——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第二十五話:波瀾の文化祭

 

 

 放課後の奉仕部部室。

 西日に照らされた教卓、並べられた椅子、そして使い込まれた茶器。外見上の風景は一学期と何ら変わりはない。だが、そこに漂う空気の「密度」は、以前とは決定的に異なっていた。

 

「……ねえ、ヒッキー。今日の小テスト、難しくなかった? あたし、全然わかんなかったよー」

 

 静寂を強引に引き裂くように、由比ヶ浜結衣が声を上げる。

 八幡は、手にしていた文庫本から視線を上げることなく、短く答えた。

 

「……ああ。あれは出題範囲が嫌らしかったからな」

「だよね! よかったー、ヒッキーもそう思うなら、あたしがバカなだけじゃないよね?」

 

 由比ヶ浜は努めて明るく笑う。その笑い声の周波数を、八幡のオーディオセンサーは無機質に解析した。

 ――150Hz。高音域に微かな震え。心拍数、推定95。

 彼女は、この「冷え切った空気」を維持するために、必死に自分の体温を削って燃料にしている。エイトマンの演算回路は、それを『極めてエネルギー効率の悪い、無意味な対話プロトコル』と定義する。

 だが、比企谷八幡という人間は、その「無意味さ」に、胸を締め付けられるような申し訳なさを抱いていた。

 

「……ゆきのんは、どうだった?」

 

 由比ヶ浜が、隣の席で静かに本をめくる雪ノ下雪乃へとパスを出す。

 雪乃は一度、指先を止めた。だが、八幡の方を見ようとはせず、視線を伏せたまま答える。

 

「……特筆すべき点はなかったわ。教科書の内容を理解していれば、解答できるレベルよ」

「あはは……。ゆきのんにとってはそうだよね……」

 

 会話が、音を立てて凍りついていく。

 雪乃の指先が、本の端を強く握りしめているのを八幡のスキャンは見逃さない。彼女の喉の奥にある微かな痙攣。それは、吐き出したい言葉を、自責の念という重しで無理やり押さえ込んでいる証拠だ。

 

(事故のことを、言おうとしてる。だが、言えない)

 

 八幡は知っている。彼女が加害者の側にいた事実を。

 そして雪乃は知らない。八幡がその事実を知っており、さらに、その事故によって一度「死んだ」ことさえも。

 

「比企谷くん」

 

 不意に、雪乃が名前を呼んだ。

 八幡の電子頭脳が、即座に戦闘態勢(クロックアップ)に入りそうになる。

 

「なんだ」

「……いえ、なんでもないわ。……お茶、淹れ直すわね」

 

 彼女は逃げるように立ち上がり、給湯室へと向かった。

 その後ろ姿を見送りながら、八幡は自分の内側にある「怪物(エイトマン)」が、彼女の弱さを冷静に分析していることに恐怖した。

 

(今の雪ノ下雪乃の行動原理は、罪悪感に基づく回避行動だ。……非効率的だ。……脆弱だ。……解体すれば、一瞬で論理破綻する)

 

 思考が勝手に最適化され、他者を部品として定義していく。

 その冷徹な視線が自分自身に向けられるたび、八幡は吐き気にも似た自己嫌悪を覚える。

 

「……ヒッキー?」

 

 気づけば、由比ヶ浜が心配そうに顔を覗き込んできていた。

 彼女の瞳には、八幡を怖がる色はない。ただ、彼がどこか遠くへ行ってしまいそうな不安だけが、波のように揺れている。

 

「大丈夫だよ、ヒッキー。あたしが、ちゃんとここにいるから」

 

 彼女のその言葉は、エイトマンの論理回路には何の解決策ももたらさない。

 だが、比企谷八幡の人間としての自意識は、その「非合理的で非効率な優しさ」に感謝を抱く。

 

「サンキュー、由比ヶ浜。……大丈夫だ」

 

 八幡は再び、文庫本へと視線を落とした。

 文字を目で追う。だが、何一つ頭には入ってこない。

 ただ、給湯室から聞こえる湯沸かし器の音と、隣に座る少女の規則正しい呼吸だけが、自分がまだ「人間」であることを証明するための、細い糸のように感じられていた。

 

 

──

 

 

 二学期早々、ホームルームの時間は停滞した熱気に包まれていた。

 比企谷八幡は、机に突っ伏して『省電力モード』を起動させていた。視界を遮断し、脳内のクロック周波数を最低限まで落とす。夏休みからの過剰な演算負荷が、彼の精神を蝕んでいた。

 

(……眠い。いや、これはシステムの中断だ。意識をシャットダウンして、熱を逃がす……。何も考えたくない……)

 

 だが、その安息は物理的な衝撃によって打ち砕かれた。

 ――ガツンッ!

 

「……」

 

 後頭部に響く振動。見上げると、そこには出席簿を武器のように手にした平塚静が、仁王立ちで八幡を見下ろしていた。

 

「いつまで夢の世界にダイブしているんだ、比企谷。現実に戻ってこい」

「……先生、今の衝撃で精密回路がイカれたらどうするんですか。労災ですよ、労災」

「安心しろ、愛の鞭は計算済みだ。それより、文化祭実行委員の選出だ。誰も手を挙げないからな。……というわけで、男子枠はお前だ。異論は認めん」

 

 平塚は有無を言わせぬ口調で黒板に『比企谷』と書き殴った。教室中から「あー、あいつか」という、関心と軽蔑が混ざったような視線が八幡に突き刺さる。

 

「ちょ、待ってください。俺みたいな人間が委員なんてやったら、文化祭が葬式会場になりますよ。論理的な不適格者です」

「葬式大歓迎だ。お前のその捻くれた視点が必要なんだよ。……さて、女子枠だが。由比ヶ浜、お前はどうだ?」

 

 平塚が由比ヶ浜結衣に視線を向ける。由比ヶ浜は申し訳なさそうに、隣の三浦優美子と顔を見合わせた。

 

「あ、あの……先生、ごめんなさい。あたし、優美子に誘われて呼び込みのグループに入っちゃってて……」

「……ふむ、そうか。三浦の圧力なら仕方ないな。おい、誰か女子でやる奴はいないのか?」

 

 教室内を沈黙が支配する。誰もが面倒な役回りを避けたい、けれど誰かがやらなければ終わらない。そんな不毛な「空気」の探り合い。

 その時、教室内で最も「爽やか」な声が響いた。

 

「平塚先生。……相模さんなんてどうかな? ほら、相模さんって人望もあるし、リーダーシップもあるから、適任だと思うんだよね」

 

 葉山隼人だ。彼の言葉は、まるで魔法のように教室内の空気を一変させた。視線が、教室の中ほどに座る相模南へと集中する。

 

「え、えぇっ!? 隼人くん、何言ってるのー! 私なんてそんな……!」

 

 相模は慌てて手を振るが、その頬は隠しきれない高揚でわずかに上気していた。周囲の女子たちが、葉山の言葉に追従するように声を上げる。

 

「あ、いいかも! 南なら明るいし、盛り上がりそう!」

「ねー、委員長とかマジ似合うと思う!」

 

 八幡の電子頭脳は、相模の表情筋の動きを瞬時に分析した。

 ――口角の微かな引き上げ。承認欲求の閾値突破。彼女は今、自分に向けられた「期待」という名の毒を、極上の甘露として飲み込んでいる。

 

「……まぁ、みんながそう言ってくれるなら……。うん、私でよければやってみようかな! せっかくの文化祭だし、みんなで最高の思い出にしたいしね!」

 

 相模は立ち上がり、クラス中に響くような声で宣言した。

 軽い。あまりにも軽い決断だった。

 その背後で、八幡は心底嫌な予感に襲われていた。

 

(……人望? リーダーシップ? 葉山、お前は何を見て言ってるんだ……。そんなものは、この相模南という個体には一片も搭載されていないぞ……)

 

 最適化された八幡の視界には、相模の「虚栄心」という名のバグが真っ赤なエラーとして明滅していた。

 

「よし、決まりだな。実行委員は相模、比企谷。放課後、文実の第一回会議がある。遅れるなよ」

 

 平塚が満足げに教室を去っていく。

 八幡は再び机に顔を伏せた。これから始まるであろう「非効率」で「不条理」な祭りの足音が、彼の電子耳には既に爆音として聞こえ始めていた。

 

 

──

 

 

 特別会議室の空気は、窓から差し込む西日と、集まった生徒たちの体温が混ざり合い、不快な熱気として澱んでいた。

 最後方の席に陣取った比企谷八幡は、思考のクロック周波数を極限まで下げた「待機モード」を維持していた。彼の網膜ディスプレイには、室内の二酸化炭素濃度の上昇と、各生徒のバイタルサインが淡々とマッピングされている。

 

 視界の端、窓際に座る雪ノ下雪乃だけが、その熱気から隔絶された「静謐」を纏っていた。背筋を定規で引いたように真っ直ぐ伸ばすその横顔は、名工が削り出した白磁の彫像を思わせる。八幡のセンサーは、彼女の呼吸が周囲の喧騒に一切同調せず、独自の一定したリズムを刻んでいることを捉えていた。

 

「えー、それじゃあ。まずは一番大事な、実行委員長を決めちゃいたいと思うんだけど……」

 

 教壇に立つ生徒会長、城廻めぐりが、おっとりとした笑みを浮かべながら資料を広げた。彼女の周囲には、生徒会役員たちの期待と不安が入り混じったバイオ信号が渦巻いている。めぐりの視線は、迷うことなく一点――雪ノ下雪乃へと固定された。

 

「私としてはね、やっぱり雪ノ下さんにお願いしたいなーって思ってるんだ。……ほら、お姉さんの陽乃さんも、かつては素晴らしい委員長としてこの学校を引っ張ってくれたでしょう? 雪ノ下さんなら、あのお姉さんみたいに完璧にこなしてくれると思うんだよね」

 

 その瞬間、八幡のオーディオセンサーが、雪乃の肺胞が収縮し、呼吸がコンマ数秒停止したのを検知した。心拍数、一時的なスパイク。

 会議室内に「おぉ」という納得の、しかし無責任な同意の空気が波及する。誰もが「雪ノ下陽乃の妹」というラベルを彼女に貼り、その幻影に期待を寄せていた。

 

 だが、雪ノ下から発せられたのは、周囲の期待を原子レベルで凍結させるような、絶対零度の拒絶だった。

 

「……お断りします」

 

 その声には、一切の感情の揺らぎが排除されていた。めぐりが困惑したように言葉を重ねる。

 

「えっ……? でも、雪ノ下さん。お姉さんもそうだったし、一学期の実績だって――」

「『姉がそうだったから』という理由が、私がその席に座る根拠になるとお思いかしら、城廻先輩」

 

 雪ノ下はめぐりを射貫くような視線を向けた。その瞳の奥には、八幡にしか読み取れない激しい拒絶プロトコルが暴走していた。一年前、雪ノ下家の車によって人生を断絶された八幡にとって、その「家」の重圧が彼女をどれほど苦しめているかは、論理を超えた直感として理解できた。

 

「私は姉ではありません。そして、誰かの代用品としてその椅子を汚すつもりもありません。……他を当たってください」

 

 峻烈な否定。会議室を支配したのは、逃げ場のない重苦しい沈黙だった。

 誰もが「雪ノ下雪乃」という完璧な選択肢を失い、かといって自分がその泥を被る勇気もない。生徒会役員たちの脳波は、一様に「回避」と「困惑」を示していた。

 その「空白」という名の真空地帯に、一つの計算されたパルスが入り込んだ。

 

「……あの。もし、誰もいないなら……私がやっても、いいかな?」

 

 おずおずと、けれど絶妙なタイミングで手を挙げたのは、相模南だった。

 八幡の光学スキャンが、彼女の表情をミリ単位で解析する。

 ――口角の微かな引き上げ。承認欲求の閾値突破。「健気な自分」のアピール。

 

「私、こういうの全然慣れてないけど……でも、せっかくの文化祭だし。みんなで最高の思い出にしたいなって。……あ、もちろん、雪ノ下さんみたいに頭の良い子が助けてくれるなら、だけど!」

 

 相模は、はにかむような笑顔を周囲に振りまいた。

 八幡の電子頭脳は、その表情の裏にある『悪意なき搾取』の論理を瞬時に弾き出した。彼女は「委員長」というキラキラした記号だけを欲し、実務の重圧を雪乃という「有能なシステム」に丸投げしようとしている。

 

「おぉ! さすが相模さん、いいじゃん!」

「南なら明るいし、盛り上がりそうだよなー」

 

 周囲の無責任な賛辞が、相模の背中を押し、既成事実を塗り固めていく。

 めぐりもまた、組織の崩壊を免れたことに安堵したのか、救われたような表情で大きく頷いた。

 

「よかったぁ……! じゃあ、今年の実行委員長は相模さんにお願いするね。雪ノ下さんも、相模さんを支えてあげてくれるかな?」

「……。ええ、クラス代表としての職務は全うします」

 

 会議はそのまま、相模を称える和やかな、そして空虚なムードで幕を閉じる。

 八幡は深く溜息をつき、空になったマックスコーヒーの缶を握りしめた。

 最適化されたはずの世界が、人間というバグによって、取り返しのつかない崩壊の序曲を奏で始めている。

 

(……陽乃さんの幻影を追う会長、それを拒絶して自罰的な補佐に回る雪ノ下。そして、自分が裸の王様であることに気づかない相模)

 

 八幡の網膜ディスプレイには、このシステムの「破綻」までのカウントダウンが、真っ赤なエラーログとして明滅し続けていた。

 

 

──

 

 

 放課後の奉仕部部室には、夕刻の斜光が重苦しく差し込んでいた。

 部室の空気は、先ほど行われた文化祭実行委員会会議の余韻を引きずり、冷え切った静寂に満たされている。八幡は椅子に深く腰掛け、自身の指先から漏れる微弱な電磁パルスを視覚化しながら、無意味なノイズの羅列を眺めていた。

 

「……というわけで。これからの期間、奉仕部の活動は一時休止とするわ」

 

 紅茶のカップをソーサーに置く、硬質な音。雪ノ下雪乃が、感情の起伏を完全に削ぎ落とした声で告げた。八幡のオーディオセンサーが、彼女の声の背後に潜む「拒絶」の波形を検知する。

 

「私たち全員が文化祭実行委員、あるいはクラスの出し物の準備に追われることになる。……依頼をこなす余裕がない以上、これが最も合理的な判断よ」

「……あはは、そうだよね。あたしも優美子たちの手伝いとかあるし……。ね、ヒッキー?」

 

 由比ヶ浜結衣が、無理に作った笑顔で同意を求める。彼女の心拍数は依然として高く、このぎこちない関係性をどうにか繋ぎ止めようとする必死さが、赤外線スキャンを通じて熱量として伝わってきた。

 

「……ああ。異論はない。効率を考えれば妥当だ」

 

 八幡は短く答えた。だが、彼の超電子頭脳は、雪ノ下が「効率」という言葉を口にするたびに、システム上のエラーログを生成していた。彼女が委員長を拒絶した理由は「合理性」などではない。姉、陽乃という巨大な影に対する、血を流すような自己防衛本能の結果だ。

 

 その時、部室のドアが、ノックという儀式を軽んじるような乱暴さで開け放たれた。

 

「雪ノ下さん、いるー!? あ、ゆいちゃんも。よかったぁ!」

 

 入ってきたのは、実行委員長に就任したばかりの相模南だった。彼女の表情には、重責を負った者の悲壮感などは微塵もない。むしろ、キラキラとしたイベントの主役を演じていることへの高揚感と、それを支える「舞台装置」を見つけた安堵が混ざり合っていた。

 

「あのね、早速なんだけど依頼に来たの! 実行委員長としての初仕事、私一人じゃちょっと心細いっていうか……。だから、奉仕部に『委員長補佐』として入ってほしいんだよね!」

 

 相模は雪ノ下の机に身を乗り出し、無邪気な、そして残酷なほどの楽観を撒き散らす。

 

「雪ノ下さんなら、こういうの得意でしょ? 私が全体を盛り上げるから、細かい事務作業とか、指示出しとか、そういうのは全部任せちゃっていいよね! そのほうが『効率的』だし!」

 

 八幡の内部システムが激しい警告音を鳴らした。

 ――矛盾。搾取。および、責任の丸投げ。

 相模の言葉に含まれる「効率的」という単語は、雪乃が先ほど口にしたものとは対極にある、怠惰な搾取者の言い訳に過ぎない。八幡は雪乃が冷徹にこれを切り捨てるのを待った。「活動は休止した」と。

 しかし、雪ノ下の口から漏れたのは、信じがたい受容の言葉だった。

 

「……いいわ。その依頼、引き受けるわ」

「本当!? よかったぁ、やっぱり頼りになるね! じゃあ明日からよろしく!」

 

 相模は自分の用件だけを嵐のように置いて、満足げに去っていった。

 後に残されたのは、凍りついたような静寂。八幡は、本を見つめたまま動かない雪乃の横顔に、自身のセンサーを向けた。

 

(エラー。論理破綻。再起動(リブート)不能。──何でだよ)

 

 八幡の演算回路は、雪ノ下の行動を完全に『不合理』と定義した。

 委員長の座は「姉の代用品」になることを嫌って拒絶しながら、その実務の全てを「補佐」という、より報われない立場から引き受ける。それは、自らのプライドを、自分よりも無能な存在に奉仕させることで、自らを罰しているようにすら見えた。

 

「……ゆきのん。今、休止って言ったばっかりなのに……」

 

 由比ヶ浜が、悲鳴に近い声を漏らす。雪ノ下はようやく顔を上げたが、その瞳にはかつての峻烈な光はなく、ただ深い霧のように沈んでいた。

 

「奉仕部としての活動は休止よ。……これは、私個人が、副委員長的な立場として責任を果たすだけのこと。比企谷くん、あなたが口を挟むことではないわ」

「……勝手にしろよ。それがお前の言う『合理性』ならな」

 

 八幡は立ち上がり、鞄を掴んだ。

 エイトマンとしての鋼鉄の論理は、彼女が泥沼に自ら沈んでいくのを、静観しろと命じている。だが、比企谷八幡という人間は、その矛盾だらけの彼女の姿に、胸が焼けるような憤りを感じていた。

 

「ヒッキー……」

 

 由比ヶ浜が、八幡の服の裾を小さく引く。

 彼女の瞳には、壊れゆく関係への恐怖が宿っていた。八幡は、その指から伝わる体温を、まるで自分を「人間」に繋ぎ止めるための命綱のように感じながら、沈黙のまま部室を後にした。

 

 部室を後にした八幡の足取りは重かった。

 校舎の窓から差し込む夕日は、床を血のような赤色に染め上げている。歩くたびに、その影が異形のように長く、鋭く伸びては消えていく。

 

(……あいつが何を考えているのか、理解でき……いや、これは)

 

 八幡の電子頭脳は、先ほどの雪ノ下雪乃の決断をリプレイし続けていた。

 『実行委員長』という公的な権限を持つ椅子を姉への反発から拒絶し、そのくせ『補佐』という名目で実質的な全責任を背負い込む。それは、潤滑油なしで回転を続ける歯車のように、自らを摩耗させ、熱を帯び、やがて焼き付いて止まることを前提とした設計思想(ロジック)に思えた。

 

(あいつは、壊れようとしている。自分の正しさを証明するために、自分を部品にして使い潰そうとしている……)

 

 そんな八幡の思考を遮るように、後ろからパタパタと小走りの足音が近づいてきた。

 

「ヒッキー、待って!」

 

 由比ヶ浜結衣だった。

 廊下の中ほどで呼び止められ、八幡は足を止める。振り返ると、彼女は息を切らし、オレンジ色の光の中で泣き出しそうな瞳をして立ち尽くしていた。

 

「……なんだ。由比ヶ浜」

「あのね、あたし、わかってるよ。……ゆきのんが、すごく変なこと言ってるのも。ヒッキーが、すごく怒ってるのも」

 

 由比ヶ浜は一歩、八幡に近づく。彼女から放射される微かな熱量が、八幡の赤外線センサーを刺激した。それは、先ほどの雪乃の氷のような沈黙とは対照的な、生身の人間の、ひどく危うい温かさだった。

 

「でも、あたし……。あたしじゃ、ゆきのんのこと、助けてあげられないから。あんな風に難しいこと言われちゃうと、何て言えばいいかわかんなくなっちゃうから……」

 

 彼女は八幡の制服の袖を、震える指先で掴んだ。

 エイトマンの光学センサーは、彼女の瞳の奥に溜まった涙の粒子と、細く波打つまつ毛を極めて鮮明に捉えていた。

 

「ねえ、約束だよ、ヒッキー。……ゆきのんが、本当に困ってたら。自分でもどうしようもなくなって、壊れちゃいそうになったら。……助けてあげてね?」

 

 その瞬間、八幡の内部システムに劇的な変化が起きた。

 

『――リクエスト承認。プロトコル「結衣との約束」を生成――』

『――優先度:最高(MAXIMUM)。他の全タスクに優先して実行せよ――』

『――ガード:無効化(DISABLE)。この命令を放棄することは不可能である――』

 

 網膜ディスプレイに、幾重もの警告と承認のログが高速で流れる。

 それは単なる日常の約束ではない。鋼鉄の心臓を持つ八幡にとって、それはシステムの根幹に書き込まれた「絶対命令(オペレーション)」へと変換された。

 

(……ああ。わかってるよ)

 

 八幡は、自分の内側で何かが取り返しのつかない形で噛み合ったのを感じた。

 この約束を守るということは、雪ノ下雪乃が隠し通そうとする弱さを暴き、彼女のプライドを解体し、そして自分自身が「正しさ」という名の刃を振るう破壊者になることを意味している。

 

「俺の出来る範囲でな」

 

 八幡は短く答えた。その声は、自分でも驚くほど無機質で、けれど鋼のような硬度を持っていた。

 由比ヶ浜は、安心したように小さく息を吐き、ようやく少しだけ笑った。

 

「よかった……。ヒッキーがそう言ってくれるなら、あたし、信じるよ」

 

 彼女は手を離し、先に階段へと向かっていった。

 一人残された廊下で、八幡は自分の右手をじっと見つめる。

 この手は、重さ三百五十キロの鋼鉄を動かし、音速を超えて空気を引き裂き、指向性電流波であらゆる電子を支配する。

 だが、その力のすべてを注ぎ込んだとしても、一人の少女の「祈り」に応えることが、どれほど残酷な結果を招くのか。

 

 八幡はこの時、まだ知らなかった。

 

 この「約束」こそが、彼を出口のない自己犠牲の迷路に閉じ込め、鋼鉄の心臓に消えない「軋み」を与え続ける原因になるということを。

 

(……助ける、か)

 

 八幡は夕日に背を向け、影の中へと歩き出した。

 彼の電子頭脳には、既に「雪ノ下雪乃を救うための、最も効率的で、最も理想的な最適解」の断片が、不吉なノイズと共に浮かび上がっていた。

 




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