——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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今回はちょっと長いので分けてます


第二十二話:晩夏の夏祭り

 

 ガタゴトと揺れる総武線の車内で、八幡はぼうっと窓の外を流れる景色を眺めていた。

 由比ヶ浜との待ち合わせ場所まで、あと数駅。車内には、浴衣姿で仲睦まじく寄り添う男女や、大きなクーラーボックスを背負った家族連れが溢れている。彼らが放つ独特の浮き足立ったバイオ信号は、八幡のセンサーにとって、居心地の悪い「ノイズ」でしかなかった。

 ぷしゅー、と音を立てて開いたドアからホームに降り立ったのは、八幡一人だった。代わりにドアに乗り込んでいく群衆の熱気に背を向け、彼は改札へと向かって、えっちらおっちらと重い足取り(といっても、中身は鋼鉄だが)で歩いていった。

 

 待ち合わせの時間からは、ちょうど一分だけ過ぎている。

 コンコースの柱に寄りかかり、周囲をスキャンしてみるが、それらしい人影は見当たらない。校内で見覚えのある連中が何人か通り過ぎていくが、無論、声をかけることも、かけられることもない。

 彼ら、彼女らもまた、色とりどりの浴衣や甚平に身を包んでいる。そんな「青春の光景」を目で追っていた、その時だった。

 

 北口の階段から、からころ、と不慣れな下駄の音を鳴らしながら歩いてくる女の子を見つけた。

 薄桃色の浴衣。ところどころに小さく花が咲き、朱色の帯が夕闇の中で鮮やかに映えている。ピンクがかった茶髪はいつものお団子ではなく、くいっとアップに纏め上げられ、その白いうなじが八幡の光学センサーを強く刺激した。

 下駄を履き慣れていないのか、その足取りはやけに危なっかしい。

 

「……あ」

 

 八幡の脚部筋肉が、無意識に二、三歩、彼女の方へと駆け寄っていた。

 

「あ、ヒッキー! ちょっと、バタバタしちゃって……遅れちゃった……」

 

 由比ヶ浜は、恥じらうような、申し訳なさそうな、そんなはにかみ笑いを浮かべて八幡を見上げた。

 アップにされた髪の隙間から覗く耳が、微かに赤らんでいるのを、八幡のズーム機能は見逃さなかった。

 

「いや、それは別にいいんだけどさ」

 

 お互い、正面から向き合ってはみたものの、そこから先のことばが続かない。

 八幡の電子頭脳は、この「沈黙」という名の異常事態を解消するための最適解を必死に演算し始めたが、出力されるのはどれも「非論理的」なものばかりだった。由比ヶ浜もまた、視線を泳がせながら、髪をくしくしといじっている。浴衣姿と相まって、その仕草が妙に様になっているのは、果たして気のせいだろうか。

 

「……浴衣、いいな」

 

 ポツリと、絞り出すように一言だけ漏れた。

 

 (なんて気の利かない台詞だ。これなら『システム正常、視覚的満足度高』とでも言った方がマシだったんじゃねーか)

 

 八幡は自己嫌悪の渦に飲み込まれそうになる。褒めるべきは服なのか、それとも内面……いや、この場合は浴衣というインターフェースを含めた彼女自身の外面か。女を褒める際のプロトコルなど、あいにく彼のデータベースには蓄積されていない。

 だが、わざわざ言い直さずとも、その「不器用な肯定」は彼女に正しくパケットとして届いたようだった。

 

「あ、あ、あああ……ありがと」

 

 由比ヶ浜は視線を左右に泳がせ、真っ赤になった顔を隠すように俯く。

 そして、再び訪れる沈黙。

 

 ……。

 

 固まってしまったこの「空気」を、物理的な移動によって破壊しようと、八幡は無理やり口を開いた。

 

「……とりあえず、行くか」

「……うん」

 

 二人の間に、わずかな距離を保ったまま。

 夏の夜の喧騒が待つ会場へと、鋼鉄の少年と、薄桃色の少女は歩き出した。

 

 

──

 

 

 

 八幡の背後を「かぽ、かぽ」と心許ない足音が追いかけてくる。

 改札を通り、下り電車を待つホーム。その間も由比ヶ浜は終始無言で、浴衣の裾を気にするように視線を落としていた。

 

 八幡自身は沈黙を苦にするタイプではない。むしろ静寂は電子頭脳の演算リソースを節約するための最適解だ。だが、あの「小うるさい」はずの由比ヶ浜がこうも静かだと、逆にシステムが異常を検知する。何か怒らせるようなログを生成しただろうか、と不安な推論が頭をもたげる。

 そんな存在が何も言わずについてくるという状況は、どうにも居心地が悪かった。八幡は会話の糸口を探るように、実も蓋もない問いを投げかけた。

 

「……なぁ、なんで現地集合じゃなくて、こんな中途半端な場所にしたんだ?」

「それは……あそこ、人の数すごいから。待ち合わせ、うまくできないし」

「携帯あんだろ」

「通じづらいんだよー、ああいうとこ!」

 

 由比ヶ浜が少しだけ声を張った。混雑地では電波が輻輳(ふくそう)して通信障害が起きるという話は、八幡の知識データベースにも存在する。もっとも、彼自身には関係のない都市伝説だと思っていたが。

 

「それに……現地集合なんて、味気ないし……」

「効率が悪い」

 

 八幡はキッパリと断じた。最適化を是とする彼のロジックからすれば、移動時間を共有するメリットは見当たらない。だが、そのストレートすぎる出力に、由比ヶ浜は頬を膨らませた。

 

「い、いいでしょ! なんか文句あるの?」

「……ないです」

 

 怒られてしまった。

 再び生まれる沈黙。白昼の下、まるでお互いの距離を手探りで測るような、危うい時間が流れる。

 

「花火大会は――」

「花火大会って――」

 

 不意に、言葉が出会い頭に衝突した。

 由比ヶ浜は「あわわ」と焦った様子で、「どうぞどうぞ」と譲る仕草を見せる。

 

「……花火大会は、よく行くのか?」

「あ、うん。あたし、毎年友達と行ってるから」

「へぇ……」

 

 無難な応答と同時に、滑り込んできた電車がブレーキの風を巻き起こした。

 車内は、ビニールシートやパラソルを抱えた「戦闘態勢」のレジャー客で溢れかえっている。八幡たちは扉のそばに並んで立った。ガタガタと音を立ててドアが閉まり、列車が加速する。

 

「で……お前、さっき何か言いかけてなかったか?」

「うん。えっと……『花火大会って行ったことある?』って聞こうとしたの」

 

 同じことを考えていた、という事実。由比ヶ浜が「一緒だね」と照れたように笑う。その微笑みが放つ破壊的な視覚パケットに対し、八幡の防護隔壁は脆弱だった。

 

「俺は小学生の時、家族で行ったことがあるだけだ」

 

 会話がぶつ切りになりながらも、電車は走り続ける。遠目にポートタワーのシルエットが見えてきた頃、急激な減速の衝撃が車両を襲った。

 

「ひゃっ」

 

 短い悲鳴と共に、下駄が「カツッ」と硬い音を立てる。

 次の瞬間、八幡の嗅覚センサーに甘い香りが飛び込み、右肩に柔らかく、けれど確かな重みを感じた。

 履き慣れない下駄のせいでバランスを崩した由比ヶ浜が、八幡の胸元へと倒れ込んできたのだ。八幡の人工筋肉は、衝突を回避するのではなく、自然に彼女を支えるように動いていた。

 

「…………」

「…………」

 

 至近距離。八幡の光学センサーは、彼女の瞳の震えや、細かなまつ毛の数まで捉えてしまう。由比ヶ浜は顔をボッと真っ赤に染め、弾かれたように身を引いた。

 

「ご、ごめん……!」

「……混んでるしな」

 

 八幡は窓の外を見るふりをして、顔を背けた。

 表面上の平静を装っているが、内部の冷却システムはフル稼働している。彼は由比ヶ浜からは見えない角度で、一つ、長く重いため息を吐いた。

 鋼鉄の体であっても、この「熱」だけは制御しきれないようだった。

 降り立った駅前は、文字通り人で溢れかえっていた。

 

 ざわざわとした喧騒。そびえ立つ千葉ポートタワーはその鏡のような壁面で下界の熱を照らし返し、数倍にも輝きを増した夕日が、開幕を待ち望む群衆の期待を物理的な熱量として押し上げているようだった。

 

 誰しもが笑いさざめき、きらきらとした喜びの視線を交わす。

 道々にはたこ焼きやお好み焼きといった定番の屋台が立ち並び、近所のコンビニや酒屋も軒先に商品を積み上げている。どこかのレストランは「花火が見える特等席」と触れ込んでは、威勢よく客を呼び込んでいた。

 

 日本の夏。

 それが遺伝子レベルで刻まれているのか、それとも環境音の周波数が高揚感を煽るのか。八幡の電子頭脳もまた、いやがおうにも「非日常」のパルスを検知していた。千葉市民花火大会は、今まさに開幕の時を迎えようとしている。

 

 会場までの道のりは近い。公園全体が駅に隣接していると言ってもいい距離だ。だが、この凄まじい人波が、最短距離を移動しようとする八幡の「効率」を著しく阻害する。普段は閑散としていて、だだっ広い印象しかない広場が、今は遠目にも色彩豊かな人波で埋め尽くされていた。

 

 海からの風が心地よく吹き抜けていく。八幡が時計を確認すると、時刻はまだ十八時過ぎ。開始予定の十九時半までは、かなりの猶予があった。

 

「時間あるから、先に買い物を済ますぞ」

「えー、ヒッキー。せっかく来たんだから、もうちょっと楽しめばいいのに」

 

 由比ヶ浜に呆れ顔で言われた。

 外出すると、つい帰宅のタイミングを逆算してしまうのは八幡の悪い癖だ。目的の物だけを買ってさっさと店を出る、それが彼の生存戦略における最適解だった。本来はじっくり見て回るのが楽しみ方なのだろうが、いかなる状況でも「生きて帰る」ことを最優先する八幡には、スパイや忍者のような適性がありすぎて困る。

 

 由比ヶ浜は浴衣の袖から、ラインストーンがデコられた派手な携帯電話を取り出した。

 

「えっとね、小町ちゃんからお礼のリスト、メールで貰ってるんだ」

 

 由比ヶ浜がポチポチと画面を操作し、八幡に差し出す。きらきらと光る装飾が視界に入って大層ウザいが、八幡はその「指令書」に注視した。

 

【小町のお買い物リスト】

・焼きそば(400円)

・わたあめ(500円)

・ラムネ(300円)

・たこ焼き(500円)

・花火を見た思い出(プライスレス)

 

(なんだ、この最後のは)

 

 八幡は眉をひそめた。あいつ、また余計な策略を……。

 だが、小町なりに気を利かせていることくらい、今の八幡にも理解はできた。これほど露骨にお膳立てをされて、何も気づかないほど鈍感ではない。むしろ、彼は敏感すぎるほどに周囲の意図を演算してしまう性質なのだ。過敏で、過剰に、反応してしまう。

 

 ふーっ、と短いため息を吐いて、八幡は気分を切り替えた。

 

「んじゃ、とりあえずこれ順に買ってくか」

「うん!」

 小町の気の抜けるようなメールのせいか、あるいは祭りの陽気に当てられたのか。由比ヶ浜はパッと顔を輝かせると、「からころ」と楽しげに下駄の音を鳴らして歩き出した。

 

 鋼鉄の日常に混じる、火とソースの匂い。

 八幡はその後ろ姿を見失わないよう、人混みの中へと足を踏み入れた。

 

 鼻歌交じりの足音は、雑踏の喧騒の中でも八幡のオーディオセンサーには鮮明に届いていた。

 人の流れは広場へと続き、無数の出店が軒を連ねている。そのいずれもが大盛況だ。味はそれなりだと論理的には理解していても、裸電球の明かりに照らされ、目の前に並べられると、鋼鉄の身体であっても食欲という名の原始的なパルスが走る。

 

「ね、ね、何から食べる? りんご飴? りんご飴かな!?」

 

 由比ヶ浜がおおーっと瞳を輝かせ、八幡の浴衣の袖をぐいぐいと引く。

 

「……それ、リストにねーだろ。そもそも買うことが目的じゃなくて、食うことが目的になってんじゃねーか」

 

 八幡は冷静にツッコミを入れた。だいたい、りんご飴は見た目ほど美味くない。一口目はいいが、途中で確実に飽きる自信がある。由比ヶ浜は「むー」とりんご飴を名残惜しそうに見つめていたが、再び携帯を片手に八幡に向き直った。

 

「じゃあ、どれからにする?」

「まずは常温でも問題ないものからだ。そう考えると、わたあめ――」

「やばい! ヒッキー、これSwitch2当たるよ!」

 

 移動しかけた八幡の裾が、再び力強く引かれた。由比ヶ浜が釘付けになっているのは、豪華景品がこれでもかと積み上げられた『宝釣り』の屋台だ。

 

「……いや、当たらねーから。っつーか話を聞けよ。あんなの確率操作の塊だぞ」

「え? でも、紐つながってるじゃん!」

「ああ、確かにつながってるな。どこにつながってるかはわからんがな」

 

 八幡は冷めた目で、一箇所に集約された紐の束をスキャンした。各景品から伸びる紐は、店主の手元でブラックボックス化されている。

 

「覚えとけ。これ見よがしに目の前に良いものが置かれてたら、まず罠だ。自分に都合のいい話には必ず裏がある。これ、世界の常識な」

 

「……ほう。物事の表裏について、ずいぶん知っている口ぶりだな? 比企谷八幡」

 

 八幡のセリフに被せるように、低く、知的な響きを持つ声が返ってきた。

 その瞬間、八幡の全システムが凍りついた。電子頭脳が過去のログを瞬時に照合し、網膜に真っ赤な『WARNING』を点灯させる。

 

(この声、まさか)

 

 八幡が目を向けるとそこには──

 

「元気そうだな、エイトマン……いや、今は比企谷君だったか」

 

 サングラスと不自然なカツラで変装してはいるが、その傲岸不遜な立ち振る舞い、隠しきれないマッドサイエンティストのオーラ。それは間違いなく、かつて八幡と戦い、千葉を破壊の渦に巻き込もうとした宿敵、ドクトル・デーモンその人だった。

 

「あれ? この人、どっかで会ったっけ……?」

 

 由比ヶ浜が、かつての拉致事件の断片的な記憶を検索しようと首を傾げる。八幡のセンサーは、彼女の心拍数が混乱によって上昇するのを検知した。

 

「由比ヶ浜さん!!」

「な、なに? ヒッキー、急に大きな声出して……」

「ちょーっと、あっち向いてて下さい! 三分……いや、一分でいいから!」

 

 八幡は由比ヶ浜の肩を掴み、必死の形相で懇願した。あまりに近すぎる距離と、八幡の気迫に、由比ヶ浜は顔を真っ赤にしてあたふたしたが、今はその可愛らしさを愛でる余裕など一ミリもない。

 彼女を明後日の方角へ向かせたのを確認するや否や、八幡はガバッと店主――デーモン博士の方に向き直り、小声で凄んだ。

 

「……お前、ここで何やってんだよ!」

「見てわからんのか。宝釣り屋のオヤジだ」

「お前みたいな、人類の進化を標榜するアブねえテキヤがいるか! 爆弾じゃなくて紐を売ってどうするんだよ!」

 

 ドクトル・デーモンは、まるで近所の知り合いに会ったかのような気軽さで、景品(のダミー)を整えながら薄笑いを浮かべた。

 

「たまの休日で女とデートか? 隙を持て余していると見えるな、エイトマン」

 

 サングラスの奥で、デーモンは愉快そうに口角を上げた。その呼び名を聞いた瞬間、八幡の電子頭脳(ブレイン)に静かな電流が走る。

 

「その言葉、そっくりそのままオメーに返してやるよ。……何を企んでる」

 八幡は小声で、だが原子炉の熱量を指先に集中させながら凄んだ。由比ヶ浜は少し離れた場所で、指示通り「明後日の方角」を向いて屋台の看板を眺めているが、いつこちらを振り返るか分からない。

 

「そう怖い顔をするな。今はまだ何も企んでおらん。強いて言うならば……平和を享受する愚民共の観察とでも言っておこうか」

 

 悪びれる様子もなく平然と言い放つマッドサイエンティスト。八幡のセンサーは、デーモンの生体反応からそれが「嘘ではない」と判断した。少なくとも、この会場を今すぐ爆破するような即時的な殺意は検知されない。だが、わざわざ自分の前に現れた以上、何らかの意図があることは明白だった。

 

「一応、今は本当に何もしてねぇみたいだが……。何か妙な真似してみろ、タダじゃおかねえぞ」

「フン、仮にも命の恩人相手に随分な言いようだな。この恩知らずが」

「ホザけ。前の件は感謝してるが、お前が千葉……いや、人類にとっての特級危険物であることになんら変化はねえんだよ」

 

 二人の間に、目に見えない火花が散る。かつて命を懸けて殺し合った宿敵同士。その一瞬の交差を、周囲の浮かれた客たちは知る由もない。

 

 デーモンはフッと笑うと、目の前の無数に垂れ下がる紐を指差した。

 

「で、どうだ? 一回引いてみるか?」

「ああ?」

「思わぬところで好敵手にまみえた記念だ。一回だけタダで引かせてやる。お前の『幸運値』を測らせてもらおうか」

「引いた瞬間ドカン、じゃねえだろうなてめえ」

「お前のセンサーはただの飾りか? これがなんでもない玩具であることは、既にサーチ済みだろう。無駄な問答をさせるな。私の美学を汚すなと言っている」

 

 デーモンの挑発は、八幡の性能に対する奇妙なまでの信頼に基づいていた。気味が悪いことこの上ないが、この男はエイトマンという存在に対し、ある種の偏執的なリスペクトを抱いている。皮肉なことに、生みの親である谷博士以外で、エイトマンのスペックを最も正当に評価しているのは、この狂気の発明家だった。

 

「……ちっ。一回だけだぞ」

 

 ここで拒絶して、変に機嫌を損ねて「やっぱり爆破する」と言い出されても困る。八幡は念入りに紐の先をスキャンし、物理的なトラップがないことを確認した。

 そして、その中の一本。最も「ノイズ」の少ない、淀みのない紐を慎重に引き抜いた。

 

 ――カランカランカラン!

 

「おめでとう。……大当たりだ」

 

 デーモンの言葉に、八幡は一瞬だけ全身の人工筋肉を硬直させた。何かが爆発するのか、あるいは周囲の人間が洗脳されるのか。

 だが、何も起こらない。

 デーモンは相変わらず底意地の悪い笑みを浮かべながら、古びた鐘を景気良く鳴らし続けていた。その音を聞きつけて、由比ヶ浜がパッとこちらを振り返る。

 

「えっ、すごーい! ヒッキー、当たったの!?」

「あ、ああ……。なんか、運が良かったみたいだな」

 

 八幡は引き抜いた紐の先を見つめた。

 引き抜いた紐の先に結ばれていたのは、『大当たり』と無愛想に書かれた一枚の古びた札だった。

 

「救世主様は強運もお有りのようで。……景品は、後のお楽しみと言っておこう」

 変装したドクトル・デーモンは、サングラスの奥で不気味な光を宿しながら告げた。

 

「おい、後のお楽しみってのはどういう意味だ。今ここでよこせ」

「ほら、さっさとそこを退け。次の客が待っているんだ。商売のジャマをするんじゃない」

 

 八幡が詰め寄ろうとした瞬間、背後に並んでいた客たちのプレッシャーがセンサーに届いた。どうやら『大当たり』が出たという事実が、周囲の「欲」という名のパケットを急速に増幅させてしまったらしい。これだから群衆(愚民)共は……!

 

「……行くぞ、由比ヶ浜」

「えっ、ま、待ってよヒッキー! 当たったんじゃないの? 景品は?」

「気のせいだ。……いいから来い」

 

 八幡は由比ヶ浜の疑問を半ば強引に押し切り、足早にその場を離れた。とにかく一メートルでも、いや一ミリでもあのマッドサイエンティストの側から離れたかった。夏祭りのど真ん中に、ドクトル・デーモンという不発弾を見つけてしまったせいで、八幡の電子頭脳は「嫌な予感」という名のノイズで埋め尽くされている。

 

(こういう時は、さっさと買い物を済ませて帰るに限る……)

 

 わたあめ、ラムネ、たこ焼き。小町のリストにあるアイテムを、最短ルートの演算(ルーティング)によって次々と回収していく。

 

「次は……焼きそば、かな?」

「そうだな。さっきあっちの角にあった気がする……」

 

 八幡がくるりときびすを返した、その時だった。視覚センサーの端に、こちらを凝視している人物を捉えた。その人物は、八幡の視線に気づくと、パッと明るい表情を作って手を振って近づいてくる。

 

「あ、ゆいちゃんだー!」

「お、さがみーん!」

 

 由比ヶ浜もそれに応じ、数歩歩み寄る。互いに同じような動作、同じようなタイミングで接触を開始する。これが心理学で言うところの『ミラーリング』というやつだろう。相手と同調することで共感を得る技術だ。かつて『特命リサーチ200X』か何かで見た記憶がある。

 

(……で、誰だ、こいつ)

 

 八幡は存在感を極限まで希薄化させ、背景のモブとして徹することにした。だが、女子という生物は、表面上の親密度とは裏腹に、その呼び方や距離感に絶妙な「格付け(ランク)」を混入させる。

 由比ヶ浜はあくまでフレンドリー。対して、相手の『さがみん』こと相模南は、「そこまで親しくはないけれど、適度に仲良くしてるよねあたしたち」という、実体のない空気を懸命に維持しようとしている。

 その相模が、隣に立つ八幡に視線を向け、由比ヶ浜に説明を求めてきた。

 

「えっと……」

「あ、うん。そうそう。同じクラスの比企谷くん。こちら、相模南ちゃん」

 

 同じクラスだったのか。八幡はデータベースを検索し、辛うじて一致する顔写真を見つけ出した。「うす……」と、八幡は極めて不愛想かつ標準的な会釈を返す。

 

 その瞬間だった。

 相模の目が、一瞬だけ鋭く細められた。

 

 ――ちっ。

 

(……あ?)

 

 相模の唇が、一瞬だけ、舌打ちをする時の動きを見せた。

 八幡の動体視力と表情解析ログは、その微細な筋収縮を逃さなかった。

 

「あ、そうなんだー! 一緒に来てるんだねー。あたしなんて女だらけの花火大会だよー。いいなー、青春したいなー!」

「……あはは! 何その水泳大会みたいな言い方! こっちだって全然そういうんじゃないよー」

 

 由比ヶ浜は少し言葉に詰まったようだったが、場を合わせるように笑う。

 だが、八幡は笑う気にはなれなかった。……というより、先ほどのログが理解不能すぎて、電子頭脳が混乱の極致に陥っている。

 

(えっ……なんで舌打ち? 俺、何か悪いことしたっけ……? 俺、また何かやっちゃいました? 無自覚なろう系主人公のスキルか何かか、これ?)

 

 嘲笑や無視なら、八幡にとっては「日常」の範囲内だ。自分のような底辺の男を連れている由比ヶ浜への同情、あるいは見下しなら説明がつく。

 だが、今の相模南の反応は、純粋な『不快感』と『嫌悪』に満ちた舌打ちだった。

 

(いや、待て、やっぱりおかしい。嘲笑ならわかるんだ。だが、舌打ち……? なぜ、ただそこに存在しているだけの俺に対し、そこまで強烈な拒絶反応を示す必要があるんだ……?)

 

 祭りの喧騒の中、八幡は自分に向けられた「悪意」の正体が掴めず、鋼鉄の心臓の奥が冷たく軋むのを感じていた。

 

「……焼きそば、並んでるみたいだから先行くわ」

「あ、うん。すぐ行くね」

 

 心なしか申し訳なさそうな、苦い笑みを浮かべて答える由比ヶ浜をその場に残し、八幡は速やかに立ち去った。

 女子特有の複雑怪奇な力学において、自分のような「底辺」が隣にいることは、由比ヶ浜の社会的信用を削り取る毒素になりかねない。背中越しに相模たちのざらついた笑い声が聞こえてくるが、八幡は耳を貸さず、ただソースの香りが漂う方角へと足を動かした。

 

 視覚ログに記録された最短経路と、嗅覚センサーが捉える油の焦げる匂いを頼りに、焼きそばの屋台へたどり着く。

 透明なプラスチックパックに詰められ、輪ゴムで留められたそれは、裸電球の暖かな光に照らされると、エイトマンの電子頭脳ですら「美味そう」と錯覚するほどの照り返しを見せていた。

 

(……まだ、少し時間があるな)

 

 八幡は周囲の雑踏が止まったかのように錯覚するほど、意識のクロック周波数を引き上げた。

 一瞬の静寂。彼はほんの数秒だけ、『亜音速』の領域へと足を踏み入れた。

 

 

──

 

 

 

 焼きそばの屋台で待っていると、人混みをかき分けて由比ヶ浜がやってきた。

 

「ごめん……。ちょっと時間かかっちゃった」

 

 少しばつの悪そうな、しおれた顔で言われたが、八幡からすれば彼女が謝る必要など原子一個分も存在しない。

 だから、彼はその言葉に対する「意欲的なカウンター」として、紙袋から取り出したものを差し出した。

 

「……ほら、りんご飴」

「へ?」

 

 ぼそっとした呟きに、由比ヶ浜が目を瞬かせる。彼女の視線の先には、真っ赤な水飴でコーティングされた、宝石のような光沢を放つ林檎があった。

 

「ついでに買ったから。……お前、さっき食いたがってただろ」

 

 言葉の意味を理解した瞬間、由比ヶ浜の瞳が、まるで電力が復旧したかのようにみるみる輝きを取り戻した。

 その感情の変化はあまりにダイレクトで、八幡の表情解析ソフトを通さずとも「嬉しい」というパケットが溢れ出しているのが分かった。

 

「う、うん! 食べる! 食べるよ! ヒッキーにも半分あげるからね!」

「いや、俺の分はもう自分で買ったし……」

 

 八幡が予備で買っておいた自分用の飴をガリゴリと遠慮なく齧り始めると、由比ヶ浜は「もう、そういうところ……!」と、ほんの少しだけ頬を膨らませて拗ねて見せた。

 

 だが、その表情には先ほどの相模との会話で感じていた陰りはもうなかった。

 とにかく、これで小町のリストにあった「物質的」な品目は全て揃った。

 残されたのは、リストの最後にあるあの一節だけだ。

 花火の打ち上げまでは、もうまもなく。

 時計を確認するまでもなく、会場全体を包み込む「期待」という名の空気の振動が、それを教えてくれていた。

 

 

──

 

 

 メイン会場となる広場に到着し、辛うじて人の波が落ち着いた場所を確保した。八幡は先ほどから自身の解析ログの中で「未解決エラー」として点滅し続けていた疑問を、隣に立つ由比ヶ浜に尋ねた。

 

「……そういえば、さっきの相模、だっけか。俺を見て舌打ちしたような気がしたんだが……。ありゃ俺のセンサーの故障か? それとも、俺の存在そのものが彼女の美意識に対する深刻なバグだったのか?」

 

 八幡の問いに、由比ヶ浜はどこか申し訳なさそうな、それでいて少しだけ誇らしげな、複雑な表情を浮かべて彼を見つめた。

 

「あー……。それは、その、ね。ヒッキーの気のせいじゃないと思う」

「なんだ、やっぱり俺は生きてるだけで誰かを不快にする特級呪物だったのか」

「違うよ! そうじゃないの」

 

 口籠る由比ヶ浜の態度は、明らかに何かを隠している。八幡が怪訝そうに目を細めると、彼女は観念したように視線を泳がせながら、小さな声で白状し始めた。

 

「ヒッキー、前に行った自然教室のこと、覚えてるよね?」

 

 自然教室。忘れもしない、孤独な少女・鶴見留美との邂逅。そして、プロフェッサー・ユレー率いるヘルハウンド部隊との死闘。それらはエイトマンとしての記憶回路に、鮮烈な高解像度データとして永久保存されている。

 

「あの後さ、優美子が……ヒッキーのこと、凄く褒めてたんだよね。自分のケータイで、クラスの女子全員に……」

「……は?」

 

 八幡の電子頭脳が一瞬、処理停止(フリーズ)を起こした。

 三浦優美子。あの総武高校の女王蜂が、ゴミを見るような目で自分を見ていたはずの彼女が、自分を褒める? どんな天変地異の前触れだ。

 

「……普段は何考えてるかわからない、覇気のないヒキオだと思ってたけど、思ったより男気ってやつ? 土壇場でああいうことできるのって、ちょっといいかなーって。……そんな感じの内容が、いつの間にか広まってたみたい」

「…………」

 

 八幡は絶句した。

 つまり、状況を整理(ソート)するとこういうことだ。

 自分の知らないところで、三浦という強力なハブによって俺の評価という名のパケットがクラス全体に一斉送信された。その結果、勝手に「格」が上がってしまった俺を、由比ヶ浜が連れて歩いている。それを相模南が見て、「分不相応なアクセサリーを手に入れた」ことへのやっかみとして舌打ちをした……。

 

「……夏休み中なのに、情報の拡散が早すぎないか? どこの光ファイバーだよ」

「……あたしも、ちょっと調子に乗って、色んなとこにメール出しちゃったし……」

 

 てへっ、と小さく舌を出してはにかむ由比ヶ浜。

 

「おめーもかよ!!」

 

 八幡のツッコミが夜空に虚しく響いた。

 恐ろしい。女子の通信伝達速度、そしてネットワークの密閉性は、軍事用の秘匿回線をも凌駕しているのではないか。

 自分が女子に生まれついていたら、この底なしの「空気」の読み合いに、電子頭脳のリソースを使い果たして爆発していただろう。

 

「……俺、女子じゃなくて本当に良かったわ。神様に感謝するレベルだ」

 

 あまりにも生々しい「人間」の世界の闇を垣間見て、八幡は己の鋼鉄の身体以上に、自分の性別が「男」であることに深い安堵を覚えるのだった。

 

 

──

 

 

 メイン会場となる広場に辿り着いたものの、そこはもはや人の海だった。

 さすがに花火が終わるまで終始立ちっぱなしというわけにもいかない。八幡は二人そろって座れそうな場所を探すことにした。とはいえ、ビニールシートはおろか、敷物代わりの新聞紙一枚持っていない。由比ヶ浜はせっかくの浴衣姿だ。地面に直座りさせるわけにもいかないだろう。

 

「いやー、混んでるねぇ」

 

 たはは、と困ったように笑う由比ヶ浜に、八幡は心の中で同意した。

 

「……こんなに混むって知ってたら、小さなシートくらい準備してきたんだがな」

「む、むー。なんかあたしが悪いみたい……。ごめん、言っとけばよかったね」

「……ちげーよ。俺がこういう行事に慣れてないだけだ。そこまで頭が回らなかった。悪い」

 

 自分の至らなさに、八幡は少なからずげんなりした。

 世に言う「モテる男」ならば、こういう時に用意周到に準備し、小粋な会話で待ち時間を彩るのだろう。だが、そうやって無理をして「普段と違う自分」を作り上げることが、果たして正解なのだろうか。好かれるために、愛されるために変質してしまった自分を、自分と呼べるのか。偽って作られた「優しさ」は、いつか必ず破綻する。

 ふー、と小さなため息を吐いて視線を上げると、ぽかんと口を開けたアホ面の由比ヶ浜と目が合った。

 

「なんだよ……」

「……ヒッキーって、気、使えるんだ」

「はぁ? ばっかお前、めちゃくちゃ使えるよ。気を使ってるからこそ、誰にも迷惑をかけないように静かに隅っこにいるんだろうが」

「あはは、そういうことじゃなくてさ……。その、なんというか、優しい? というか」

「ほう、よく気づいたな。そうだよ、俺は優しいんだ。今まで数々の不条理を味わってきたが、誰一人として復讐せず見逃してやってるからな。俺が並の人間だったら、今頃世界は三回くらい終わってる。ある意味、救世主だぞ俺は」

 

 八幡の言葉は、ある意味では冗談抜きで真実だった。彼の体内にある原子炉が暴走すれば、千葉県どころかこの国が地図から消えてもおかしくない。それを抑え込み、擬態して生きている自分は、確かにこの世界の平穏を担保する救世主といえた。

 

「並の人間、世界滅ぼせないし! 並の人間はいろいろあったりしないし!」

 

 由比ヶ浜からの至極まっとうなツッコミを背に受けながら、二人はトラロープで区切られたエリアへと足を踏み入れていた。

 

「……ここ、有料エリアだね」

 

 見渡せば、小高い丘のようになった見晴らしの良い区画。トラロープによって、文字通り「一線」を引かれたその場所に、彼女はいた。

 

「あれー? 比企谷くんじゃん」

 

 夜闇になお際立つ、濃紺の地。大百合と秋草の模様が風雅さを漂わせ、涼しげな空気を纏った浴衣姿。

 

 雪ノ下陽乃。

 

 彼女は周囲に何人かの取り巻き――あるいは関係者を侍らせながらも、その中央に鎮座する椅子をまるで「玉座」であるかのように使いこなし、さながら女帝のような威圧感と美しさを放っていた。

 

「……雪ノ下、さん」

 

 八幡の電子頭脳が、彼女の存在を感知した瞬間に演算速度を引き上げる。

 この「境界線」の内側にいる女は、果たして偶然そこにいたのか、あるいは――。

 陽乃は扇子を口元に当て、三日月の形をした瞳で八幡と由比ヶ浜を射抜くように見つめた。

 




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