなキモい芝居、本気でやっているわけがない。

 

 だが、二人はそれを口に出さなかった。

 

 今はそんなことを説明している余裕などない。一秒でも早く子供たちを安全な場所へ、平塚先生の元へ届けなければ、八幡が投げ打った「プライド」も「安全」も、すべてが無意味になってしまうからだ。

 

「……喋るな、戸部。今は……走るのよ!」

 

 三浦が、震える声を押し殺して叱咤した。

 彼女の瞳には、八幡への怒りではなく、気づいていながら彼を置いていくしかない自分たちへの、激しい苛立ちが宿っていた。

 

「……そうだよ。戸部くん、今は前だけ見て」

 

 海老名もまた、レンズの奥の瞳を鋭く光らせ、沈黙を選んだ。

 比企谷八幡という男が構築した、あまりにも残酷で合理的な「救済のシナリオ」。それを守る唯一の方法は、今はただ、必死に逃げることだけだった。

 

「……みんな、もうすぐロッジだ! 止まるな!!」

 

 先頭を走る葉山が、声を張り上げる。

 だが、森の闇は、彼らの希望を嘲笑うように不快な高周波を響かせた。

 

――ギギギギギッ……!!

 

 背後から迫る、確かな殺意の足音。

 包囲網を潜り抜け、執拗に「獲物」を追い続けていた最後の一頭――ヘルハウンドが、生物の限界を超えた速度で距離を詰めてきた。音速には至らずとも、それは森を駆け抜けるには十分すぎるほどに迅速で、冷酷な狩人の挙動だった。

 

「――っ、来るぞ! 全員、僕の後ろに!!」

 葉山が小学生たちを背負い、震える拳を構えて立ち塞がる。

 機械の猟犬が大きく口を開き、死の牙を剥いて跳躍した。

 

(……間に合わない……!?)

 

 葉山が覚悟を決めて目を閉じた

 

 

──

 

 

 キャンプ場から数キロ離れた、深い森に沈む古いログハウス。

 その内部は外観からは想像もつかないほど高度に電脳化され、壁一面のモニターが冷たい光を放っていた。プロフェッサー・ユレーは、特注の革製チェアに深く腰掛け、手元の映像を愉悦と共に眺めていた。

 

「ふむ……実に良い表情だ。正義感に燃える若者が、抗えぬ絶望を前に立ち止まる瞬間。これこそが、最高の生命データだ」

 

 メインモニターには、最後の一頭である『ヘルハウンド』が捉えた「リアルタイム映像」が映し出されている。画面の中では、葉山たちが震えながらこちらを振り返り、機械の猟犬がその喉元へ跳躍しようとする、まさに「死の瞬間」が鮮明に映し出されていた。

 ()()()()()()()()()()少年のように、死を与えるべくコンソールを掴む

 ユレーは優雅に指先を動かし、コンソールにトドメの命令を入力しようとした。だが――。

 

「……プロフェッサー、異常です。通信ログに致命的な齟齬があります」

 

 傍らに控える部下が、困惑と焦燥の混じった声を上げた。

 

「なんだね? せっかくのクライマックスだ、無粋なノイズを入れないでくれたまえ」

「いえ、映像データと機体のGPS情報が物理的に一致しません。ヘルハウンドの座標は、ターゲットを捕捉しているはずの地点から三〇〇メートル以上後方で静止しています。さらに、サーバー内に未知のパケットが……」

「何だと……?」

 

 ユレーが不快そうに眉を潜めた、その時。

 モニターの中の「葉山隼人」が、不自然な動きを止めた。跳躍しようとしていたはずのヘルハウンドも、その場で重力に逆らうように静止している。

 

 映像の中の葉山が、ゆっくりと顔を上げた。その瞳はカメラ――すなわちユレーの視線を真っ直ぐに射抜いていた。

 

『――ユレー。貴様の思い通りにはさせんぞ』

 

 その口から漏れたのは、若々しい少年の声ではない。重厚で、知性に裏打ちされた老人の声だった。

 

「……何だと……? 映像の中の少年が、私に話しかけているというのか? 誰だ、私のシステムに割り込んでいるのは!」

『子どもたちは守り抜く。そして、貴様の陰湿な『実験』も……この千葉の森で潰えることになるだろう』

 

 ユレーは苛立ちを隠さず、モニターを指差して笑った。

 

「何を言うかと思えば。現にこうして、私の猟犬が君たちの背後を捉えているではないか。逃げ場などどこにも――」

 

『教えてやろう、黒死蝶。……葉山くんたちは、とっくに目的地に辿り着いているよ。()()()()()()()

 

「……な……に……!?」

 

 ユレーの顔から余裕が消え、初めて頬の筋肉が引き攣った。

 計器類が一斉に警告音を鳴らし、モニターの四隅からデジタルなノイズが侵食してくる。

 

『よく聞きたまえ。……いま貴様が「リアルタイム」だと信じ込んでいた映像は、すべて……』

 

 映像の中の「葉山」が不敵に笑う。

 画面が激しく乱れ、緑豊かな森の景色が、逃走する生徒たちの姿が、ガラス細工のように崩れ去っていく。

 

『――「虚構(フェイク)」だ。』

 

 その言葉と共に、デジタル・エフェクトが剥がれ落ちるように映像が再構成された。

 そこに映し出されたのは、葉山隼人でも、逃げ惑う小学生でもない。

 そこは、柔らかな間接照明に照らされた洗練されたラボの一室だった。

 一脚のアンティークチェアに腰掛け、脚を組み、静かに、そして優雅に佇む一人の老人。

 

「…………貴様、何者だ」

 

 ユレーは椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、モニターの男を睨みつけた。

 画面越しの老人は、初めて見る相手であるユレーに対し、泰然自若とした微笑を浮かべていた。

 

『私は谷。……君が今しがた『スクラップ』にしようとしていた、あの少年(エイトマン)の親だよ』

「谷……? あのエイトマンを設計したという、逃亡科学者か……!」

『ようこそ千葉へ、ユレー。……私の息子にマックスコーヒーを届けにいくついでに、君のサーバーを少し「掃除」させてもらった。……残念だったな、君が私の息子を破壊したと思い込み、「ライブ映像」だと思って五分間も見続けていたのは、私が過去のデータから生成した、最高に後味の悪い『空想のループ映像』だ。本物の彼らは、とっくに平塚くんと合流して、安全な場所へ避難しているよ』

「貴様ぁああッ!! まんまと、この私を欺いたというのかッ!!」

 

 ユレーの拳が、卓上のキーボードを叩き潰した。

 完璧だったはずの計画。完璧だったはずの観察。そのすべてが、名前すら知らなかった一人の天才による「五分間の虚構」によって、ゴミ同然に書き換えられていたのだ。

 

 ログハウスの司令室に、モニター越しに放たれた谷博士の冷徹な声が響き渡る。

 

『ユレー。貴様の行っていることは、探求ではない。ただの幼稚な破壊衝動だ。……他人の尊厳を弄ぶ者に、科学者を名乗る資格はない。貴様はただの、人類の進歩における「バグ」に過ぎんよ』

「……貴様ぁッ!! 落ちぶれた逃亡科学者の分際で、この私を否定するかッ!!」

 

 ユレーは激昂し、コンソールを叩き壊さんばかりに指を動かした。

 同時に、一枚のモニターがノイズを突き破り、一頭のヘルハウンドから送られてくる「真のリアルタイム映像」を映し出す。

 

「……見つけたぞ。逃げ遅れた子ネズミを一匹、捉えた!」

 

 モニターの端。暗い森の中で膝を抱え、震えながら座り込んでいる小さな影があった。

 鶴見留美だ。

 

『ふむ。……なるほど、あれが本物の「検体」か。面白い、あの少年(エイトマン)に見せつけてやろう。己が守ろうとした希望が、鋼鉄の牙に引き裂かれる絶望をな!』

「突撃だ! その少女を八つ裂きにしろ!!」

 

 ユレーの命令と共に、一頭のヘルハウンドが生物を凌駕する速度で留美へと殺到した。音速には届かぬまでも、それは常人には回避不可能な死の突進。

 牙がその細い喉元に届く。誰もがその凄惨な結末を確信した、その刹那――。

 

――ドォッ!!

 

 座り込んでいた「少女」が、重力無視の垂直跳躍を見せた。

 木の梢を遥かに超える高度まで一気に跳ね上がり、ヘルハウンドの突撃を空中へ置き去りにする。

 

「……なっ!? 何だ、今の跳躍は……!? あの少女、ただの人間ではないのか!?」

 

 愕然とするユレーの目の前で、着地した留美がゆっくりと立ち上がった。

 彼女は逃げる素振りも見せず、ヘルハウンドのレンズ――すなわち、ユレーの瞳を真っ向から見据える。

 

『――果たしてお前が見ているものは、『真実』か。それとも『虚構』か?』

 

 少女の口から漏れたのは、()()()()()の、あの低く、それでいて鋭い声だった。

 直後、少女の輪郭がデジタルな火花を散らしながら激しく波打つ。

 華奢だった四肢がハイマンガン・スチールの屈強な装甲へと膨張し、少女の顔面は精悍な鋼鉄のマスクへと固定されていく。

 

 そこにはもう、震える少女などいなかった。

 月光を反射し、全身から冷却用の蒸気を立ち上らせる鋼鉄の戦士――エイトマンが、そこに佇んでいた。

 

「……擬態機能だとッ!? まさか、最初から入れ替わっていたというのかッ!」

『ジジイ……「覗き趣味」の授業料は、その猟犬(オンボロ)で払ってもらうぜ』

 

ユレーは歯噛みし、後退りした。

 

 ──その背後で、あまりにも場違いな、気の抜けた電子音声が響く。

 

『――ご注文の品をお届けするにゃ〜ん♪』

『まさか、まだここが気付かれないと思っていたか?ユレー』

 

 暗闇から現れた『ネコ型戦闘支援ロボット』ベラボット

 そしてベラボットのスピーカーから、Dr.デーモンの冷笑が響き渡る。

 

「デーモン……貴様までッ!!」

『ユレー。貴様の実験は「静止画」だ。私の、そして谷のエイトマンが展開するのは、変化し続ける「現実」だ。……旧時代の科学者には、少々荷が重すぎたかな?』

 

 ベラボットの寸胴なボディから、隠されていたハッチが展開される。

 中から現れたのは、デーモン特製の「マルチプル・ペンシルミサイル」。

 

『配膳完了だ。…… умереть(死ね)(ウムリーチェ)』

 

『フルコースだにゃ〜ん♪』

 

――シュパパパパパッ!!

 

 無数の光の筋が夜空を埋め尽くす。

 

 司令室に響き渡るユレーの絶叫と、エイトマンの拳がヘルハウンドを粉砕する物理的衝撃音が、寸分の狂いもなく重なった。

 ユレーの手前のモニターは、エイトマンの拳が画面を突き破るかのような迫力で、激しい火花と共にブラックアウトした。

 静寂が戻った森。

 そこには、立ち上る蒸気の中に佇む、鋼鉄の救世主の姿があった。

 

「……デバッグ、完了だ」

 

 悪意の牙を剥く黒死蝶の夜は、今、鋼鉄の審判によって終わりを迎えた。

 

 

──

 

 

 

 千葉村キャンプ場、管理棟の待機室。その静寂は、血の匂いと泥の混じった、暴力的なまでの喧騒によって打ち破られた。

 

「平塚先生……ッ! 早く、早く救援を……!!」

 

 葉山隼人が扉を蹴破るようにして飛び込んでくる。その背後には、過呼吸寸前の三浦や、顔面蒼白の海老名、そして恐怖で足をもつれさせた小学生たちが続いていた。

 

「どうした、葉山!? 何があった!」

 

 平塚静が椅子を蹴り飛ばして立ち上がる。葉山の口から語られたのは、山中に現れた「機械の猟犬」という、正気を疑うような悪夢だった。

 森の中で葉山たちを襲った機械の猟犬

 逃げてる最中に追いつかれ、ダメかと思ったが、猟犬がなぜか急に動きを止めたため隙をついてここまで必死に逃げてきたこと。

 

 「何を馬鹿な……犬の機械だと?」

 

 平塚は一瞬、教え子のあまりに荒唐無稽な言葉に耳を疑った。だが、震える三浦や、眼鏡の奥で必死に涙を堪える海老名、狼狽する戸部、そして何より、常に冷静な葉山がこれほどまでに取り乱している。その事実だけで、事態が「普通」ではないことを悟るには十分だった。

 

 その時、異変に気づいた雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣、そして比企谷小町が部屋に駆け込んできた。

 

「葉山くん!?ヒッキーはどうしたの!?」

「……機械の犬。……まさか……?」

「お兄ちゃんがどこにもいないんです!葉山さん、何か知ってるんですか!?」

 

 小町が悲痛な叫びと共に言い放つ。

 雪ノ下と由比ヶ浜の顔が青ざめている。かつてエイトマンに救われ、ロボットの脅威をその目で見た経験がある二人にとって、葉山の言葉は荒唐無稽な空言などではなかった。

 

「……比企谷くんが、僕らを逃がすために……あいつらの前に、一人で残ったんです……!」

 

 その言葉が落ちた瞬間、比企谷小町の時が止まった。

 

「……え?」

 

小町の喉から、乾いた音が漏れる。

 兄が。あの、運動不足で、すぐ屁理屈をこねて、自分を世界で一番愛していると言い切る、あのひ弱な兄が。

 

「……嘘。嘘だよ、葉山さん。何言ってるの……?」

「小町ちゃん……ごめん、僕らが不甲斐ないばかりに……」

「謝らなくていいから! お兄ちゃんは!? なんで置いてきたの!? なんでみんな一緒にいるのに、お兄ちゃんだけいないのよ!!」

 

 小町の絶叫が、ロッジの天井を突き抜ける。

 彼女の瞳からは、大粒の涙が溢れ出し、視界をぐちゃぐちゃに歪めていた。焦燥――いや、それはもはや魂を焼くような発狂に近い。

 

「お兄ちゃんは運動神経最悪なんだよ!? ゴミみたいな体力しかないんだよ!? 一人で残って何ができるって言うのよ!! そんなの、死にに行ってるのと同じじゃない!!」

 

 小町は平塚の制止を振り切り、雨の降り始めた外へと駆け出そうとする。

 

「離して、平塚先生! 行かなきゃ……小町が行かなきゃ! お兄ちゃんは、小町がいないと何にもできないんだから!!」

「落ち着け、比企谷! 今行っても二次被害が出るだけだ!」

「落ち着いてられるわけないでしょ!! 小町の大事な、世界でたった一人の……!!」

 

 狂乱する小町の体を、一人の少女が背後から力強く抱きしめた。

 

「落ち着いて、小町さん」

 

 鶴見留美だった。彼女の服もまた泥にまみれ、震えていた。だが、その瞳には、先ほどの暗闇で見た「奇跡」への、絶対的な信頼が宿っていた。

 

「……あの人は、負けない。小町さん、私たちが信じなくて、誰が信じるの。……あの人は、あんなに最低なフリをしてまで、私たちを救おうとしたんだから」

「留美ちゃん……っ、でも……お兄ちゃんは……っ」

 

 小町は留美の胸に顔を埋め、子供のように号泣した。ロッジ全体が、比企谷八幡という一人の少年の死を予感し、重苦しい通夜のような空気に支配される。

 

「平塚先生、一刻を争います! 警察への要請と、比企谷の捜索を!」

 

 葉山の悲痛な訴えに、平塚は鋭く頷いた。

 

「わかっている。……全員、まずはホールへ避難しろ! 戸締りを厳重に。いいな! 私は今から予備のライトを持って山に入る!」

 

 平塚が護身用の竹刀と強力なサーチライトを掴み、教え子たちの安全を確保しながら出発の態勢を整える。緊迫した空気が頂点に達し、平塚が雨の闇へ一歩を踏み出そうとした、まさにその時。

 

「……あー、すんません。どなたか、タオルとかお持ちじゃないっすかね」

 

 森の奥から、あまりにも場の空気を読まない、間の抜けた声が響いた。

 

 「「「………………え?」」」

 

 サーチライトの光が向けられた先に立っていたのは、服こそボロボロで泥だらけだが、いつもの「死んだ魚のような目」をした比企谷八幡だった。彼は首筋を掻きながら、面倒くさそうに雨を払っている。

 

「……お、お兄ちゃん……?」

 

 小町が、幽霊でも見るような目で兄を見つめた。

 

「よお、小町。悪い、ちょっと道に迷ってな。……それと平塚先生、あっちに壊れた大型のおもちゃ……ラジコンか何かかな? とにかく不燃ゴミが散乱してたんで、後で苦情入れといた方がいいですよ」

 

 八幡は、エイトマンとしての戦いの痕跡を「おもちゃ」という言葉で煙に巻き、何食わぬ顔でロッジの敷居を跨いだ。

 

「──お兄ちゃんッ!!」

 

 直後、弾丸のような勢いで突っ込んできた小町のタックルが、八幡の腹部に突き刺さった。

 

「ぐっ……お、小町!? 痛い、重装甲……じゃなくて、普通に響く……!」

「バカ! バカ! お兄ちゃんのバカぁ!! 死んだと思ったじゃん! 小町を一人にするつもりだったんでしょ! ポイント大幅減点! マイナス一億兆ポイントだからね!!」

 

 八幡の胸の中で、小町は嗚咽を漏らしながら、彼の泥だらけのシャツを力一杯握りしめた。

 その様子を見ていた雪ノ下や由比ヶ浜、そして葉山たちも、崩れ落ちるようにして安堵の息を吐いた。

 

「……いや、落ち着け。俺だって、あんな化け物相手に格好つけるほど命知らずじゃない」

 

 八幡は小町の頭を不器用に撫でながら、集まった全員の視線を受け止めた。葉山、三浦、雪ノ下……。彼らの瞳にある「説明しろ」という無言の圧力を、彼はあらかじめ用意していた「最もらしい嘘」で塗り潰す。

 

「……正直、俺ももうダメだと思ったよ。あの鉄の犬が目の前に来て、あー人生終わったな、小町に謝んなきゃな……って。……そしたらさ、なんか凄いのが来たんだよ」

「……凄い、の?」

 

 八幡は、いかにも「信じられないものを見た」という風を装い、遠い目をして語り出した。

 

「ああ。……なんつーか、全身鋼鉄の……超カッコいいヒーローみたいな奴だ」

「鋼鉄の、ヒーロー……?」

 

 葉山が呆然と呟く。八幡はさらに畳み掛けた。

 

「そう、絶体絶命の瞬間、全身メタルの、特撮に出てくるような鋼鉄のヒーローみたいな奴がさ。そいつがワンパンであの犬たちを粉砕して、『ここは危険だ、早く逃げろ』って……。……いやぁ、世の中にはあんな奴もいるんだな。千葉の治安、どうなってんだよ」

(……我ながら、吐き気がするほど恥ずかしいセリフだな。超カッコいいとか自分で言うもんじゃないわ。あー、排熱スリットが顔の皮膚の下で悲鳴を上げてる……)

 

 八幡の電子頭脳(ブレイン)は自身の羞恥心でオーバーヒート寸前だったが、そのあまりに「オカルト的で荒唐無稽な証言」は、逆に葉山たちの混乱に拍車をかけた。

 

「……そんな、映画みたいなことが……」

 

 三浦が呟く。だが、現に比企谷八幡は生きて帰ってきた。そして、あの森には確かに「人外の力」で破壊された猟犬の残骸が転がっているはずなのだ。

 

「……ともかく。比企谷、お前が無事ならそれでいい。……全員、一旦ロッジに入れ。詳細は後で聞く」

 

 平塚先生が、疑念を抱きつつも場を収めた。

 

 (……それって、もしかして……)

 

 八幡の荒唐無稽な説明を聞いた由比ヶ浜は『ある真実』に思い至っていた。

 ドクトル・デーモンという狂気に満ちた老人に拉致され、冷たい実験室で絶望に震えていた自分。その扉を文字通り粉砕して現れた、銀色の、いいえ、鋼鉄の身体を持つ「彼」。

 自分を抱き寄せ、マッハを越える速度で夜の街を駆けた時、頬に触れたのは硬い金属だった。けれど、その奥から伝わってきたのは、どんな人間の言葉よりも力強い、揺るぎない「安心」という名の熱量。

 

(あの時、私を助けてくれた、エイトマンさん……。ヒッキーも、あの人に助けられたんだ……!)

 

 由比ヶ浜の瞳が、これ以上ないほどキラキラと輝き始めた。彼女は自分の腕をそっと抱きしめ、あの日感じた「鋼鉄の温もり」を再確認するように力説した。

 

「ヒッキー! やっぱり、来てたんだね! 『鋼鉄のエイトマンさん』!」

「……は? 鋼鉄の……エイトマン……『さん』?」

 

 由比ヶ浜は、八幡の泥だらけの横顔を見つめた。

 彼女にとって、比企谷八幡というひ弱な少年が「エイトマンさんが彼を救った」という解釈の方が、遥かに受け入れやすく、かつ心強い「真実」だった。何より、自分を死の淵から救い出してくれたあの「鋼鉄の温もり」を、彼女は一生忘れることはないだろう。

 自分を死の淵から救い出してくれたあの英雄と、目の前で「死んだ魚のような目」をして泥を払っている八幡が結びつくなど、彼女の純粋な憧憬の中では一ミリも起こり得ない「バグ」だった。

 

 そして、その隣で。

 雪ノ下雪乃もまた、漆黒の瞳を冷徹に細め、過去の光景と目の前の少年を照合していた。

 

(……鋼鉄の、ヒーロー……エイトマン、というのね)

 

 雪ノ下は、かつて総武高校の廊下で目撃した、あの凄絶な激闘の跡を思い出していた。

 人ならざる力でひしゃげたロッカー、壁に刻まれた巨大なクレーター。そして、ボロボロになりながらも、自らを謎の機械の魔手から救い出し、闇の中へと消えていった異形の存在。

 

 「……比企谷くん。あなたの話は随分と非論理的だけれど……。その『鋼鉄の存在』が実在することだけは、否定できないわね」

 

 雪ノ下の声には、いつもの毒舌とは違う、どこか厳かな響きがあった。

 彼女たちの中では、比企谷八幡=救いようのない問題児、という認識は変わっていない。だからこそ、「あの高潔で圧倒的な鋼鉄の力を持つヒーロー」が「目の前の腐った目をした少年」と同一人物であるなどとは、一ミリも結びついていなかった。

 

(比企谷くんのような無力な少年が助かった理由が、それ以外に説明できない以上……。彼もまた、私や由比ヶ浜さんと同じように、あのヒーローに選ばれて救われた一人に過ぎないということね)

 

 雪ノ下の論理的思考(ロジック)は、過去の「救済の記憶」という強力なバイアスによって、八幡の正体という正解を鮮やかに回避していた。

 

「お兄ちゃん、幻覚でも鋼鉄でもどっちでもいいけど、もう二度と小町を置いていかないでよ!」

 

 八幡の胸に顔を埋めた小町が、嗚咽混じりに叫ぶ。八幡は不器用にその頭を撫でながら、安堵のため息を吐いた。

 

「……ああ。悪かったよ、小町」

 

 葉山隼人は、そのやり取りを少し離れた場所から、複雑な表情で見つめていた。

 彼は、八幡が自分に「ヒーロー」という役割を押し付け、泥を被った瞬間を忘れていない。

 

(……比企谷くん。君は、本当にただ救われただけなのかい?)

 

 葉山は、破壊された猟犬の残骸を思い出す。あんな鋼鉄の塊を一撃で粉砕できる存在。それが比企谷だとは思えないが、かといって「ヒーロー」が都合よく現れたというのも出来すぎている。

 だが、彼はそれ以上追及しなかった。比企谷が生きて戻り、少女たちが安堵している。今はその事実だけで十分だった。

 

 鶴見留美だけが、一人。

 

 ロッジの窓から、遠く静まり返った森の奥を見つめていた。

 真夏の夜。

 八幡がついた「優しい嘘」が、かつての救済の記憶に溶け込んでいく。

 高千穂千葉村の長い夜は、不確かな安寧と共に、ゆっくりと更けていった。

 

 

──

 

 

 深夜の管理棟ロッジ。外には数台のパトカーが到着し、赤色灯の光が濡れたアスファルトを規則的に照らしている。

 平塚静が警察官を相手に、遭遇した「暴走した大型の機械犬」の目撃証言と状況説明を行っている間、比企谷八幡は隅のパイプ椅子に座り、支給された毛布を深く被っていた。

 

「……ふぅ」

 

 手に持った紙コップから立ち上る湯気を眺め、一口すする。

 自販機の微糖コーヒー。悪くないが、やはり今の身体にはあの過剰なまでの糖分――マックスコーヒーが必要だった。原子炉の出力は安定し、全身のハイマンガン・スチール装甲も冷却を終えていたが、精神的な摩耗までは癒えない。

 

(……死ぬかと思った。いや、厳密には原子炉停止か。我ながら、少々熱くなりすぎた感はあるが……まぁ、結果オーライってやつか)

 

 もう何度目かもわからない、「二度とこんな目に遭うのはごめんだ」という感情。だが、人生という奴は非情だ。「二度あることは三度ある」という言葉が脳裏をよぎり、八幡は深いため息を吐いた。

 

「隣、いいかな」

 

 不意にかけられた声。顔を上げると、そこには同じく泥だらけの葉山隼人が立っていた。彼は八幡の返事も待たず、静かに隣の椅子に腰を下ろした。

 

「……比企谷くん。君が無事で、本当によかった」

「……別に。勝手にやったことだ。お前に感謝される筋合いはねーよ」

 

 八幡はぶっきらぼうに言い放ち、視線を紙コップに戻す。だが、葉山は引き下がらなかった。彼は遠くを見つめるような瞳で、静かに、けれど逃げ場のない言葉を紡ぎ出した。

 

「君は以前、言っていたよね。……『人間、本当に命の危険を感じるほどの恐怖に直面したら、他人のことなんて考えていられない。隣の奴を犠牲にしてでも、自分だけは助かろうとする』って」

 

 八幡の指先が、微かにピクリと動く。それは、今回の肝試しが始まる前、八幡が小学生たちの歪な関係を揶揄して放った言葉だった。

 

「今回の君の行動は、その言葉とは正反対だった。君は、自分の命を天秤にかけてまで、僕たちを救おうとした。……君は、自分で言った言葉を、自分の行動で完全に否定したんだ」

「…………」

 葉山の穏やかで、どこか嬉しそうな声色。が響く

 

 ぐうの音も出ない。

 

 自分の信条を、自分の行動が裏切った。それを「ヒーローに助けられた」という嘘で覆い隠そうとしたが、葉山の前ではその欺瞞も通じなかった。論理的な敗北感に、八幡は黙ってコーヒーを喉に流し込むことしかできなかった。

 

「……本当に、捻くれ者ね」

 

 背後から響いた小さな声。

 鶴見留美がいつの間にか近くに立っていた。彼女は少し呆れたような表情で八幡を見下ろしていたが、その瞳に宿っていた「死んだ魚のような、腐った光」は、今はもう、どこにもなかった。

 

「……あ、そう。悪かったな、捻くれてて」

「別に貶してない。……ありがとう」

 

 留美はそれだけ言うと、少し離れた場所で沈黙している小学生たちのグループに視線を向けた。

 極限状態で己の醜さを露呈し、他者を蹴落とそうとした彼女らの間には、もう以前のような「表面上の仲良し」という歪な関係は存在し得ないだろう。一度壊れたものは元には戻らない。だが、それは新しい関係を築くための、残酷な、けれど必要な通過点でもあった。

 

(……予定とは大幅に変わっちまったが。これも、結果オーライってやつか)

 

 ロッジの外では、夜明けの気配が微かに漂い始めていた。

 八幡は冷めかけたコーヒーを一気に飲み干す。

 鋼鉄のヒーローという虚構と、比企谷八幡という現実。その境界線で揺れ動きながらも、この一件落着の空気に、彼はほんの少しだけ、心地よさを感じていた。

 




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