——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
夏休みも、もう残すところ数えるほどとなったある日の午後。
比企谷八幡は、自室の机に向かい、無心でキーボードを叩いていた。モニターに映し出されているのは、妹の小町から押し付けられた自由研究の代行データだ。
彼の内側に宿る「エイトマン」の並列演算能力を、中学三年生の宿題のために浪費する。原子炉の無駄遣いとも言える光景だが、八幡の指は止まらない。画面に流れる無機質なログを見ていると、どうしても二週間前の「あの日」の光景が脳裏をよぎる。
あの後、八幡たちは駆けつけた警察の執拗な事情聴取からようやく解放され、無事に解散地点まで戻ることができた。森に残された『ヘルハウンド』の凄惨な残骸に、千葉県警の面々は言葉を失っていたが、その報告は即座に警視庁捜査一課の田中課長へと上げられたらしい。
(……田中課長。あの、サイボーグ事件専門の御仁か。千葉県警が手出しできない案件を警視庁が引き取る……)
なぜ警視庁がこれほど迅速に千葉県へ介入できるのか。八幡はその理由が少しだけ見えた気がしていた。
合宿が終わり、総武高校の校門前で解散となったあの日。
小町は「お兄ちゃん、帰りに買い物して帰ろうよ!」とはしゃぎながら、隣にいた雪ノ下雪乃も誘おうとした。
「雪乃さんも、良かったら一緒にどうですか?」
だが、その誘いを遮るように、平塚静が険しい表情で口を開いた。
「すまないな、比企谷(妹)。雪ノ下は……このまま真っ直ぐ帰らなければならない事情があるんだ」
八幡も、先生の言葉に同意した。あの凄惨な事件の直後だ、まずは家に帰って休むのが普通だろう。……そう思った、その時だった。
校門の前に静かに滑り込んできた、一台の黒塗りの高級ハイヤー。
重厚なドアが開き、そこから現れたのは、その場の空気を一瞬で凍りつかせるような美貌の持ち主――雪ノ下陽乃だった。
「……迎えに来たよ、雪乃ちゃん。なんだか大変だったみたいだね。夏休み中もずっと一人暮らしのマンションに引きこもって、一度も実家に顔を出さないんだもの。お母様、とってもご立腹だよ?」
陽乃は、相変わらずの「完璧な笑顔」を浮かべていた。一人暮らしをしているとは聞いていたが、まさか夏休み中も実家に帰っていなかったという事実に、八幡は意外そうな目を向けた。
「あら、比企谷くん。また雪乃ちゃんと一緒にいたんだ? ……ふーん、なるほどね。ついに『そういう仲』になっちゃったわけだ?」
陽乃がニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、流れるような動作で八幡の懐に踏み込んでくる。
「やるじゃない、比企谷くん! お姉さん、応援しちゃうぞ!」
――ドゴッ、ドゴッ、ドゴッ!
お祝い代わりと言わんばかりに、鳩尾に正確に叩き込まれる鋭い肘打ちの連打。八幡のハイマンガン・スチールの装甲に、陽乃の拳が生身とは思えない速度と重さで食い込む。
「……っ、ちょ、陽乃さん……その残影拳ハメはやめてください、ウチのゲームバランスだとそれ反則すから……!」
八幡がいつものように軽口で受け流していた、その時。
由比ヶ浜結衣があわてて二人の間に割って入った。
「陽乃さん、ダメだよ! ヒッキー怪我しちゃう!」
その瞬間だった。
陽乃の目線が、ぴたりと、由比ヶ浜の存在を『刺し貫いた』。
「……貴女は、比企谷くんの彼女さんだっけ?」
「え、あ、ち、違います! ただの、クラスメートで……っ」
真っ赤になって否定する由比ヶ浜に、陽乃はニコリと、それこそ天使のような微笑みを浮かべた。
「そう。良かった。……比企谷くんに、あんまり気安く手を出さないでね。……それは、雪乃ちゃんの『モノ』だから」
冗談めかした口調。だが、その直後に八幡を振り返った陽乃の『目』は、一ミリも笑っていなかった。
「違う!」
八幡と雪乃の声が、見事なまでにハモった。その事実は、地味に八幡を赤面させた。
その後、雪乃は陽乃に促されるようにハイヤーに乗り込み、去っていった。
残された二人に、由比ヶ浜が不安げに尋ねてきた。
「……ねぇ、今のあの車……」
八幡は、遠ざかるハイヤーのリアライトをじっと見つめていた。
見た瞬間に、網膜ディスプレイが過去の記憶データと照合。……一致。
(……間違いない。一年前、俺を轢いて、死に至らしめたあの車だ)
由比ヶ浜も、そして雪乃も、比企谷八幡があの日「一度死んでいる」ことを知らない。
当然だ。言うつもりもないし、これからも言うことはない。八幡が死んだのは、犬を助けようとして飛び出した自業自得だ。恨む筋合いなど、どこにもない。
ただ。
雪乃が、今までその件について一切触れなかったこと。
由比ヶ浜にも、そして八幡本人にも黙り続けていたこと。
その「沈黙」が。
なぜか、鋼鉄のはずの八幡の心を、どうしようもなく締め付けた。
──
「……お兄ちゃん? 手、止まってるよ」
小町の声に、彼は我に返った。
あれ以来、雪乃とは一度も会っていない。
キーボードを叩く指が、微かに震える。
彼は再び、無機質なデータの羅列へと意識を沈めた。
夏の終わり。鋼鉄の身体に宿る心は、まだ、答えのない問いを繰り返し演算し続けていた。
(これ以上、俺が踏み込むことは何もないんだろう。口を挟む余地なんて最初からなかったんだ)
そう自分に言い聞かせる。だが、論理回路でどれだけ納得させようとしても、胸の奥に澱のように沈んだ感情が消えることはなかった。
どうして、彼女は何も言わなかったのか。知っていて黙っていたのか、それとも向き合うことができなかったのか。その答えを知る術はない。
(ただ、寂しいと思っている自分がいるのは確かだな。……柄にもない)
部活動もない夏休みの終わり、彼女の沈黙は重く、そして遠い。八幡は一つ大きなため息を吐くと、最後の一打を叩き込んだ。
「……よし。完成だ」
八幡は満足げに背伸びをすると、隣のベッドで愛猫のカマクラをいじりながら寝そべっていた小町に声をかけた。
「小町、できたぞ。今回の自信作だ。これを出せば、お前の成績もクォンタム・リープ(量子跳躍)間違いなしだぞ」
「お、待ってました! さすがはお兄ちゃん。小町のポイントも大幅アップ……って、何これ?」
最初はふむふむとニコニコしながら画面を覗き込んでいた小町だったが、読み進めるうちにみるみる顔が引き攣っていった。
「お兄ちゃん、これ何?」
「何って……タイトルにある通り、『中学生でも解る量子コンピュータ理論』だが。至極簡潔かつリリカルに構成したつもりだ」
八幡の言葉に、小町はガバッと起き上がり、ずびしっとモニターを指差した。
「中学生でもわかんないよ、こんなの! ていうか、数式が三ページ目から一ミリも理解できないんですけど! 誰が読むの!? 先生への嫌がらせ!?」
「……わからないのか? やはり元々が私立文系を狙う文系脳の俺が、無理に理数系の『論文』を書いたのが間違いだったか……。レベル設定を見誤ったか」
「今、さらっと『論文』って言ったよね!? これ夏休みの宿題のレベル飛び越えてるからね!? 提出した瞬間に小町、どっかの研究所に拉致されるからね!?」
八幡は顎に手を当て、少しだけ逡巡した。エイトマンとしての高度な並列処理が、日常という名の低いハードルを飛び越えすぎてしまったらしい。
「なら……『幼稚園児でも解る量子コンピュータ理論』ならどうだ?」
「いいわけないでしょ! 第一、幼稚園児は量子コンピュータなんて触らないし、お兄ちゃんの『解る』の基準がバグりすぎてるの!」
ボフッ、と勢いよく投げつけられた枕を顔面で受け止めながら、八幡は困惑したように首を傾げた。
鋼鉄の身体は物理的なダメージを無効化するが、中学生女子の「常識」という名の猛攻には、どうにもデバッグが追いつかないようだ。
そんな兄のボケを間近で見た小町は、ここ最近の兄の変化に頭を抱えたい気持ちだった。
(……お兄ちゃん、絶対におかしい。前はもっと、夏目漱石がどうとか、太宰治がどうとか、小難しい文学の話で現実逃避してたのに。いつの間にか……量子計算理論だの、計算複雑骨折だの、アルゴリズム体操だの、理数系の話にばっかり凝っちゃって。小町、ちんぷんかんぷんで全然面白くない。……っていうか、キモい)
これも中二病の一種なのだろうか。小町は、数式オタク特有のインテリジェンスな空気と、近寄りがたいような名伏しがたいような、絶妙なキモさが混じった兄の横顔をまじまじと見つめた。そもそも数学が壊滅的に成績悪かったはずなのに、なにがどうしてこうなったのか。
数日前に興味本位で「最近お兄ちゃんがハマってる量子なんちゃらって何?」と尋ねて、猛烈に後悔したことを思い出した。
「――なに? 量子コンピュータ理論ってそんなに面白いかだって?」
あの時、兄はキーボードを叩く手を止め、椅子をくるりと回転させて、
「そうだなー。まあ俺も最近ハマるだけはあるし、暇つぶしにはもってこいだぞ? 何よりインテリジェンスで響きがカッコいいしな。……ちょっと軽く説明するか?」
「あ、うん。お兄ちゃんがそこまで言うなら、小町、ちょっとだけ聞いてあげてもいいかな!」
それが地獄の始まりだった。八幡は本棚から専門書を持ち出し、これ以上ないほど「丁寧」に解説を始めた。
「いいか、まず量子計算の根幹を成す特性は四つあり、0 状態と 1 状態からなる基底の状態と、『重ね合わせ状態』、そして『もつれ状態』からなるんだ。……小町、ここまではいいか?」
「……う、うん。かさね……? お餅の話?」
「いや、『存在』の『確率論』の話だ。それら重ね合わせの状態から、存在確率は四つの係数で表されるんだよ。一般的に n 量子ビット(キュビット)は 2^n 個の係数が必要になるが、n の数が大きくなるに従って、集合自体が飛躍的に――」
八幡の語り口は淀みなかったが、その内容はすでに中学生の許容量を成層圏まで超えていた。開始数分で小町の脳内回路は完全にショートし、当分の間、数字は見たくないというトラウマを植え付けられたのだ。
――そして現在。
比企谷家における再度の「理数系地獄」は、突如として鳴り響いた電子音によって遮断された。
ピンポーン、というありふれたインターホンの音が、小町にとっては天国からの福音のように聞こえた。
「……Amazonかな。ちょっと待ってろ」
八幡が面倒そうに、しかしどこか満足げな顔のまま(おそらく頭の中ではまだ量子ビットの計算が走っているのだろう)階段を降りていく。その背中を見送りながら、小町は深いため息とともに胸を撫で下ろした。今ほど、誰だか分からぬ来客に感謝したことは、彼女の短い人生において一度もなかった。
一方、八幡は玄関の三和土に降り立ち、無造作に印鑑を握りしめて扉を開けた。
宅配便の兄ちゃんにハンコを押し、不愛想に荷物を受け取る。そんな日常のシミュレーションは、扉の向こうに立つ人物の姿を見た瞬間にフリーズした。
「や、やっはろー……」
そこにいたのは、配送業者ではなかった。
ノースリーブの夏らしい装いに身を包み、両手で大きなキャリーバッグのハンドルを握りしめた由比ヶ浜結衣が、周囲を警戒するように、どこか所在なげに立っていたのだ。
「お、おう……」
予想外すぎる来客に、八幡は思わず固まった。
お互いにどう言葉を交わすべきか、探り合うような沈黙が玄関先に満ちる。八幡の内部センサーが過去のプライベート空間における接触データを高速検索するが、この聖域――比企谷家の玄関に、家族以外の女子が、それもクラスメートが介入してくるなどという事象は、過去の膨大なログを参照しても皆無であった。
「……なんか用か?」
ようやく絞り出した問いに、由比ヶ浜は少し視線を泳がせながら、控えめに、けれど切実な響きを含んだ声で答えた。
「あの……小町ちゃん、いる?」
用件は自分ではなく、妹の方。その事実を処理するよりも早く、背後から猛烈な勢いの振動が伝わってきた。
「結衣さーん!!」
二階からドタドタと、床が抜けるのではないかという勢いで小町がすっ飛んできた。
彼女がこれほどまでに由比ヶ浜を待ちわびていたのか、あるいは兄の「量子計算理論」という名の拷問から一秒でも早く逃走したかったのかは定かではないが、その顔には一点の曇りもない歓喜が浮かんでいた。
「あ、小町ちゃん! ごめんね、急に……」
「全然! 全然大丈夫です! むしろ今、お兄ちゃんに物理的な意味で頭が複雑骨折されそうだったんで! 結衣さんマジ女神!」
八幡を「殺人犯」か何かのように呼び捨て、由比ヶ浜の手を取る小町。その光景を眺めながら、八幡はふと、由比ヶ浜が抱える重そうなキャリーバッグに目を向けた。
(遊びに来た、にしては……少し荷物が過ぎるな)
由比ヶ浜結衣が比企谷家の二階リビングに足を踏み入れる。
彼女は物珍しそうに、リビングに置かれた鮭をくわえた木彫りのクマを指でつついたり、キョロキョロと視線を巡らせていた。
「へぇー、ここがヒッキーの……。あ、このクマ、なんか味があるね」
他人の家という空間がこれほどまでに彼女の好奇心を刺激するものなのか。八幡にとって、「遊びに行く」という概念は地球の裏側の出来事であり、彼女の挙動を理解するためのアルゴリズムは未実装だった。
本棚に目を留めた由比ヶ浜が、少し引いた様子で口を開く。
「……なんだか、難しい本だらけだね。数学とか、パソコンの本ばっかり」
「お、由比ヶ浜。お前も量子計算における重ね合わせ状態のコヒーレンス維持に興味があるのか?」
「それはもういいから!!」
麦茶を持ってきた小町が、必死の形相で八幡の言葉を遮った。その切実すぎる懇願に八幡は釈然としないものを感じるが、由比ヶ浜は苦笑いを浮かべている。
「……あはは。小町ちゃんから聞いてたけど、ヒッキー本当にお勉強にハマってるんだね」
由比ヶ浜は自嘲気味に椅子に深く腰掛けた。
話を本題に移すべきだろう。八幡は自分の足元に置かれた、由比ヶ浜が大事そうに運んできたキャリーバッグを見据えた。
「で。……事前に小町と話がついてたみたいだが。結局、この大荷物は何なんだよ」
問いかけと同時に、八幡の網膜ディスプレイが瞬時に切り替わる。
――ディープスキャン・モード、起動。
彼の「目」は物理的な外殻を透過する。
(……スキャン開始。内部熱源を確認)
八幡の電子頭脳が、バッグの中に「一定のリズムで鼓動する生命反応」を捉えた。
体温、約三十八度。心拍数、毎分九十。呼吸音……クンクンという微かな鼻鳴らし。
(……これは。……犬、か)
由比ヶ浜は、八幡が既に中身を(透視で)把握していることなど露知らず、申し訳なさと期待の入り混じった表情で手を合わせた。
「あのね、ヒッキー。小町ちゃんには昨日OKもらってたんだけど……これから家族旅行に行くの。でも、いつものペットホテルが急にダメになっちゃって……」
由比ヶ浜がキャリーバッグのファスナーをゆっくりと開ける。すると、中から茶色の毛玉のような小さな犬が顔を出し、しっぽを激しく振りながら八幡を見上げた。
「――サブレを数日間、預かってほしいの! お願い!」
「わあぁ! サブレ、おいでー! 会いたかったよー!」
小町が歓声を上げて犬を抱きしめる。どうやらこの作戦、八幡を「事後承諾」で押し切るために昨日から練られていたらしい。
「……俺の意見は、最初からバッファ(予備)扱いかよ」
八幡は深くため息を吐いた。
夏の終わりの比企谷家に、予期せぬ「毛玉の居候」が紛れ込んできた。八幡は自分の膝に乗ってきたサブレの重みを、高精度の圧力センサーで虚しく計測し続けていた。
「……なぁ、由比ヶ浜。わざわざ家が離れてるウチじゃなくてもいいだろ。三浦とか海老名とか、他にもいるじゃないか」
八幡は、膝の上でくつろぎ始めた毛玉――サブレを撫でる小町の様子を眺めながら、半ば呆れたように問いかけた。サブレの体温がジーンズ越しに伝わってくる。高精度の熱センサーがその鼓動を正確に刻むが、八幡の心境はそれ以上に複雑だった。
「それがさ……。ゆみこも姫菜も、ペット飼ったことないから不安だって言われちゃって。……本当は、ゆきのんに一番にお願いしたんだけど」
由比ヶ浜はそこで言葉を切り、一瞬だけ、気遣わしげな表情を見せて口ごもった。
雪ノ下雪乃。八幡は彼女が犬を苦手としていることを思い出し、それが理由かと考えたが、由比ヶ浜の表情はそれ以上に深刻なものを孕んでいた。
「雪乃さん、どうかしたんですか?」
小町がサブレの耳をいじりながら続きを促す。由比ヶ浜は所在なげに麦茶のコップを両手で包み込み、視線を落とした。
「ゆきのん、今、実家にいて大変みたいで。……ヒッキー、最近ゆきのんと連絡とってる?」
「いや、そもそもあいつの連絡先なんて知らないしな」
「そっか……。あたし、結構メールとか電話してるんだけど……最近、留守番電話だったり、返信がすごく遅かったり。やっと来たと思っても、内容がいつもより……なんていうか、反応が鈍いっていうか。遊びに誘っても、なぜか予定が詰まってて……」
(……そりゃお前、避けられてるんだよ)
八幡の電子頭脳(ブレイン)は、残酷なまでの確率をもってその結論を弾き出した。だが、それを口にするほど、彼は無粋ではなかった。それに、誰よりも周囲に気を遣う由比ヶ浜が、その可能性に気づいていないはずがない。
「あたし、なんかやっちゃったかなー……」
力なく笑う由比ヶ浜。八幡は彼女のその「自罰的な微笑み」を直視できず、適当な励ましを口にするしかなかった。
「……実家で何か用事があるんだろ。お受験的な何かとかさ。あの雪ノ下の実家だ、色々あるんだろ」
雪ノ下の実家。
あの日、陽乃に連れ戻されて以来、二人は雪ノ下雪乃と会っていない。去り際に見た一台のハイヤー。一年前、八幡の命を奪い、鋼鉄の身体に変えるきっかけとなった、あの事故の車。
八幡の適当な励ましを受けても、由比ヶ浜の瞳にある不安の陰りは消えなかった。
彼女は、雪ノ下雪乃のことを知らない。
……いや、比企谷八幡だって、何も知らないのだ。
名前や顔、成績が良いこと、人を寄せ付けない冷徹な美貌。
猫とパンさんが好きなこと、言葉が鋭い割にどこか抜けているところ。
改めて考えれば、それなりの「データ」は揃っているような気もする。
だが、その程度の情報を積み重ねただけで、人を知った気になってはいけない。
周囲の人間が自分を理解できないのと同じように、比企谷八幡もまた、周囲を理解してはいないのだ。その無力さを、鋼鉄の皮膚を纏った今こそ、忘れてはならなかった。
(……いったい何をもって、『知る』と呼ぶべきなのか)
八幡は窓の外、夏の空を見上げた。
由比ヶ浜は自分のすぐ隣で、知らない誰か(エイトマン)に救われた記憶を大切に抱きしめている。雪ノ下は、自分が壊したかもしれない何かに、沈黙という名の檻の中で向き合っている。
互いを知る。
その言葉の本当の重みを、彼らはまだ知らない。
この問いが、後に彼らの世界を根本から揺るがす重大なものになることを、この時の比企谷八幡はまだ演算できていなかった。
比企谷家のリビングに、サブレの小さなくしゃみが響いた。
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