——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第二十話:川崎沙希という人間

 

 ジリジリとアスファルトを焼く太陽が、逃げ場のない熱気を放っている。

 夏休みの昼下がり。比企谷八幡は、津田沼駅へと向かう電車の中で、気怠そうに窓の外を眺めていた。目的地は『佐々木ゼミナール津田沼校』。来年の受験を見据えた夏期講習の会場だ。

 超電子頭脳をその身に宿す八幡にとって、今さら高校生レベルの講習など、一ミリの学習価値もない。それどころか、最新の量子計算理論を解き明かす彼の知能からすれば、教科書の内容は紀元前の粘土板を読むような退屈さを伴うものだ。

 

 だが、それでも彼はこうして予備校に通う。

 

(……あくまで『人間の振り』だ。親への誤魔化し、担任の平塚先生へのポーズ、そして何より『普通の学生』という擬態を維持するためには、こうして無駄な時間を浪費している姿を見せる必要がある)

 

 数日前、小町に対して高校生離れした知識をこれでもかとひけらかし、ドン引きされたことなど、彼は厚顔無恥にも完全に棚に上げていた。

 予備校の教室に入った八幡は、死んだ魚のような目をさらに淀ませ、非常にかったるそうに指定の席へと着いた。

 

 講師が教壇で熱弁を振るう中、八幡の脳内では凄まじい密度のマルチタスクが実行されている。脳内の空きリソースを使って、十通り以上のタスクパターンを同時並列で組み立て、講習の音声をフィルタリングして記録しつつ、バックグラウンドでシミュレーションゲームを走らせることさえ容易だった。

 

 かつて、「目を開けたまま居眠りをする」という高度な省エネモードを試みたことがあったが、周囲から「瞬き一つせず一点を凝視する不気味な存在」として通報されそうになったため、現在は居眠りだけはタスクから除外している。

 

(大学受験なんて、ぶっちゃけどうでもいい。とっとと卒業して、適当な大学に入って、悠々自適なニートに近い大学生ライフを送りたい。就職活動? 働くなんて、鋼鉄のリアクターがもったいないぜ……)

 

休み時間の合間に世の中の就活生が聞けば憤死しそうな怠惰な思考に耽っていた、その時だった。

 不意に、視界の端に「既知のデータ」と一致するシルエットが飛び込んできた。

 妙に目立つ、青みがかった黒の長髪を後ろで無造作に纏めた、やたらと目つきの鋭い長身の少女。

 

「……あんたも、受けてたんだ」

 

 低く、どこかハスキーな声が鼓膜を震わせる。

 

 八幡の電子頭脳が瞬時に過去のログを検索し、一つの光景を網膜にオーバーレイさせた。

 

 それは、夜の砂浜。

 立ち上る爆炎と、火薬の匂い。

 絶体絶命の戦いの後、マックスコーヒーの甘苦い風味を微かに感じた、あの唇の感触。

 エイトマンとして蘇って以来、初めて経験した――ファーストキスの相手。

 川崎沙希が、七分袖のシャツを涼しげに着こなし、鋭い視線で八幡を見下ろしていた。

 

 

──

 

 

 予備校の冷房が、八幡の人工皮膚を不必要に冷やしている。

 

 目の前に立つ川崎沙希を見つめる八幡の網膜には、今もあの日、あの砂浜での光景が鮮烈なログとして焼き付いていた。それは、電子頭脳を何度フォーマットしたとしても、決して消去されることのない「隔離された聖域」のようなデータだった。

 

 潮風に煽られ、爆炎が闇を焦がしていた夜。

 別れ際に交わした、軽く啄むような、挨拶代わりのキス。

 

 間近で見た川崎の顔には、紅潮も緊張もなかった。月9のドラマのような無駄な情熱さがない分、その感触は潔く、そして鮮烈だった。潮風のせいか少し汗ばんだ彼女の香りが、えも言われぬリアリティを伴って、今も八幡のセンサーを刺激する。

 

(……まるで、映画のワンシーンじゃねーか。これだからリア充のイベントってのはコスパが悪い。記録容量を無駄に食いやがる)

 

 脳内の記憶ログをぼうっと反芻していた八幡の沈黙を、川崎は不審そうに眉をひそめて見つめていた。

 

「……何よ。あんた、さっきから変な顔してるわよ」

「いや、別に。……低血圧で脳の立ち上がりが遅いだけだ」

 

 八幡が適当な言い訳で視線を逸らすと、川崎はふん、と短く鼻を鳴らした。そして、少しだけ視線を泳がせながら、小さな声で口を開いた。

 

「……一応、礼を言いに来たのよ。あんたのお節介のおかげで、スカラシップ(給付型奨学金)の存在に気づけたから。審査、通ったわ」

「ああ、そんなこともあったなー……」

 

 八幡は遠い目をして答えた。

 それは、エイトマンとしての戦いの合間に、川崎の家計の事情を知った彼が「比企谷八幡」として行った、柄にもない干渉だった。あれからデーモン博士との邂逅、ケン・ヴァレリーとの決闘、自然教室での死闘、雪ノ下家との因縁……

 

あまりに多くの「イレギュラー」が発生したせいで、その出来事が随分と昔のことのように感じられた。

 

「大志とも、なんとか上手くやってるし。……あいつ、今度あんたに直接礼を言いたいって言ってたわよ」

 

 ――大志。

 

 その名を聞いた瞬間、八幡の電子頭脳が「レッドアラート」を発信した。

 彼のパーソナル・データベースにおいて、その名前は『最優先抹殺(デリート)対象』の筆頭にリストアップされている。

 

(比企谷小町に近づく悪性コンピュータウイルス、もしくは致命的な論理バグ……。あいつ、まだ小町の周囲をうろちょろしてんのか……)

 

 いつかこの手で、妹の平穏を脅かすその不純物を物理的に抹殺(クリーンアップ)してやる……。暗黒の決意を原子炉の熱量に変えながらも、八幡は外面だけは「普通の高校生」を装って無難に返した。

 

「別に俺は何もしてねーよ。スカラシップが取れたのは、お前の成績と努力の結果だろ。大志の礼もいらねーよ。あいつには『小町の半径三メートル以内には近づくな』とだけ伝えておけ」

「……何よそれ。相変わらず変なやつ」

 

 川崎沙希は呆れたように肩をすくめたが、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。

 川崎沙希は、細長い指先で青みがかった黒髪の先を弄りながら、どこか遠くを見るような目で八幡に問いかけてきた。

 

「……あんた、アイツと会ったんだって?」

 

 川崎の言う「アイツ」が何を指すのか、八幡の電子頭脳は瞬時に理解した。それは比企谷八幡の真の姿であり、この千葉の街を駆ける鋼鉄の救世主。現在の「比企谷八幡」という姿は、エイトマンの変身機能による精巧な擬態に過ぎない。

 

「どこで聞いたんだよ、そんな話」

「知らなかった? そこそこ有名よ、あんた。千葉に現れる神出鬼没の鋼鉄の男……エイトマンだっけ? 謎の爆発とか怪事件の現場に超スピードで現れるって。比企谷八幡も命を救われた一人だって、噂になってるわよ」

 

 八幡はわずかに眉をひそめた。

 目立つのは本意ではないが、自然教室や海での一件は、隠し通すにはあまりに規模が大きすぎた。命が懸かった緊急事態の連続だったことを考えれば、この程度の「有名税」は計算の範囲内(バッファ)と言えるだろう。

 

「私も、会ったことあるんだ。アイツに。しかも、二回」

 

 知っている、と八幡は心中で呟く。

 一回目はドクトル・デーモンの手の者に攫われかけた時。二回目はケン・ヴァレリーの魔手に落ちた時。どちらも自分がマッハの速度で駆けつけ、彼女をその腕に抱いた。

 

(……よく考えたら、こいつしょっちゅう攫われてんな。ピーチ姫か? 見た目はクッパを素手でしばき倒しそうなピーチ姫だけど)

「なに?」

 

 思考が漏れていたのか、川崎が鋭い視線で睨んでくる。八幡は慌てて「なんでもないです」と首を振った。いつの間にか「腐った目」の出力が上がっていたらしい。

 現在、千葉県限定のご当地ヒーローとして噂されるエイトマン。だが、その正体が超高速で駆動するスーパーロボットであるという真実を知る者は、川崎を含め、ごく数人に限られている。

 

「アイツさ……顔はカッコいいんだけど。なんていうか、結構捻くれてる感じなんだよね。それがさ、どこかあんたと雰囲気が似てるっていうか」

「……へー。光栄やら、迷惑やらだな」

 

 自分と自分の雰囲気が似ている。当然の帰結だが、それを他人の口から聞かされるのは、なんとも言えない奇妙な感覚だった。

 

「また、会いたいんだけどね。……アイツに」

「俺は会いたくねーな。だって、アイツが動く時ってのは、絶対にロクでもない事件が起きてるってことだろ。本来なら、会うべきじゃない存在だよ」

 

 八幡の冷めた指摘に、川崎は一瞬、ハッとしたように目を丸くした。

 エイトマンの出現は平和の象徴ではなく、危機の予兆。その正論(ロジック)に、彼女は少しだけ俯いて髪を弄る。

 

「そうだよね。まあ、普通に考えればそうなんだけどさ。でも、今度会ったら、また……」

 

 そこで言葉が途切れた。彼女の視線が八幡の足元に落ち、唇が微かに震える。

 

「また、なんだよ」

 

 つい、聞き返してしまった。

 八幡のセンサーが彼女の微かな心拍の上昇を検知する。

 

「……別に、なんでもない。話、聞いてくれてありがと」

 

 それだけ言い残すと、川崎沙希は背を向け、ついっと去っていった。

 そっけない態度は相変わらずだが、かつての攻撃的な威圧感はどこにもなかった。一人を好み、周囲を拒絶していた少女が、エイトマンという奇妙な繋がりを得て、確実にその輪郭を柔らかくしている。

 八幡は、無意識に去りゆく彼女の背中を、目で追っている自分に気づいた。

 先ほど彼女が見せた、遠い昔を懐かしむような、穏やかな顔。

 

(人の側面なんて、普段から推し量れるもんじゃねーな)

 

 八幡は、自分の内側で高鳴る設計外の「高揚感」を、それっぽい人間観察の結論で強引にデバッグした。

 

 

──

 

 普通なら、この後に続くのは、お互いの心に灯った温かな残り火を確認し合いながら別れるような、そんな美しい夕暮れの一幕のはずだった。しかし、現実はどうやらそんな安易なロマンチシズムの発生を、比企谷八幡というイレギュラーの存在によって許さないらしい。

 

 英語の講義が終わり、八幡が残りのマックスコーヒーを喉に流し込みながら帰宅の準備を整えていた、その時だった。

 

「ねえ。……この後、暇?」

 

 再び背後からかけられた川崎沙希の声。

 八幡の人生ログにおいて、一日に同じ女子から二度も声をかけられるというシチュエーションは、ここ最近の奉仕部と妹を除けば、統計学的に見て皆無に等しかった。

 

「いや……この後ちょっと、アレだから」

 

 八幡の口から、断る際の常套句がオートマチックに発動した。それはまるで、某狩猟ゲームのランスに搭載された「オートガード」のような、思考を介さない脊髄反射的な安定行動だった。

 知らないメールには触れない、怪しいパケットは無視する。現代社会におけるネットリテラシーの基本を忠実に守ろうとする八幡だったが、目の前の「基本が通じない存在」は、鋭い眼光を彼に向けた。

 

「アレって何?」

 

 川崎が目をキッと細めて問い詰める。八幡の高性能センサーは、彼女の機嫌が急速に下降していることを検知した。やはり、この女は油断ならない。

 

「いや、まあ……ほら、アレだよ。何だ……妹が、ちょっとアレでな」

 

 我ながら、エイトマンの演算能力を疑いたくなるほどの苦しい言い訳だった。こんな時に気の利いた嘘の一つも出力できないとは、まったくクソの役にも立たない電子頭脳である。苦し紛れに小町の存在を引き合いに出した八幡だったが、その言葉が意外なスイッチを押すことになった。

 

「あっそ。ならちょうどいいや。……ちょっと付き合ってくんない?」

「えっ」

 

 思わず間抜けな声が漏れた。

 

「別に、あたしはあんたに用なんてないんだけどさ。……大志があんたに話を聞きたいんだって。今、あんたの妹と一緒に津田沼に来てるって連絡があったの」

 

 八幡は一瞬、「お、小町がわざわざ俺を迎えに来てくれたのか?」と、ウキウキした心が浮き立った。……が、直後、彼の電子頭脳の中に暗黒の思考回路が広がり、陽の感情を瞬時に塗り潰した。

 

(……あの大志(悪性ウイルス)が、小町(聖域)と一緒だと……?)

 

 八幡の表情が、コンマ数秒で「不機嫌」から「抹殺」へと切り替わった。

 

「おい。どこへ行けばいいんだ。近いのか? どこだろうと一瞬で到着するがな」

「あんた……」

 

 川崎は一瞬呆れたような顔をしたが、八幡はその反応を気にする素振りも見せず、勢いよく立ち上がった。早急にウイルスをデリートし、システムの正常化(小町の隔離)を実行しなければならない。

 

「ここを出たすぐのサイゼなんだけど、場所わかる?」

「愚問だな」

 

 八幡は心の中で、千葉県全域のファミレスの位置情報を網羅した自身のデータベースにアクセスした。場所は既に確定している。

 エントランスを出ると、ムッとした熱気が肌を刺した。だが、マックスコーヒーによって十分に冷却された八幡の原子炉にとって、その程度の温度上昇はどうということはなかった。

 

 講義を終えて駅へ向かう群衆の合間を、スッスッと無駄のない動きで通り抜けていく八幡。その背後を、川崎が同じく流れるような動作で追随する。

 伊達に単独行動を極めてきた二人ではない。無駄な会話を挟まず、目的地へと最短距離で肉薄するムーブは、奇妙なほどに同期(シンクロ)していた。

 

 津田沼駅前の交差点。赤信号を待つ短い静寂の中、比企谷八幡の電子頭脳(ブレイン)は、極めて不穏なシミュレーションをマッハの速度で繰り返していた。

 

(……さて、あの悪性ウイルス(川崎大志)をどう処理してやろうか。まずは階段からの転落事故に見せかけた物理的な排除パターン。これは三千通り。……いや、より確実を期すなら、暗殺のバリエーションを増やすべきか。毒殺、失踪、あるいは社会的抹殺……)

 

 既に他殺のパターンは数万を超え、暗殺の演算は数億に達している。

 地獄の奇術師も、世界一の狙撃手も裸足で逃げ出すような暗黒の思考回路。原子炉の熱を僅かに上げ、無表情の裏で「妹の聖域」を侵す不純物の排除に没頭していた八幡だったが、その思考は隣に立つ少女の声によって遮断された。

 

「そういえばさ、雪ノ下も講習受けてたみたいよ」

 

 唐突に投げかけられた名前に、八幡の演算が一時停止する。

 

「雪ノ下が?」

「国公立理系志望なんでしょ、あいつ。あたしと同じ教室にいたから」

 

 八幡は記憶データを検索した。確かに雪ノ下雪乃は、その卓越した知性を活かして理系への進学を希望していたはずだ。川崎も同じく、家計を支えるためにスカラシップを狙える高偏差値の理系コースを選んでいる。二人が同じ空間にいても、なんら論理的な矛盾はない。

 

「でも、やっぱりあいつ、近づきづらいっていうか。なんていうか、壁があるのよね」

 

 川崎が髪の先をいじりながら、少しだけ身をすくめるようにして言った。

 

(お前がそれを言うのかよ)

 

 八幡は危うく、その一言を音声出力しそうになった。

 鋭い目つきと不良っぽいオーラで周囲を威圧する川崎沙希。

 絶対零度の美貌と論理の刃で人を寄せ付けない雪ノ下雪乃。

 近寄りがたいオーラを発する者同士。予備校の教室では、きっと衆目の視線を集めながらも、彼女たちの半径二メートル以内は真空状態の如き静寂が保たれていたに違いない。そんな、地獄の二大女王が君臨する教室の光景を想像し、八幡は「行かなくて良かった」と心底胸を撫で下ろした。

 

 信号が青に変わる。歩き出した群衆に紛れるようにして、川崎が遠慮がちに、けれどどこか決意を含んだ声で八幡に語りかけてきた。

 

「……比企谷。あの、雪ノ下にもさ……感謝してるって言っておいて」

「あ?」

「わざわざあたしのこと探しに来てくれたこと、思うところがあったから。……自分じゃ、あんなピリピリした子に話しかけるの無理だしさ」

 

 川崎の言葉に、八幡は「自分で言えよ」と返しそうになったが、すぐにその言葉を飲み込んだ。

 

 人間誰しも、どうしても話しづらい相手というものは存在する。ましてや相手は、あの雪ノ下雪乃だ。鋼鉄の心臓を持つ八幡でさえ、彼女の正論には何度となく回路を焼き切られそうになっているのだ。同じ奉仕部の仲間である八幡に伝言を頼むのは、川崎なりの極めて合理的な判断と言えた。

 

「わかった。機会があれば、伝えておく」

 

 八幡は短く答えた。

 だが、答えた直後、彼の電子頭脳には「致命的なエラー」がポップアップされていた。

 おそらく、この夏休み中はもう二度と出会うことのない存在、雪ノ下雪乃。

 

(そもそも、俺、あいつの連絡先知らないんだったわ)

 

 由比ヶ浜とはメールを交換し、戸塚とはメアドを手に入れたというのに、肝心の奉仕部部長とは、電脳的な繋がりが一切存在しない。

 川崎の願いを届けるためのプロトコルが、自分の中に実装されていないという事実に改めてため息を吐く八幡だった。

 

 

──

 

 自動ドアが左右に開くと、冷房の効いた店内に特有の油と洗剤の混じった匂いが漂ってきた。

 比企谷八幡は、網膜ディスプレイに表示される「熱源マッピング」から、一ミリの誤差もなくターゲットを特定した。ドリンクバーのすぐ近く。そこには、いつものように快活なバイオ信号を発している小町と、その正面に座る「悪性ウイルス」こと川崎大志の姿があった。

 

「あー、お兄ちゃん! こっちこっち!」

 

 小町がブンブンと手を振ってくる。その隣に、八幡は不機嫌さを隠そうともせず腰を下ろした。

 

「おー……」

「あ、お兄さん。わざわざすいません、お忙しいところ」

 

 正面に座る中学生が、人懐っこい笑みを浮かべてそう言った。

 その瞬間、八幡の電子頭脳(ブレイン)が、落雷に打たれたような衝撃と共に「最高レベルの警告(レッドアラート)」を全システムに発信した。

 

(……お兄さん? いま、こいつ、俺のことを『お兄さん』と呼んだか?)

 

 八幡は無言だった。だが、その表情はみるみるうちに般若のごとく歪んでいく。比企谷八幡にとって「兄」という称号は、小町という唯一無二の存在との間にのみ許された、絶対不可侵の聖域だ。それをどこの馬の骨とも知れぬ「不純物」に馴れ馴れしく口にされた事実は、彼の原子炉(リアクター)を沸騰させるに十分な着火剤となった。

 

(誰が貴様のお兄さんだ。その汚らわしい言語パケットを二度と送ってくるな。物理的にデリートして、二度と再起動できないようにしてやろうか……?)

 

 内心の猛烈な毒づきが、その「目」に収束する。文字通り「死んだ魚」を通り越して「深海から引き揚げられた化石」のような、絶望的に冷たい視線が大志を射抜いた。

 

「ひ、ひえっ……!? す、すいません!」

 

 何も言っていないはずなのに、あまりの威圧感に大志は椅子ごとひっくり返りそうになって謝罪した。

 八幡の右腕の人工筋肉が、無意識に物理的排除(パージ)の準備を開始する。……が、向かいに座った川崎沙希が、テーブルの下で八幡の向こう脛にコツンと爪先をあてた

 

「……比企谷。あんた、中学生相手に大人気ないでしょ。変なこと考えないの」

「へいへい」

 

 沙希の鋭い眼光に、八幡は渋々「殺意の霧散」を選択した。命拾いしたな、小僧。

 話を聞けば、大志の目的は「総武高校の実態について」らしい。

 姉である沙希からの情報ではなく、同じ男性である八幡の視点から、実際の雰囲気や学校生活のリアルを聞きたいのだという。

 

「……高校なんて、どこも大体同じだろ。制服を着たガキどもが閉鎖的な空間で身分制度(スクールカースト)ごっこに明け暮れる。……まぁ、偏差値の高低で『検体』の品質に多少の差は出るかもしれないがな」

 

 八幡が不機嫌さを隠さないトーンで淡々と答えると、すかさず沙希が弟を叱り飛ばした。

 

「あんたね。そんなこと気にする前に、まずは受かることを考えなさいよ。今のあんたの偏差値じゃ、品質管理以前の問題なんだから」

「わ、分かってるよ姉ちゃん……」

 

 やがて飲み物が切れた小町が「小町、メロンソーダおかわり!」と席を立ち、沙希もドリンクバーへと付いていった。

 

 テーブルには、八幡と大志の二人だけが残される。

 沈黙。

 

 しかし、大志が意を決したように身を乗り出してきたことで、その静寂は破られた。

 

「……あの、比企谷……さん。……ぶっちゃけ、総武高の女子のレベルって……どうなんですか?」

「…………は?」

 

 八幡の電子頭脳が、一瞬だけ処理の優先順位を見失った。

 なるほど、本題はそこか。男子校ではない以上、多感な時期の中学生にとって最大の関心事がそこにあるのは、生物学的にも極めて正しい反応と言えた。

 

(女子のレベルね。……まぁ、冷静に演算してみるか)

 

 八幡の脳裏に、真っ先に一人の少女の姿が浮かんだ。雪ノ下雪乃。

 

 だが、彼女はもはや「女子」というカテゴリーを逸脱した、神秘の領域に属する黄金比の結晶だ。例外中の例外として、八幡は即座に彼女のデータをアーカイブへと追いやった。

 

 次いで、由比ヶ浜結衣。三浦優美子。

 

 あの圧倒的な華やかさと、それに見合うだけの「女子力」を備えた個体。改めて客観的なセンサーで評価し直せば、総武高校の女子の平均スペックは、千葉県全域の統計データから見ても著しく高いことが判明した。国際教養科という、九割が女子で構成されるクラスが存在するのもその理由の一つだろう。

 

「……そうだな。よくよく考えてみれば……あそこは『聖域』かもしれないな。レベルは……まぁ、高い方なんじゃないか?」

「ま、マジですか!? やったぁ、やっぱり頑張って総武高狙うぞ!」

 

 八幡の言葉に、大志が目に見えて浮き足立った。

 その様子を、八幡はただ、じっと見つめていた。先ほどの「お兄さん」発言による不快感は消えていないが、目の前の少年の愚かさに対する感情が、それを上書きしていく。

 

(……愚かな大志君。たとえその『レベルの高い女子』が揃っていたとしても、彼女たちが君のようなウイルスをシステムの一部として受け入れてくれる可能性は……限りなくゼロに近いんだぞ)

 

 八幡の瞳に、えも言われぬ光が宿る。

 それは、某国民的青いネコ型ロボットが、あまりにも救いようのない少年に向けるような――。

 あるいは、滅びゆく種族を見届ける神のような、底知れない「哀れみ」の色。

 

「比企谷さん……? な、何ですか、その仏様みたいな温かい目は……。さっきまで死ぬほど怖かったのに……」

「……いや、なんでもない。せいぜい、クリーンなシステム構築に励めよ。……南無」

 

 それは慈悲の眼差しという名の、残酷な宣告だった。

 

「こら、比企谷。あんまり大志をからかわないの」

 

 釘を刺すような鋭い声と共に、沙希と小町がドリンクバーから戻ってきた。

 八幡の電子頭脳(ブレイン)は、沙希の視線が自分の「腐った目」の奥に潜む、ドロリとした哀れみの感情を正確にスキャンしたことを検知した。

 

「……それより大志」

 

 沙希の表情が、一変して「受験生の姉」としての厳格なものへと切り替わった。

 

「あんた、さっきから女子のレベルがどうとか浮ついてるみたいだけど、自分の偏差値分かってるの? 今のままだと総武高なんて夢のまた夢よ。……いい? 夏休みが終わったら、もう泣き言は聞かないからね。死ぬ気で机に向かいなさい。塾の費用だってタダじゃないんだから」

「……う、分かってるよ。頑張るってば」

 

 沙希の正論という名の物理的圧力に、大志はぐうの音も出ず、かくりと項垂れた。家計を助けるために自らもスカラシップを狙い、必死に勉強している姉の言葉には、エイトマンの演算能力をもってしても反論不可能な「重み」があった。

 そんな絶望的な状況の「悪性ウイルス」に対し、隣に座る小町が満面の笑みで、救済の(と本人は思っているであろう)言葉をかけた。

 

「大丈夫だよ、大志くん! たとえ大志くんが総武高校に落ちて、お兄ちゃんの後輩になれなかったとしても、小町たちは……『ずっと友達』だから!」

「……小町ちゃん!」

 

 大志の瞳に一筋の希望が宿った、そのコンマ数秒後。

 

「たとえ何があっても、大志くんは『霊長類ヒト科オトモダチ』なんだから! 揺るぎない分類だよ!」

「え?」

 

 小町が「ずびしっ」と指を突き立てて言い放った言葉は、大志の淡い恋心を、原子レベルで分解して塵に帰すほどの破壊力を持っていた。

 兄としては「ザマァ」の一言を添えて指を差してやりたいところだったが、同じ男としては、そのあまりに高く、そして分厚い「友達という名の障壁(フレンドゾーン)」に同情せざるを得なかった。

 

(……小町さん。もう少し男心という変数を考慮してやってくれ。今の発言、あいつの精神的耐久力をオーバーフローさせてるぞ……)

 

 だが、八幡の思考は冷徹に結論を出す。目的意識がはっきりしていれば、動機が不純だろうがなんだろうが、人間は一生懸命やるものだ。

 結果さえ出せば過程はどうでもいい。それはエイトマンとして戦場を駆ける中で得た、一つの真理でもあった。

 

「……ちなみに、小町が総武高受けるのはお兄ちゃんがいるからだからね。ポイント高い?」

「はいはい。わかったわかった」

 

 八幡は適当に聞き流しながら、大志が真剣な顔つきで沙希に向き直るのを観察した。

 

「……姉ちゃん。姉ちゃんも、目的があったからそこ(国公立)を目指したの?」

 

 不意の問いに、沙希は口籠った。髪の先を弄りながら、視線を泳がせる。

 八幡の光学センサーは、彼女の頬に流れる血流量が増加し、急速に体温が上昇していくのを捉えていた。

「そりゃ、学費が少なくて済む国公立を選ぶのは、長女として当然のロジックだろ。合理的な判断だ」

 

 八幡が淡々と助け舟(あるいは追撃)を出すと、沙希は真っ赤になって八幡を睨みつけた。

 

「……っ、あんたは余計なこと言わないでよ!」

 

 だが、真っ赤に照れた顔では迫力が無い。

 大志はきちんと受け止めたようで、うんと一度小さく頷いた。

 

「わかりました、お兄さん。俺、総武高校行きます」

 

 大志はどこかすっきりしながら八幡に告げた。

 

「ま、がんばれ。……貴様に兄と呼ばれる筋合いは無い。そろそろ帰るか。小町」

「うん!」

 

 最後にビシッと釘を刺し、八幡は席を立ちながら、千円札を数枚置き、店を出ようとした。その様子を見ていた小町が、しれっとした顔で最後の爆弾を投下した。

 

「んー? でも、将来的に沙希さんがお兄ちゃんと結婚したら、大志くんが『お兄さん』って呼んでもおかしくないよね?」

「――――ッ!!?」

 

 ガタタタッ!! と激しい音を立てて椅子を蹴ったのは、川崎沙希だった。

 

「ば、バカじゃないの!? こ、この妹……! そ、そんなこと、あるわけないし! 絶対に、天地がひっくり返ってもあり得ないから!!」

 

 店内に響き渡る絶叫。沙希は顔を耳まで真っ赤に染めた。

 店を出て行く背中にそんな声が聞こえた。八幡は、ただ小町にだけ聞こえるような低い声で呟く。

 

「俺は一生、結婚なんてする気ねーよ」

 

 それは、彼の「ぼっちの信条」であり、同時に――。

 全身を機械に変え、原子炉をその身に宿した「エイトマン」が、決して人並みの幸せを掴んではならないという、自分自身への戒めでもあった。

 

「えー、お兄ちゃんカッコつけてるー。中二病?」

「やかましい」

 

 小町に突っ込まれながら、八幡は夏の終わりの湿った夜気の中へと足を踏み出した。

 鋼鉄の日常に、甘酸っぱいノイズが混じる。

 だが、そのノイズさえも、今の彼には微かな熱交換の材料でしかないようだった。




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