——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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新章開始です。
八幡が8幡になったことで、周囲にもじわじわと影響が出てきます
ちょっと暗い話です


第二十四話:比企谷少年の葛藤

 

 九月一日の朝。

 八幡は、アラームが鳴るよりも数分早く、ゆっくりと意識を覚醒させた。

 まだ日の昇らない、藍色の闇が部屋に満ちている時間だ。チッチッ、と静寂の中で時を刻む時計の針の音だけが、耳の奥に響く。

 八幡は伸びを一つして頭をかきながら、音を立てないように階段を降りた。

 

 機械の身体になったとはいえ、毎日の試運転(キャリブレーション)を怠れば、パフォーマンスは瞬時に低下する。関節駆動部のチェック、人工筋肉のテンション調整。朝の準備運動は、今や八幡の予定表(スケジュール)に深く組み込まれたルーチンの一つだった。

 

 今日から、新学期が始まる。

 洗面所で鏡を見つめながら、今年の夏休みを振り返る。

 

 ――色々あった。いや、あまりにもあり過ぎた。

 

 ケン・ヴァレリーとの宿命の決闘。

 自然教室、あの黒死蝶の羽音が響く森での死闘。

 そして、あの夏祭りの夜の出来事。

 雪ノ下陽乃に突きつけた論理の刃と、その後に訪れた猛烈な自己嫌悪。

 

 八幡はゆっくりと頭を振り、不快なログをメモリの奥へと追いやった。物理的な戦闘よりも、あの夜の精神的な消耗の方が、今の彼には重く感じられた。

 リビングに降りると、ひんやりとした静寂が彼を迎える。アンニュイな空気に浸りながらソファに腰掛けようとした、その時だった。

 

「おはようございますにゃ〜ん」

 

 うぃぃん、と微かな駆動音。

 配膳ロボット――通称『ベラ』が、キッチンの隅の充電スポットから起動した。その平らなトレイの上には、我が物顔で丸くなったカマクラが乗っている。

 

 結局、このデーモン博士製のネコロボットは、比企谷家の新たな居住者として定着してしまった。八幡が入念にスキャンした限り、即座に爆発するようなトラップは見当たらなかったが、相手はあのデーモンだ。エイトマンのチェックを潜り抜けるような『バックドア』を仕込んでいても不思議ではない。

 だが、小町が「可愛い!」と大層喜んでいたため、無碍に追い出すこともできず、気づけば二週間以上が経過していた。

 

「お飲み物をお届けしますにゃ〜ん」

「……おお、ワリな」

 

 八幡はトレイからマックスコーヒーを受け取り、ついでにその上で眠りこけているカマクラの頭をつついた。

 八幡にはあれほど塩対応のくせに、この無機質なベラ公にはあっさり懐きおってからに。猫の思考ルーチンも、八幡の電子頭脳には解読不能なブラックボックスの一つだった。

 

 プシュッ、と小気味よい音を立ててプルタブを開ける。

 

 琥珀色の液体を喉に流し込むと、高純度の糖分がエネルギーへと変換され、今日一日の主要なブーストが完了する。意識がクリアに研ぎ澄まされ、体内回路が次々と活性化していく。

 今日からまた、あの騒がしく、面倒な学校生活が始まる。

 

 八幡は空になった缶をベラのトレイに戻すと、まだ眠っているであろう家族を起こさないよう、静かに登校の準備を始めた。

 

 

──

 

 

 「あら、久しぶりね」

 

 階段の上から降ってきたその言葉は、驚くほど長い年月を経て届けられたような錯覚を八幡に与えた。

 

「……おう、ご無沙汰」

 

 雪ノ下雪乃は相変わらず、周囲を切り裂くような氷の美貌に、凛とした空気を纏っていた。彼女は吸い込まれるように自然な動作で八幡の隣に並び、一定の距離を保ったまま歩き出す。

 この数ヶ月、世界を揺るがすような死闘や、人智を超えた技術の暴走を目の当たりにしてきた八幡にとって、彼女の変わらない「拒絶」と「高潔」が共存する立ち振る舞いは、奇妙な安堵をもたらした。

 二段の段差を保ったまま、二人の影が校舎の床に伸びる。

 

「比企谷くん」

 

 振り返ることなく、背中越しに投げかけられた声。八幡は首をわずかに傾けることで、受信準備が完了したことを示した。その沈黙を肯定と捉えるまでに数秒の「間」を置いてから、雪ノ下は静かに言葉を継いだ。

 

「……姉さんと、会ったのね」

 

 廊下を行き交う生徒たちの喧騒に紛れても、その透明な声は八幡のオーディオセンサーに克明に記録された。

 八幡は、あの夏祭りの夜に見た、陽乃の射抜くような、いたぶるような瞳を思い出して、背筋に微かな身震いが走るのを感じた。

 そして、理解した。なぜ雪ノ下雪乃が、あの完璧な姉をこれほどまでに畏れ、遠ざけようとするのか。陽乃という存在は、観測するだけで対象の精神構造を暴き、解体してしまう。それはある意味で、エイトマンの演算回路よりも残酷な「視線」だった。

 

「ああ……たまたまな」

 

 八幡の声は、果たして正常な周波数で出力されていただろうか。

 それを確認する前に、階段は終わりを告げ、二年生の教室へと続く廊下に出た。

 左へ行けば雪ノ下の所属する国際教養クラス、右へ行けば八幡のF組。物理的な分かれ道で、雪ノ下がふと立ち止まる。

 

「あの……」

「――部活、今日から始めるのか?」

 

 八幡は彼女を追い抜く際、半身で振り返りながら問いを投げた。

 雪ノ下は珍しく言葉を詰まらせ、その端正な眉をわずかに寄せた。

 

「え、ええ……そのつもり、だけれど……」

「了解。……また後でな」

 

 言い終わる前に、八幡は歩き出していた。

 背中に雪ノ下の視線を感じる。何かを言いかけて、けれどそれを呑み込んだ微かな気配を察知しながらも、八幡は立ち止まることができなかった。今の自分には、彼女と正面から向き合うための冷却水(エネルギー)が圧倒的に不足していた。

 通りかかるどの教室も、夏休みの再会を喜ぶ活気に満ちている。

 八幡の教室も例外ではなく、彼が教室に入ったことに気づく者は一人としていない。その「透明な自分」に、彼は深く安堵した。

 

(……ああ、よかった。いつもどおりの俺だ)

 

 八幡は、自分のことが好きだ。

 今まで、自分のことを嫌いだと思ったことなど一度もない。

 高い基本スペックも、どこか捻くれた現実的な思考も、鏡に映る中途半端に整った死んだ魚の目も。全てが「比企谷八幡」という個体を構成する、愛すべき要素だった。

 エイトマンという鋼鉄の身体にも、最近はどうにか折り合いがつけられそうだと、そう思っていた。

 最高の電子頭脳。千葉の地を瞬時に駆け巡る加速装置。電脳世界を自在に操る処理能力。それらを使って、自分なりに上手くやっていけるはずだと。

 

 だが、今。

 

 八幡は初めて、この「身体」を、自分自身を嫌いになりかけていた。

 勝手に演算(期待)して、勝手に最適化(理想)を押し付け、勝手に理解した気になって、そして勝手に失望する。

 八幡の人格の裏側に潜み、静かに駆動し続ける効率化された理性という名の怪物(バケモノ)。

 

 雪ノ下雪乃という人間を、あの日、無機質なデータとして解体してしまった自分。

 

 夏休みが終わる時、新学期が始まる今、比企谷八幡は、生まれて初めて「自分」という存在に、激しい嫌悪感を抱いた。

 

 

──

 

 

 「ヒキタニくん、今ちょっと時間ある?」

 

 休み時間、机に突っ伏して省電力モード(仮眠)に入っていた八幡の聴覚センサーが、軽薄な周波数をキャッチした。

 

「よっ。おやすみ中ごめんねー?」

 

 顔を上げると、そこにはF組の潤滑剤兼いじられ役、戸部がいた。えーっと、名前なんだっけ……戸部っち? ……いや、戸部でいいか。

 八幡は心の中で微かに謝罪し、眠そうな目を擦りながら目の前の金髪を見上げた。

 

「……なんか用か」

「あー、その。ここだとちょっと言いづらいっていうか。場所、変えない?」

 

 「嫌です」という拒絶プロトコルが喉元まで出かかったが、「マッ缶奢るから」という一言で、八幡の小遣い制限に対する防衛本能が上書きされた。

 校舎裏の自動販売機。琥珀色の液体が喉を潤す音と共に、戸部は珍しく神妙な面持ちで語り始めた。

 

「……最近さ、っていうか結構前からなんだけど。海老名さん……海老名姫菜さんのこと、マジでいいなーって思ってて」

 

 八幡は危うくマックスコーヒーを吹き出しそうになった。

 戸部の話によれば、葉山グループが形成された当初から、それとなく海老名のことは気になっていたらしい。そして、決定打となったのがあの自然教室での事件だ。

 

 自分が機械の犬(ヘルハウンド)に襲われそうになった瞬間、彼女は自分を突き飛ばして守ってくれた。その勇敢な、あるいは無鉄砲な姿に、戸部の恋愛回路は完全にロックオンされてしまったのだという。

 

「もう、これ告白しかないっしょ? マジで」

「いや、ないっしょって言われてもな」

 

 言い分は理解できる。確かに海老名姫菜という存在は、表層データだけを見れば「調子外れの腐女子」だ。だが、あの自然教室での挙動を解析すれば、彼女が八幡でも気づかないような細部にまで思慮を及ぼす、繊細で捉えどころのない二面性を持っていることが推測できる。

 そのギャップに戸部が「やられた」のだとしたら、彼の見る目は案外節穴ではないのかもしれない。だが、最大の疑問が残る。

 

「……で、なんで俺に聞くんだよ。葉山とか、雪ノ下に聞いた方がマシだろ」

「いやー、隼人くんはさ、あいつモテすぎっつーか、参考になんねーし? 雪ノ下さんは……マジ近づき難いし。それに、もし失敗して今のグループの空気、ブチ壊したくないんだよね……」

 

 戸部にしては意外なほど、集団の維持を優先する繊細な回答だった。これも海老名の影響だろうか。

 

「あとさ……ヒキタニくん、アレじゃん? 『男気』っつーの? やるときはやる男って感じじゃん! それならビシッとアドバイスもらえるかなーって」

「…………」

 

 八幡の電子頭脳が「男気」という単語を処理し、エラーを吐き出した。

 おそらく、プロフェッサー・ユレーに対して行ったあの「土下座」のことだろう。三浦優美子というハブを通じて、女子ネットワーク内に「ヒキオの土下座=冷静かつ大胆な自己犠牲による勝利」という凄まじい誤読が拡散されている。

 あれは生存確率を最大化するための、最も合理的で冷徹な選択肢(オプション)に過ぎない。ドロドロとした感情の塊である「男気」などとは、最も遠い場所にある行為だ。

 

 誤解だ。致命的なまでのバグだ。

 

 だが、戸部の瞳はキラキラと輝き、八幡を「恋愛の師匠」か何かのように見つめている。

 

「そういうわけだからさ、ヒキタニくん……いや、ヒキタニさん! オナシャス!」

「……比企谷だっつってんだろ。それと『さん』はやめろ、背中が痒くなる」

 

 八幡は空になった缶をゴミ箱に放り投げ、深い溜息をついた。

 二学期早々、またしても「自分」という個体への誤ったレッテルが、新たな問題を運んできてしまった。

 

 

──

 

 

 結局、八幡は『奉仕部員』としてではなく、『比企谷八幡』個人として戸部の相談を受ける羽目になった。

 

 彼の電子頭脳は、即座に「告白成功率の最大化」と「失敗時のグループ壊滅リスクの最小化」を目的としたシミュレーションを開始する。

 八幡はマックスコーヒーを一気飲みし、空になった缶をゴミ箱へ放り投げると、意識のクロック周波数を一段引き上げた。

 

(……やれやれ。マックスコーヒー一本分の『営業』だ。せいぜい、この戸部とかいう個体の有用性を演算してやるとするか)

 

 八幡の網膜ディスプレイに、過去の行動ログが滝のように流れ始める。

 

 ――ディープスキャン・モード、起動。

 対象:戸部翔。

 検索ワード:『長所』『美点』『生存戦略上の優位性』。

 

(検索開始。……チッ、ヒット件数が少なすぎる。……いや、絞り込み条件を広げろ。『社会的潤滑剤』『裏表のなさ』『集団維持能力』……。……よし、抽出完了だ)

「……いいか、戸部。よく聞け。アドバイスを一度だけ出力する」

「お、おう! さすがヒキタニさん、マジ期待してるわ!」

 

 八幡は無機質な瞳で、導き出した『戸部翔の解体新書』を基に、具体的な行動プロトコルを提示し始めた。

 

「まず、お前の最大の武器は『裏表のなさ』だ。葉山のような完璧な善性でも、俺のような歪んだ合理性でもない。お前はただ、バカがつくほど真っ直ぐだ。海老名姫菜という個体は、周囲の『空気』を読みすぎて疲弊している節がある。お前のその、ある種デシベルの大きな純粋さは、彼女の防御壁(ATフィールド)を物理的に突破できる可能性がある」

「突破!? マジ!? 俺のバイブス、海老名さんに届いちゃう感じ!?」

「うるせえ、声のボリュームを下げろ。……次に、作戦のタイムラインだ。メインイベントは『文化祭』に設定する」

 

 八幡の指先が、空中に仮想のガントチャートを描くように動く。

 

「文化祭の準備期間は、平時よりも『役割』という名の境界線が曖昧になる。そこで以下のプロトコルを実行しろ。

 一、海老名と同じ班を死守しろ。これは葉山に根回ししておけば確実だ。

 二、お前の高い身体能力とスタミナを『重労働』に全振りしろ。海老名の作業を奪うのではなく、彼女が『やりたくない泥臭い作業』を先回りして完遂しておけ。

 三、海老名の腐女子トークには『共感』ではなく『全肯定』で返せ。内容を理解する必要はない。ただ、彼女がその仮面を被っている間、お前が最強の『肯定的な観客』であり続けろ」

「なるほど……全肯定……。勉強になるわー!」

「まだある。告白のタイミングは文化祭当日の『後夜祭』……の直前だ。キャンプファイヤーの火が点く前、周囲が最も浮き足立っている瞬間に、あえて喧騒から離れた静かな場所へ連れ出せ。心理学的慣性の法則により、高揚した精神は静寂に触れた際、最も無防備になる」

 

 八幡の冷徹なアドバイスは止まらない。戸部が失敗した場合の「グループ内の気まずさ緩和プロトコル」まで含めた十数項目の指示。それは、恋愛相談というよりは、軍事的な拠点攻略のブリーフィングに近かった。

 

「……以上だ。これらを完璧に実行すれば、成功確率は統計学的に見て現時点の三倍……一五パーセントまでは跳ね上がる」

「一五パー(セント)!? マジか、それほぼ勝ち確じゃん! ありがとな、ヒキタニさん! 恩に着るわマジで!」

 

 戸部は謎の自信を漲らせて、スキップでもしそうな勢いで去っていった。

 八幡は再びふぅ、と深く一息ついた。脳内の処理能力を恋愛ごときで浪費したことに、ひどい徒労感を覚える。

 

 

 

 だが、その安堵はわずかコンマ数秒で打ち砕かれる。

 

「ねえ、比企谷くん」

 

 背後からかけられた声。

 八幡のオーディオセンサーが、その主を即座に特定する。

 海老名姫菜。

 振り返ると、そこにはいつもの「腐女子モード」のハイテンションを完全に封印し、どこか困ったような、あるいは酷く冷めたような表情で佇む彼女がいた。

 

「海老名。いつからそこにいたんだ」

「最初からだよ。戸部くんが君を連れ出した時から、なんとなく嫌な予感がしてさ」

 

 海老名は自販機の影に寄りかかり、眼鏡の奥にある瞳で八幡を見据えた。その視線は、先ほどまで戸部に向けていた「優しい嘘」を全て剥ぎ取ってしまうほどに鋭利だった。

 

「あはは、困っちゃうな。比企谷くんって、ああいう時に意外と親身になっちゃうんだね。戸部くんの『男気』だっけ? それに応えようとしちゃった?」

「ただの営業だ。缶コーヒー一本分のな」

 

 八幡は無機質に答えたが、海老名は小さく首を振った。

 

「比企谷くん。君が教えた『文化祭で外堀を埋める』作戦……。あれ、私にとっては『逃げ場を失くされる』のと同じなんだよね」

 

 八幡の内部システムが、彼女の発言を解析して警告(アラート)を発する。

 海老名姫菜にとって、葉山隼人を中心とする今のグループの「空気」は、彼女が唯一息をつける安息地だ。そこに「恋愛」という異物が混入し、固定化されることを、彼女は本能的に拒絶している。

 

「今のままが一番いいのに。……壊したくないんだ、私も。隼人くんも、優美子も」

 

 海老名の言葉は、先ほど戸部に見せた「アドバイス」が、このグループの均衡を破壊するトリガーになりかねないことを示唆していた。

 八幡は自分の出した最適解が、海老名という個体の存立基盤を脅かしている事実に気づく。

 

「比企谷くん。君は、今を壊さずに済む方法も見つけられるのかな?」

 

 皮肉めいた、けれど切実な問い。

 海老名は、戸部が去っていった方向をぼんやりと見つめながら、相変わらず困ったような、ひどく頼りない笑みを浮かべていた。

 

「……さっきも言ったけど。私、今のあの関係が、好きなんだよね」

 

 葉山、三浦、由比ヶ浜、そして戸部。

 クラスの頂点に君臨する、あの華やかで、眩しすぎるほどに完成されたグループ。海老名はその輪の中にいる時間を、宝物のように慈しんでいるのだと静かに語る。

 

「だから……こういうことで、壊されたくないんだ」

「……壊れるなら、その程度の関係なんじゃないのか」

 

 八幡は、冷徹な演算結果をそのまま口にした。

 上っ面の、薄氷の上に築かれたような関係なら、誰がどう動こうと遅かれ早かれ瓦解する。あるいは、季節が過ぎるように自然に消滅していく。それはエイトマンの電子頭脳が導き出した論理的な帰結であると同時に、比企谷八幡という人間がこれまでの人生で嫌というほど味わってきた「現実」でもあった。

 だが、海老名は八幡の言葉を遮るように、静かに言葉を重ねる。

 

「失くすのって、怖いでしょ。……比企谷くんも、そうなんじゃないかな」

 

 八幡の内部センサーが、一瞬だけ激しいノイズを感知した。

 

「私と比企谷くん、なんか似てると思うから」

 

 ――似ている。

 その言葉は、どんな物理的な攻撃よりも深く、八幡の防壁を貫いた。

 そう、分かってしまったのだ。海老名姫菜が抱えている、この居場所を失うことへの「恐怖」を。

 変わりたくない。壊したくない。今のこの安寧を守るためなら、自分を偽り、仮面を被り続けることさえ厭わない。その歪んだ執着心が、痛いほどに理解できてしまった。

 

 八幡は沈黙した。それは、肯定と同義の沈黙だった。

 

 海老名姫菜という個体は、八幡にとってのイレギュラーだ。

 陽気で、けれどその実、恐ろしいほどに聡明。だからこそ、彼女の言葉の裏側を読み解こうとしてしまう。中学時代の苦い経験則が、この手の「分け隔てなく接してくる女子」に対する警告信号(アラート)を鳴らし続けていた。

 彼女が「腐女子」であることを過剰にアピールしているのは、それが自分を守るための、最も強固な武装だからではないのか。

 

「比企谷くんはさ、そういうの分かるでしょ? だって、今の私が誰かと付き合っても、上手くいきっこないもん」

 

 間髪入れずに、海老名は冷たく言い放つ。

 

「私、腐ってるから」

 

 凍りついた笑顔。

 それは、自分自身をあきらめ、他者を拒絶するための完璧な言い訳。

 まるで、かつて八幡が自分に言い聞かせてきた「ぼっちの哲学」と同じ、自己防衛のプロトコルだった。

 

「……なら、しょうがないな」

「そう。しょうがないの。誰も理解できないし、理解されたくもない。だから、上手く付き合っていけない」

 

 海老名はそう言うと、視線を遥か遠く、大階段の下へと向けた。

 そこには彼女にしか見えない「理想の景色」があるのかもしれない。

 一歩、また一歩と、彼女は注意深く足元を確認しながら、階段を下りていく。その去り際、背中越しに吐き捨てられた言葉が、八幡の電子頭脳に致命的なエラーを刻み込んだ。

 

「……だから、私は自分が嫌い」

 

 その言葉は、風に乗って消えていった。

 残されたのは、自動販売機の唸り声と、空虚なマックスコーヒーの重み。

 

(……俺も、自分が大嫌いだ)

 

 エイトマンとしての万能感と、比企谷八幡としての無力感。

 誰かを守るために論理を使い、その結果として誰かの逃げ場を奪い取ってしまう。

 二学期の初日。

 八幡は、かつてないほど深い自己嫌悪の海へと沈んでいく。

 

「時間取らせてごめんね」

 

 そう言い残して、海老名姫菜は静かに立ち去った。

 後に残されたのは、ぬるくなったマックスコーヒーの空き缶と、比企谷八幡という名の、機能不全に陥った精密機械だけだった。

 

(何やってんだ、俺は)

 

 八幡は自販機に背を預け、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。

 戸部の恋愛相談。そんな、以前の自分なら鼻で笑って切り捨てていたはずの「青春の残滓」のような案件を、なぜ自分はあんなにも丁寧に、シミュレーションまで重ねて引き受けてしまったのか。

 

 人間関係の変化が、それまで維持されていた均衡にどのような破壊的作用を及ぼすのか。

 それを誰よりも理解し、誰よりも「現状維持」という名の停滞を信条としていたのは、他ならぬ自分自身ではなかったか。

 

(変わらないことを選んできたはずの俺が、なぜ他人の関係に変化を促すような真似をした……?)

 

 電子頭脳の演算回路が、自身の行動の矛盾を突き、激しい警告(アラート)を鳴らす。

 戸部へのアドバイスは、論理的には「成功率の最大化」という正解を導き出していた。しかし、海老名の視点から見れば、それは「安息地の破壊」を加速させる最悪の劇薬でしかなかった。

 

「傲慢なんだよ、結局」

 

 八幡は膝に顔を埋め、独り言を漏らした。

 エイトマンとしての万能感に酔いしれていたわけではない。だが、どこかで「自分なら最善の答えを出せる」という、選民意識に似たエゴが働いていたのではないか。

 他者の人生という、不確定要素に満ちた数式に、外側から勝手な変数を書き加える。それがどれほど無責任で、暴力的な行為であるか。

 

 出口のない思考の迷路。

 海老名の「自分が嫌い」という言葉が、呪いのように耳の奥でリフレインする。

 

(俺もだ。……こんな身体になっても、結局、やってることは中学時代から何も変わっちゃいない)

 

 効率化された理性という名の怪物は、今や八幡自身の精神をも侵食し始めていた。

 自分の出した「正解」が、誰かの「大切にしたい偽物」を壊そうとしている。

 

 チャイムが鳴り、休み時間の終わりを告げる。

 

 八幡は重い身体を引きずるようにして立ち上がった。

 そして、自責の念、後悔、自己嫌悪。そんな人間らしい感情の濁流の下で、さらに冷徹で、さらに鋭利な「本音」が鎌首をもたげているのを、彼は自覚してしまった。

 

(救えねぇのは、俺だ)

 

 海老名の「変わりたくない」という悲痛な願いに共感し、自分を重ね合わせている一方で、八幡の意識の深層には、それとは正反対の猛烈な嫌悪感が渦巻いていた。

 葉山を中心とした、あの心地よく、緩く、互いの本質に踏み込まない「見せかけだけの関係」。

 それを維持するために、自分を殺し、仮面を張り付け、周囲を欺き続ける海老名姫菜の生き方。

 

(……反吐が出る)

 

 それは比企谷八幡としての自意識が抱く、根源的な「偽物」への忌避感だ。

 かつて自分が求め、そして手に入れられなかった「本物」とは対極にある、その場限りの欺瞞。そんな虚飾に満ちた平穏など、いっそ粉々に壊れてしまえと叫ぶ自分が、確かにそこに存在していた。

 

 そして、その破壊衝動を後押しするのは、彼の中の「鋼鉄の理論」だった。

 

『状況解析:対象コミュニティの維持コストは、構成員の精神的負荷に対して不釣り合いである』

『結論:虚偽データの蓄積によるシステムの停滞は、中長期的な最適化を阻害する。……速やかな瓦解と再構築を推奨する』

 

 無駄を省き、効率化と最適化を是とするエイトマンの思考回路にとって、海老名が守ろうとしている「空気」は、処理速度を低下させるノイズ(ゴミ)に過ぎない。

 嘘をつき、顔色を窺い、本音を隠すための計算リソース。そんなものは、一瞬で演算の彼方へ切り捨て、真実という名のプログラムで上書きするのが最も「正しい」選択なのだ。

 

(ああ、そうか。俺は……俺たちは、最初から相容れないんだ)

 

 由比ヶ浜のように、優しさで世界を包もうとするわけでもない。

 雪ノ下のように、正しさで世界を正そうとするわけでもない。

 

 俺は、この効率化された理性という名の怪物(バケモノ)を使って、誰かの「大切にしたい偽物」を無慈悲に暴き、解体しようとしている。

 自分が一番嫌っていたはずの「レッテル貼り」を、今や自分自身の存在が、システムそのものとして実行しようとしているのだ。

 

 八幡は、自分の手がかすかに震えていることに気づいた。

 それは恐怖ではなく、何らかの「正解」に辿り着いてしまったことへの、冷たい興奮。

 

「……最悪だな」

 

 独り言を吐き捨て、八幡は教室へと戻る。

 廊下を歩く自分の足音が、まるで処刑場の床を叩くハンマーのように重く、無機質に響いていた。

 




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