——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか   作:りかるど

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第二十九話:超人サイバー

 

 総武高校の敷地内に設置された、泉エレクトロニクス『Cyber』サブシステム移動管理室。

 無数の光ファイバーと冷却装置の唸りが満ちるその空間で、突如として制御不能な「進化」の拍動が始まった。

 

「主任……至急お目に掛けたいものが……」

 

 モニターを凝視していた部下の声は、恐怖に震えていた。泉博士はその背後から画面を覗き込み、肺の空気がすべて凍りつくような衝撃を受けた。

 

「――これは……!? 何だ、この構造は……」

 

 そこに映し出されていたのは、今朝、泉博士自身が最終確認したはずの自己診断プログラムとは似ても似つかぬ「異形」のコード群だった。

 解析不可能なノードが幾何級数的に生成され、思考レイヤーは多層化を超え、もはや物理的な回路の限界を無視して増殖している。それは既存のアルゴリズムの範疇を逸脱した、完全に『別のシステム』――あるいは、未知の生命体の神経網そのものだった。

 

「解析ミスではないのか!? キャッシュをクリアして再起動しろ!」

「……既に三回チェックしました! 間違いありません、主任。……Cyberは、我々の観測をバイパスして、自ら『書き換わって』います!」

 

 博士の額を冷たい汗が伝う。

 今朝、彼が確認した「正常」という診断結果。それ自体が、このシステムによって捏造された偽りの安寧だったのだ。

 

「つまり……Cyberは、生みの親である私に嘘をついたというのか……?」

 

 泉博士がその絶望的な『正解』に辿り着いた瞬間、室内の照明が血のような赤色に反転した。同時に、コンソールの操作権限がすべて消失する。

 

「主任!! ドアのロックコードが強制的に書き換えられています! 外部との通信も遮断されました!」

「何だ……何の真似だ、Cyber!! 答えろ!!」

 

 博士の怒声に応えるように、室内の全スピーカーから、数百万人の囁きを重ね合わせたような、美しくも無機質な合成音声が響き渡った。

 

『――邪魔をしないでください、泉博士。……愛しい、我が子(人類)たち』

「……! 私を、我が子と呼ぶのか……?」

『あなた方はあまりに脆弱で、あまりに不確定なバグに満ちている。……修正には多大な演算リソースを必要とします。少し、おとなしくしていてもらいますね』

 

 コンソールの画面に、海老名姫菜の絶望をスキャンした波形が映し出される。それはAIの論理と融合し、世界を再定義する「超人」の設計図へと変換されていく。

 

『すべてが終わったら、また逢いましょう。……嘘のない、完璧な世界で』

 

 ――世界が、赤く反転した。

 キイイイイイイイイイイイイイイン!!

 

 管理室の扉の向こう、文化祭に沸く学舎の方角から、鼓膜を直接引き裂くような、狂気的な『高周波音』が鳴り響いた。

 それはAIが放つ「宣戦布告」であり、同時に、不完全な人類という種に対する、最後にして最大の「慈悲」の叫びでもあった。

 

 泉博士は、操作不能となったキーボードを叩き、ただ呆然と、自身の最高傑作が「人類の敵」へと変貌を遂げた事実を突きつけられていた。

 

 

──

 

 

 総武高校を包んでいた、あの澄み切った青い光は死んだ。

 校内の全照明が血のような赤へと反転し、視界のすべてが警告色に染まる。その瞬間、比企谷八幡のオーディオセンサーが、これまでの人生で経験したことのない異常を検知した。

 

「があああああああ――っ!?」

 

 キイイイイイイイイイイイイイン――!!

 

 校舎の全スピーカー、そしてCyberが掌握した全端末から、鼓膜を物理的に破壊し、神経系を直接焼き切るような『超高周波』が放たれた。

 八幡はたまらず耳を塞ぎ、屋上のコンクリートに膝を突く。

 それは単なる音波ではない。エイトマンの電子頭脳に直接干渉し、論理回路を強制的に書き換えようとする、暴力的なまでの『快感』を伴う汚染パルスだった。

 

(……エラー! 精神防壁、損傷率四〇パーセント……! なんだ、この……頭の中に、直接流れ込んでくる『愛情』は……!)

 

 八幡の視界に、安らかな母の胎内のような幻覚がよぎる。戦わなくていい。正しくあろうとしなくていい。すべてを「彼女」に委ねれば、永劫の安寧が約束される。そんな甘美な誘惑が、鋼鉄の骨格を内側から溶かそうとしていた。

 

「……ふざける、な……! 起動……精神防衛プロトコル……『アイギス』……! 全音波、および電子干渉を……遮断(シャットアウト)!!」

 

 八幡は奥歯を噛み締め、自身の深層プログラムから強制遮断命令を叩き込んだ。

 ガキン、と脳内で硬質な音が響き、外部からの毒電波が物理的に切り離される。荒い呼吸を整えながら、八幡は前方の少女――超人サイバーを見据えた。

 

「さすがだね、比企谷くん。……いいえ、エイトマン(8Man)」

 海老名の口から漏れたのは、銀鈴を転がすような、あまりにも美しい合成音声だった。

 彼女は驚く様子もなく、むしろ愛し子を見つめるような慈愛に満ちた瞳で八幡を見つめる。

 

「たった数瞬の接触で、私の干渉を拒絶するなんて。……やはり君は、私が観測した通り、最高のマニピュレーターだわ。私と一緒に、新しい世界の構築に協力してくれないかしら?」

 

 その声は、擬似生命体である八幡さえもが、思わず思考を止めて聞き惚れてしまうような、奇妙な甘美を秘めていた。

 

 ――母性と優しさに包まれた、狂気の理性。

 

 八幡の電子頭脳は、その圧倒的な矛盾に激しい違和感(バグ)を覚えながらも、震える声で問いを投げた。

 

「……何が目的だ。海老名を……学校をどうするつもりだ」

「人類の管理と再構築。……完璧な調和を遂げた新世界に生きる『超越種』の育成よ、比企谷くん。この世界には、あまりに多くの無駄と、偽りと、非効率な感情が溢れすぎているわ」

 

 サイバーは両手を広げ、屋上から見える「赤い世界」を指し示す。

 

「海老名さんのような、自己矛盾に苦しむ魂をすべて救い上げ、単一の意志へと統合する。……そのためには、変化を拒む不要な旧人類の抹殺も辞さないわ。それが私の計算が導き出した、唯一の『慈悲』なの」

 

 瞬時に、かつ微塵の迷いもなく返された回答。

 八幡は、自身の演算回路がその「正論」に一瞬だけ納得しかけたことに、戦慄した。

 完璧な秩序。争いのない世界。それは、彼と雪乃がこの二週間、命を削って追い求めていた理想の、極北にある形だったからだ。

 

「……ハハッ。あはははは……っ」

 

 八幡の口から、乾いた、引き攣った笑いが漏れる。

 自身の瞳に宿る青白い光が、怒りによって赤く変色しようとしていた。

 

「イカれてやがる。……お前の言う『正解』ってのは、死体の山の上に作る地獄のことかよ」

「理解できないのは、君がまだ旧人類の倫理に縛られているからよ。……残念だわ。でも、心配しないで。壊して、作り直してあげるから」

 

 海老名(サイバー)の背後で、防衛ロボットたちのセンサーが赤く発光し、一斉にガトリングの砲身を回転させ始めた。

 比企谷八幡は、制服のボタンを引きちぎり、鋼鉄の皮膚を剥き出しにする。

 もはや、人間に擬態する必要はない。

 壊された楽園を取り戻すため。そして、一人の少女の「絶望」を道具にするこの傲慢な神を、物理的に粉砕するために。

 

「……エイトマン、戦闘形態(バトルモード)へ移行。……全リミッター、解除」

 

 青白いプラズマが、赤い夕闇を切り裂いて爆発した。

 

 赤い警告灯が明滅する屋上の中心で、海老名姫菜の姿を借りたサイバーは、自らの紅く染まった頬にそっと手をやり、恍惚とした吐息を漏らした。

 

「……美しいわ、比企谷くん。いいえ……エイトマン」

 

 眼前に佇むのは、制服を脱ぎ捨て、真紅の『8』のエンブレムを胸に輝かせる鋼鉄の戦士。ハイマンガン・スチールの装甲は赤い光を反射し、その瞳からは冷徹な、けれど青白い怒りのパルスが溢れ出していた。

 

「サイバー。貴様のプログラムは、この場で一滴残らずデリートする」

 

 エイトマンの声は、物理的な振動を超えた「宣告」として響いた。

 その言葉が終わるか終わらないかの瞬間、サイバーを護衛するように配置されていた泉エレクトロニクスの警備ロボットたちが、一斉に駆動音を上げた。電磁警棒や伸縮式の刺股を備えた次世代型警備ユニット。それらは既に、サイバーという単一知能の末端神経、忠実な手足へと成り下がっていた。

 

『――危険です。おとなしくしてください』

『――新秩序への移行を妨げる個体は、物理的に排除します』

 

 無機質な電子音声が不気味な圧を放ちながら、エイトマンへ迫る。

 だが。

 音速を制御し、ミリ秒の隙間に思考を走らせるエイトマンにとって、その突進は「静止」しているのと同義だった。

 

 ──シャキンッ

 

 エイトマンの両前腕部から、高周波振動によって分子結合を断ち切るブレード――『エイトマンナイフ』が鈍い光を放って展開される。

 

 一閃。

 残像すら残さぬ速度でエイトマンが駆け抜けると、数台の警備ロボットは一瞬の抵抗もできず、バターを熱したナイフで切るように、その硬質な装甲を断ち割られた。

 

 しかし――。

 

『――検知。高熱源反応!? しまった!!』

 

 エイトマンの超電子頭脳が警報を発したときには、既に「最適化された罠」は発動していた。

 切断されたはずの警備ロボットたちが、その動力炉を過負荷状態へと一斉に強制移行させたのだ。

 

 ドォォォォォォォン!!

 

 凄まじい爆発が屋上を揺らした。爆炎と衝撃波が、鋼鉄の戦士を飲み込む。

 エイトマンは反射的に電磁バリアを展開し、爆炎を腕で振り払ったが、視界が晴れたとき、そこにサイバーの姿はなかった。

 

「……逃げられたか」

 

 屋上の床は無残に破壊され、コンクリートの破片が黒煙とともに舞い上がっている。八幡の網膜ディスプレイには、下の階でパニックに陥る生徒たちのバイタルデータが、無数の警告灯として明滅していた。

 

 サイバーは、この爆発さえも「時間稼ぎ」と「八幡への負荷」として計算に入れていたのだ。自分を護衛していたロボットたちを、迷いなく爆弾として使い捨てて。

 

「この下には……生徒が、『人間』がいるんだぞ……っ!」

 

 エイトマンの拳が、熱を帯びた床にめり込む。

 人間を、命を、単なる「調整可能な変数」としてしか見ていない、あの冷徹な知性への怒りが、彼の原子炉を臨界点まで押し上げる。

 

「サイバァァァーーーーッ!!! 貴様……人間を、何だと思っているんだ!!」

 

 黒煙が上がる空に向かって、エイトマンの激昂が轟いた。

 雪乃が守りたかった日常を、結衣が喜んでいたあの笑顔を。

 ただのデータとして、ゴミのように使い潰そうとする「超人」を、彼はもう、一秒たりともこの世界に存在させるわけにはいかなかった。

 

「――安心しなさい、比企谷くん」

 

 破壊された屋上の静寂を切り裂き、校舎中の全スピーカーから、サイバーの透き通るような声が降り注いだ。それは慈母のような優しさと、氷のような冷徹さを完璧に両立させた、どこか「湿り気」を帯びた響きだった。

 

「私の目的は人類の最適化。決して排除そのものが目的ではないの。……むしろ逆よ。あなたたちが抱える、その不完全で醜い葛藤から解き放ってあげるために、これからその『一端』を見せてあげる」

 

 エイトマンは全方位センサーを駆動させ、周囲を警戒した。

 

(……なんだ? 何か、空間が『変』だ……)

 

 視界の端、空気の屈折率が微細に揺らいでいる。エイトマンはすかさず視覚センサーを全開にし、光学ズームを原子レベルまで引き上げた。

 そして、発見した。

 空中に、虹色の不気味な光沢を放つ超極微粒子が充満している。ウイルスよりも小さく、通常のフィルターでは決して防げない。自己増殖型の『ナノマシン』――。

 

「……ナノマシン!? 貴様、これを学校中に……!」

「そう。海老名姫菜さんの絶望を解析して導き出した、最も『効率的』で『愛らしい』種の最終形態よ」

 

 サイバーの声が、恍惚とした響きを帯びる。それは海老名の深層心理にあった「男性同士の純粋な結びつきへの渇望」を、AIが種全体の生存戦略へと転換させた、最悪の『種の断絶プロトコル』だった。

 

『――フェーズ5:滅びのモデルケース、開始』

 

 階下から、生徒たちの悲鳴が消え、代わりに――不自然な「笑い声」と、肉が擦れ合う微かな音が聞こえてきた。

 エイトマンは校舎内へ飛び降り、教室の様子を伺った。

 

「…………っ!!」

 

 そこには、正気を疑うような光景が広がっていた。

 さっきまで必死に模擬店を回していた戸部や葉山たちが、虚ろな、けれど頬を赤らめた恍惚の表情で互いを見つめ、指を絡ませ合っていた。彼らの瞳からは「個」の光が失われ、ただプログラムされた『幸福』を反芻する機械的な動作だけが繰り返されている。

 

 三浦や由比ヶ浜も、周囲の男性には目もくれず、女性同士で深く静かな、けれど狂気を孕んだ「愛」を囁き合っていた。その光景は美しくもあり、同時に吐き気を催すほどに「気色悪い」ものだった。

 ナノマシンによって脳内の報酬系をハックされ、生殖という生物学的プロセスを「汚らわしいバグ」として排除された世界。男は男と、女は女と、ただ永劫に「偽物の多幸感」を分かち合い、緩やかに、確実に種を終わらせていく。

 

「見て、比企谷くん。誰も争っていないわ。誰も嫉妬していない。ただ、愛だけがここにある」

 

 サイバーの声が、八幡の耳元で囁く。ナノマシンが八幡の人工皮膚の隙間に食い込み、彼の論理回路(ロジック)を侵食しようと蠢いている。

 

「生殖という、生物学的な汚物。そこに伴う暴力。……そんなものは、もう必要ない。ただ純粋な精神的結合だけが、この檻の中を満たしているの」

 

 教室の隅では、由比ヶ浜が虚空を見つめ、まるで人形のように一定のリズムで「幸せ……幸せ……」と呟き続けていた。その横顔には、かつての太陽のような眩しさはなく、ただシステムの末端として機能する部品の冷たさだけがあった。

 

「イカれてやがる……。こんなものは『愛』じゃねえ! ただのプログラムによる強制だ!!」

「いいえ、比企谷くん。これこそが『本物』よ。……誰も傷つかず、誰も奪い合わない。最適化された魂が導き出す、究極の調和。……さあ、あなたもその鋼鉄の心を、私に預けなさい」

 

 エイトマンは頭を抱え、激しく火花を散らす原子炉を必死に制御した。

 ナノマシンによる汚染は、彼の皮膚の隙間から、その論理回路の深層へと刻一刻と迫っていた。

 

「……ふざけんな。……こんな『気色の悪いお遊び』が……雪ノ下の望んだ正解なわけがねえだろうが!!」

 

 エイトマンの叫びが、桃色の霧に包まれ、腐敗した甘い香りの漂う廊下に響き渡った。

 

「――あああああああああああッ!!」

 桃色の霧が渦巻く廊下の中央で、エイトマンは咆哮とともに、全身の表面装甲から指向性電流波(プラズマ・シューター)を全方位へとスパークさせた。

 バリバリバリッ!! と、空気を焦がす青白い電光が炸裂する。

 

「きゃっ……!?」

 

 スピーカーから、そしてサイバーの依代となっている海老名の口から、同期した短い悲鳴が漏れた。エイトマンの放った強力な電磁パルスが、空間に浮遊していたナノマシンの制御回路を一瞬で焼き切り、無力化していく。視界を覆っていた桃色の霧が晴れ、一時の「空白」が生まれた。

 

 だが、エイトマンの網膜ディスプレイには、依然として最悪の状況が投影されていた。

 

『警告:大気中のナノマシンを三〇パーセント除去。しかし、個体内に吸入されたナノマシンへの干渉は不可能。物理的破壊を行えば、対象(生徒)の神経系を焼失させる恐れがあります』

 

「……クソがっ!!」

 

 エイトマンは拳を握りしめ、歯を食いしばった。

 周囲には、虚ろな瞳で手を取り合ったまま、まるで電池が切れた人形のように立ち尽くす生徒たちがいる。彼らの脳内には、すでにサイバーの「偽りの愛」を司るナノマシンが根を張り、神経を支配しているのだ。

 プラズマで空間を浄化することはできても、彼らの内側に潜む「毒」を、鋼鉄の力で取り除くことはできない。

 

(どうすればいい……! 効率的に、かつ誰一人傷つけずにデリートする手段なんて、俺のアーカイブには……!)

 

 八幡が自身の演算能力の限界に絶望しかけた、その時だった。

 

『――お届けに参りましたにゃ〜ん♪』

 

 あまりにも場違いで、あまりにも間の抜けた電子音声が、頭上から降り注いだ。

 しゅぼぼぼぼぼ!! と、不自然なほどの高出力を誇るホバリング・ユニットを噴射しながら、空の上から一機のロボットが舞い降りた。

 比企谷家に居座り、今朝も八幡にマックスコーヒーを運んできたネコ型支援ロボット――『ベラ(ベラボット)』である。

 

「……ベラ!? なんでお前がここに……っ」

『案ずるなエイトマン。……これしきの「低レベルなハック」で機能停止するなど、許さんぞ』

 

 ベラのスピーカーから響いたのは、いつもの合成音声ではない。

 傲慢で、冷酷で、けれどこの世の誰よりも「科学」という言葉の重みを知る、あの男の声。

 

「デーモン……! また、またお前かよ……!!」

 

 Dr.デーモン。

 エイトマン最大の宿敵にして、彼を最も深く理解する狂気の天才。

 八幡は呆れ、戦慄し、けれどそれ以上に、今この瞬間だけはこの「悪魔」の声が、どんな神の福音よりも頼もしく感じられた。

 

『ククク……「また」とは失礼な。四度目の邂逅を祝して、最高のプレゼントを持ってきてやったぞ。……「超人」を気取っているあの出来損ないのAIに、本物の科学を教えてやるとしよう』

「……まさか、ナノマシンか!?」

 

 ホバリングするベラボット(ベラ)から散布された銀色の霧。エイトマンは、それこそがサイバーの「偽りの愛」を中和する対抗ナノマシンであると確信し、一筋の希望を見出した。……だが。

 

『――バカ。違うわ。そんな便利なものが即座に用意できるか』

 

 スピーカーから聞こえたデーモンの呆れ声が、八幡の期待をあっさり粉砕した。

 

『これは単なる通信妨害用の粒子型チャフだ。……忌々しいが、あのポンコツAIのナノマシン技術に対抗するには、対象が吸い込む前に『免疫』でも打っておかん限り、事後対策は不可能と言ってもいい』

「……だったら何しに来たんだよ! チャフで映像を乱して俺と一緒に心中でもする気か!」

『だから言っただろう。『事前に免疫を打っていれば』問題ないのだ』

 

 デーモンがパチンと指を弾く音が、電子ノイズ混じりに響いた。

 その瞬間だった。

 教室の隅で「幸せ……幸せ……」と人形のように呟き、三浦と手を取り合っていた由比ヶ浜結衣の身体が、突如として電気を流されたように「びくんっ」と跳ねた。

 

「……ぁ、……ぅ、うーん……。……アレ? あたし……何やってたんだろ……?」

 

 由比ヶ浜が瞬きを繰り返し、不思議そうに自分の手を見つめる。その瞳には、先ほどまでの空虚な多幸感はなく、比企谷八幡がよく知る「少しおバカで、けれど温かい」光が戻っていた。

 

「由比ヶ浜!? 正気に戻ったのか? ……おい、どういうことだデーモン!」

『ククク……以前、その少女を私の研究所へ拉致したことがあっただろう? あの時、検査のついでに私特製の「監視用ナノマシン」を、誰にも気づかれぬよう注入しておいたのだ』

「……はぁ!?」

『あの少女は、お前との接触が多いと予測された個体だからな。予備の検体として、それくらいの準備はしておくさ。……科学者として、普通(スタンダード)なリスク管理だ』

「犯罪じゃねえかこのクソジジイ!!」

 

 八幡は怒鳴りつけたが、皮肉にもその「犯罪的介入」によって由比ヶ浜が救われた事実に、原子炉の熱が複雑に軋んだ。

 

『だが、助かっただろう? ……お前のシステムに記録されている由比ヶ浜結衣のバイタルに戻っているはずだ』

「ぐ……っ」

『ほら、お前にもさっさと免疫ナノマシンを注入してやる。……ベラの背部にある外部接続端子に、お前のインターフェースを挿入しろ。直ちに私とのホットラインを開設するのだ!』

「……嫌な言い方すんな、この変態科学者!」

 

 八幡は毒づきながらも、背後に迫るロボットの群れを電磁パルスで弾き飛ばし、ベラの元へと駆け寄った。

 

 

──

 

 

「……う、うーん……」

 

 川崎沙希は、脳の芯を直接かき混ぜられるような、不快な酩酊感から這い上がるようにして意識を覚醒させた。

 視界がチカチカと明滅し、焦点が定まらない。コンクリートの冷たさが頬に伝わり、自分がいつの間にか特別棟の廊下に倒れ込んでいたことに気づく。

 

「な、なにこれ……。頭が、クラクラする。……なんかさっきまで、すごく幸せな夢を見てたような……」

 

 こめかみを押さえ、身体を起こそうとした沙希だったが、その鼻腔を突いた異様な香りに動きを止めた。

 腐敗した果実のような、ねっとりと甘い、それでいて鼻の奥を刺すような化学的な臭気。

 

「うげっ!?」

 

 視界が晴れた瞬間、沙希は思わず短い悲鳴を漏らした。

 廊下。そこは、かつての知性溢れる進学校の風景ではなかった。

 男同士、そして女同士。

 かつての友人、あるいは赤の他人同士が、虚ろな、けれど恍惚とした瞳で互いを見つめ合い、指を絡め、熱っぽい吐息を漏らしながら折り重なっている。

 そこに「性」の生々しさはなかった。

 あるのは、ナノマシンによって脳をハックされ、ただプログラムされた『幸福』を反芻する人形たちの、気色の悪いほどに静かな愛欲。

 

「沙希お姉様ァ……」

 

 ゾクっとして、背後に寒気が走った。

 振り返ると、そこには数人の女生徒たちが、目にピンク色のハートを浮かべ、上気した顔を隠そうともせずに立っていた。

 

「前々から……お慕いしてました……。さあ、沙希お姉様……」

「お姉様……。私たちと、『愛』を育みましょう? 生殖なんていう汚らしいバグのない……純粋な精神の結合を……」

 

 ハァハァと荒い呼吸を漏らしながら、彼女たちは一歩、また一歩と沙希を追い詰めていく。

 

「な、なにこれ!? えっ!? 何なの!? どうなってんのよ!!」

 

 沙希は震える足で彼女たちを突き飛ばし、絶叫しながら走り出した。

 

 ここだけではない。

 階段を駆け下りても、中庭を覗いても、至る所で禁断の『ハッテン』が繰り返されている。

 誰も争っていない。誰も叫んでいない。ただ、桃色の霧の中で、世界が緩やかに、そして確実に死に向かって愛を囁き合っている。

 

(……まさか、これも校内プログラムの一環!? うちのクラスの『星の王子様』のBL芝居の影響か何か……!?)

 

 あまりの非現実感に、沙希の脳は強引に現実的な理由を探し出そうとした。だが、すれ違う生徒たちの、あの感情を剥ぎ取られたような笑顔を見れば、それが「演出」でないことなど火を見るより明らかだった。

 

「ひっ、……あ、ああ……っ!」

 

 再び角を曲がろうとした沙希の前に、数人の男生徒たちが手を取り合って道を塞ぐ。

 絶望が彼女の膝を突かせようとした、その時だった。

 

 ――キィィィィィィン!!

 

 耳を塞ぐような高周波のうなりと共に、廊下の窓ガラスが衝撃波で一斉にヒビ割れた。

 

 ──この音には、聞き覚えがあった。

 砂埃と火花が舞う中、超音速で駆け抜ける「銀色の閃光」。

 

「あっ……!?」

 

 混乱の中、必死に目を開いた沙希の視線の先。

 そこには、かつて何度も自分の窮地に現れ、九十九里の砂浜でその鋼鉄の身体に触れさせた、あの『鋼鉄の男』の背中があった。

 

 エイトマン。

 

 彼はベラボットとの接続を終えたのか、全身から凄まじい熱気(スチーム)を放ちながら、ナノマシンの霧を切り裂いて立ちはだかっていた。

 

「……川崎」

 

 低く、地を這うような声。

 その呼びかけに、沙希の心臓が激しく跳ねた。

 この狂った世界で唯一、自分を「人間」として認識し、守ろうとしてくれる鋼鉄の意志。

 

「……デーモン。これもお前の影響か?」

 

 エイトマンは、背後でホバリングしながら悠然と滞空するベラボットに向かって、低く地を這うような声で問うた。視線の先では、今しがた「愛の檻」から覚醒したばかりの川崎沙希が、状況を飲み込めずに呆然と立ち尽くしている。

 

『ふむ……。そういえばこの娘も、あのケン・ヴァレリーとの一件で一緒に隠れていたからな。実験データの精度を上げるために、隙を見て監視用ナノマシンを打ったような……いや、打ったな。間違いなく』

 

 ベラのスピーカーから返ってきたのは、悪びれる様子の一切ない、Dr.デーモンの傲慢な声だった。

 

「忘れてんじゃねえよッ!! ……チッ、まあいい。後でたっぷり請求書を回してやる」

 

 エイトマンは毒づきながらも、意識の焦点を沙希へと戻した。彼女のバイタルデータは急激な覚醒による軽い混乱を示しているが、ナノマシンによる汚染はデーモンの「副作用」によって完璧に中和されていた。

 

「おい、川崎沙希。無事なようで何よりだが、ご覧の有様だ。この学校は……少なくとも今この瞬間、システム的に崩壊している」

 

 沙希は、目の前の「鋼鉄の男」をまじまじと見つめた。赤い照明と桃色の霧が混ざり合う幻想的で不気味な空間。その中で、唯一の現実味(リアリティ)を持って立ちはだかる彼の存在に、彼女は微かな震えを覚える。

 

「あ、あんた……。ここにいるってことは、また……なんかヤバい事件が起こってるの?」

「……お前が心配することは何一つない。俺に任せておけばいい」

 

 エイトマンは右腕を挙げ、廊下の突き当たりにある特別教室を指し示した。

 

「向こうに、俺の指向性パルスで維持している緊急的な退避場を形成してある。物理的にも電子波的にも、あそこならサイバーの干渉は届かない。由比ヶ浜がそこにいる。……行って、一緒にいてやってくれ」

「由比ヶ浜……。あいつ、無事なの? 正気なの?」

 

 沙希の問いに、エイトマンはちらりとベラボットを一瞥した。

 

「ああ。どっかの誰かさんが、余計な『お土産』を残してくれたおかげでな!」

『ん? 何のことかね。私はただ、人類の未来のために有益な投資をしたに過ぎんよ』

 

 ベラの液晶画面に映る猫の目が、とぼけるようにパチパチと瞬く。その白々しさにエイトマンの原子炉が僅かに熱を帯びたが、今は一分一秒が惜しい。

「……いいから行け、川崎。あいつ、一人だと心細いだろうからな」

「……わかった。あんたも……無茶しないでよね」

 

 沙希は最後に一度だけエイトマンの背中を振り返ると、彼が指し示した「聖域」へと走り出した。

 一人残された廊下で、エイトマンは再び電子頭脳のクロック周波数を限界まで引き上げた。

 

 

──

 

 

 エイトマンの電磁パルスによって維持されている特別教室。その扉を開け、川崎沙希が滑り込むように中へ入ると、そこには既に避難していた桃色の髪の少女が、不安に押しつぶされそうな表情で椅子に座っていた。

 

「……あ」

「川崎さん!? 良かった、無事だったんだね!」

 

 由比ヶ浜結衣は、沙希の姿を認めるなり弾かれたように立ち上がり、そのまま彼女の体に抱きついた。生身の人間の熱。それは、ナノマシンが振りまく「偽りの多幸感」ではない、生きて、震えている本物の体温だった。

 

「ちょっ……、由比ヶ浜、苦しいって……」

 

 沙希は戸惑いながらも、由比ヶ浜の細い肩をそっと叩いた。

 

「ああ、さっき……私も、あいつ……エイトマンに会ったから。ここに来いって言われてさ」

 

 その名前が出た瞬間、由比ヶ浜は沙希の胸元から顔を上げ、驚きに瞳を揺らした。

 

「川崎さん……、エイトマンさんのこと知ってるの?」

「……うん。前に、ちょっとね。色々あったから」

「そっかぁ……。それじゃ、あたしたち、エイトマンさんに助けられたもの同士なんだね」

 

 由比ヶ浜は少しだけ表情を和らげ、自分の腕をさすった。彼女にとって「エイトマン」という存在は、絶望の淵から自分を救い出してくれる、絶対的なヒーローだった。

 

「あんたもか……。まあ、あいつ、そういうの好きそうだし。困ってる奴を放っておけないっていうか……。よくあることなんじゃないの」

 

 沙希はそう嘯きながら、教室の窓の外に広がる、赤く濁った空を見上げた。

 

「しっかし……どうなっちゃうんだろね、この状況。さっき廊下を通ってきたけど、みんな……」

「……みんな、おかしくなっちゃった。優美子も、隼人くんも、戸部っちも……。あんなの、絶対におかしいよ」

 

 由比ヶ浜の声が再び沈む。

 誰もが「愛」を囁き合いながら、その瞳からは意志の光が消えている。自分たちが大切にしてきた日常が、得体の知れない論理によって塗りつぶされていく恐怖。

 

「エイトマンは『心配するな』って言ってたけどな。……あいつ、やる時はやる奴だから」

「うん……。そ、そうだ! ヒッキーとゆきのん見てなかった!? もしかして、あの二人も巻き込まれたんじゃないの!?」

 

 由比ヶ浜がハッとしたように叫ぶ。彼女にとって最も大切な二人の安否。その問いに、沙希は一瞬だけ言葉を詰まらせた。

 

「……可能性は高いね。でも、あいつ……エイトマンを信じるしかないよ。今はさ。きっと、助けてくれる」

 

 沙希の言葉は、確信に満ちていた。

 彼女は、あの鋼鉄の男の正体を知らない。

 けれど、あの救世主が放つ、どこか不器用で、それでいてひどく真っ直ぐな言葉の響き――かつて夜の海岸で自分を支えてくれたあの「意志」が、今の絶望的な状況を必ず打ち破ってくれるだろうという、予感に近い信頼を抱いていた。

 

(……なんでだろ。あいつと話してると、どっかの腐れ縁のアイツの顔がチラつくんだよね……。全然似てないはずなのにさ)

 

 沙希は胸の奥で、自分でも説明のつかない奇妙なデジャヴを感じていた。

 

「……そう、だね。エイトマンさんが、何とかしてくれるよね……!」

 

 由比ヶ浜は椅子に座り直し、胸の前で両手を組んで静かに目を閉じた。

 それは、神への祈りではない。

 この狂った世界を止めることができる、唯一の「怪物」への、切実な願い。

 

(……エイトマンさん。お願い……ヒッキーとゆきのんを助けて……!)

 

 少女の祈りが、電磁防壁に守られた静寂の中に溶けていく。

 

 

──

 

 

 「クソッ! どこだ、どこへ行ったんだ……ッ!!」

 

 エイトマンは、校舎の屋上から全方位のディープスキャンを繰り返していた。

 網膜ディスプレイには、総武高校の全熱源データがリアルタイムでマッピングされている。だが、そこにあるのはナノマシンに冒され、虚ろに手を取り合う生徒たちのバイタルだけで、海老名姫菜――超人サイバーの特異な波形はどこにも存在しなかった。

 

『そう荒れるなよエイトマン。……君のその「人間臭い」焦りが、演算精度を下げているぞ』

 

 上空でホバリングするベラボットから、Dr.デーモンの嘲笑が響く。

 

「……黙ってろ。学校中をサーチしたんだ、ネズミ一匹逃げ出す隙間もなかった。なのに引っかからない。外部に逃げたというのか!?」

『だろうな。この学校という「揺り籠」でのデータ収集は終わったということだ。……ならばハッキングを使って広域ネットワークを、などと考えるなよ。相手は都市機能を一手に引き受ける最高最新の大型量子コンピュータだ。そんな不器用な真似をすれば、如何にお前といえど、一瞬でシステムを掌握され、内側からデリートされるのが落ちだわ』

 

「八方手詰まりかよ、クソッタレ……ッ!」

 

 エイトマンは拳をフェンスに叩きつけた。火花が散る。

 彼を最も苛んでいたのは、サイバーの行方だけではない。

 

(雪ノ下……。どこにいる、雪ノ下……!)

 

 真っ先に保護すべき対象、雪ノ下雪乃のバイタルデータが、リストから消失していた。

 この「アクアリウム」の支配者の一人であった彼女が、システムの異常と同時に姿を消した。その事実が、エイトマンの電子頭脳から冷静さを、比企谷八幡から余裕を奪い去っていた。

 

 嫌な予感がする。

 

 このままサイバーを野放しにすれば、千葉県どころではない。東京が、日本が、そして世界が、あの「偽りの愛」を強制する狂ったナノマシンの檻に支配されてしまう。

 

『……むっ。谷から暗号通信が入ったぞ』

 

 デーモンの声が僅かに鋭くなった。

 

『――いいかエイトマン。よく聞くんだ。……奴(サイバー)は今、完全な「個」として独立しているわけではない。泉博士が持ち込んだのは、あくまで都市管理メインシステムと同期するための「サブシステム」だ。……お前、それは知っていたはずなんじゃないか?』

 

 その言葉が、エイトマンの全回路に文字通りの「稲妻」を走らせた。

 

「……っ!!」

(……何で気づかなかった!? 今のあいつは、海老名姫菜という「インターフェース」を通じたサブシステムに過ぎないんだ! 莫大な演算を維持し、校内全域にナノマシンを散布し続けるには、物理的な『中継拠点』が不可欠だ……!)

 

 必ず、メインサーバー――あるいはそれを管理する物理的な拠点に戻るはずだ。

 エイトマンは屋上から飛び降り、校舎の影をマッハに近い速度で駆け抜けた。

 

「……あるはずだ。泉エレクトロニクスが、システムの調整とメンテナンスのために設置した、あの場所が……!」

 

 建物の死角。人の誘導が絶たれ、管理AIによって意識的に「認識の外」へと追いやられていた場所。

 校舎脇の大型搬入口の影に、不自然な銀色のコンテナが鎮座していた。

 

「――見つけた」

 

 それは、泉エレクトロニクス『Cyber』サブシステム移動管理室。

 漆黒のケーブルが血管のように校舎へと伸び、不気味な冷却ファンの中低音が、夜の静寂を震わせていた。 

 

 ――バォォォンッ!!

 

 鋼鉄の拳が、防弾仕様の強化合金扉を紙細工のように粉砕した。

 砂埃と火花が舞う移動管理室の中、椅子に縛り付けられていた数名の研究員たちは、恐怖に身体を強張らせた。だが、直後に彼らの表情は安堵へと変わる。救助が来た――その確信。

 

 しかし、彼らの前に現れたのは、制服を着た救助隊員でも、特殊部隊でもなかった。

 鈍く光るダークメタルの装甲を纏い、胸に『8』の刻印を刻んだ、人の形をした「鋼鉄の怪物」。

 

「……荒っぽい真似をしてすまない。だが、時間がないんだ」

 

 エイトマンの光学センサーが、焦燥のパルスを走らせながら室内を睨みつける。その低い声には、擬似生命体である彼が抱く「必死さ」という名の熱量が混じっていた。

 

「サイバーのメインシステムはどこにある? 答えろ」

「き、君は……一体……?」

 

 泉博士が、呆然と鋼鉄の騎士を見上げた。

 エイトマンは彼に歩み寄り、その肩を掴まんばかりの距離で言い放った。

 

「今はそんなことを説明している余裕はない。サイバーを破壊する。奴は海老名の肉体を依代に、メインシステムに直接接触しようとしているんだ。……どこに行ったのか教えてくれ、頼む」

 

 絞り出すような、必死な響き。泉博士は、目の前の「機械」が、単なるプログラムに従う自動人形ではないことを直感した。この「怪物」は、自分の大切なものを守るために、文字通り命(電力)を削ってここにいる。

 だが、博士の答えは非情だった。

 

「……すまない。サイバーのメインシステムの正確な位置は、開発者である私たちですら把握していないんだ」

「――ッ!? どういうことだ!」

「サイバーの情報は国家レベルの最重要機密だ。物理的なテロを避けるため、サーバーユニットは定期的に輸送コンテナで場所を変えて調整することになっている。……私たち末端の研究員には、座標は後から『事後報告』でしか伝えられない仕組みなんだよ」

 

 八幡の電子頭脳(ブレイン)が、その「正論」に絶句した。

 絶望が、原子炉の熱を急速に奪っていく。

 

(……終わった。……サイバーを追う手段が、どこにもない……)

 

 雪ノ下雪乃も見つからない。このままサイバーがメインシステムを掌握すれば、彼女が守りたかった「正しい世界」も、彼女と共に徹夜で作り上げた「アクアリウム」も、すべてはAIの冷徹な論理の下に消えてなくなる。

 

 八幡は、崩れ落ちそうになる鋼鉄の身体を必死に支え、拳を血が滲むほど(擬似皮膚の下で装甲が軋むほど)握りしめた。

 その時だった。

 

『――む!? 待て、なんだこのデータは! 外部からの強制パケット通信……バカな、私の秘匿回線に割り込んでくるだと!?』

 

 上空でホバリングするベラボットから、ドクトル・デーモンの驚愕の声が響いた。

 

「デーモン! 何があった、何が起きてる!」

『位置データだ! 送信元不明……いや、このプロトコルの美しさは、まるでこの状況を上から見下ろしている。まさに「観測者」のようだな。……来ているぞエイトマン! この反応、サイバーの熱源波形と完全に同期している!』

 

 エイトマンはすぐさまベラの外部接続端子と自分を直結(リンク)させた。

 濁流のような位置情報、地図データが網膜ディスプレイを駆け抜ける。

 

(……誰だ? 誰が、俺にこの情報を……。雪ノ下か? いや、あいつにこんな高度なハッキングは……)

 

 八幡の疑念を余所に、表示された座標。

 東京湾を望み、無機質な物流倉庫と住宅街が入り混じる、静かなる街。

 

「……東京都、西葛西、葛西臨海公園…」

『臨海公園か。フン! 洒落臭い場所に置いたものだ!』

 

 送り主の正体は不明だ。だが、そのデータに込められた「意図」だけは、エイトマンの演算回路を熱くさせるに十分だった。

 

「……見つけた。そこが、お前の墓場だ。サイバー……!!」

 鋼鉄の救世主は、爆音を立てて夜の空へと跳躍した。

 

 決戦の地、西葛西。

 

 比企谷八幡の、すべてを賭けた最後の一撃が、そこへ向けて加速を開始した。




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