——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
「……ほらカマクラ、そう不貞腐れるな。別に俺はお前を蔑ろにしてるわけじゃない。ただ、物理的な占有面積において、あの毛玉の方が優位に立っているだけだ」
夏休みも残り二週間ちょっと。比企谷八幡はソファの端で丸まり、あからさまに不機嫌なオーラを放つ愛猫カマクラの顎の下を撫でていた。
リビングの中央では、由比ヶ浜から預かったサブレが「遊んで遊んで」と言わんばかりに尻尾を振り回し、床をペチペチと音を立てて叩いている。
「あー、お兄ちゃん、カーくんの機嫌取りに必死だねー。その努力、もっと他で活かせばいいのに。……あ、そうだ。お兄ちゃん、これダウンロードしてよ」
スマホをいじっていた小町が、画面を八幡に突きつけてきた。
「なんだこれ。……イヌリンガルにネコリンガル? 懐かしいな、一昔前のガジェットかよ」
「今はスマホのアプリであるんだよ。ほら、小町のスマホ容量いっぱいだから、お兄ちゃんのに入れてみてよ。サブレとカーくんが何言ってるか気になるし」
「……やれやれ。俺のメモリをこんな娯楽用パケットで汚染したくないんだがな」
八幡はそう毒づきながらも、アプリをインストールした。
早速、スマホをサブレに向けてみる。
『ワンッ! ワンワンッ!』
サブレの吠え声に対し、画面上に表示された翻訳結果は――。
『遊んで! 遊んで! 遊んで! 遊んで!』
「おい小町、これ壊れてるぞ。コピペか何かか? アルゴリズムが手抜きすぎる」
「えー、サブレらしくていいじゃん。次はカーくんは?」
不機嫌な猫に向けてみると。
『……退屈。……その鉄臭い手をどけろ。……ちゅーる出せ』
「こっちは妙にリアルだな。……よし、ちょっとテストだ。この手のアプリは音声波形のパターン認識の精度が重要だからな。……バウワウッ」
八幡は冗談半分で、スマホのマイクに向かって犬の鳴き真似――を、したつもりだった。
だが、スマホが吐き出した翻訳結果は、予想だにしないものだった。
『システムオンライン、ブートストラップ起動、原子炉臨界、パワーフロー正常』
「なんでだよ!?」
八幡は思わずスマホを放り出しそうになった。
「おい小町! やっぱりこれ壊れてるぞ! なんで犬の鳴き真似から原子炉のステータスが返ってくるんだよ。どんなエキセントリックな誤変換だ。……まさか、俺の私立文系志望のアイデンティティが否定されたのか?」
すると小町は、まるで悟りを開いた阿闍梨のような、どこか遠い目をして兄を見つめた。
「ある意味、壊れてないかもね。最近のお兄ちゃん、なんか喋り方が理屈っぽくて可愛げないし。アプリの方も、お兄ちゃんのことを人間じゃなくて『難しい機械』か何かだと勘違いしちゃったんだよ、きっと」
「いや……。機械って。……俺は立派な有機体だぞ、一応」
「はいはい、中二病乙。……あーあ、サブレ、また『遊んで!』って出てるよ。……よし、お兄ちゃん、散歩の時間だね」
「あ? 俺は行かないぞ。由比ヶ浜から託されたお世話セットならそこにある。リードはお前がつけろ」
八幡が指差した一式から、小町は手際よくリードを取り出し、サブレに繋いだ。
「じゃあ、行ってらっしゃい。俺は二階で本でも――」
スタスタと二階へ逃げようとした八幡のシャツの裾を、小町がガシッと掴む。
「お兄ちゃんも行くんだよ。これはサブレの散歩であると同時に……『お兄ちゃんを散歩させる』ためのイベントなんだから」
「……散歩させる? 俺は犬か?」
「こうでもしないとお兄ちゃん、家から一歩も出ないでしょ。最近のお兄ちゃん、放っておくとずっと部屋に引きこもって小難しい顔してるし。不健康すぎて小町は心配です! というわけで、強制連行!」
「その通りすぎて、反論が出てこないな」
八幡は観念して溜息をついた。
仕方なく、サブレのリードを小町から受け取る。
「……わかったよ。行けばいいんだろ、行けば」
「はい、小町ポイント一点追加! じゃあ、出発進行ー!」
夏の終わりの、少しだけ傾き始めた日差しの中。
比企谷八幡は、元気いっぱいのサブレと、それ以上に元気な妹に連れられ、近所の公園へと踏み出した。
──
既に日は沈み、薄墨色に染まった藍の空に白い月が浮いている。
千葉県は今でこそ都会のベッドタウンとされているが、ほんの三十年くらい前、流山の辺りでは電車を「神の乗り物」として拝み、飛行機を「宙に浮く鉄の塊」として妖怪扱いしていたとか、していないとか。真相は闇の中だが、この川沿いの田んぼ道には、今もそんな「かつての千葉」の残滓が漂っている。
川のせせらぎや、穂が風に揺れるざわめき。
それらを聴いていると、得も言われぬノスタルジックな気分になってくる。超電子頭脳で環境音をデジタル処理していようとも、自分もやはり日本人なのだと、根源的な部分で認識させられる瞬間だ。
サブレが道端の草をわしわしと食んでいるのを眺めながら、小町が嬉しそうに笑った。
「お兄ちゃんとお散歩なんて、ずいぶん久しぶりですなー」
「そうだな」
普段は家に引きこもって演算……もとい、読書ばかりしているので、こうして二人きりで散歩に出るなんて、本当にいつ以来だろうか。
サブレがぐいぐいとリードを引くと、小町はサブレに優しく笑いかける。
「よしよし、行こうかー」
サブレは「ひゃん!」と高く鳴いて、とてとてと短い足で歩き出す。俺もその後に続いた。
西の空に残るわずかな残照。等間隔で一斉に点灯した街灯。一軒一軒、形も明るさも違う家の灯り。
どこかの家から、遊び疲れて帰ってきた子供を出迎える母親の声が聞こえてきた。
「やっぱり、お帰りって言ってくれる人がいるのは幸せだよね」
そう言いながら、小町がふと俺の顔を覗き込んできた。
「いきなりどうしたんだ。俺がそんな、帰る場所がある幸せを噛み締めるような、素直な感情を備えていると思うのか」
「はー……。いちいちめんどくさいなー、この人。小町がせっかくいい話してるのに」
「そんなにげんなりされても、反応に困るんだが」
俺が鼻を鳴らすと、小町は少し歩みを緩め、夜道を見つめた。
「そういうめんどくさいお兄ちゃんでも、お帰りって迎えてくれれば嬉しいんだよ」
「……。言ってくれるじゃないか」
不意打ちのような言葉に、ついつい口元が緩みそうになる。
妹の口からここまで言わせるとは、兄貴冥利に尽きると言うべきか。だが、小町はすぐに茶化すように目を閉じた。
「あ、今のは健気で殊勝な妹アピールだから。小町ポイント、今の発言で五万点くらい入ったはず!」
「そうかよ……。肝心なところで可愛くねえな、お前は」
小町はサンダルで小石を蹴りながら、夜空に瞬き始めた星を見上げた。
「お兄ちゃんがいない時は、カーくんが玄関まで迎えに来てくれたんだよ」
「俺の時は来ねえけどな、あいつ」
「お兄ちゃんに似て捻デレだからね。まあ、そんな捻デレさんでも、誰かが待っててくれるって、なんか安心するでしょ?」
にひひと笑う小町。その無邪気な笑顔を見ていると、微かな熱量が蓄積されるのを感じた。だが、八幡はそれを言葉にする代わりに、突き放すようなことを口にしてしまった。
「俺だっていつまでも家にいるわけじゃねえんだから。お前も、ちゃんと兄離れしろよ」
「え……。お兄ちゃん、家出るの?」
ぴたり、と小町の足が止まった。
こちらを振り返る小町の顔からは、さっきまでのわざとらしく作った笑顔が消え、出し抜けに冷水を浴びせられたような、ひどく虚を突かれた表情をしていた。
小町はリードを握る手に力を込め、藍色の夜闇の中でじっと俺を見つめていた。
「当たり前だ。高校卒業したら、とっとと家を出て独り立ちするつもりだ。大学も、一人暮らしできるところを想定してる」
──八幡にとって、家を出る決意は単なる「自立への憧れ」などとは程遠いものだった。
それは以前から考えていたことだ。
機械の体……エイトマンとしての宿命。家族をいつまでも危険にさらすわけにはいかない。そして、自立という名の「人間らしい擬態」の完成には、独り立ちは避けて通れないプロセスだ。
本当のことを言えば、千葉から出たくなどないし、実家で小町の作る飯を食い、カマクラの不機嫌な鳴き声を聴きながらダラダラ過ごす生活の方が、圧倒的に楽で、幸福であることくらい理解している。
しかし、家を離れるタイミングは、高校卒業の時しかない。
なぜなら、機械の体になってしまった八幡は、歳も取らず、たぶん、死ぬこともないからだ。
擬態能力を使って表面上の皮膚を弛ませ、白髪を混ぜることは可能かもしれない。だが、有機生命体ではない彼に、平穏な寿命の果ての眠りは訪れない。
小町も、奉仕部の仲間も、彼が知る全ての人間が、いずれ比企谷八幡よりも先にこの世から居なくなる。
ならば、自分は最後、誰の記憶にも残らないように消えるべきなのだ。
両親も、小町も。いずれろくに顔も出さなくなった薄情な兄のことなんて、さっさと忘れて、自分だけの、人間らしい幸せを見つけてほしい。それが、鋼鉄の心臓を選んだ八幡が払うべきコストだった。
「……お兄ちゃんは、小町と離れるのは寂しくないの?」
先ほどまでの茶化した空気は完全に霧散していた。
サブレのリードを握りしめ、ポツリと、消え入りそうな声で小町が呟いた。
「寂しくねーよ」
八幡は答えた。システム上の全パケットが「虚偽」だと警告を発している。本当は、死ぬほど寂しい。兄離れなんて、もうずっと先にしてほしいとさえ願っている。
「……。……そっか。……。小町なら、寂しいけどなー」
街灯に照らされた小町は、本当に、寂しそうな顔をしていた。
そんな顔しないでくれ、と八幡は胸の奥で呟く。電子頭脳(ブレイン)には涙を流す機能はないが、内部の演算回路がショートしそうなほど、胸の奥が熱くなる。
二人の間に、それ以上の言葉は続かなかった。
八幡は小町の隣に並び、ただ黙って歩調を合わせた。
等間隔に並ぶ街灯が、二人の影を長く伸ばしては短くし、また次の闇へと溶かしていく。
「……残される側だって、寂しいんだよ?」
少し歩いた後、小町がその事実を確かめるように、ぽつりと呟いた。その声は夜風にさらわれて消えてしまいそうなほど細かったが、八幡の鋭敏な聴覚センサーは、そこに混じった微かな震えを逃さなかった。
「お兄ちゃん、交通事故の時も、自然教室の時も……死んじゃうかもしれないのに一人で突っ走って、本当に死にかけるような目に遭って……」
小町は俯いたまま、絞り出すように言葉を続ける。
「そのうち、小町を置いてどこかへ行っちゃうんじゃないかって……。いつも、ずっと思ってたんだよ?」
それは、肝心な時に自分を勘定に入れず、誰かのために、あるいは自分の信条のために命を懸けてしまう兄に対する、妹の切実な不安だった。いつか彼が、自分の手の届かない場所――永遠の沈黙の中へと消えてしまうのではないかという、深い恐れと哀しみの告白だった。
その言葉を耳にした瞬間、八幡は、今すぐにでも妹を抱きしめてやりたいという衝動に突き動かされた。
自分が一番よく知っている。
去る側だけが孤独なわけではない。残される側だって、同じように、あるいはそれ以上の孤独に苛まれるのだ。そして、八幡にとってそれはどちらか一方の話ではなかった。
エイトマンとして生きる彼は、いつか皆を見送る「残される側」になり、同時に、この日常から忽然と姿を消す「去る側」でもある。
いつか来るその日に、自分は耐えられるだろうか。
もし耐えきれなくなってしまったら、その時自分は――。
ふと、手に柔らかな感触があった。
視線を落とすと、小町が八幡の右手を、逃がさないようにぎゅっと握りしめていた。
「……お兄ちゃん。こうしてないと、今度こそ本当にどこかへ行っちゃいそうだからね。小町が、ちゃんと掴んどいてあげる」
鋼鉄の骨格に、人工皮膚。それを通じても伝わってくる、小町の指先の熱。
八幡は、何も言えなかった。
嘘でもいいから「どこにも行かない」と言うべきだったのかもしれない。だが、今の彼にはその言葉さえ、重すぎる電子の枷のように感じられた。
小町は八幡の手を引くようにして、再び歩き出した。
繋いだ手から伝わる鼓動。それは、八幡の原子炉が刻む一定のリズムとは違う、不規則で、脆くて、けれど力強い生命の証だった。
夜の千葉、月明かりの下。
一匹の犬と、繋がれた二人の影が、静かに家路を辿っていく。
──
散歩から戻り、そろそろ夕食の準備を終えようかという時間に、リビングに電子音のインターホンが鳴り響いた。
八幡がモニターを確認すると、そこにはレンズを意識してかいそいそと髪を整える由比ヶ浜結衣の姿が映っていた。どうやら、預かっていた毛玉――サブレを引き取りに来たらしい。
八幡が重い腰を上げて玄関の扉を開けると、そこには夏の夕暮れをそのまま体現したような、明るい笑顔があった。
「やっはろー、ヒッキー! サブレ、お利口にしてた?」
いつもの、少しだけ浮ついた、けれど聞き慣れた挨拶。その響きだけで、先ほどまで小町との間に流れていた沈痛な空気が、霧散していくのを八幡は感じた。
電子頭脳が感知する彼女のバイオ信号は、相変わらずの「善意」と「緊張」のブレンドだ。八幡は彼女から旅行先の土産だという紙袋を受け取ると、奥に向かって声をかけた。
「ああ、サブレなら元気だぞ。おい小町、サブレ連れてきてやれ」
「はーい! 今行きまーす!」
玄関に現れた小町は、サブレを抱きかかえながらやってきた。由比ヶ浜の姿を見るなり、先ほどまでの湿っぽさを微塵も感じさせない、快活な声を上げる。
「結衣さん、おかえりなさい! ほらサブレ、お母さんが迎えに来たよー」
「わ、小町ちゃん、ありがとー! サブレ、寂しくなかった?」
由比ヶ浜に抱きしめられ、サブレは「ひゃん!」と嬉しそうに応えた。
笑顔でやり取りする二人を見て、八幡は密かに安堵の息を吐く。小町の立ち直りの早さは、八幡の予測演算(シミュレーション)を常に上回る。
「結衣さん、またいつでもサブレ連れて遊びに来てくださいね。お兄ちゃんも寂しがりますから!」
「えっ、あ、うん! 絶対行くよ〜」
由比ヶ浜が頬を染めて八幡を盗み見る。そんな「言質」を逃すほど、比企谷小町は甘くはなかった。その目が、獲物を狙うハンターのように爛々と輝く。
「そうですね。ぜひ、次は『両親がいる時に』、『菓子折りを持って』、『ご挨拶がてら』来てください」
「そうだね。ご両親にええっ!? ご挨拶!? ええええ!?」
由比ヶ浜の脳内回路が、小町の誘導パケットによって瞬時にショートした。顔を真っ赤にし、手足をおかしな方向に動かしながらパニックに陥る彼女の姿は、もはや様式美ですらある。
そんな混乱の極致にある玄関先。由比ヶ浜は何かを思い出したように、震える手で自分のカバンを探り始めた。
すーはーっと小さく深呼吸をして、そっと八幡に視線を向けた。
「そ、その 花火大会、一緒に行かない?サブレの面倒見てくれたお礼ってことで。なんか奢るし」
八幡はチラリと隣の小町に視線を向けた。
(……どうする?)という、言葉を介さない視線によるパケット通信。
この少年の思考回路には、女子と二人きりでイベントに行くなどというリア充向けのプログラムは一切プリインストールされていない。ましてや、今の自分は「普通」の人間とは違うのだ。
八幡の意図を瞬時に察したのか、小町は腰に手を当て、やれやれと小さく溜息をついた。
「……まったく、これだからごみいちゃんは」
そんな声が、実際に発声される前に八幡のオーディオセンサーに届いた気がした。その不名誉な呼び名を聞くのも、なんだか随分と久しぶりな気がする。
小町はすぐさま、申し訳なさそうな「完璧な妹の顔」を由比ヶ浜に向けた。
「あー……結衣さん、誘ってくれるのはすごく嬉しいんですけど。小町、これでも一応受験生なんですよ。だから、お礼って言っても、小町がどこか遊びに行くのは無理かもです……」
「えっ、そっか……。そうだよね、ごめんね小町ちゃん」
由比ヶ浜の肩がガクリと落ちる。だが、小町はそこからが真骨頂だった。
「で・も・っ! でもですね。小町、どうしても買ってきてほしいものはあるんです! あるんですが……。あー、でも小町にはその時間がない! 欲しいものはあるけど買い物にいく時間ないなー。困ったなー。結構量があるから、結衣さん一人だと持つのも大変だろうしなー!」
あまりにもわざとらしく、演劇部の入部テストでも落とされそうな大根芝居。
小町はチラチラと兄の反応を伺う。八幡は遠い目をした。さっきの川沿いでのしおらしさはどこへ行ったのか。あの時の切ない情緒を今すぐ返してほしい。
その仕草の意味するところに、由比ヶ浜がようやく気づき、ガバッと前のめりになった。
「はっ! そ、そうだ! ヒッキー! 小町ちゃんへのお礼の品を、一緒に買いに行くことにしようよ! ヒッキーだって、普段小町ちゃんにお世話になってるんだし!」
「あ、ああ……。いや、その……」
八幡がどうにか逃げ口上を演算しようとした瞬間、真正面から由比ヶ浜の真剣な瞳に射抜かれた。
「花火大会に女の子だけで行くのは心配ですね……。最近の世の中は物騒ですし……。ああ、こんなとき暇な男手があればいいのに……」
背後から小町の小さな、けれど呪詛のような囁きが聞こえてくる。
「そ、その……ヒッキーが誰かと行く予定あったりとか、忙しいんだったら、別に、いい、んだけど……」
由比ヶ浜がおずおずとした様子で、八幡をチラリと見た。
予定は未定、そして未定とはすなわち「暇」であることを地で行く八幡である。花火大会の日が空欄であることは、電子頭脳が証明していた。それに、こんな風にお願いされてしまうと、彼の脆弱な対人プログラムでは「拒絶」の選択肢がロックされてしまう。
何より、小町の言う通りだ。
最近の千葉は、物騒を通り越して「局地的な紛争地帯」と化している。いつ、どこで、再び黒い蝶の残党やデーモン博士のロボットが破壊活動を開始するか分かったものではない。
(本当にどうなってんだ千葉県。……もし、ここで由比ヶ浜を一人で行かせて、また何かの事件に巻き込まれたら……)
エイトマンとしての生存本能、あるいは「警護対象」を守るという使命感が、彼の重い口を開かせた。
「……まあ、小町のためでもあるしな。適当に連絡してくれ」
不愛想にそれだけ伝えると、八幡は熱を持った顔を隠すようにリビングへと戻った。
「うん! あとでメールするからー!」
ドアが閉まる直前、弾けるような元気な声が背中に届いた。
──
サブレがいなくなると、家の中には嘘のような静寂が戻ってきた。
四六時中、電子頭脳のオーディオセンサーが拾っていた「ひゃんひゃん」という高い鼓動の響きが消え、リビングには洗い物のかちゃかちゃとした音だけがよく響く。
八幡が手元の水道をきゅっと閉じると、遠くから夏の終わりを告げる虫の音が聞こえてきた。両親が帰ってくるまで、この静謐な、いつもの比企谷家の時間が流れるのだろう。
キッチンからリビングを覗くと、小町は心なしか元気のない様子でソファに沈み込んでいた。
「……ふーっ」
深いため息が聞こえてくる。八幡は冷蔵庫から取り出した麦茶を二つのグラスに注ぎ、一つを妹の前に置いた。
「……お疲れさん」
差し出されたグラスを受け取り、小町は一息でそれを飲み干した。
「ぷはーっ! ……生き返る。はい、おかわりは?」
「自分で入れろ」
んっとグラスを返してくる小町に毒づきながらも、八幡はその顔を観察した。どこか、大仕事を終えてぐったりと老け込んだような、縁側でぼーっとしているおばあちゃんのような穏やかな表情をしている。
「……いやあ、疲れたね。なんだか、我が子を送り出した気分だよ」
「そんなにか……」
「そうだね。……でも、結衣さんなら、安心して任せられるかな……」
小町の呟きに、八幡は首を傾げた。
(一体なんの話だ? サブレか? ……いや、文脈的にはサブレのことなんだろうが)
八幡の推論エンジンは、小町の言葉の裏に別の「対象」が含まれている可能性を微かに示唆していたが、彼はそれをあえて深く追及しなかった。
小町は八幡のそんな疑念を知ってか知らずか、ソファから滑り落ちるようにして八幡の隣へと移動してきた。
「……なんだよ。狭いんだが」
「んーん? なんでもないよー? ただ、まだまだお兄ちゃんには、小町がついてなきゃダメだなーって思っただけ」
そう言いながら、小町は朗らかに笑った。
街灯の下で見せた、あの消え入りそうな不安げな顔ではない。太陽のように明るく、見ているこちらまでつられて笑ってしまいそうになるほどの、満面の笑みだった。
(……やれやれ)
八幡は、グラスに残った冷たい麦茶を飲み干した。
高校を卒業したら家を出る。その決意に変わりはない。エイトマンとしての孤独を引き受ける覚悟も、鋼鉄の胸の中に大切に保管してある。
だが、今のこの笑顔を見せられては、自分の演算も狂わざるを得ない。
「兄離れしろ」なんて偉そうなことを言った口の端が、情けなくも緩もうとするのを八幡は必死に抑え込んだ。
(どうやら、俺の方が先に『妹離れ』できそうにねえな……)
比企谷八幡は、隣で楽しそうに「小町ポイント」の清算を始めた妹を横目に、そんなことを思うのだった。
夏の夜。鋼鉄の心臓に、家族という名の柔らかな熱が、静かに、けれど確かに蓄積されていった。
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