——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
「なぁ、小町」
「何? お兄ちゃん」
「俺の目って、やっぱり腐ってるよな?」
総武高校の制服に袖を通しながら、八幡は至極どうでもいいことを妹に尋ねた。普段の彼なら、自分の目が腐っていることなど自他ともに認める既成事実として、今さら口に出すことすらなかっただろう。
だが、あの退院前夜の出来事が、彼の脳裏から離れなかった。
『お兄さん、目がお人形さんみたい』
あの時、小さな少女に言われた言葉。あれ以来、八幡は自分の身体に対して、言葉にしがたい不自然な感覚を抱いていた。自分の意思で動かしているはずなのに、どこか精巧な機械を遠隔操作しているような、奇妙な剥離感だ。
「何言ってるの? お兄ちゃんの目はいつも濁りっぱなしのヘドロ状態だよ! むしろ安心のクオリティだよ!」
「だよね……。ああ、よかった」
小町の容赦ない言葉に胸を撫で下ろす。もしあの「人形」という言葉が、文字通りの意味を指していたとしたら——そんな考えを振り払うように、八幡はカバンを肩にかけた。
「なんなのさっきから。それよりお兄ちゃん、今日体力測定の日なんでしょ? 退院したばっかりだけど大丈夫なの?」
「あー、平気平気。なんか知らんけど体はすこぶる順調だ。適当に流すから心配すんな」
事故のせいで、入学早々のカースト形成には完全に出遅れた。今やクラスでの立場はスタートラインにすら立てていない最底辺だろう。己の不幸加減に溜息をつきながらも、八幡は食卓に並んだ朝食に目をやった。
だが、食欲が全く湧かない。味はわかるし、食べようと思えば食べられる。しかし、有機物を咀嚼し、消化するというプロセス自体が、今の自分にとってはひどく非効率で無駄な行為に感じられた。
「小町、冷蔵庫にまだマッ缶あったっけ?」
「マッ缶? あるけど……。ご飯食べないの?」
訝しむ妹を尻目に、八幡は冷蔵庫からマックスコーヒーを取り出した。黄金色の液体を喉に流し込む。
「……フーーーーーーッ!」
その瞬間、頭のてっぺんから爪先まで、突き抜けるような冷気と爽快感が駆け巡った。糖分というよりも、純粋なエネルギーがダイレクトに核へと供給されたような感覚。これさえあれば、もう何もいらないのではないか。そんな錯覚すら抱く。
「ご馳走さん。んじゃ、小町、先行ってるから」
「え、お兄ちゃん? ご飯は!?」
八幡は返事もそこそこに家を飛び出した。
軽く地面を蹴ったつもりだった。だが、次の瞬間、周囲の景色が止まった。
耳元を通り過ぎる風が、金属質な高音——キィィィィィィィィィン……という音に変わる。
自分以外のすべてがスローモーションになり、景色が目まぐるしく後ろへと流れていく。
もっとスピードを出せる。そう確信した八幡が姿勢を低くし、一気に加速したその時、彼は「音の壁」を突き抜けるような衝撃を全身に感じた。
「……あれ?」
家を出てから、体感では数十秒も経っていなかった。だが気がつくと、八幡はすでに総武高校の正門前に立っていた。
直後、恐るべき灼熱感が彼を襲った。
「う、ぉあ……熱い、熱い……!」
頭脳が、いや、演算回路が焼け付くような熱。全身に襲いかかる猛烈な倦怠感。
体が、冷却とエネルギーを欲して悲鳴を上げている。今の彼にとって、それはただ一つの名前でしかなかった。
「マッ缶……誰か、マッ缶をくれぇえええ!」
絶叫に近いその願いに、不意にオレンジ色の缶が差し出された。
「あ、あの、これ飲む?」
奪い取るように受け取り、本能のままに貪る。
キンキンに冷えたマックスコーヒーが喉を通るたびに、オーバーヒートした意識が急速に冷却されていった。犯罪的と言っていいほどの美味さ。この瞬間のために生きているという実感に、八幡は震えた。
「なんだかよくわからないけど、大丈夫っぽいね」
声の主を見ると、そこには桃色の髪をした、いかにもクラスのヒエラルキー上位に君臨していそうな少女が立っていた。
「あ……あの、君は……誰でしょうか?」
「君、同じクラスのヒキタニくんだっけ?」
人の名前を間違えている上に、その笑顔が眩しすぎて直視できない。女子と話すのが久しぶりすぎて、八幡はきょどりながらも訂正した。
「ヒキタニじゃなくて、比企谷なんだけど」
「あ、ごめん。漢字難しくてわかんなかった」
申し訳なさそうにする彼女に毒気を抜かれ、八幡は礼を言った。
「……マッ缶、ありがとな。助かった」
「あー、いいのいいの! ほんのお礼だから!」
彼女はそれだけ言うと、校舎へと走り去っていった。
お礼? 何のことだ? 記憶を辿ろうとする八幡の耳に、去り際の彼女の囁きが届く。
「また、話しようね、ヒッキー」
なぜ聞こえる。それなりの距離が開いていたはずなのに、八幡の耳は彼女の微かな吐息まで一字一句逃さず捉えていた。
——
所変わって、校庭。
体育会系以外の生徒にとっては苦行でしかない体力測定が始まっていた。
「つぎ、ヒキタニ」
教師まで名前を間違えていることに内心で中指を立てながら、八幡は五十メートル走のスタートラインに立った。
「位置について。よーい……」
ピッ!
電子笛の音と共に、八幡は一歩を踏み出した。
……つもりだった。
キィィィィィィィィィン……!
「……ん?」
背後で計測係が首を傾げている。「今、なんか通ったか?」「風じゃない?」という会話が聞こえる。
気がつくと、八幡は五十メートルを通り越し、校庭の端まで到達していた。
「ヒキタニーー!? どこ行ったんだーー!?」
体育教師の困惑した怒号が響く。周囲からは「誰あいつ」「消えた?」「目つき悪っ」という黄色い声(?)が上がる。
ついに俺の中に眠る邪気眼が覚醒したのかと、八幡は柄にもなく浮き足立った。
だが、その浮かれ気分は一瞬で、最悪のパニックへと変わった。
「ぶふぅっ!?」
目の前にいた女子生徒たちが、突如としてその衣服を消失させたのだ。
「ねえ、さっきからあの人こっち見てる」
「ヤダ、キモーイ」
女子たちの話し声に合わせて、視界にノイズが走る。
ピーガガッ
【由比ヶ浜 結衣:B:F65】
「!?!?!?」
頭の中に、謎の音声と数字が直接流れ込んでくる。
ピーガガッ
【川崎 沙希:B:G70】
「ちょ、待て。これは……」
八幡の脳裏にある可能性が思い浮かぶ。それは人類の夢、人類のえっち
…否、人類の叡智の結晶
「おっぱいスカウターだと……!?」
生身の質感、揺れる重力、そして冷徹なまでの測定数値。
男としての本能が狂喜乱舞する一方で、倫理観という名の、いや、純粋な恐怖が八幡を突き動かした。このままでは脳が焼き切れる。
「せ、先生!! 気分が悪いんで保健室に行ってきます!」
「は?」
返事を聞かずに、八幡は加速した。
——
「うぉおおおおおおおおお!!」
鋼鉄の咆哮を上げながら、脇目も振らずに走り、校舎裏の、滅多に人が来ないトイレへと飛び込んだ。
個室の便座に座り、激しく乱れた呼吸を整える。
先ほどの光景が、まるで高精細な画像データとして脳内に焼き付いていた。思い出そうとするまでもなく、まぶたの裏に鮮明に投影される。まるで自分自身がプロジェクターになったかのような感覚だ。
こうなれば、やることは一つ。
事故に遭い、人間を辞め、それでもなお残った「男の尊厳」を確かめるべく、八幡はスラックスに手をかけた。
妄想を具現化するメモリ、ターゲットは完璧。レッツトライ。
「……あれ?」
おかしい。
目の前には、人類の宝とも言える情報の山がある。透視能力が捉えた、あんなものやこんなものの記憶が溢れている。
なのに、股間の「ムスコ」は沈黙したままだった。
ピクリともしない。
冷徹な超硬特殊合金のフレームが、彼の股間にも厳然として存在していることを突きつけられたような気分だった。
「…………」
八幡は、そっと手を離した。
ムスコよ……なぜ立ち上がらない。
比企ヶ谷八幡の、鋼鉄の、そして決定的に不能(インポテンツ)な青春が始まってしまったようだ。
──
人は絶望を感じると、目の前が真っ暗になるよりも、むしろ周囲が眩しく感じられるらしい。
トイレの個室で、比企ヶ谷八幡はまさにその通りだと痛感していた。
目の前には、脳内に焼き付いた女子たちの「生乳」という極上の光景がある。だというのに、下半身の「ムスコ」は沈黙を貫いたままだった。
「俺のムスコが、完全な反抗期になっちまった……」
つつこうが、しごこうが、反応はない。冷徹な超硬特殊合金のフレームは、男としての情熱さえも絶縁してしまったのだろうか。この若さで不能(インポテンツ)。八幡は腐った目をいっそう濁らせながら、幽霊のような足取りで帰路についた。
「帰ったらマッ缶飲んで、風呂入って寝よ……」
夕方だというのに腹は減らず、ただ冷却用の糖分だけを欲している。
だが、自宅の玄関を開けた瞬間、八幡は異変に気づいた。いつもなら真っ先に出迎えてくれる小町の気配がないのだ。
「……なんだ、これ」
玄関の中央に、見慣れないデジカメが置かれていた。不審に思いながらも再生ボタンを押すと、そこには縄で縛られ、気を失っている小町の姿が映し出されていた。
『この映像を見ている比企谷八幡君に伝える』
スピーカーから、見知らぬ男の冷酷な声が流れる。
『君がヴァレリーと接触したことは調べがついている。彼から「何を」受け取ったかもな。指定する場所に一人で来い。警察に連絡すれば、妹の命は保証しない』
画面の中の男が、小町の首筋にナイフを添える。微かに滲む赤い血。
八幡の思考は真っ白に染まった。
混乱と恐怖で足がガクガクと震え、情けないほどにすくんでしまう。
(動け、動けよ……俺……!)
その時だった。直接脳内に、あの聞き覚えのある老人の声が響いた。
『——聞こえるか? 私がヴァレリーだ』
ヴァレリー
あいつらが言っていた、名前……
その名前を聞いた瞬間、八幡は『
彼の、現在備えている最高の頭脳が『理解できてしまった』
「お、おい! アンタのせいで小町が……!」
『謝罪は後だ。今は妹さんを救うのが先決だ。君の脳へ、最短ルートと戦闘プログラムを転送する。今の君なら、五分もかからないはずだ』
脳内に、情報の奔流が雪崩れ込んできた。
詳細な市街地図、敵の配置。そして——身に覚えのない、だが「最初から知っていた」かのように理解できる戦闘兵器としてのスペック。
【戦闘ロボット08号:ステータス】
最高出力:10万キロワット
最大時速:3000キロメートル
装甲:ハイマンガン・スチール
各索敵装置:稼働(グリーン)
最重要機構『超音速移動システム』:稼働(グリーン)
「な、なんだ……これ……」
『願わくば、その力を人類の平和のために。……また会おう、エイトマンよ』
通信が切れた。
八幡は冷蔵庫からマックスコーヒーを掴み出し、一気に煽った。超小型原子炉が唸りを上げ、全身の回路が臨界点に達する。
「……小町を、返せ」
────ドォォォォォン……!
空気を爆発させるような衝撃波と共に、八幡の姿がその場から消えた。
——
千葉の臨海地区、静まり返った廃ビル。
そこには「黒い蝶」と名乗る武装集団が待ち構えていた。
「ヴァレリーも、あんな小僧に最新兵器の08号を与えるとはな」
「案ずるな。奴はただの高校生だ。性能を使いこなせない今が、奪取のチャンスだ」
男たちが不敵に笑い、捕らえた小町を冷淡に見下ろす。
その時、ビルの空気が震え始めた。
キィィィィィィィィィィン……!
金属を削るような、耳をつんざく高音が響き渡る。
「おい、なんだこの音は?」
一人の男が異変に気づいた瞬間、その体は突如として真横に吹き飛んだ。
「なっ、何が起きた!?」
次の瞬間、もう一人の男が声も上げられずに倒れ伏す。
キィィィィィィィィィィン……!
「捉えきれん……! まさか、これが『
「動くな! 止まれ、08号! おまえの妹の命が——」
男が小町に銃口を向けようとしたその時、風が止まった。
ゆっくりと、音が収まっていく。
男たちの正面に、闇を切り裂くような異様な存在が姿を現した。
スマートでありながら、鋼鉄の力強さを感じさせるスラリとした手足。その胸には、誇らしげに輝く「
「姿を現したな、ロボット08号……!」
敵の罵声に対し、鋼鉄の男は低く、だが確固たる意志を持った声で応えた。
「……違う。俺はロボット08号ではない」
マスクの奥で、かつて「死んだ魚の目」と呼ばれた瞳が、冷徹な電子の光を放つ。
「俺は——『
かつて大国が追い求め、あるいは宇宙への夢を託された科学の結晶。
比企谷八幡という魂を宿した最強の戦闘兵器が、今、夜の千葉に咆哮した。
感想・評価をお願いします!