——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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これで第三章は終わりです。


第二十三話:回答 その1

 

 十九時四十分。定刻より十分ほど遅れて、花火大会の開幕を告げるアナウンスが会場に響き渡った。

 

 パチパチという拍手が波のように広がり、どこからかお調子者の指笛が聞こえてくる。八幡のオーディオセンサーは、その耳障りな高周波を瞬時にカットした。自慢げに指笛を吹く奴の五割は、普段は大人しいくせにこういう時だけ騒ぐタイプだという偏見めいた統計データが、彼の電子頭脳には蓄積されている。

 

 この有料エリアは広場の中でも一段高い丘にあり、打ち上げ場所の正面という最高のロケーションだ。周辺の木々に遮られることなく、視界全てを火花で埋め尽くすことができる。

 本来は高額なチケットが必要な場所だが、八幡たちは雪ノ下陽乃の手引きで、この「聖域」へと足を踏み入れていた。

 

「父親の名代でね。ご挨拶ばかりで退屈してたんだ。比企谷君が来てくれてよかったー」

「はぁ。名代……。相変わらず、スケールがデカいっすね」

 

 八幡は半分ほど聞き流しながら、周囲をスキャンした。陽乃は「ふふっ」とにまっと笑い、子供のような無邪気さで胸を張る。

 

「貴賓席、っていうのかな。普通は入れないんだから、感謝してよね」

 

 雪ノ下陽乃のストレートな傲慢さは、不思議と嫌味を感じさせない。それどころか、一種のカリスマ性すら帯びている。先ほどまで彼女に群がっていた地元の有力者たちも、「友人が来たので」という彼女の一言で、魔法にかけられたように引き下がっていった。

 

 さらに驚くべきは、監視のアルバイトたちが、部外者であるはずの八幡たちに対していっさい確認を求めてこなかったことだ。本物のVIPが持つ「空気」の支配力は、マニュアルすら無効化するらしい。

 

「セレブだ……」

 

 由比ヶ浜が感心したのか、あるいは呆れたのか、微妙な溜息を漏らす。陽乃はふふっと微笑んだ。

 

「まあね。知ってるでしょ? 私の父の仕事。こういう自治体系のイベントでは強いの。……でも、これはどちらかと言うと県議っていうより、うちの会社の力が大きいかな」

 

 市長だかどこかの名士だかの長々とした祝辞がスピーカーから流れる中、陽乃は自席の隣に用意された椅子を二人に勧めた。八幡も由比ヶ浜も、遠慮なくその特等席に腰を下ろす。

 

 だが、八幡の内部システムは「休息」を拒絶していた。隣に座る陽乃から発せられる、冷徹なまでの「完璧さ」が、彼のセンサーに微かな警告を発し続けている。美しすぎる外装の裏側に、黒々とした底知れない何かが渦巻いている――その直感が、彼を緊張させていた。

 不意に、陽乃が八幡の耳元でぼそりと囁いた。

 

「それはそうと……。浮気は感心しませんなー」

「……っ。いや、浮気じゃないし」

 

 八幡が即座に否定のパケットを返すと、陽乃の表情から温度がスッと消えた。

 

「じゃあ、本気か……。なおさら許せませんなー」

「やめてくださいって。……そういう文脈じゃないんで」

 

 陽乃の執拗な揺さぶりをどうにか受け流していると、ついに偉い人の挨拶が終わり、一発目の花火が夜空を切り裂いた。

 音楽に合わせ、特大のスターマインが夜空に大輪の花を咲かせる。幾重にも重なる赤、黄、橙の閃光が、間断なく闇を照らし続けた。

 

「ほう……」

 

 花開く光輪は、ポートタワーのハーフミラーガラスにも見事に映り込み、その輝きを二倍、三倍へと増幅させていく。これを皮切りに、八千発もの多彩な花火が打ち上がるのだという。

 どどんぱっ、と轟音が空気を震わせる。桃白白(タオパイパイ)かと思うくらい「どどんぱ」と響く爆音の中、陽乃がギシッと椅子を鳴らして深く座り直した。

 

 その瞬間、今までタイミングを計っていた由比ヶ浜が、八幡を挟んで陽乃に声をかけた。

 

「あ、あのっ!」

 

今までタイミングを見計らっていたのだろうか、俺を挟んで山比ヶ淵が力さんに話しかけ

る。すると陽乃さんはぱちぱちっとその大きな瞳をしばたたいた。

 

「えーっと……なにヶ浜ちゃんだったっけ?」

 

 陽乃が首を傾げて問いかける。その表情には一点の曇りもない。

 

「ゆ、由比ヶ浜ですっ」

「あ、そうだ。ごめんごめん」

 

 まったく悪気のなさそうな陽乃の態度を、八幡は引き攣った顔で見ていた。八幡の電子頭脳は、これが百パーセント「わざと」であることを瞬時に算出する。

 

 この女は、一度聞いた名前をそう簡単に忘れるようなスペックではない。雪ノ下雪乃に匹敵、あるいは凌駕する情報処理能力を持つ彼女が、あえて名前を間違える――その些細な「バグ」の演出にすら、相手の立ち位置を規定する意図がある気がしてならなかった。

 

 八幡がその真意を読み取ろうと陽乃を凝視すると、彼女はくすっと冷麗に笑った。

 

 背筋をぞくっとした寒気が走る。俺の考えなど全てお通しだ、と視線でパケットを送りつけられているような感覚だ。

 

「……今日、雪ノ下は一緒じゃないんですか?」

「雪乃ちゃんなら家にいるんじゃないかな。こういう外向きのことはわたしの役割だし。言ったでしょ、父の名代。遊びに来てるだけじゃないんだから」

 

 陽乃はぴしっと自分を指差し、冗談めかしてにっこり笑う。

 長女が公式な場に出る。それは母の方針なのだという。かつて雪乃が口にした

「自分は代役でしかない」という言葉の重みが、陽乃の立ち振る舞いを通じて八幡のセンサーに重くのしかかる。陽乃こそが雪ノ下家の正統な後継者であり、唯一の「顔」なのだ。

 

「……それって、雪ノ下は来ちゃいけない場所なんですか?」

 

 八幡の問いに、陽乃は少し困ったように微笑んだ。

 

「んー。まあ、母の意志だしね。……それに、わかりやすいほうがいいでしょ?」

 

 後継者は一人。その一貫したアピールこそが、組織――あるいは「家」としての安定を担保する。まるで貴族か、あるいはどこかの国の権力構造を見ているようだ。

 

「あのね、うちって母が強くて怖いんだよー」

「え、それって……雪ノ下より?」

「雪乃ちゃんが? 怖い?」

 

 陽乃は八幡をまじまじと見た後、「あっはははは!」と愉快げに、心底おかしそうに笑った。その朗らかさは、先ほどまでの「外面」とは違い、彼女の内部から溢れ出した本物の感情のように思えた。

 

「もう、失礼だなぁ、比企谷君は。あんな可愛い子をそんなふうに思ってたのー?」

 

 陽乃は目尻に浮いた涙を拭い、咳払いを一つすると、くっと顔を近づけて耳打ちしてきた。

 

「母は、わたしより怖いよ」

「……それ、人間なんですか」

 

 八幡の電子頭脳が、その言葉から未知の脅威を演算する。陽乃より怖い存在――それはもはや強化外骨格を備えた何か、あるいは戦術兵器に近い概念ではないか。

 

「母が何でも決めて、従わせようとする人だから。こっちが折り合いをつけるしかないんだけど……雪乃ちゃん、そういうのへたっぴだから」

「……へたっぴってレベルじゃないだろ、あいつは」

 

 不器用、という言葉では足りない。彼女の意地と誇りは、時にシステムを物理的に破壊するほどに鋭利だ。

 

「だから少し意外だったんだよ。高校入学してから、一人暮らししたいって言い出したのは。あの子、そんなわがまま言うような子じゃなかったから」

「……ゆきのんが一人暮らし始めたの、入学してからだったんですか?」

 

 由比ヶ浜の問いに、陽乃は頷く。

 

「そうそう。父は喜んじゃってあのマンションを与えたんだけど……母は最後まで反対していたし、今も認めていないんだろうね」

 

 父親はフォロー役。母親は支配者。グッドコップ、バッドコップによる巧妙な心理的統治。そんな家族の形に、八幡はひどくげんなりした。

 

「嫌な姉妹だ……」

「あはは、言ってくれるね。……で、今日はデートだったのかな? だったら邪魔しちゃってごめんね」

 

 陽乃の視線が、獲物をスキャンするように由比ヶ浜を観察する。由比ヶ浜は顔を赤くして「そ、そういうわけでは……」としどろもどろになった。

 花火の打ち上げの間。周囲が暗転し、夜闇が深くなる。

 陽乃の瞳の輝きは、夜空よりも暗く、そして鋭かった。

 

「……雪乃ちゃんは、また選ばれないんだね」

 

 ぽつりと。

 その囁きに重なるように、凄まじい轟音と共に特大の花火が打ち上がった。

 だだだだだっ! と空を埋め尽くす閃光。

 明滅する視界の中で、黒いスクリーンに残った光の残像と、風に乗って漂ってくる火薬の匂い。

 時折照らし出される陽乃の微笑みは、穏やかで、けれどそれ以上に残酷な「真実」を突きつけているようだった。

 

 「あの、今のって……」

 

 由比ヶ浜が震える唇を開くのと、新たな花火が打ち上がる轟音は同時だった。

 陽乃はことさら明るくはしゃいでみせ、それから、くるりと二人の方へ振り向いた。

 

「ん? なぁに?」

 

 今の今まで花火の光に夢中で、何も聞こえていなかったとでも言うように、陽乃はにっこりと笑う。その瞳には夜空の輝きが完璧に反射しており、八幡の光学センサーをもってしても、その奥底にある真意をスキャンすることは叶わなかった。

 

「あ、いえ、その……なんでもないです」

 

 由比ヶ浜が言葉を飲み込むと、そこで不自然な空白が会話に生じた。

 タタンッ、と銃声のような短い号砲が続き、ぱらぱらと空に淡い光が広がる。陽乃はあどけない仕草でぱちぱちと拍手をしていた。

 

 そういう「可愛らしい」仕草は、雪ノ下雪乃にはないものだ。いや、おそらく陽乃は、自分が周囲からどう見えるかを完全に理解し、最適化されたUIのように振る舞っているのだ。外見は酷似していながら、根底にあるOSが決定的に違う。それなのに、同じ地平を見つめているように感じられる姉妹。八幡はその歪な構造に、得体の知れない危うさを感じていた。

 

「あー……。雪ノ下さんは」

 

 八幡は呼び方に悩み、とりあえず名字で呼んだ。ファーストネームを呼ぶほど、自分とこの女帝の距離は近くない。呼ばれた陽乃は、面白そうに目を細める。

 

「ん? 私のことなら『陽乃』でいいよ。それか、『お義姉ちゃん』でも可。むしろ推奨」

「ははは……」

 

 八幡の口から乾いた笑いが漏れた。呼ぶわけがないだろう。そんな関係パケット、一生かかっても構築されるはずがない。

 

「……雪ノ下さんは、うちの卒業生だったんすね」

「ん、そーだよ。比企谷くんの三つ上」

 

 陽乃が砕けた口調で言うと、由比ヶ浜が「ほえー」と興味深そうに身を乗り出した。

 

「じゃあ、ゆきのんのお姉さんは二十歳ってことですか?」

「惜しい。まだ十九歳。私、誕生日が遅いんだ。それと、陽乃でいいよ。長いし。なんだったら『はるのん♪』でもいいし」

(貼るホッカイロかよ、ハルノン)

 

 八幡の脳内でそんなツッコミが走る。由比ヶ浜も思わず苦笑いを浮かべた。

 

「じゃ、じゃあ……陽乃さんで」

 

 花火は既に次のプログラム、音楽に合わせた演出へと移っていた。ハート形やキャラクターの形を模した花火が、最新のヒットチャートやクラシックに乗せて打ち上がる。この時間は観客の集中力も少し緩むのか、有料エリアでも歓談の声が目立つようになった。テーブルには軽食も用意されており、まさに貴賓席らしい余裕がある。由比ヶ浜と陽乃は、八幡を間に挟んで会話を続けていた。

 

「ってことは陽乃さん、大学生ですか?」

「そ。近所の国立理工系だよん」

「あ……頭いい……。さすが、ゆきのんのお姉さん」

「本当はもうちょっと上に行きたかったんだけど、親に言われてねー」

 

 感心する由比ヶ浜に対し、陽乃は少しだけ複雑な、あるいは冷めた微笑を浮かべた。地元企業や政界に根を張るなら地元の大学で人脈を、という「家」の論理なのだろうか。八幡は焼きそばを口に運び、ソースの味で思考を紛らわせた。

 

「でもでも、姉妹揃って同じ理系なんですね」

 

 由比ヶ浜が口にした何気ない一言。その瞬間、陽乃の箸を持つ手がわずかに止まった。鳴り続ける花火の音の中、陽乃の横顔に、一瞬だけ異質な「静寂」が走る。

 

「ああ。雪乃ちゃん、国公立理系志望なんだ……」

 

 それは、どこか嘲笑にも似た響きを含んでいた。

 穿った見方をしているからそう感じるのか、あるいは。陽乃は真実、妹のことを微笑ましく思っているのかもしれない。だが、その微笑みの形は、八幡にはどうしても「歪」に見えて仕方がなかった。

 

「昔から、変わらないなぁ……。お揃いで、お下がりで……」

 

 懐かしむような遠い瞳。優しい口調。だがその言葉に含まれた「お下がり」という単語は、八幡の内部回路にぞわぞわとした嫌な振動を走らせた。

 それは、ただの姉妹の思い出話ではない。雪乃が常に姉の背中を追い、その残り香をなぞるように生きていることを揶揄するような、残酷な指摘。

 由比ヶ浜も、そのわずかな「毒」を感じ取ったのだろう。膝の上でぎゅっと握られた拳が、わずかに震えていた。

 

「あの……」

「うん?」

 

 思い詰めた表情の由比ヶ浜に対し、陽乃は至って平静に、小首を傾げてみせる。

 

「……陽乃さんは、……ゆきのんと、仲良くないんですか?」

「やだなぁ。そんなことあるわけないじゃない。私は雪乃ちゃんのこと、大好きだよ」

 

 考える間すら与えない、即答。

 言い切った後に浮かべられた温かな微笑みは、一分の隙もなかった。

 完璧なタイミング。完璧な仕草。

 だからこそ、八幡にはそれが、あらかじめ予想されていた攻撃に対する「迎撃システム」の起動のように思えてならなかった。

 

 陽乃は涼しげに脚を組み替え、由比ヶ浜の決意をあしらうように言葉を重ねた。

 

「……ずーっと私のあとを追いかけてくる妹のことが、可愛くないわけないよ」

 

 それは、常に先を歩く者だけが許される傲慢な慈愛だった。絶対的な勝利者が、地を這う挑戦者を眺めて慈しむような、残酷なまでの距離感。

 陽乃は酷薄さを一滴も感じさせない完璧な美貌で、由比ヶ浜に問いかける。

 

「由比ヶ浜ちゃんは? あなたはどう? 雪乃ちゃんのこと、好き?」

 

 あまりに直接的な「核」を突く質問に、由比ヶ浜は一瞬面食らったように言葉を失った。しかし、彼女は逃げなかった。肺に熱い空気を吸い込み、途切れ途切れになりながらも、その想いを言葉という形に変えていく。

 

「す、好きです! かっこいいし、誠実だし、頼りになるし……でもときどき、すごいボケかまして可愛くて。……それに、わかりづらいけど、優しいし。……あ、あはは。なんかめちゃくちゃなこと言ってますね、あたし」

 

 照れ笑いを浮かべる由比ヶ浜。打ち上がる花火の光が、彼女の紅潮した頬を鮮やかに照らし出した。

「そう……。それなら、よかった」

 

 陽乃は一瞬、慈愛とも呼べる表情を浮かべた。だが、その瞳は次の瞬間には冷酷な夜叉へと変貌する。

 

「みんな、最初はそう言ってくれるんだよ。でも最後はみんな同じ。雪乃ちゃんに嫉妬して、憎んで、彼女を拒絶して排斥し始める。……あなたは違うといいな」

 

 凄絶なまでに可憐な微笑み。それは呪いのような預言だった。

 

「……そんなこと、しないです」

 

 由比ヶ浜は陽乃の威圧感に気圧されながらも、視線を逸らさず、その言葉を叩きつけた。

 陽乃は肩をすくめ、矛先を隣の少年へと向ける。

 

「比企谷くんは、私の言いたいこと、わかるよね?」

 

 ──しかし、返答はなかった。

 

 

「…………………………」

 

 

 比企谷八幡の反応を待つ数秒の間、彼らの間に奇妙な静寂が訪れる。

 

「……比企谷くん?」

「ヒッキー……?」

 

 二人の声が重なる。

 

 その時、八幡は椅子に深く腰掛けたまま、完全に静止していた。

 

 焦点の合わない目は、夜空の輝きを追うでもなく、ただ虚空の一点を見つめている。半開きになった口からは体温の感じられない静かな呼吸が漏れ、その瞳には光も、感情も、何も映っていない。

 

 それは、人間が思考に沈んでいる状態とは決定的に異なっていた。

 陽乃が提示した「雪乃は必ず排斥される」という決定論。そしてそれと矛盾する「妹への愛」。二つの巨大な情報パケットが、八幡の電子頭脳(ブレイン)の中で激しく衝突し、セマンティック・エラー(意味論的エラー)を引き起こしていた。

 

 計算不能。解析不能。

 

 人間としての意識が一時的にスリープモードへ移行し、代わりに『エイトマン』としての純粋な論理演算プロトコルが表層へとせり出す。

 数秒の沈黙の後、八幡の頭部が、精密機械のような滑らかさで陽乃へと向けられた。

 

「……雪ノ下雪乃という存在は、自由である」

 

 その声には、先ほどまでの捻くれた響きも、湿った感情も含まれていなかった。

 比企谷八幡は、表情を一切失った「人形の顔」で、淡々と、事実のみを羅列するように言葉を紡ぎ出した。

 

「……個体:雪ノ下陽乃。当該個体の観測データには、致命的な演算ミスが含まれている。模倣は学習の第一段階に過ぎず、追従は最適解へのプロセスの短縮である。当該個体の視点は、対象の『現在地』という固定座標に固執し過ぎている。それは、システムの成長限界を誤認させる致命的なバグである」

 

 陽乃の瞳が、驚愕に、そして言いようのない戦慄に細められる。

 目の前に座っているのは、彼女が面白がっていた「比企谷八幡」という少年ではない。

 それは、あらゆる事象を有機的な「情緒」ではなく、無機質な「個体データ」として解体し、最適化しようとする、鋼鉄の守護者――『エイトマン』としての側面が剥き出しになった瞬間だった。

 

 だだだだだっ、と夜空を埋め尽くす轟音。明滅する光。

 その喧騒の渦中で、比企谷八幡の電子頭脳(ブレイン)は、外部からの音声を物理的な振動データへと変換し、過去のアーカイブと現在進行形の観測データを高速で照合させていた。

 

 突然の豹変。

 

 人形のように生気を失った瞳で、しかし淀みなく言葉を紡ぎ出す八幡の姿に、隣に座る陽乃だけでなく、由比ヶ浜までもが言葉を失い、目を見開いていた。

 

「回答。個体:雪ノ下雪乃はその人生において、他個体よりも高い自由度を維持したまま生存している」

 

 八幡の口から漏れる声は、もはや少年のそれではなく、冷徹な出力装置(スピーカー)から発せられる合成音声に近い。

 

「過去ログ:一人暮らしの選択。これは『家族』という閉鎖的コミュニティからの解放、および脱却の試行であると定義。奉仕部における活動は、既存の行動アルゴリズムの破棄、および自己の変革と進化のプロセスである。これまでの観測データを集積し、継続的成長をシミュレートした結果、個体:雪ノ下雪乃は進路、就職、生活の全てのフェーズにおいて完全な『自立』を達成し、自らの意志のみで『世界に進出する』可能性が高い」

 

 陽乃の顔から、余裕の笑みが完全に消失した。八幡の瞳は彼女を「一人の女性」としてではなく、修正すべき「エラーデータ」として捉えている。

 

「孤立の原因を推論。周囲の他個体は『自由』という概念に憧憬を抱く一方、その実体としての自由個体を許容できない。雪ノ下雪乃の保有する絶対的な『自由』は、他個体が自覚していない『不自由』な存在意義を露呈させる。排斥の主因は、他者の自己保身による防衛本能である」

 

 八幡の言葉は止まらない。今、彼の全リソースは『雪ノ下雪乃』という存在を定義し、証明するためだけに開放されていた。

 

「個体:雪ノ下雪乃の非論理的部分を指摘。当該個体は、自身が誰よりも自由であることを認識していない可能性が高い。これは内部ロジックの重大な欠陥であり、早急に修正すべき箇所として記録する」

 

 そこで八幡は、視線をわずかに陽乃へとスライドさせた。

 

「……対照個体:雪ノ下陽乃。客観的観測によれば、自由に行動しているように見えるが、その実体は最も『不自由』な個体である。雪ノ下家というコミュニティへの最適化適性が極めて高い一方、その枠組みを超えた柔軟性と将来性には、改善の余地を多分に残している。……当該個体は、システムの部品(パーツ)としての完成度に特化し過ぎている」

「……っ」

 

 陽乃の喉が微かに鳴った。それは、自分の内側をエックス線で焼き切られたような、剥き出しの戦慄だった。

 八幡の電子頭脳は、今この瞬間、雪ノ下陽乃が長年かけて構築してきた「完璧な姉」という名の防壁を、論理の刃でバラバラに解体しかけていた。

 

 花火の爆鳴が再び空を裂く。

 

 火薬の匂いと、熱を持った潮風。

 その中で、人形のような顔をした八幡だけが、誰にも届かない高度な演算結果を夜空へと垂れ流し続けていた。

 

「……第一証明終了。雪ノ下雪乃は、自由である」

 

 最後の一言を吐き出すと同時に、八幡の瞳にわずかな光――「人間」としての光彩が戻り始める。

 システムが冷却モードに入り、膨大な熱量を逃がすように、八幡は深く、長く、ため息を吐いた。

 

「ヒ、ヒッキー……?」

 

 隣に座る由比ヶ浜の声は、震え、上ずっていた。

 目の前で起きたあまりに異常な豹変。数秒前までそこにいた「捻くれた、けれどどこか体温のある比企谷八幡」は消え失せ、代わりにそこにいたのは、精密機械の冷たさで知人を解体・分析する「何か」だった。

 由比ヶ浜結衣のこれまでの人生において、一度も目撃したことのない、底知れない恐怖。

 

「…………」

 

 対する陽乃は、動かなかった。

 八幡が紡ぎ出した『回答』。その非の打ち所のない論理構成と、最後に自分に向けられた「不自由な部品」という宣告。そのパケットを一つ一つデコードするのに、彼女の明晰な頭脳ですら全リソースを割く必要があった。

 

 その時だ。

 

 ――びくんっ!

 

 八幡の身体が、強烈な電気ショックを受けたかのように跳ねた。

 死んでいた瞳に光彩が戻り、焦点が急速に結ばれる。

 

「――っ、が、はっ……!?」

 

 内臓が焼き切れるような灼熱感。

 喉元までせり上がってくる、強烈な不快感。

 それが肉体的な嘔吐感ではないことを、八幡のシステムは瞬時に警告(アラート)として出力した。

 

(気持ち悪い……なんだ、これ……)

 

 それは、比企谷八幡という自意識が、たった今実行された「エイトマンの演算結果」に対して、猛烈な拒絶反応を示していた。

 勝手な思い込み。独りよがりの決めつけ。他者という複雑な存在を、データと数式だけで定義し、レッテルを貼るという行為。

 それは、比企谷八幡という人間がこの世で最も忌み嫌い、唾棄すべきだと断じてきた「欺瞞」そのものだった。

 

 その最悪の行為を、あろうことか『雪ノ下雪乃』という人間に対して行い、あまつさえ他人の前で「証明」して見せた。

 その事実は、彼の矜持をズタズタに引き裂くには十分すぎた。

 

「……う、あ……!!」

 

 八幡は口を押さえ、逃げるように椅子から転げ落ちた。

 視界が歪み、火薬の匂いが吐き気を助長させる。

 

「ヒッキー!?」

 

 由比ヶ浜の悲鳴が遠くで響く。

 地面に膝をつき、荒い呼吸を繰り返す八幡の脳内に、感情を排した無機質なシステムメッセージが響き渡った。

 

『警告:精神汚染指数が閾値を突破。自意識と論理回路の不整合を確認』

『対策:神経伝達物質の沈静化、およびエネルギー補給を推奨します』

 

 そして、その冷たい音声に続いて、皮肉にも彼が最も好む「解」が提示された。

 

『――マックスコーヒーの補給を推奨します』

 

 頭の中に響く、冷徹なアラート。

 八幡は震える手で地面を掴み、自分の中に同居する「鋼鉄の怪物」の合理性に、心底からの嫌悪を覚えるのだった。

 

 「ヒッキー! ねえ、大丈夫!? しっかりし……すごい熱!?」

 

 由比ヶ浜の細い指先が八幡の腕に触れた瞬間、彼女は短い悲鳴を上げた。

 八幡の人工皮膚の下にある超高密度回路は、今の数秒間の演算――雪ノ下雪乃という存在の再定義、および陽乃への論理的攻撃――によって、超音速移動を数時間継続したに等しい過負荷に晒されていた。冷却システムが追いつかず、放出される廃熱はもはや常人の「発熱」を遥かに凌駕している。

 

「…………マッ……」

 

 絞り出すような、ひび割れた声。

 視界はノイズで埋め尽くされ、オーディオセンサーはハウリングを起こしている。

 

「なに!? ヒッキー、なんなの!? どこが痛いの!?」

「……マックス、コー、ヒー」

 

 それは八幡の電子頭脳が導き出した、唯一の回復プロトコル。

 糖分、カフェイン、そして彼が慣れ親しんだあの琥珀色の液体。エイトマンのエネルギー伝達効率を最大化し、摩擦熱を抑えるための「潤滑油(ルブリカント)」としての役割を、彼の身体は本能的に求めていた。

 

「コーヒーって……そんなの、ここには……!」

 

 パニックに陥り、周囲を見渡す由比ヶ浜。だが、ここは隔離された貴賓席だ。自動販売機など近くにあるはずもない。

 

「――都築、持ってきてちょうだい。マックスコーヒーよ。無ければそこら中の自動販売機を回ってでも」

 

 狼狽する由比ヶ浜の声を断ち切るように、陽乃の鋭い声が響いた。

 彼女の背後に控えていたスーツ姿の男が、一言も発さず一礼し、影のように闇の中へと消えていく。

 

「陽乃さん……」

「大丈夫。今、冷たいのが来るからね」

 

 陽乃は椅子から立ち上がり、八幡の様子をじっと見据えた。その瞳には、心配という感情よりも、未知の現象に対する「観察」の色が強く滲んでいる。

 地面に手をつき、荒い呼吸を繰り返す八幡。

 火薬の匂い。

 鳴り響くスターマインの爆音。

 それらが、意識の濁流の中で遠ざかったり近づいたりする。

 一分と経たなかった。

 「都築」と呼ばれた男が戻ってくると、手際よく数本の缶コーヒーを差し出した。陽乃はそれをひったくるように受け取り、八幡の前に跪く。

 

「……飲める?」

 

 陽乃の手によってプルタブが引かれ、甘ったるい香りが鼻孔を突いた。

 八幡は震える手でそれを受け取ると、焼け付く喉へと流し込んだ。

 ――ガツン。

 脳を直接殴るような、暴力的なまでの甘さ。

 次の瞬間、八幡のシステムが歓喜の悲鳴を上げた。

 高純度の糖分がエネルギーへと変換され、暴走していた演算回路を鎮めていく。冷却ファンが静かに回り始め、視界のノイズが一点に収束していった。

 

「……ふぅ……」

 

 一本目を飲み干し、二本目に手を伸ばす。

 一気に三本を空けたところで、ようやく八幡の体温は正常値へと戻り始めた。

 

「……悪い。……助かった」

 

 八幡は額の汗を拭い、椅子に寄りかかるようにして座り直した。

 隣では由比ヶ浜がまだ涙目になって彼を見つめている。そして、正面には――。

 陽乃が、まるで壊れた精密機械を鑑定するような、薄ら寒い微笑みを浮かべて立っていた。

 

「……比企谷君。君、本当に『人間』なのかな?」

 

 祭りの喧騒の中。

 彼女のその一言だけが、八幡の防壁をすり抜けて胸の奥に突き刺さった。

 

「自分でも……よく、わかりません」

 

 荒い息を吐き出しながら、八幡は力なく答えた。

 人間としての自意識をコピーし、記憶の転写を果たしたロボット。世間的な定義に当てはめるなら、それはサイボーグ、あるいはアンドロイドと呼ばれるものなのだろう。

 

 しかし、今の醜悪な豹変はどうだ。

 

 論理の奴隷に成り果て、親しい人間さえも冷徹なデータとして解体する。それは比企谷八幡という少年の意志なのか、それとも、ただの電子回路の塊が弾き出したエラーコードに過ぎないのか。

 八幡はすっかり気力が抜けてしまっていた。自分の内側にある「鋼鉄」が、自分の「心」を侵食し、喰らい尽くしていくような恐怖。

 陽乃はそんな八幡の消耗を、楽しむように、あるいは慈しむように見つめていた。彼女は小さくため息を吐くと、自らの白く滑らかな手を、八幡の無機質な熱を持つ手にそっと重ねた。

 そして、獲物を追い詰めた捕食者のような、昏い光を宿した微笑みで囁く。

 

「……さっきの『回答』、とても面白かったよ。比企谷くん」

 

 八幡の頬が、引き攣るように動く。

 彼女は理解してしまったのだ。比企谷八幡の皮を被った「何か」が持つ、恐るべき透徹な視線を。それが彼女にとってどれほどの娯楽になり、どれほどの凶器になるかを。

 だが、その光景を横で見ていた由比ヶ浜が、弾かれたように動いた。

 

「もう……やめてください!」

 

 鋭い叫び。

 由比ヶ浜は陽乃の手を振り払うようにして、八幡の身体を自分の方へと力一杯抱き寄せた。

 陽乃の冷たい「興味」から彼を隠すように、そして、バラバラになりそうな彼の存在を繋ぎ止めるように。

 

「ヒッキー……ヒッキー……っ」

 

 震える肩。八幡の首筋に、熱い滴がこぼれ落ちる。

 由比ヶ浜は泣いていた。

 八幡の電子頭脳は、その液体の成分を「塩化ナトリウムを含む水分」として瞬時に分析し、彼女の心拍数を「120bpm」と記録する。

 けれど、比企谷八幡としての意識は、その抱擁の熱さと、彼女の身体の柔らかさに、ただ震えていた。

 

 ――機械に、この「重み」は計算できるのか。

 ――回路に、この「痛み」は理解できるのか。

 

 由比ヶ浜の泣き声が、祭りの喧騒を塗り替えていく。

 その時。

 ズゥゥゥン……と、大地を揺らすような重低音が響き、夜空の最果てで巨大な金色の枝垂れ柳が広がった。

 今夜最後の一発。

 光の尾がゆっくりと闇に溶け、火薬の匂いだけが風に取り残される。

 花火は、そこで最後の一つを打ち終えた。

 訪れたのは、耳が痛くなるほどの静寂と、夏の夜の、重苦しいまでの暗闇だった。

 

 

──

 

 

 祭りの終わった後の帰り道は、行きよりもずっと長く感じられた。

 

 あれから由比ヶ浜は、陽乃と共にいることを断固として拒絶した。そこに、いつもの「空気を読む」彼女の姿はなかった。

 そこにあるのは、純粋な恐れ。そして、今も隣に立つ少年を、得体の知れない「何か」から守ろうとする本能的な防衛反応。

 

 由比ヶ浜は、八幡の腕に自分の手を回し、しがみつくようにして歩いていた。八幡の身体を支えている、というよりも、それは八幡という存在がどこかへ消えてしまわないよう、必死に『縋りついている』ように見えた。

 

(……とんだ夏祭りだったな)

 

 八幡は、まだ熱を帯びたままの足元を慎重に運びながら、今日起きた出来事をログから呼び出した。

 ドクトル・デーモンとの三度目の再会。あの時点で「嫌な予感」という名の不吉なフラグは立っていた。だが、まさかその後に雪ノ下陽乃という、デーモンとはまた質の違う「毒」に当てられるとは思わなかった。

 

 自分の内側にあるエイトマンとしての演算回路。それが陽乃の言葉に反応し、雪ノ下雪乃という人間を無機質なデータとして解体した。その時の感覚が、今も八幡の意識の隅で澱(おり)のように沈んでいる。

 

「……由比ヶ浜」

 

 八幡が重い口を開くと、彼の腕を掴んでいた由比ヶ浜の身体がびくりと一瞬震えた。先ほどの「人形のような八幡」の残像が、まだ彼女の網膜に焼き付いているのかもしれない。

 だが、彼女はすぐに、無理に作ったような、けれどどこか温かな微笑みを八幡に向けた。

 

「……どうしたの? ヒッキー」

 

 その声を聞いた瞬間、八幡の喉の奥に、苦い鉄の味が広がったような気がした。

 自分は、彼女が望んでいた「ヒッキー」ではないのかもしれない。だとしても、今の自分にはこの言葉を吐き出すことしかできなかった。

 

「……今日は、ごめんな。祭り……台無しになっちまった」

 

 小町のリストにあった『花火を見た思い出』。

 それは本来、もっと輝かしくて、甘酸っぱいものであるべきだったはずだ。決して、鋼鉄の理論で論破し、嘔吐感に苛まれながら椅子から転げ落ちるようなものではなかった。

 八幡の謝罪を聞き、由比ヶ浜は歩みを止めた。

 夜道に立つ街灯が、彼女の浴衣の桃色を、ぼんやりと孤独な色に染め上げている。彼女は八幡の腕を掴んでいた手にさらに力を込め、俯いたまま静かに首を振った。

 

「……ううん。台無しなんかじゃないよ」

 

 その声は、泣き出しそうなのを必死に堪えているように聞こえた。

 

「ヒッキーが、あたしのために……小町ちゃんのために、頑張ってくれたの、分かってるから。……だから、謝らないで」

 

 一緒に電車に乗った。体がくっついて、恥ずかしかった。

 一緒にりんご飴を食べた。ちょっと美味しくなかったけど、嬉しかった。

 一緒にいて、楽しかった。

 

 八幡は答えなかった。いや、答える資格がないと思った。

 由比ヶ浜の温かな体温が、鋼鉄の腕を通じて伝わってくる。その「熱」こそが、今の彼にとっては、自分の存在を人間に繋ぎ止めるための、唯一の命綱だった。

 

──

 

 

 足音だけが、乾いたアスファルトに響く。

 祭りの余韻はすでに消え、鼻をつく火薬の匂いも夜風に洗われて薄くなっていた。八幡は、自分の腕に縋り付く由比ヶ浜の重みを感じながら、前を見据えたまま静かに口を開いた。

 

「……今から言うことは、独り言だ。だから、黙って聞け」

 

 由比ヶ浜の身体が、かすかに強張る。八幡は彼女と視線を合わせることなく、淡々と、けれど祈るような重みを込めて言葉を紡いだ。

 

「二学期が始まって、雪ノ下と会っても……今日のことは言うな。陽乃さんのことも。それから――」

 

 八幡は一度、言葉を切った。電子頭脳が「事故」のログを呼び出す。あの雨の日、雪ノ下の家の車が彼を撥ねた、全ての始まりの日。

 

「……事故のこともだ。あいつが自分で言うまで、待っておいてやれ」

 

 由比ヶ浜は何も答えなかった。ただ、八幡の腕を掴む指先にぎゅっと力がこもる。それが彼女なりの、静かな肯定であることは分かっていた。

 やがて、由比ヶ浜の家が近づいてきた。八幡は足を止め、彼女の拘束を解くように促す。

 

「……ありがとう。もう、ここまででいいから」

 

 だが、由比ヶ浜は離れなかった。

 八幡の鋼鉄の腕を掴む彼女の身体は、小刻みに震えていた。その震えは、夜風の冷たさのせいではない。目の前で一度「人形」に成り果てた少年が、今にも夜闇に溶けて消えてしまうのではないかという、根源的な恐怖から来るものだった。

 

 八幡は、そんな彼女を安心させようと、無理やり笑顔を作ろうとした。

 

 だが、今の自分にそんな器用な芸当ができるはずもなかった。頬の筋肉がひきつり、鏡を見ずとも「腐った死んだ魚の目」がより一層醜く歪んでいるのが自覚できた。

 

(……情けねぇな)

 

 こんな時に、彼女を抱きしめることも、あるいは人間らしく涙を流すこともできない。

 エイトマンの眼球ユニットは、どれほど心が痛みに引き裂かれようとも、潤滑剤以外の水分を排出する機能を持ってはいないのだ。

 

 恥ずかしさと、情けなさと、自分への猛烈な嫌悪。

 

 泣けないということが、これほどまでに苦しいとは。

 八幡は、彼女の細い指を一つずつ、ゆっくりと自分の腕から引き剥がした。

 

「……じゃあな」

 

 由比ヶ浜の手が宙に浮き、力なく垂れ下がる。

 八幡は彼女の表情を見る前にきびすを返し、逃げるように暗い夜道の先へと歩き出した。

 数歩、重い足取りで進んだその時。

 

「――ヒッキー!」

 

 背中越しに、震えながらも芯の通った声が届いた。

 八幡が足を止めずに背中で聴くと、由比ヶ浜は溢れそうになる涙を堪えるように、精一杯明るく、けれど祈るような響きを込めて告げた。

 

「またね! ……また明日も、明後日も。……またね、ヒッキー!」

 

 「またね」。

 

 そのありふれた挨拶は、比企谷八幡という存在を明日という時間へ繋ぎ止める、最強の拘束プロトコルのように響いた。

 八幡は振り返らなかった。ただ、一度だけ小さく手を挙げて、闇の中へと消えていった。

 オーディオセンサーに残る彼女の声が、過熱した原子炉の熱を、ほんの少しだけ和らげてくれた気がした。

 

 

──

 

 

 「ただいまー」

 

 玄関の扉を開け、八幡は努めて気の抜けた声を絞り出した。

 エイトマンとしての回路は未だ熱を持ち、由比ヶ浜の涙の感触が腕に残っている。けれど、せめてこの家の敷居を跨ぐ時くらいは、いつもの「ダメな兄貴」の擬態を完璧にこなさなければならない。それが、比企谷八幡としての最後の矜持だった。

 

「あ、お兄ちゃんおかえりー! 遅かったね!」

 

 廊下の奥から響く、小町の快活な声。

 その響きに触れた瞬間、八幡の顔に自然と微かな笑みが浮かんだ。

 世界がどれほど歪んでいようと、自分がどれほど鋼鉄の機械に成り果てていようと。帰る場所があり、自分を「おかえり」と迎えてくれる存在がいる。今の八幡にとって、それはどんな高出力のエネルギー源よりも、彼を人間へと繋ぎ止める力を持っていた。

 

「『おかえりですにゃーん♫』」

「……………………んん?」

 

 どこか聞き覚えのある、妙に親しみを感じさせる電子音声がリビングから聞こえてきた。

 うぃぃぃぃん、と微かなモーター音を響かせながら、小町と一緒に玄関までやってきたのは――。

 全高六十センチほど、どっかで見たような寸胴で円筒形の、猫耳のような突起がついた……明らかに「テキヤの景品」の域を超えた精密機械だった。

 

「お兄ちゃん、ビックリした!? これ、さっき届いたんだよ! 『大当たり』のお届け物だって! お兄ちゃん、いつの間に懸賞なんて当てたの?」

 

「……大当たり」

 

 八幡の脳内に、あのサングラスの男の声がリフレインした。

 

 『おめでとう、大当たりだ』

 

 あの時、デーモン博士が鳴らした鐘の音は、物理的な景品の引き渡しではなく、この「招かれざる客」を比企谷家へ送り込むための転送、あるいは配送命令の合図だったのだ。

 

「『コーヒーを、お持ちしますにゃーん♫』」

 

 どこかで聞いたような――それこそ、あの夏の森で聞いた「配膳ロボット」と同じ声色で、猫耳ロボットの腹部がスライドした。そこにはキンキンに冷えたマックスコーヒーの缶が鎮座していた。

 

 宿敵の執拗な追跡。

 

 自宅という絶対安全圏にまで侵食してきたマッドサイエンティストの影。

 そして、あまりに場違いな語尾の「にゃーん」。

 八幡は白目を剥き、溜まっていた過負荷と衝撃が一度に爆発した。

 

「あ、これ、ダメなやつだ」

 

 膝から崩れ落ち、そのまま玄関のたたきに倒れ込む。今度こそ、比企谷八幡のシステムは完全なシャットダウンを選択した。

 

「お、お兄ちゃん!? どうしたの!? 立ち直りが早いのが自慢じゃなかったの!? お兄ちゃーーーーん!!」

 

 小町の悲鳴にも似た絶叫が、夏の夜の比企谷家に、虚しく、けれどどこか温かくこだまするのだった。

 




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