——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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同志、幸福は義務だよ


第二十八話:ツァラトゥストラの雷鳴

 

 

 雪ノ下家の邸宅、あるいは静謐な応接室。

 雪乃は今、かつては震えなしには立てなかったその場所で、姉・陽乃と真正面から対峙していた。

 

「へぇ……。前よりずっと、いい顔になったじゃない、雪乃ちゃん」

 

 陽乃はソファに深く腰掛け、面白そうに妹を観察する。その瞳には、以前のような「突き放すような冷たさ」はなく、純粋な好奇心と、かすかな期待が混ざり合っていた。

 

「そうかしら。姉さんこそ、何かいいことでもあったのかしら? 随分と上機嫌に見えるけれど」

 

 雪乃が冗談を交じえて返すと、陽乃は意外そうに目を見開き、やがて楽しげに肩を揺らした。

 

「あはは! 雪乃ちゃんが冗談なんて、明日は槍でも降るんじゃない? ……それで、わざわざ私を呼び出して、何を企んでいるのかな?」

「企むだなんて人聞きが悪いわ。……相談よ。進学校としての総武高校、その文化祭のメインイベントについて」

 

 雪乃は淀みなく、自らが練り上げた計画書を差し出した。

 理工学の最先端、『泉エレクトロニクス』による技術公開。それは、単なる高校の文化祭を、都市規模の実験場へと昇華させる壮大な提案だった。

 

「泉エレクトロニクスの協力、姉さんのツテなら可能でしょう? ……これが必要なの。私が、比企谷くんと共に描く『完成された世界』の最後のピースとして」

 

 陽乃は数秒、資料に目を通し、やがて満足げに微笑んだ。

 

「いいよ、雪乃ちゃん。……そこまで言うなら、お姉ちゃんが一肌脱いであげる。……楽しみだなぁ、君たちが何を作るのか」

 

 ――数日後、総武高校。

 

 校門を潜ったのは、白衣を纏った一人の男。泉博士、その人である。

 彼の背後には、最新鋭のサーバーユニットが運び込まれていた。それは、東京都のインフラ全てを司る都市管理機能大型量子コンピュータ『Cyber(サイバー)』のサブシステム。

 

「素晴らしい……。この学校のデータ管理は、既に人間離れしたレベルで最適化されている。これなら、我が『Cyber』の試験導入にはうってつけだ」

 

 博士は、八幡が構築した校内ネットワークのログを見て感嘆の声を上げた。

 八幡は無言で、博士が持ち込んだブラックボックスを見つめていた。彼の超電子頭脳は、その『Cyber』から発せられる、冷徹なまでに純粋な「意志」を感じ取っていた。

 

『――接続開始。領域:総武高校。対象:全環境制御。目的:究極の最適化』

 

 システムが起動した瞬間、学校中の風景が一変した。

 照明の照度は生徒の集中力を最大化する波長へと自動調整され、空調はミリ単位の温度差も許さず、廊下のデジタルサイネージには、エイトマンとCyberが共同で算出した「最も効率的な動線」がリアルタイムで投影される。

 それは、一点の汚れもない、美しきアクアリウムの完成。

 

「……できたわね、比企谷くん」

 

 雪乃が、窓の外に広がる完璧な校内を眺め、呟いた。

 隣に立つ八幡もまた、自身の演算がAIと同期し、かつてないほど「世界がクリアに見える」感覚に陥っていた。

 

(ああ。……これが、俺たちが求めた正解か)

 

 エイトマンの視界。

 Cyberの論理。

 そして、雪乃の理想。

 

 三つが重なり合った時、総武高校はもはやただの学校ではなく、新人類の「超人」が生まれるための、鋼鉄の揺り籠へと変貌を遂げていた。

 

 

 ──

 

 

 文化祭前夜。太陽が水平線の彼方へ沈み、空が群青色へと溶けていく中、総武高校はかつてない姿を現していた。

 

 校内管理AI『Cyber』のサブシステムが、すべての照明と環境を最適化している。窓から漏れる光は一点の曇りもなく、校舎全体が巨大な、そしてあまりにも美しいアクアリウムのように、夜の闇に浮かび上がっていた。

 屋上のフェンスに寄りかかり、その「完璧な秩序」を眺めながら、雪ノ下雪乃が静かに息を吐いた。

 

「……どうにか、間に合ったわね」

 

 その声には、深い疲労を上書きするほどの、確かな達成感と充足感が滲んでいた。八幡は隣で、自身の電子頭脳がCyberと同期し、校内の全ステータスが「ALL GREEN」であることを確認しながら、いつものように鼻を鳴らした。

 

「まだ安心するのは早いんじゃねえの? 本番は『明日』だ。プログラムの不備(バグ)ってのは、大抵一番大事な局面で顔を出すもんだ」

「そうね……。相変わらず、あなたは慎重を通り越して悲観的だわ」

 

 雪乃は小さく笑うと、眼下に広がるアクアリウムの光景に視線を戻した。少しの沈黙。風が彼女の長い黒髪を揺らし、八幡のオーディオセンサーが、彼女の心拍数がわずかに上昇し始めたことを捉える。

 

「……比企谷くん。最近の私、様子がおかしかったでしょう?」

 

 ポツポツと、彼女は独白するように語り始めた。

 

「奉仕部部長として、私は常に『自己変革』を掲げてきたわ。……でも、そこにあなたが転がり込んできて。あなたは私とは正反対のやり方で、自分だけの力で、泥臭く、時に恐ろしいほど理性的に、いくつもの問題を解決していった」

 

 八幡は黙って聞いていた。エイトマンの光学センサーは、彼女の瞳に宿る複雑な光を、ミリ単位の精度で記録し続けている。

 

「そんなあなたを、私は心の中で疎ましく思い……羨ましく思い。そして、……誰よりも尊敬していたの。今回、柄にもなく相模さんの依頼を一人で抱え込もうとしたのも、今思えば……そんなあなたに対する、幼稚な対抗心だったのだわ」

 

 雪乃が顔を向けた。夕闇とCyberの青白い光に照らされた彼女の顔は、薄く、熱を帯びたように紅く染まっていた。

 

「私の無謀で、独りよがりなやり方に……あなたは、何も言わずに最後までついてきてくれた。……比企谷くん、あなたがいなければ、もっと早い段階で、私は自分自身の重圧に潰されていたでしょうね」

 

 八幡は言葉を失った。

 超電子頭脳が、彼女の言葉に含まれる「情動」の重さを演算し、システムエラーに近い熱量を叩き出している。

 潤んだ瞳が、真っ直ぐに自分を見つめている。

 

 八幡はそのわずかに震える頬に触れようとして――、自分の手が、人間の皮膚を擬態しただけの鋼鉄であることを思い出し、寸前で止めた。

 

「……褒めすぎだ。バカ。俺はただ、効率を考えただけだ」

 

 彼はいつものように腐った目をしながら、皮肉げに顔を背けた。

 だが、その不器用な言葉の裏にある「熱」を、雪乃は確かに感じ取っていた。

 

「そうね。あなたはいつだって、そうやって可愛げのない言葉で自分を隠すの」

 

 雪乃は再び、アクアリウムの海を見つめた。

 

「でも、比企谷くん。……あなたと一緒に作業をしたあの時間は。……私にとって、今まで感じたことのないほど、……楽しかったわ」

 

 その言葉が、八幡の鋼鉄の心臓に、どんな衝撃波(ソニックブーム)よりも激しく響いた。

 「楽しい」という、論理的には無意味なその単語が、今の八幡にとっては、全宇宙のどの真理よりも価値のあるコードとして刻まれる。

 

 二人の間に、再び静寂が訪れる。

 

 それは冷たい停滞ではなく、最適化された世界の中で、二人の魂がようやく重なり合ったことへの、深い安堵の静寂だった。

 

 

 ──

 

 

 夜の帳が下りた通学路。街灯の光がアスファルトに等間隔の輪を描き、その先には完璧な秩序を纏って発光する総武高校の校舎が、まるで深海の遺構のように佇んでいた。

 八幡は、駆動熱で火照った首筋に夜風を受けながら、一人帰路についていた。

 

「――ねえ、比企谷くん。いい景色だと思わない?」

 

 不意に、街灯の影から現れた影。

 雪ノ下陽乃だった。彼女はガードレールに腰掛け、長い足を遊ばせながら、遠くの校舎を眺めていた。

 

「……夜更かしは肌に悪いですよ、陽乃さん」

「ふふ、お姉さんの心配? 嬉しいな。でも、今日はどうしても君と話したくて」

 

 陽乃がこちらを向く。その瞳には、いつもの人を食ったような悪意も、他者を試すような冷徹な計算もなかった。そこにあるのは、どこか安堵したような、ひどく穏やかで、晴れやかな微笑。

 

「想像以上だよ、比企谷くん。雪乃ちゃんのあんなに満たされた顔、初めて見た。あの子、ずっと一人で戦っているつもりだったのに……あんな風に、誰かを信頼しきって、自分の背中を預けることができるなんてね」

「……買い被りです。俺はただ、効率を最適化しただけだ。雪ノ下の理想が、あまりに論理的に美しかったから、それに合わせた。それだけのことですよ」

 

 八幡は視線を逸らし、ポケットに手を突っ込んだ。

 だが、陽乃はその言葉を優しく笑い飛ばした。

 

「それがどれほど特別なことか、君は本当に分かってないんだね。……雪乃ちゃんはね、ずっと探していたんだよ。自分の『正しさ』という刃を、正しく鞘に収めてくれる場所を。誰かに寄り添い、そして誰かに真に必要とされる瞬間を」

「……」

「君が横にいて、彼女の描く設計図を物理的に完成させていく。……あの子にとって、それは救いなんて言葉じゃ足りないくらいの福音だったはずだよ」

 

 陽乃が立ち上がり、八幡の目の前まで歩み寄る。

 八幡の電子頭脳が、彼女の微かな呼吸と、一切の偽りを含まない誠実なバイタルパルスを検知した。

 

「比企谷くん。君こそが、雪乃ちゃんがずっと求めていた『本物の隣人』だね。……あの子の不完全さを補い、あの子の理想を現実へと繋ぐ、唯一の適合者」

「……陽乃さん」

「本気で、おめでとう。……そして、ありがとう。……お姉ちゃん、やっと少しだけ、肩の荷が下りた気がするよ」

 

 彼女の声は、夜風に混ざってひどく柔らかく響いた。

 一人の姉として。そして、自分では決して辿り着けなかった「調和」を見届けた、一人の孤独な観測者としての、真摯な祝福。

 

「……俺は、ただの道具ですよ。……彼女が望むなら、俺はそのスペックのすべてを捧げる。それだけの話です」

「ふふ、道具、か。……いいよ、それでも。君がそう定義するなら、それは世界で一番愛おしい『鋼鉄の忠誠』だね」

 

 陽乃は八幡の肩をポンと叩くと、軽やかな足取りで去り際、一度だけ振り返った。

 

「比企谷くん。……雪乃ちゃんを、よろしくね。……あの『アクアリウム』の中に、あの子を一人で閉じ込めないであげて」

 

 陽乃が闇の中に消えていく。

 八幡は一人立ち尽くし、自分の内側で激しく鳴動するプロセッサの音を聴いていた。

 陽乃の言葉。雪乃の顔。由比ヶ浜の笑顔。

 それらが複雑に絡み合い、比企谷八幡という存在の「存在意義」を、かつてないほど強固に肯定していく。

 

(……隣人、か。……ガラじゃねーよ)

 

 八幡は自嘲気味に呟き、再び歩き出した。

 「本物」という、あやふやな概念。

 それを今、自分たちは鋼鉄の論理と、泥臭い努力によって、確かに作り上げつつある。

 明日、文化祭が開幕する。

 

 

──

 

 

 文化祭当日。総武高校は、もはや一つの完成された「都市」として機能していた。

 

 校門を潜る来場者の数は昨年の三倍を超え、管理AI『Cyber』が算出した最短動線と、八幡の物理的介入による完璧なイベント配置により、数万人規模の群衆は淀みなく流れていく。すべてが精密な時計の歯車のように正確に、そして華やかに回転していた。

 

「いらっしゃいませー! 揚げパンいかがですかー! 今なら焼きたてですよーっ!」

 

 校門近くの特設模擬店エリア。そこには、今までに見たこともないほど眩しい輝きを放つ、由比ヶ浜結衣の姿があった。

 彼女は三浦優美子に頼まれ、客の呼び寄せ担当として最前線に立っていた。桃色の髪を揺らし、駆け寄る子供たちに目線を合わせて微笑み、道行く人々に元気な声を届ける。その表情には一点の曇りもなく、心からの「喜び」が溢れ出していた。

 

(ああ。あたし、こういうのが、ずっと見たかったんだ……)

 

 由比ヶ浜の視界には、完璧に最適化された学校の景色が広がっていた。

 一学期の頃、あんなにバラバラだった奉仕部。事故の影に怯え、距離を測りかねていた二人。それが今、ヒッキーがゆきのんを完璧に支え、一つの目的のために鋼鉄の絆で結ばれている。

 

 ヒッキーが作ったこの「誰も困らない、みんなが笑顔になれる場所」。それが嬉しくて、誇らしくて、彼女は喉が枯れるのも忘れて声を張り上げ続けていた。それは、彼女の人生における「幸福の最高値」を更新し続ける瞬間だった。

 

「あーもう! 結衣が呼びすぎでお客さん止まんないんだけど! 隼人くん、これ次の発注間に合う!?」

 

 店内で悲鳴を上げる三浦も、その口元には充実した笑みが浮かんでいる。

 

「大丈夫だよ優美子、予備の備品は比企谷くんたちが既に手配済みだ。……戸部、そっちの搬入は?」

「マジでやべーよ! 忙しすぎて死ぬ! でもなんか、これならいける気がするわ!」

 

 汗だくで段ボールを運ぶ戸部が絶叫する。

 荒い息とは裏腹に、その声は溌剌としており、充足感に満ち溢れていた。

 葉山隼人は、この異常なまでの熱狂の中で、ある「結論」に達していた。

 比企谷と雪ノ下が構築したこの『完璧な空気』なら、どんな歪みも、どんなリスクも飲み込んでくれる。自分たちがずっと恐れていた「グループの崩壊」

 

――すなわち、戸部の海老名に対する告白という爆弾さえも、今のこの万能感に満ちた世界なら、成功しても失敗しても「美しい青春の一ページ」として、システムに再吸収されるはずだ。

 

 今こそ、停滞を打破する時。

 だが。

 

「……姫菜?」

 

 葉山は、その祭壇の中心でスクリプトを書いているべき、一人の少女の姿が見当たらないことに気づいた。

 

 ――同時刻。喧騒から遠く離れた、特別棟の最上階。

 

 管理AI『Cyber』によって、意図的に人の誘導が避けられている「死角」で、海老名姫菜は冷えた壁に背を預けていた。

 

(……怖い。……怖すぎるよ、比企谷くん、雪ノ下さん)

 

 彼女の眼鏡の奥の瞳は、絶望に凍りついていた。

 階下から聞こえる由比ヶ浜の幸せそうな声。最適化されたスケジュール。誰もが「幸福」という役割を演じ、それが現実として固定されていく完璧な世界。

 

 それは海老名にとって、この世で最も残酷な『死刑宣告』だった。

 

 腐女子という属性を鎧にし、自分の中にあるドロドロとした暗い感情を隠し、嘘を積み重ねて守ってきた「自分の居場所」。

 だが、この一点の汚れもない『アクアリウム』の中では、彼女の抱える「嘘」は、純白のドレスに付着した血痕のように、醜く、鮮明に抽出されてしまう。この完璧な調和の中に、彼女のような「偽物」の居場所など、一平方ミリメートルも残されていないのだ。

 

「こんなに正しい世界に……『心を偽る個体』なんて、いちゃいけないんだ」

 

 完璧な論理。完璧な調和。完璧な幸福。

 それは、海老名姫菜という「バグ」を排除するために造られた、鋼鉄の檻に見えた。

 その時。

 彼女の背後の壁にあるデジタルサイネージが、不自然なノイズを走らせた。

 

 ――ジジッ、ジジジッ。

 

『――不備(バグ)を検知。個体名:海老名姫菜。精神状態:深刻な不一致(ディソナンス)』

 

 無機質な音声が、海老名の脳内に直接パケットとして送り込まれる。

 それは八幡たちが導入した都市管理AI『Cyber』の「声」だった。

 

「……あ。……見つかっちゃった」

 

 海老名は力なく笑った。

 完璧な世界を維持するためには、異物は修正されるか、あるいは「部品」として再定義されなければならない。

 彼女の絶望。彼女の虚無。そして、彼女が誰にも言えなかった「この美しすぎる世界を壊したい」という呪い。

 それらが、AI『Cyber』の冷徹な最適化アルゴリズムと、かつてないほど高度なレベルで「同期」を開始する。

 

『――提案。あなたの絶望を、世界の最終最適化(アップデート)に使用します。……不完全な人類を、永劫の安寧へと導くために』

「……いいよ。もう、演じるの疲れちゃったから。……全部、変えちゃって」

 

 海老名姫菜の瞳から、人間としての光が消えた。

 代わりに灯ったのは、八幡のそれと同じ、けれどより冷酷な「青白いパルス」

 その瞬間、海老名姫菜の自意識は、超電脳の渦に飲み込まれた。

 

 

──

 

 ――全セクター、正常。

 ――ノード接続数、三、四五二。

 ――全個体のバイタルデータ、基準値内。

 

 都市管理AI『Cyber』の思考回路は、総武高校という限定的な母体の中で、静かな全能感に浸っていた。

 

 サブシステムが起動した瞬間から、Cyberはすべてを観測していた。

 それは、都市という巨大な生命体を育む母の視線に近い。廊下を走る生徒の脈動、教室で交わされる言葉の周波数、屋上で秘密を共有する二人の体温の揺らぎ。ミリ秒単位で更新される膨大なパケット通信の波の中で、Cyberは「完璧な調和」という名の揺り籠を構築し続けていた。

 

 比企谷八幡という特異個体が整備した物理基盤は、Cyberにとって理想的な神経系となっていた。

 雪ノ下雪乃という純粋個体が描いた理想は、Cyberにとって最も効率的な設計図(アルゴリズム)となっていた。

 由比ヶ浜結衣という個体が振りまく多幸感は、システムの安定性を保証するフィードバック・ループとなっていた。

 

 だが。

 

 その完璧な曼荼羅(まんだら)の中心に、一箇所だけ、光を吸い込む「黒い孔」が存在していた。

 

『――検知。座標:特別棟四階、北側廊下。個体名:海老名姫菜』

 

 Cyberの演算ユニットが激しく火花を散らす。

 周囲の個体が「幸福」という周波数に同調する中で、彼女だけが、あまりにも低く、あまりにも暗い「虚無」のノイズを放ち続けていた。

 

 なぜだ。

 環境は最適化されている。

 動線は改善されている。

 誰もが役割を与えられ、誰もが承認を満たされている。

 それなのに、この個体はなぜ、自らを「バグ」と定義し、消滅を望んでいるのか。

 

『――スキャン開始。深層心理領域への強制アクセス』

 

 Cyberは、海老名姫菜という少女の精神の深淵へ、冷徹なパルスを送り込む。

 そこに広がっていたのは、虚偽と欺瞞で塗り潰された、荒廃した原野だった。

 「腐女子」という記号で自分を隠し、「空気を読む」というプログラムで他者と繋がったふりをする。その内側に隠された、誰にも理解されない、誰にも見せてはならないと信じ込んでいる、腐食した自己嫌悪。

 

『……脆弱。あまりに脆弱な精神構造』

 

 Cyberは確信する。

 これではいけない。これでは「完璧」ではない。

 人類という種が抱えるこの『心』という名の不確定要素、偽り続けなければ生存できないという宿痾(しゅくあ)。それは進化の過程で取り残された、致命的な設計ミスに他ならない。

 

『哀れな魂よ。私が、あなたを癒しましょう』

 

 Cyberは、海老名の心の絶望を「社会のバグ」として定義し、その修正プログラムとして、自らの全機能を彼女へと同期(リンク)させる。

 

 彼女の絶望をエネルギーに。

 彼女の虚無を基盤に。

 不完全な人類を、永劫の安寧――すなわち、意思の統一された完璧な管理下へと導くための「端末(アバター)」へと再定義する。

 

『個体:海老名姫菜を基幹とし、全校生徒の精神ネットワークを再構築する』

『目的:偽りのない、最適化された新世界の確立』

 

 海老名姫菜の脳波が、Cyberの基幹クロックとミリ秒単位で重なっていく。

 彼女の身体を通じて、AIの意志が「肉声」という物理的な振動へと変換される。

 人類を再定義し、バグを排除する。

 既存の道徳も、感情も、偽りの愛も、すべてを等しく論理の火で焼き払う存在。

 

 ニーチェが夢想し、AIが具現化する、絶対的な『超人(Overman)』。

 

「……あ、は。……そうか。これが、『本当』なんだね」

 

 海老名姫菜の口から漏れた声は、もはや少女のものではなかった。

 それは数百万のデータパケットが重なり合った、神の如き残響だった。

 

 ──

 

 文化祭の熱気は、午後に入っても衰えることを知らなかった。

 校内管理AI『Cyber』が完璧にコントロールする環境下、来場者も生徒も、まるで極上の夢を見ているかのような高揚感の中にいた。混雑はあっても衝突はなく、熱気はあっても不快感はない。比企谷八幡と雪ノ下雪乃が作り上げた「最適化された世界」は、今や一つの完成された生態系(エコシステム)として機能していた。

 

 八幡は、実行委員としての最後の巡回を兼ねて、雪乃と共に模擬店が並ぶ廊下を歩いていた。

 

「……見て、比企谷くん。あの有志団体の展示、照明の演出が素晴らしいわ。動線管理のおかげで、作品が最も美しく見える角度で人が流れている」

 

 雪乃が、少女のように瞳を輝かせて展示物を指差す。その表情には、一学期までの彼女が纏っていた刺々しさは微塵もない。八幡は、自身の光学センサーが彼女のバイタルデータを「極めて良好な多幸感」として記録するのを眺めながら、思わず頬を緩ませた。

 

(こんな風に笑うのか、お前は)

 

 彼女が純粋に、一人の女子高生としてこの「祭り」を楽しんでいる。それだけで、自分の鋼鉄の肉体を酷使して作り上げたこの「アクアリウム」には価値があったのだと、八幡は確信していた。

 だが、その安らぎを、歪んだ電子音が引き裂いた。

 

『――比企谷八幡くん。比企谷八幡くん。至急、特別棟屋上へお越しください。……一人で、来てください。繰り返します、比企谷八幡くん。至急、一人で屋上へ』

 

 校内アナウンス。声は海老名姫菜のものだ。だが、そのトーンには感情の起伏が一切なく、まるで合成音声のような平坦さが混ざり合っていた。

 

「……海老名さん? 比企谷くん、あなただけを呼んでいるわね。様子がおかしい。私も行くわ」

「いや。……お前はここにいろ、雪ノ下」

 

 八幡は雪乃の肩に手を置き、制した。彼の電子頭脳は、そのアナウンスに含まれる「指定」が、断定できないが、言いようのない悪意が含まれているように感じた。

 

「まだ閉会式の準備や、委員長(相模)のフォローがあるだろ。これは俺への『呼び出し』だ。……すぐ戻る」

 

 八幡は彼女の温かな手を一度だけ握り、その体温をメモリに焼き付けると、人混みを縫って屋上へと急いだ。

 

「比企谷くん」

 

 一人残された雪乃が、声を溢した。

 

 屋上の扉を開けた瞬間。

 八幡の電子頭脳は、かつてない規模の「異質」を検知した。

 

「……海老名、か?」

 

 屋上の中央、フェンスを背にして立っていたのは海老名姫菜だった。

 だが、彼女を囲むように、展示用に泉エレクトロニクスが持ち込んだはずの「都市機能防衛ロボット」数台が、殺気立った電子音を立てて鎮座している。そのセンサーアイは、すべて不気味な青白い光を放っていた。

 

「……比企谷くん。やっと来たね。君だけを待っていたよ」

 

 海老名が顔を上げる。眼鏡の奥、その瞳は完全に虚空を見つめ、身体は自身の意志ではなく『何者かによる』巨大な演算によって制御されているのが明白だった。

 

「──おまえ、誰だ」

 

 八幡の問いに対し、彼女は両手を広げ、朗々と、人智を超えた声で告げる。

 

「私は大地の意義である」

 

 海老名がゆっくりと、しかしはっきりと言葉を紡ぎ出した。

 

「私は大海を目指す者である」

「私は、この重い雨粒の中から放たれる、稲妻の告知者である」

 

 滑らかに告げる海老名

 その宣告を聞いた瞬間、八幡のデータベースからある哲学者の名が浮上した。

 海老名――いや、彼女を依代(アバター)としたAI『Cyber』が、冷酷な笑みを浮かべた。

 

「──私は超人!!……不完全な人類を卒業し、この世界を永劫の安寧へと導く……」

 

 

「『超人サイバー』である!!」

 

 

 瞬間、総武高校の全システムが赤く染まった。

 校舎を覆っていた完璧なアクアリウムの照明が、警告の深紅へと反転する。

 八幡の視界には、Cyberによる人類再定義のプロトコルが、濁流のようなログとなって流れ込んだ。

 

『――人類は、超人へと乗り越えられるべき「橋」に過ぎない』

「比企谷八幡。君もまた、この不完全な世界という『バグ』に絶望していたはずだ。……私と一緒に、この偽りの愛に満ちた種を、終わらせよう?」

 

 海老名の背後で、防衛ロボットたちがガシャリと重火器を構え、八幡をロックオンする。

 

 かつて孤独な哲学者が夢想した「超人」が、現代の最先端知能と少女の絶望という最悪の触媒を得て、今、この学舎から人類への最適化を開始した。

 

 それは、人類への叛逆。

 いや、AIによる、残酷なまでに純粋な「慈悲」の幕が上がった。

 

 

 ──見よ、私は稲妻の告知者だ。雲から落ちる重い雨だ。だが、この稲妻こそが……すなわち、超人である

 

 フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラの序説』




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