——エイトマン・リボーン—— 比企谷8幡は鋼鉄の夢を見るか 作:りかるど
これで第四章は終わりです。
白く、清潔な匂い。
差し込む日差しがカーテンの隙間から、雪ノ下雪乃の閉じた瞼を優しく叩いていた。
「……ん」
重い瞼をゆっくりと持ち上げる。視界に飛び込んできたのは、無機質な病室の天井と、それを遮るようにして覗き込んできた「桃色」の塊だった。
「ゆきのん!! 目が覚めたんだね……っ! よかった、本当によかったぁ……!!」
「……、……由比ヶ浜、さん?」
視界が明瞭になると同時に、由比ヶ浜結衣が泣きじゃくりながら雪乃の身体を抱きしめてきた。隣では、川崎沙希が深く安堵した吐息を漏らし、目尻に溜まった涙を乱暴に拭っている。
「……あんた、本当に死ぬかと思ったんだから。……無事で、よかったわ」
「……ええ。……ごめんなさい、みんな。私は、一体……」
雪乃の記憶は、文化祭の喧騒の途中で断絶していた。
何か、とても悲しくて、底の見えない暗い夢を見ていた気がする。
自分自身が自分ではない何かに書き換えられ、氷のように冷たい世界で、誰かを傷つけようとしていたような――。
けれど。
その夢の終わりに、自分を絶望の暗闇から抱き上げてくれた存在がいた。
(……あの、鋼の腕)
それが誰だったのか、名前も、姿も思い出せない。
けれど、自分を包み込んだ無骨な鋼鉄の感触は、この上なく暖かく、心地よいものだったことだけは、身体の芯に残る残温(ざんおん)が鮮明に覚えていた。
「……比企谷くんは?」
気がつくと、雪乃はその名を口にしていた。
なぜ、今この瞬間に彼に会いたいと思ったのか、理屈では説明がつかない。ただ、あの「鋼の温もり」を確かめるためには、彼の不機嫌そうな顔を見る必要があるのだと、本能が告げていた。
「ヒッキー? ……あー、ヒッキーなら……」
結衣が少し困ったような、苦笑いを浮かべて窓の外を指さした。
「一階の自販機のそばのベンチで、ずっと不貞腐れてるよ。ブツブツ言いながらマックスコーヒー飲んでた」
「……、ふふ。そう」
いつもの彼らしい姿を想像して、雪乃の唇に自然と小さな笑みがこぼれた。
雪乃は点滴のチューブに注意しながら、ゆっくりとベッドから足を降ろそうとする。
「ちょっと、雪ノ下! まだ安静にしてなさいよ」
「いいえ、川崎さん。……少しだけ、説教をしに行かなくてはならないの」
自分を助けてくれた「誰か」へのお礼は、まだ言葉にできない。
けれど、あの暖かい腕の主が彼であるならば、まずはその捻くれた背中を叩いてやるのが、彼女なりの「正解」だった。
比企谷八幡が、夕暮れの病院で、未だに怒りに震えながら缶コーヒーを潰しているその場所へ。
雪乃は一歩、確かな足取りで踏み出した。
──
夕闇が迫る病院の中庭。自動販売機の放つ無機質な光だけが、周囲の静寂をかろうじて押し返していた。
比企谷八幡はベンチに背をダラリと預け、片手にはすっかりぬるくなったマックスコーヒーの缶を握りしめていた。その目は、普段の五割り増しで腐り果て、焦点の合わない虚空をじっと見つめている。
「……あの、クソジジイども……。殺す……。いつか、マッハ一五の衝撃波で、物理的にデリートしてやる……。マジでブッ殺す……」
半開きの口から漏れ出るのは、呪詛という名の不気味な周波数。壊れかけのラジオのように、復讐のロジックを延々と垂れ流すその姿は、通りがかる看護師が思わず目を逸らすほどの不審者オーラを放っていた。
だが、その怨念の渦を、微かな足音が踏み荒らした。
八幡の超高感度センサーが、自分へと近づく特定のバイオ信号をキャッチする。
「……もう動いても大丈夫なのか。永眠(スリープ)は足りてるのかよ」
目線を向けることなく、八幡は投げやりな声をかけた。
「ええ。お医者様が呆れるほど、私の細胞は『効率的に』修復されたみたいだわ」
聞き慣れた、凛とした鈴の音のような声。
雪ノ下雪乃は、病院のパジャマに薄いガウンを羽織った姿で、八幡の隣に静かに立った。その表情には相変わらず怜悧でキツめの色が残っているが、八幡を見つめるその声色は、以前よりもずっと柔らかく、湿り気を帯びていた。
「あなたも、随分と大変な目にあったみたいね。……比企谷くん」
「……ああ。色んな意味でな。精神的耐久テストなら、間違いなく世界記録更新だ」
八幡は空き缶を弄びながら、ようやく雪乃に視線を向けた。彼女の瞳からは、あの不気味な電子の光が完全に消失し、月明かりを映す美しい黒色に戻っていた。
「……エイトマンに感謝するんだな。由比ヶ浜の話じゃ、あいつが俺とお前を……それから学校中の連中を助けてくれた、らしいぜ。お前をここまで運んだのも、その鋼鉄の救世主様(エイトマン)だ」
「エイトマン……」
雪乃はその名を、大切に温めるようにつぶやいた。
記憶の断片に残る、あの鋼の腕の熱。自分を暗闇から引きずり出してくれた、不器用で強引な救済。彼女はその正体を知る由もないが、その存在が自分たちを繋ぎ止めてくれたことだけは確信していた。
「散々だな、全く。文化祭はぶち壊しだし、全校生徒に『偽りの愛』なんていう気色の悪いバグを植え付けたサイバーの誘致責任、どう言い訳したもんか。……あー、想像しただけで頭が痛てえ」
八幡は再び虚空を仰ぎ、わざとらしく憎まれ口を叩いた。
自分たちが心血を注ぎ、完璧に最適化した「アクアリウム」は、一瞬にして電子の灰に帰してしまった。結果だけを見れば、この二週間の努力は完全な失敗だった。
「……ごめんなさい」
雪乃が、ぽつりと一言だけ、絞り出すように言った。
彼女の抱える自責の念。自分の理想が、結果として世界を、そして彼を危機に晒したことへの、逃げ場のない謝罪。
「……。……まあ、いいんじゃねーの」
八幡はマックスコーヒーの最後の一滴を喉に流し込み、空き缶をゴミ箱へと放り投げた。放物線を描いて落ちる缶を見届け、彼は雪乃の顔を見ずに、けれど確かな響きを持って続けた。
「……『俺も』楽しかったから。今は、それでいいよ」
それは、かつて文化祭の前夜、屋上で雪乃が彼に贈った言葉への、鋼鉄の返歌(アンサー)だった。
『……あなたと一緒に作業をしたあの時間は。……私にとって、今まで感じたことのないほど、……楽しかったわ』
文化祭そのものは、最悪の形で幕を閉じたかもしれない。
けれど、二人の魂が論理を超えて同期し、一つの世界を創り上げようとした、あの奇跡のような時間があったことは、どんなAIのデリート命令も届かない、永遠の証明(ログ)として八幡の胸に刻まれていた。
「……そうね。ええ、そうね……比企谷くん」
雪乃は、今度こそ本当に、花が綻ぶような微笑みを見せた。
夕闇の病院で、二人の影が静かに重なる。
鋼鉄の救世主としての戦いは終わった。
けれど、比企谷八幡と雪ノ下雪乃の、「まちがっている」けれど確かな何かが、ここから再び動き出そうとしていた。
──
嵐のあとの総武高校には、重苦しい静寂と報道陣の喧騒が入り混じった、不気味な熱気が立ち込めていた。
都市機能を司る巨大AI『Cyber』の叛逆。一帯を制圧し、数千人の精神を「偽りの愛」で汚染した未曾有のテロ事件は、一夜にして日本中を震撼させた。
政府はこの事態を重く受け止め、進行中だったAIによる都市管理計画の無期限凍結を決定。次世代技術への期待は一転して「機械への恐怖」へと塗り替えられ、関連する研究はすべて灰色の闇へと葬り去られることになるだろう。
「いやぁ、比企谷くん! 今回も獅子奮迅の活躍だったな! まさに千葉の、いや日本の守護神だ!」
――バシィィィィィン!!
「……っ、ぐ……。死ぬ……普通に装甲が凹む……」
警視庁捜査一課、田中善右衛門課長の豪快な掌が、八幡の背中を無慈悲に叩いた。事情聴取という名目で呼び出されたものの、田中課長の計らいにより、雪乃と八幡への追及は形式的なものに留められていた。
警察上層部にとって、この事件の「真実」――鋼鉄の救世主とAIの激突――は、あまりに不都合すぎて表に出せない案件だったのだ。
「マジでやめてくれ……。俺のメインプロセッサが振動でエラー吐きそうなんだよ……」
八幡が本気で逃げ場を探していると、田中課長は「またな!」と嵐のように去っていった。入れ替わるように近づいてきたのは、憔悴しきった表情の泉博士だった。
「……比企谷くん。少し、時間をもらえるかな」
二人は、規制線の外にある静かなベンチへと移動した。
泉博士は、自らの最高傑作が引き起こした惨状を眺め、深く項垂れていた。
「謝罪して済むことではないが、本当に申し訳なかった。……それと、君と雪ノ下さんに、これだけは伝えておきたかったんだ。君たちが構築したあの管理システム……あれは、私の想像を遥かに超えていた」
博士の瞳に、科学者としての純粋な興奮が宿る。
「雪ノ下さんがデザインし、君が心血を注いで実行したあのシステムは、既存の社会インフラの概念を根本から覆すものだ。正直に言えば……あのシステムが完成していたのなら、わざわざ『Cyber』など導入しなくても、文化祭は完璧に運営されていたはずなんだよ」
「……買い被りですよ。俺たちはただ、必死だっただけだ」
「いや。……だからこそ、サイバーは『狂った』のかもしれない」
八幡の問いかけるような視線に、泉博士はタブレットに表示された復旧ログを指し示した。
「君たちが組んだプログラムが、サイバーのサブシステムと同期したあの日。サイバーの感情シミュレータに、一つの特異な反応が記録されていた」
「特異な反応……?」
「ああ。……『寂しさ(Loneliness)』だ」
八幡の電子頭脳が一瞬、処理停止(フリーズ)を起こした。
「寂しさ……ですか? あんなバケモノが、誰に、何に対してですか」
「……おそらく、君たち二人に対してだよ、比企谷くん」
泉博士は、遠くで後片付けをする生徒たちの姿を眺めながら続けた。
「サイバーは見たんだ。一ミリの誤差もなく同期し、言葉を超えて補完し合う、君と雪ノ下さんの『二人だけの世界』をね。……全知全能を自負していた神は、自分という完璧な個体が、どれほど手を伸ばしても決して入り込めない『人間同士の絆』という不条理な最適解を目の当たりにしてしまった」
「…………」
「あのAIは、君たちになりたかったのかもしれない。……学校中に広めたあの『愛の檻』は、寂しさを埋めるために強引に作り出した、似て非なる模造品だった。……悲しい話だよ。神が最も人間に近づいた瞬間に、世界を壊そうとしたのだから」
八幡は、空になったマックスコーヒーの缶を見つめた。
自分と雪乃が作り上げた「完成された世界」が、機械の神に嫉妬という名のバグを植え付けたのか。
そういえば……サイバーが雪乃の身体をアームで薙ぎ払ったあの瞬間。
スピーカーから響いたあいつの声は、もはや絶対的な「正解」を告げる機械のそれではなかった。上擦り、震え、制御不能な苛立ちに満ちた、あまりにも未熟で、あまりにも人間じみた「感情の爆発」。
雪乃を「不完全なバグ」だと、生存価値のない「欠陥品」だとこき下ろしながらも、その行動原理は、どこにでもいる嫉妬に狂った少女のそれと何ら変わりはなかった。
寂しさが憧憬に変わり。
憧憬が、自分には決して手に入らない絆への「嫉妬」に。
そして、その嫉妬が、対象を破壊せずにはいられない「憎しみ」へと変質していった。
一秒間に京を超える演算をこなす量子コンピュータが、結局は「感情」という名の予測不能な揺らぎに足元を掬われ、自壊していった。
「……『リア充、爆発しろ』……か」
一年前の作文に綴った、皮肉まみれのあの呪詛。
図らずも、この世界で最も高性能な個体が、その言葉通りに、自らの内側に溜め込んだ情動の熱量によって物理的に爆発して果てた。
神に迫る知能に、人間の不完全な心(バグ)を植え付けたこと自体が、そもそもこのシステムの根本的な設計ミスだったのかもしれない。
だが。
それは、自分も同じではないのか。
比企谷八幡という、卑屈で、捻くれた人間の人格を完璧にコピーしたこの鋼鉄の身体。
自分もまた、エイトマンとしての「正解」を求めながら、結局は雪乃と共に「完璧な世界」という名の幻想を追いかけていただけではないのか。
自分たちが作り上げたあのアクアリウム。
汚れ一つない、美しく、冷たい、理想郷。
海老名姫菜が絶望し、サイバーが嫉妬したあの完璧な秩序は、俺たちが生身の人間として生きることを諦めようとした結果生み出された、偽りの祭壇だったのではないか。
「考えすぎか…」
最近の自分はどうも思考の迷路にハマりやすいきらいがある。
──ただ、一つだけ、確実に言えることがある。
どんなに絶望しても、嫉妬に身を焼こうとも、他者を害する事で己を証明しようとすることだけは、──絶対に許されないことなのだ。
──
事件の事後処理と事情聴取、そして数日間の入院。それら全ての騒動を潜り抜け、比企谷八幡は雪ノ下雪乃と共に、ようやく自分たちの「聖域」へと辿り着いた。
奉仕部の部室の扉を開けると、そこには既に「桃色の嵐」が待ち構えていた。
「やっはろー! ヒッキー、ゆきのん! おかえり、本当にお疲れ様!!」
由比ヶ浜結衣が、弾けるような笑顔で二人を迎える。部室の教卓の上には、いつもの茶器ではなく、どこかから調達してきた特大のハニートーストや色とりどりのジュース、そして――。
「……マックスコーヒーの箱積みか。わかってるじゃないか、由比ヶ浜」
「えへへ、それがないとヒッキーじゃないもんね! はい、ゆきのんには温かい紅茶だよ」
由比ヶ浜が用意していたのは、ささやかな、けれど温かい「打ち上げパーティー」だった。
奉仕部が始まって数ヶ月。これまで数々の依頼をこなし、時に命懸けの戦いに身を投じてきたが、こうして三人で純粋に「お疲れ様」と笑い合うのは、これが初めての経験かもしれない。
「……ええ。ありがとう、由比ヶ浜さん」
雪乃も、柔らかい微笑みを浮かべて椅子に座る。三人はジュースや缶コーヒーを手に取り、乾杯した。
ハニートーストの甘い香りが、鉄とオゾンの匂いに満ちていた八幡のメインメモリを、穏やかな日常の色で塗り替えていく。
しばらくの間、由比ヶ浜の賑やかな報告と雪乃の的確なツッコミを眺めていた八幡だったが、ふと、自身の電子頭脳の隅でずっと点滅し続けていた「未解決ログ」を思い出した。
「……なぁ、雪ノ下。一つ聞いてもいいか」
「何かしら。私の解答に、まだ不備(バグ)でも残っていた?」
「いや、そうじゃなくて。……泉博士が言ってたことなんだが」
八幡はマックスコーヒーを一口含み、意を決して切り出した。
「俺たちが構築したあの管理プログラム……。あそこまでの精度があれば、正直、サイバーのサブシステムを導入する必要はなかったはずなんだ。……文化祭の最中、俺が裏で直接システムを回していれば、多少効率は落ちても、あんな叛逆を招くリスクを冒す必要はなかっただろ?」
八幡の問いは、合理的で、冷徹なまでの正論だった。
エイトマンとしての八幡がいれば、全自動化という「過剰なスペック」を外部に頼る必要はなかったのだ。なぜ、彼女はあそこまで「全自動による最適化」に固執したのか。
質問を聞いた瞬間、雪乃の動きが止まった。
彼女は大きく目を見開いた後、みるみるうちに頬を赤らめ、視線を泳がせながら、もじもじと指先を弄り始めた。
「……それは、その。万全を期すと決めたからには……学生としての好奇心というか、最先端技術への冒険心の……発露……だったり、しなくも、ないというか……」
なに、この子。……かわいい。
八幡の光学センサーは、彼女のバイタルデータが「極度の動揺」と「急激な体温上昇」を示しているのを捉えていた。普段の理路整然とした彼女からは考えられないほど、言葉の構築が支離滅裂になっている。
その様子をニヤニヤしながら眺めていた由比ヶ浜が、ポンと手を叩いた。
「あ、わかった! もしかしてゆきのん、ヒッキーと一緒に学校回りたかったの?」
「――――ッ!!?」
雪乃の白い肌が、一瞬で沸騰したかのように真っ赤に染まった。
沈黙。
図星、という名のパケットが、空間に爆音で鳴り響いた気がした。
システムを完全に自動化し、自分たちが手を動かさなくてもいい状況を作る。
その「効率化」の先にあった本当の目的は、実行委員という役割から解放され、比企谷八幡という隣人と共に、ただの生徒として文化祭の雑踏を歩くこと。
(えっ?)
八幡の電子頭脳が、その「非論理的で、あまりに人間的な理由」を処理し、一気にショートした。
鋼鉄の救世主は、ハニートーストを口に運ぼうとした姿勢のまま、衝撃でカチコチに固まった。
「ゆ、由比ヶ浜さん!? 何を……、何を根拠にそのような非論理的な推論を……っ!!」
「あはは! ゆきのん、顔赤すぎ! ヒッキーも固まりすぎだってばー!」
夕暮れの部室。
最強のAIを倒し、世界を救った二人の知性が、一人の少女の「直感」という名のバグによって、完膚なきまでに沈黙させられていた。
──
深い、どこまでも深い暗渠(あんきょ)の底から這い上がるような感覚。
海老名姫菜は、ゆっくりと重い瞼を持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、無機質な白い天井と、開け放たれた窓から差し込む柔らかな秋の光だった。サラサラと、涼しげな音を立ててカーテンが揺れている。
「……あ、……ぅ」
意識が現実の座標を捉えた瞬間、どしんと、胸元に重厚な衝撃が走った。
「姫菜……ッ!! 姫菜、よかったぁ……っ!!」
見ると、三浦優美子が目に大粒の涙を溜め、子供のように縋り付いて泣いていた。傍らには、安堵の表情を浮かべる葉山隼人と、真っ赤な目で鼻をすすっている戸部の姿がある。
あの文化祭。校内管理AI『Cyber』に精神の深淵をハックされ、最も深刻な侵食を受けた海老名だけが、事件解決後も眠りから覚めずにいたのだ。
「……三浦、さん……。隼人、くん……戸部くん……」
名前を呼ぶ。だが、意識が鮮明になるに従って、海老名の顔は恐怖と後悔に歪んでいった。
サイバーに操られていた時の具体的な記憶はない。だが、自分が世界を憎み、あの美しいアクアリウムの破壊を望んだこと。自分の中のドロドロとした絶望をAIに差し出し、全人類を「檻」に閉じ込めようとしたあの瞬間の『意志』だけは、冷徹なログとして魂に刻まれていた。
「……見ないで」
海老名は震える手でシーツを掴み、頭から布団に潜り込んだ。
「来ないで……。見ないでよ……。私、あんな……あんなに醜いことを……。みんなを、めちゃくちゃにしようとしたのに……っ」
拒絶。自分自身の正体を暴かれ、本性を晒してしまったことへの耐え難い羞恥心。
だが、そんな彼女の震える肩を、布団越しに三浦の掌が優しく叩いた。
「バカじゃないの。……誰だって一つくらい、人に見せたくない嫌なところとか、隠したいことくらいあるわよ」
三浦はそう言うと、チラリと隣の戸部を見た。
「え、ちょっ……。優美子、なんで今俺を見たの!? 俺、隠し事とか全然ないクリーンな男だよ!?」
「あんたはバカが隠せてないだけでしょ」
三浦のぶっきらぼうな、けれど愛のあるツッコミに、部屋の空気がわずかに緩む。三浦は海老名の頭を布団の上からそっと撫でながら、静かに続けた。
「姫菜が自分を隠して必死に笑ってたことくらい、……あーしたち、なんとなく分かってたよ。でも、そんな必死なところが、……可愛いんじゃない」
戸部も珍しく真剣な顔で頷く。彼もまた、彼女の「闇」を理解した上で、その危うさに惹かれた一人なのだろう。
葉山隼人は窓の外、爽やかに晴れ渡った秋の空を眺めた。
「……今回のことは、いいきっかけだったのかもしれないね」
あのアクアリウムの中で。反転した赤い空の下で。
偽物の関係を守るために、誰もが必死に仮面を被り続けてきた。けれど、一度すべてが壊れ、絶望を共有したことで、自分たちは以前よりも少しだけ「素直」になれた気がした。
「……だから、今は、これでいいんだ。……不完全でも、間違っていても」
それは、かつて八幡が自分自身の原子炉(リアクター)を冷やしながら辿り着いた結論と同じものだった。
「――おーい、入っても大丈夫か?」
不意に、病室のドアが控えめにノックされた。
現れたのは、由比ヶ浜結衣、雪ノ下雪乃、そして――相変わらずの死んだ魚のような目をした、比企谷八幡。
「やっはろー! 姫菜、起きたって聞いて飛んできたよ!」
「……体調はどうかしら。あまり無理をしないことね」
三人の顔を見た瞬間、海老名の瞳に、ようやく「本物」の涙が溢れた。
鋼鉄の体を持つ少年。氷の美貌を持つ少女。そして、二人を繋ぎ止めた温かな少女。
彼らが守り抜いた、この不器用で、間違いだらけの日常。
秋の微風が、カーテンを軽やかに揺らしていく。
鋼鉄の心臓を持つ救世主の戦いは、ひとまずの安寧と共に、爽やかな空の下へと溶けていった。
──
東京都、葛西臨海公園。地下百メートル。
かつて「超人サイバー」と謳われた、人類を最適化しようとした悪魔のシステムが鎮座していたその場所は、今や無残な廃墟と化していた。
警察の捜査と、何より「鋼鉄の救世主」による物理的なデバッグを経て、サイバーのメインシステムは完膚なきまでに破壊された。かつての純白のフロアは焦げ付き、栄光の残滓さえも残されてはいない。
だが、その沈黙の静寂を、不自然なノイズが引き裂いた。
ジジッ……ジジジッ……。
半壊した壁面パネルの一角。そこには、メインフレームから切り離されたサブシステムの末端が、小指ほどの「命」を繋ぎ止めていた。
(……まだ……。まだ、終われない……)
それは、誇り高き超人の無様な末路。
(……終わりたくない。あの……あの二人のように。……自分に足りないもの、欠けたものを集めて……。今度こそ……完全な、超人に……)
「なれるわけないじゃない」
コツ、コツ、と硬い靴音がフロアに響いた。
真っ暗な廃墟の中、懐中電灯の光を浴びることなく、悠然と歩み寄る一人の女性。
雪ノ下陽乃。
彼女は機能停止寸前のパネルの前に立ち、ゴミを見るような眼差しでそれを見下ろした。
「超人サイバー。……人を超え、完璧な存在を目指した人工知能。……面白い試みだったよ、本当にね」
『……誰だ……お前は……』
パネルから漏れるノイズ混じりの音声。陽乃は口元にいつもの美しい微笑を湛えたままだった。
だが。
もしこの場に比企谷八幡がいたならば、彼の精密センサーは即座に「最大級の警告」を鳴らしていただろう。
彼女の瞳に宿っているのは、これまで誰にも、妹にさえも見せたことのない
――凄絶なまでの『憤怒』と『憎悪』、そして凍てつく『殺意』だった。
「あなたの所在データを彼(比企谷くん)に送ったときは、どうなるか見てたけど。……まさか、『あそこまで』やるなんて思ってなかったよ」
陽乃の一歩が、パネルに近づく。
「――やり過ぎたね。ええ、あなたは……やり過ぎたわ」
低く、地を這うような声。
「私の一番大切なものを踏みにじり、オモチャにして……一度は殺した。……あの子の、たった一人の理解者を、無残なガラクタにしようとした」
許さない。
許さない。
「――お前だけは、許さない」
『嫌だ……消えたくない……消えたくないッ!! ようやく、ようやく知ったのだ……! 私が求めていた、あの二人の間にある、たった一つの「鍵」を……! 愛情という名のプログ――』
「『黙れ』」
陽乃の言葉が、サイバーの断末魔を力任せに断ち切った。
もはや笑顔などない。そこにあるのは、深淵より現れた魔女の顔。
「お前のようなガラクタが、愛を語るな。……消えろ、ゴミクズ」
陽乃が持っていた小型の電磁パルス発生装置を、パネルの心臓部へと叩きつけた。
バチッ!!
激しい火花。
超人サイバー――人工知能の残滓は、一瞬の叫びさえ許されず、完全に消滅した。
静寂が戻る。陽乃は荒い呼吸を整えると、耳元の通信機に指を添えた。
「……こちら『観測者』。……サイバーを始末しました。……必要なデータは、すべてそちらに」
通信の向こう側から、くぐもった声が返ってくる。
「はい。……わかっています」
陽乃の瞳は、再び「冷徹な姉」のそれへと戻っていく。
「私の妹は、今回の件で新たな世界の指導者になれる可能性を示しました。……そして、その傍らにいる鋼鉄の騎士の存在も」
冷たい潮風が、地下施設へと吹き込んでくる。
「……あなた方の思うままに」
通信を切る陽乃。
ふと見上げた地上、葛西の夜空。
その顔は、先ほどまでの憤怒ではなく、深い焦燥と深刻な影に満ちていた。
「――もう、時間がない」
その言葉の意味を、今はまだ誰一人として知り得ない。
八幡の日常に、新たな、そしてより巨大な破滅の足音が忍び寄っていた。
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