——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第二十七話:革命の旋律

 

 

 委員会室は、一夜にして「前線の司令部」へと変貌を遂げていた。

 比企谷八幡は、教室中の机を連結し、各クラスからかき集めたノートPC十数台を円環状に配置。彼はその中心に座り、まるで多腕の神像のように複数の端末へ同時に指を走らせていた。

 

「――比企谷くん、物品管理部会。テントのリース契約に三時間のラグ。配送ルートに非効率な迂回があるわ」

 

 雪乃の声が、戦場を統べる指揮官のように響く。彼女は教卓に広げられた資料の「不備」を瞬時に見抜き、迷いなく八幡へパッチを投げる。

 

「了解。――修正プログラム、物理入力開始」

 

 八幡の電子頭脳は既にサイバースペース経由で運送会社のシステムを捉えていたが、彼はあえて「擬態」としての物理入力を選択した。

 

 ――ダダダダダダダダダッ!!

 

 打鍵音が、一定のリズムを超えて一つの「轟鳴」へと変わる。

 八幡の両手は、常人の動体視力では捉えられない「残像」と化していた。エイトマンの超高速駆動が、ハイマンガン・スチールの指先を通じて、キー入力を実行する。

 

 画面上のカーソルが、魔法のようにウィンドウを飛び回り、配送スケジュールをミリ秒単位で再編していく。

 

「完了。次は?」

「記録雑務。全校生徒のアンケート三千枚の集計、および広報パンフレットの最終校正。明日までには終わらせて」

「十秒待て。……スキャン、およびタイピング出力開始」

 

 八幡は左手でアンケートの束を亜音速で捲り、右目は光学センサーでその内容をデジタルデータ化。同時に空いた右手で、校正用のテキストエディタに「正解」を叩き込んでいく。

 

 宣伝広報、有志統制、保健衛生、会計監査――。

 

 雪乃が口にする全ての「不備」が、八幡の指先から火花が出るようなタイピングによって、即座に「完了」へと書き換えられていった。

 

「……あ、あの……」

「な、なんだよ、これ……」

 

 入り口で立ち尽くしていたのは、あまりの熱気に気圧された委員たちだった。

 彼らが目にしたのは、死んだ魚の目をした比企谷八幡が、まるで千手観音のように複数の画面を操り(実際には残像が見えるほどの速度で動いている)、その傍らで雪ノ下雪乃が、かつてないほど苛烈に、そして美しく采配を振るう姿だった。

 

 そこには、かつての「押し付け合い」や「怠惰」が入る余地はなかった。

 二人の背中から立ち上る、圧倒的なまでの「熱量」と「正しさ」。

 自分たちが適当に済ませようとしていた仕事が、目の前で「完璧な形」へと磨き上げられていく光景に、生徒たちの心の中にあった「逃げ」の回路が焼き切られていく。

 

「……なんか、俺たちもやんねーと、マジで置いてかれるぞ」

「あんなに、あんなに必死にやってるの、初めて見た……」

 

 一人が席に着き、資料を手に取った。

 続いて二人が、PCの前に座る。

 雪乃と八幡が作り出した「鋼鉄の奔流」に、生徒たちが一人、また一人と呑み込まれ、同調していく。

 

「有志統制班、手が空いているならこれを確認して。私が算出した音響補正案よ」

 

 雪乃が差し出した資料を受け取る生徒の手は、わずかに震えていた。だが、その瞳には恐怖ではなく、確かな「目的意識」が宿り始めていた。

 

「わ、分かりました……! すぐに現場に伝えます!」

 

 死んでいた委員会に、再び「血」が通い始める。

 相模南が放棄し、陽乃がかき回した空虚な空間が、今、比企谷八幡という鋼鉄の触媒を得て、一つの「意志」を持った巨大な生命体へと変貌していく。

 

(……ああ。これが、雪ノ下雪乃が作りたかった世界か)

 

 八幡は、自身のプロセッサが過負荷で悲鳴を上げるのを感じながらも、生まれて初めての充足感に浸っていた。

 人間の役に立つこと。正しき者が、正当に報われる世界を構築すること。

 そのために自分の「スペック」を使い潰すのは、案外、悪い気分ではなかった。

 八幡の視界の端で、雪乃がふと柔らかな笑みを浮かべたのを、超精密光学センサーが捉えた。

 それは、エイトマンの論理回路には記録されない、比企谷八幡だけの「生涯の記憶」となった。

 

 

──

 

 

 比企谷八幡の指先がキーボードを叩く音は、単なる打鍵音ではなく、高周波のうなりのような一定の「鳴動」へと昇華されている。彼の網膜ディスプレイには、全校生徒の動線、機材の搬入状況、予算の進捗率が、リアルタイムで変動する複雑なフラクタル図形のように投影されていた。

 

「――比企谷くん、広報班のプレスリリース。修正案三二番を適用。同時に、地域住民向けの案内文に誤字を一箇所検知。直ちにリライトして」

 

 雪ノ下雪乃の指示が、淀みなく飛ぶ。彼女の声には、一学期の頃のような

「刺々しさ」はない。そこにあるのは、自らの理想を具現化するための、相棒(パートナー)への絶対的な信頼だった。

 

「了解。――並列処理。リライト完了、送信した」

 

 八幡の返答は短く、無機質だ。だが、その打鍵の精度は雪乃の思考速度に寸分の狂いもなく追従していた。二人の間に流れるのは、言葉による対話を必要としない、純粋な「意志の同期(シンクロ)」。

 その、張り詰めた極限の空間に、ガラガラと台車を引く音が入り込んだ。

 

「ヒ、ヒッキー! ゆきのん! マックスコーヒー持ってきたよ! 近くの自販機の、全部買い占めてきたから!」

 

 由比ヶ浜結衣だった。彼女は箱詰めされた大量のマックスコーヒーを台車に乗せ、額に汗を浮かべながら現れた。

 

「サンキュー。そこに置いといてくれ」

 

 八幡は画面から視線を逸らさず、短く応じた。

 彼の指が、一瞬の澱みもなく次のタスクへと移行する。そのあまりにも超人的で、それでいて「雪ノ下雪乃を助ける」という一点にのみ全リソースを捧げている八幡の背中を見て、由比ヶ浜は息を呑んだ。

 

(……すごい。……本当に、すごいよ)

 

 由比ヶ浜は、その場に立ち尽くした。

 二学期が始まってから、奉仕部に漂っていたあの凍りつくような「停滞」が、今は嘘のように消え去っている。

 夏祭りの夜、自分の腕の中で「人形」のようになり、嘔吐感にのたうっていた八幡。あの時の、どこか遠くへ消えてしまいそうな彼への恐怖が、今は圧倒的な「頼もしさ」へと塗り替えられていた。

 

 雪乃が、八幡の物理的な実行力によって、その孤独な戦いから救い出されている。

 八幡が、雪乃の正しさを守るために、自らの「怪物性」さえも肯定して戦っている。

 二人の背中が重なり合い、一つの美しい「世界」を作り上げている。

 

 それを目撃した瞬間、由比ヶ浜の頬を、一筋の熱い滴が伝い落ちた。

 

「……よかった」

 

 それは、これまで彼女が懸命に演じてきた「気遣いの笑顔」ではなかった。

 心の底から溢れ出た、純粋な、そして少しだけ切ない「本物の笑顔」。

 

「よかったね、ゆきのん。……ヒッキー、やっぱりゆきのんのこと、助けてくれたよ」

 

 由比ヶ浜の囁きは、打鍵の音にかき消されて二人の耳には届かなかったかもしれない。

 だが、八幡のプロトコル『結衣との約束』のログには、彼女のバイタルデータが「極めて安定した幸福状態」に移行したことが、静かに記録された。

 

 八幡は一瞬だけ、左手で近くのマックスコーヒーを掴み、中身を一気に喉へ流し込んだ。

 ガツンとくる暴力的な甘さが、原子炉の熱を冷まし、同時に「自分は今、間違っていない」という確信を、彼の論理回路へと定着させていく。

 

(ああ。そうだ。俺が造られた理由は、これだけでいい)

 

 鋼鉄の救世主は、由比ヶ浜の涙に応えるように、再び超音速の打鍵を再開した。

 「不完全な世界」を、彼女たちのために、少しだけ「正しく」直すために。

 

 

──

 

 

 重厚な扉の前に、平塚静は立ち尽くしていた。

 指先がノブにかかったまま、動かない。いや、動かすことを本能が拒絶していた。

 

(……なんだ、この空気の「密度」は)

 

 扉の隙間から漏れ出してくるのは、不快な熱気ではない。それは、極限まで磨き上げられた知性と、それを物理的な力へと変換する凄まじい「意志」の奔流だった。

 意を決して、彼女は音もなく扉を開けた。

 

 瞬間、彼女の鼓膜を震わせたのは、タイピング音の連鎖。

 それはもはや事務作業の音ではなかった。

 

 ショパンの『革命』――。

 

 怒涛のように押し寄せる旋律。一打一打が正確無比でありながら、聴く者の魂を揺さぶるような苛烈なリズム。比企谷八幡の指先がキーボードを叩くたび、ディスプレイ上のウィンドウが、まるで意思を持つ生き物のように高速で書き換えられていく。

 そしてその傍らで、静かに、けれど絶対的な威厳を持ってタクトを振るう指揮者がいた。

 

 雪ノ下雪乃。

 

 彼女が短く放つ指示は、シューマンの『ピアノ協奏曲』の旋律における、ピアノと管弦楽の完璧な融合を果たすかのように、八幡の打鍵と完璧に調和していた。

 

「――宣伝広報、B案を採用。レイアウトの空隙を三ピクセル詰め、視線誘導のアルゴリズムを再編して」

「了解。……適用済み。バックエンドのサーバー負荷を〇・〇三パーセント低減」

 

 会話は短く、無機質だ。

 だが、そのやり取りが生み出す空間は、総武高校という平凡な校舎を、物理的な次元を超えた「何か」へと変質させていた。

 

(想像以上だ……。私の勘は当たる方だと思っていたが、これほどまでとはな)

 

 平塚は、震えそうになる膝を力で押さえつけた。

 あの自然教室、比企谷八幡から感じた「熱」と、その背後に隠された巨大な「何か」。彼女は、彼が奉仕部や雪ノ下雪乃に変化を与える起爆剤になると期待していた。

 だが、今目の前で起きているのは、単なる変化ではない。

 

 「進化」だ。

 

 普段はぐうたらで、死んだ魚のような目をした少年。

 本気や全力といった、若さ特有の熱情とは無縁の位置に存在していたはずの彼が、今、鬼のような形相で、鋼鉄の論理を世界に叩きつけている。

 

 そして、その「力」を、雪ノ下雪乃という純粋すぎる刃が、最も正しく、最も効率的な方向へと導いている。

 

(……あの空間には、誰も入れない)

 

 他の委員たちが、まるで神事を見届ける信者のように、遠巻きに彼らを見守っている理由がわかった。

 二人の間に流れる空気は、不可侵の聖域。

 そこでは、搾取も、怠惰も、不条理も、全てが等しく論理の炎で焼き払われていく。

 平塚静は、自分が連れてきた二人の教え子が、世界の境界線を書き換えていく音を聴いていた。

 それは、鋼鉄の二学期が、もはや後戻りできない領域へと加速を始めた合図だった。

 

「……比企谷、雪ノ下。……お前たちは、どこまで行くつもりだ」

 

 掠れた声は、激しい打鍵の旋律に呑み込まれ、消えていった。

 彼女の視線の先で、八幡の瞳に一瞬だけ走った「青白いパルス」を、彼女はまだ、ただの夕日の反射だと思い込むことに決めていた。

 

 

──

 

 

 廊下の影、冷え切った空気の境界線で、雪ノ下陽乃は壁に背を預けていた。

 指先が、自分の二の腕を強く掴んでいる。そうでもしなければ、今にもこの喉から、狂おしいほどの「歓喜」が叫びとなって溢れ出してしまいそうだったからだ。

 

(ああ……ああ……!)

 

 身体の震えが止まらない。

 眼前の扉の向こう側から響いてくるのは、もはやただの事務作業の音ではない。

 それは、二つの独立した知性が、物理的な限界を超えて一つの「意志」へと統合されていく、崇高なまでの交響楽(シンフォニー)だった。

 

 ついに。ようやく見つけた。

 雪ノ下家という、閉ざされ、停滞し、摩耗し続けるだけの血族の螺旋。その果てで、自分たち同胞が……。

 否。

 『雪ノ下雪乃』という、あまりに純粋で、それゆえに脆すぎた魂に適合する、完璧な個体を。

 

 陽乃の瞳には、比企谷八幡の「正体」など、もはやどうでもいい些事として映っていた。

 彼が炭素ベースの生物であろうと、シリコンと高マンガン鋼の機械であろうと、そんなことは『旧人類』的な、あまりに低次な分類学に過ぎない。

 

(比企谷くん、君が何者かなんて関係ない。君が彼女の隣で、その『鋼鉄の合理性』を捧げている……その事実だけが、この世界の真理なのよ)

 

 雪乃が、八幡という「無限の実行力」という翼を得て、世界を最適化(デザイン)していく。

 八幡が、雪乃という「絶対的な正解」という羅針盤を得て、そのスペックのすべてを現実へと叩きつけていく。

 それは、陽乃がどれほど美貌を武器にし、知略を巡らせ、周囲を支配しても決して辿り着くことのできなかった、完璧に調和された旋律。

 

「……雪乃ちゃん。おめでとう」

 

 陽乃は、誰もいない廊下で、声にならない祝福を呟いた。

 

「あなたはついに、最後の鍵を手に入れたのね。……あなたが、あなたたちだけが、この醜く、不条理で、非効率な世界を、完璧に『最適化』する資格を持ったんだわ」

 

 その時、陽乃の頬を、熱い一筋の滴が伝い落ちた。

 それは、妹の幸せを願う姉の涙だったろうか。

 それとも、観測者としての達成感だったろうか。

 

 ――いいえ。

 

 それは、どれほど手を伸ばしても、どれほど孤独に耐えても、自分には決してそのような「対(つい)」となる存在が現れることはないと、理性の深淵で理解してしまった者の、絶望的なまでの「証」だった。

 陽乃は、濡れた頬を拭うこともせず、ただ陶酔したような笑みを浮かべていた。

 

 室内から響く、ショパンの『革命』のごとき打鍵音。

 それは、雪ノ下陽乃にとって、新しい世界の幕開けを告げる福音であり、同時に、自らの孤独を確定させるための、最後の一打でもあった。

 

 

──

 

 

 文化祭準備が佳境に入ったある日の放課後、実行委員会室の空気は臨界点に達していた。

 比企谷八幡の打鍵音は、もはや一つの持続音となって室内に響き渡っている。だが、その背後でタクトを振り続けていた雪ノ下雪乃のバイタルに、八幡のセンサーが重大なアラートを検知した。

 

「――宣伝広報、最終案の承認を……」

 

 雪乃の声が掠れ、視線が揺れる。彼女の細い体が、重力に耐えかねたようにふらりと傾いた。

 

「おい」

 

 八幡はタイピングを止めることなく、左手一本で彼女の肩を支えた。鋼鉄の腕は、崩れ落ちようとする彼女の体を、羽毛でも扱うかのような優しさで受け止める。

 

「……離して。まだ、確認すべき資料が」

「やっぱり疲れてんじゃねえか。……いいから、ちょっと休んどけ」

「……ここまで来て、あなた一人にやらせるわけにはいかないわ。私の、責任よ」

 

 雪乃は青白い顔で食い下がるが、八幡の瞳は冷徹なまでに「正解」を見据えていた。

 

「お前の体調不良も含めて、作業ペースは既に調整済みだ。……お前のバイタルがこれ以上下がれば、全体の効率が三〇パーセント低下する。今の最善策は、お前が仮眠をとることだ。……それとも、俺の演算が信じられないか?」

 

 八幡の言葉に、雪乃は毒気を抜かれたように小さく息を吐いた。

 お見通しなら、自分は何も言わない。

 そこにあるのは、言葉を重ねる必要のない「絶対の信頼」。雪乃は八幡の腕の中で一瞬だけ目を閉じ、その鋼鉄の体温(ヒーターによる調整済み)に安らぎを感じた。

 

「……ええ。分かったわ。……後は、任せるわね」

「ああ。あとは豪遊三昧の『淀君』に、たっぷり責任という名の請求書を押し付けるから心配すんな」

 

 八幡の皮肉に、雪乃は薄く微笑むと、足取りを確かめるようにして仮眠をとるべく教室を後にした。

 

 ――その後。八幡は廊下で、一人の男を待ち伏せていた。

 

「比企谷。……最近の君は、少し怖いな」

 

 葉山隼人が、複雑な表情で立ち止まる。八幡は壁に背を預けたまま、死んだ魚の目に青い光を宿して彼を見据えた。

 

「葉山。お前に依頼がある。……いや、これはお前の『人徳』というリソースの最適化だ」

「相模さんのことだね?」

「ああ。あいつは今、自分が無敵の委員長だと勘違いして浮かれている。だが、祭りの最初と最後にはスピーチと、全校生徒の前に立つ『責任』が待っている。……あいつが土壇場で逃げ出さないように、お前のグループで完璧に祭り上げろ」

 

 八幡の声は、温度を持たないプログラムのようだった。

「彼女を『完璧なリーダー』として周囲に認識させろ。逃げ道を一つ残らず論理で埋めるんだ。……お前の得意分野だろ? 『みんな仲良く』という名の檻に、あいつを閉じ込めておけ。……雪ノ下が流した血の分だけ、あいつには『委員長』としての役割を、最後まで完璧に演じてもらう」

 

 葉山は、八幡から発せられる圧倒的な圧迫感に、思わず息を呑んだ。

 かつての比企谷八幡なら、自分が泥を被ることで解決したはずだ。だが、今の彼は違う。雪乃の「正しさ」を守るためなら、他者を、そして自分自身さえも冷酷な「部品」として運用することを厭わない。

 

「……分かった。それが君たちの望む『最適解』だというのなら」

 

 葉山が去った後、八幡は一人、夕闇の廊下で拳を握った。

 結衣との約束、雪乃への誓い。

 それらを果たすための「責任の檻」が、着々と構築されていく。

 

(三成は負けない。……今回の関ヶ原は、俺が書き換える)

 

 比企谷八幡は、依然として十数台のモニターに囲まれ、微かな電子音だけが響く空間で一人、キーボードを叩き続けていた。だが、その打鍵の感触は、先ほどまでとは決定的に異なっていた。

 

(これが、『満たされる』ということか)

 

 エイトマンとしてのスペック。

 超音速の移動能力、あらゆる電子を支配する電流波、銀河の軌道計算さえ瞬時に終わらせる演算能力。それらは本来、孤独と異質さの象徴でしかなかった。人間という「不完全で不確定な存在」の中で、完璧すぎる自分は常に浮き上がり、排除されるべきバグだったはずだ。

 

 だが、今は違う。

 雪ノ下雪乃という、一点の妥協も許さない純粋な設計図(デザイン)。

 彼女が描く「正しき世界」を実現するために、自分の鋼鉄の肉体を使い、演算能力を捧げ、物理的な形へと変えていく。

 

 エイトマンが造られた本来の理由――『人間の千倍働き、人間の役に立つこと』。

 

 その冷徹な使命が、今の八幡にとっては、何よりも甘美で、何よりも人間らしい喜びに変換されていた。

 

『――全工程、進捗率九五パーセント。……予定より〇・〇四秒の先行。異常なし』

 

 網膜ディスプレイに流れる緑色のログが、八幡の充足感を肯定するように明滅する。

 他者のために自分を削るのではない。

 彼女の理想を形にすることこそが、比企谷八幡という存在の「正解」なのだと。八幡は生まれて初めて、自分の内側にある鋼鉄の心臓が、正しく脈打っているのを感じていた。

 

 ――同時刻、保健室。

 

 白いカーテンが夕風に揺れ、夕焼けの残光が静かな室内を赤く染めていた。

 パイプベッドの上で、雪乃は浅い眠りから目を覚ましていた。

 

「……暖かいわね」

 

 呟いた声が、静寂に溶ける。

 八幡に抱えられた時、彼の腕から伝わってきたあの「熱」。

 機械的で、徹底して管理されたはずのその熱量が、今の彼女の心には、どんな人間の体温よりも切実に響いていた。

 

 これまで、雪乃は常に一人で立っていなければならなかった。

 理解されず、疎まれ、あるいは姉の影に怯えながら、自分自身の「正しさ」だけを杖にして歩いてきた。誰も彼女の言葉の真意を測れず、誰も彼女の歩幅に合わせることはできなかった。

 

 だが、比企谷八幡は違った。

 

 彼は言葉を交わさずとも彼女の意図を完璧に読み取り、彼女が口にする前に不備を埋め、彼女が倒れそうになれば、世界で一番確かな腕で支えてくれる。

 それは単なる補佐(サポート)ではない。

 自分の魂が、欠けていた半身を見つけたような、そんな全知全能の錯覚さえ抱かせる「適合」。

 

(……認めざるを得ないわね。比企谷くん、あなたのその……不器用で、鋼鉄のように固い献身に)

 

 雪乃は、自分の胸元に手を置いた。

 早まる鼓動。指先から伝わる微かな震え。

 かつて、これほどまでに誰かに理解されることを、誰かに支えられることを心地よいと感じたことがあっただろうか。

 

(私は、あなたに……。……いえ、あなたの隣にいたいのだわ)

 

 それは、雪ノ下雪乃という論理の化身が初めて許容した、最大級の「非合理なバグ」。

 胸に宿ったその感情に、名前をつけるにはあまりに重く、深い、魂の渇望。

 彼女は、自分を完璧に理解し支える比企谷八幡という個体に対し、抗いようのない愛着と情動を抱いている自分を、この時、初めて明確に肯定した。

 

「……あと一時間。……いいえ、三十分だけ休んだら、戻りましょう」

 

 彼の待つ、あの戦場へ。

 鋼鉄の旋律が響く、自分たちだけの聖域へ。

 雪乃は再び目を閉じ、茜色の闇の中で、心強き守護者の気配を確かに感じながら、幸福な安息に身を委ねた。

 




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